悲観的ヴィジョンに裏打ちされた楽観主義で
流 広志
299号(2006年7月)所収
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6月29日、日米首脳会談でまとめられた共同文書「新世紀の日米同盟」が発表された。「文書」は、日米同盟が、「自由、人間の尊厳及び人権、民主主義、市場経済、法の支配といった中核となる普遍的価値観」を推進する地球規模での同盟関係であることを強調している。それから、「こうした価値観は、両国の長い歴史的伝統に深く根差したものである」と嘘を書いている。日米間の協力については、「米軍及び自衛隊の過去数十年間で最も重要な再編をはじめとして、これらの合意は歴史的な前進であり、米軍のプレゼンスをより持続的かつ効果的にするものである。同時に、変化する安全保障環境において、日米同盟が様々な課題に対処するために必要とする能力を確保するものである」と述べ、米軍再編が、米軍の長期駐留と多様な課題への対処能力を強化のためのものであることを確認している。その後は、エネルギー・環境・経済・人権問題・北朝鮮のミサイル実験モラトリアムの継続等々、共通で取り組むべき課題を列挙している。最後に、「両首脳は、「世界の中の日米同盟」が一貫して建設的な役割を果たし続けるとの認識を共有した。両首脳は、日米間の友好関係や地球的規模での協力関係が今後とも益々発展していくことを共に希望した」と述べた。
抽象的・総花的で無内容な文章である。それに、この中には、実現が困難な課題が含まれている。例えば、アメリカが、日本の国連安保理常任理事国入りに協力するとか、環境汚染対策に共同で取り組むとか、この間、アメリカが非協力的だったテーマが含まれている。在日米軍再編問題でも、岩国市や沖縄などの地元の反対が根強く、説得できていない。また、WTO締結交渉も難航している。
アメリカでは、イラクからの米軍の早期撤退を望む声が最近の世論調査で約3分の2に達するなど、厭戦気分が広まっている。
当初、イラクに派遣された米軍兵士は、祖国をテロから守り、自由と民主主義に敵対する悪の独裁者を倒し、イラクに自由と民主主義をもたらす正義の戦いに行くのだとブッシュ政府に思いこまされた。しかし、イラク戦争の誤りに気づいた兵士の家族たちからは、早く帰ってこいという声が出ている。イラクでの兵役就任を拒否したワタダ中尉は、イラク侵略戦争という不正義の戦争の軍務を拒否した。米兵の死者が2500人を超えるなど大量の犠牲者を出しながら、イラクには欧米流の自由・民主主義は根づかなかった。
同時に、この間、CIAの情報解析能力への疑問やブッシュ政権の外交能力の低下を示すことが起きている。ブッシュ政権の外交能力の低下を示しているのは、この間、中南米で続いている左派政権の続出という事態である。それは、親米右派のコロンビアのウリベ大統領ですら、風向きの変化を見て、キューバやベネズエラのチャベス政権にすり寄るかのようなことを口走るぐらい勢いがある。メキシコでは、かろうじて親米政権が誕生したが、それも僅差での薄氷の勝利にすぎなかった。こういう事態になった一因には、イラクなどの中東対策に力を取られてしまって、手が回らなかったこともあろう。しかし、そのツケは大きい。中南米の左派政権は、WTO交渉やFTA交渉などに消極的か反対であり、アメリカの進めてきたグローバル化の強い妨害力となりつつあるからである。
小泉政府は、アメリカの軍事・外交能力を過大評価し、その力を背景に外交を進めればいいと単純に考えて、今日の変化している新たな世界・国際環境の大局的傾向を見ることなく、崩壊しつつある斜陽の「帝国」を頼みにして外交を行うという愚かな姿勢をとっている。アメリカにはかつてのようなスーパーパワーはないのである。それなのに、小泉政府は、こうした世界の新たな情勢に適応させるための外交戦略の根本的な練り直しをしない。
われわれは、国際情勢の評価の基準を階級闘争におく。プロレタリアートを力づける方策を促進し、かれらを病弊させ、弱体化させる政治と対決する。プロレタリアートは、階級闘争すなわち資本の支配からの解放戦争を闘う。帝国主義戦争には、内乱をもって応える。支配階級は、自らは「愛国心」には縛られないが、排外主義を利用して、自分たちの利益や利権を守り、拡大しようと努めている。排外主義は、プロレタリアートには「百害あって一利なし」である。
プロレタリア国際主義的観点から、パレスチナ人を抑圧差別しているシオニスト国家イスラエルに対する被抑圧民族パレスチナ人の民族解放戦争という民族戦争を支持する。例えば、エンゲルスは、勝利したイギリスの労働者国家に対して、インド人が民族解放戦争・民族蜂起を起こすこともありうると書いている。現在、イスラエルは、イスラエル兵一人の拉致に対して、パレスチナに侵攻して軍事攻撃を仕掛け、何十人ものパレスチナ人を虐殺し、電力施設などのインフラを破壊して、生活困難に陥れ、さらに、ヒズボラによる2名の自国兵士の拉致への対応としてレバノンに越境攻撃している。このようなイスラエルの蛮行を弾劾し、パレスチナ人民とプロレタリアートへの同情と連帯を表明する。ただちにイスラエルは軍事行動を中止せよ!
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神奈川からの米軍移転に反対する岩国市長の勝利や社民党の沖縄市長選の勝利、そして滋賀県知事選での社民党支持の嘉田美紀子氏の自公民相乗り現職候補を破っての当選、等々、構造改革なる強者優位・弱者切り捨て、都市優先・地方切り捨て、等々に対して、地方からの叛逆ののろしが次々と上がっている。小泉構造改革で切り捨てられた地方は、黙ってはいなかったのである。嘉田知事は、借金を増やすだけの無駄な公共事業はいらないと訴えて当選を果たした。無駄な公共事業をなくすと公約して当選した知事には、東京の青島元知事がいたが、都議会自民党などが足を引っ張った。長野でも、田中康夫知事が誕生したが、やはり公共事業の利権に巣くっている県議会多数派の執拗な妨害を受けている。
滋賀県知事選結果からわかることは、社民党自身はまったく小さい政党でしかないが、その思想的力は、小さくないということである。社民主義が掲げている大きな理念は、平和・環境・福祉・生活・民主主義・平等などである。滋賀県知事選挙では、この中で、環境が大きな争点となったのだが、それ以外の理念も支持された。それは、嘉田氏の選挙運動に参加した大勢の自発的なボランティアが、新駅の建設地の栗東市のみの課題だけで集まったわけではなく、この問題に象徴される県政そのものの変革を求めたことに示されている。『火花』289号(2005年9月)拙稿『「二極化」を打破し、人々の革命欲求に応えるプロレタリア党を!』で指摘したように、社民主義が政治社会に再浮上してくる兆しは、昨年の郵政解散総選挙の結果に現れていた。拙稿では、社民党の議席増・共産党の議席維持、社民党の得票数20%増(約360万票)という選挙結果を「これは、政治的対立軸が、新自由主義か社会民主主義かに移りつつある兆候で」、「労働者と民主的小ブルジョジーの連合である社会民主主義に小ブルジョジーが多少引き寄せられつつある」と見たのだが、どうやらそうなりつつあるようだ。
小泉構造改革で、都市部の景気はいいが、地方はそうでもない。それに都市部でも格差社会の下層は、その一部が、去年の総選挙では小泉自民党の広報戦略にだまされてしまったが、自分が置かれている状況を冷静かつ客観的にみるならば、小泉自民党政治では不利はあっても利益はないということに気づかざるをえない。その自覚を促した点で、都市下層の利害を取り上げた「プレカリアート・メーデー」などの下層運動は大きな役割を果たした。地方の小ブルジョアジーは、小泉政治が、自分たちを苦しめていることに気づき、覚醒しつつある。その点では、国民新党や社民・共産などの格差批判がある程度の役割を果たした。「連合」は、大企業正社員組合員という労働者階級の特権的な一部分が多少の賃上げができたことで満足して、これらの層との結合を積極的につくろうとしない。
小泉構造改革路線との闘いは、都市の下層労働者・失業者・零落させられた都市小ブルジョアジーと農民や地方で落ちぶれさせられた小ブルジョアジーや労働者・失業者との間で、都市と農村・地方との新しい形の連帯の形が生み出され強化されることによって、強力なものとなる。地方が日本を変える最前線に押し出されてきたのである。しかしそれは、社民主義ではなく、共産制社会のヴィジョンを持つ都市下層・プロレタリアートと地方の労働者農民などとの連帯関係として構築することが必要なのである。なぜなら社民主義は、階級階層を「市民」に解消して、民主派小ブルジョアジーの利害を労働者階級の利害と混ぜ合わせてしまい、プロレタリアートの解放の力を弱めてしまうからである。しかしながらそれに対しては、ねばり強い暴露と説得によって、共産主義の側に思想転回させるようにするべきで、大ブルジョアジーや反動に対立する限りでは、共同すべきである。
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今日、資本主義の現実の問題性が、誰の目にも明らかになるなかで、資本主義とは何か、そしてそれに対するオルタナティブは何かを考える動きが広まっている。
資本はG―G’という自己増殖する貨幣という形態が発展している。株式会社の発展によって、企業者利得が労働賃金に転化したので、利潤が利子という形態で存在するようになった。それによって、資本―利子、土地―地代、労働―労働賃金、という三位一体の定式が完成する。剰余価値・利潤は、利子プラス企業者利得(平均利潤)プラス地代である。
だが、地球上には、イスラム経済圏など、広大な地域・膨大な人口が、非資本主義経済下にある。もちろんそれは、規模や規定性という点で、世界市場に占める割合は小さい。それに、例えば、アラブの石油マネーは、ロンドンのユーロ・バンクなどを通じて、世界に投資され、イスラム圏外では、資本として運用されている。しかし、その内部では、資本制経済は発達していない。「三位一体」の定式が完成していないのである。クウェートなどでは、クウェート人全体が寄生層であって、労働者は、インドなどからの外国人出稼ぎ労働者が主である。それでも、まだイラクは、フセイン政権時代に、私有制導入を進めるなど、近代化につとめてきたのであるが、それもシーア派主導の政権誕生によって、後退させられつつある。近代化論のような単線的な歴史観は、こういう錯綜した現実を捨象するので、リアルな歴史観たりえない。
資本主義は世界を覆っているが、その過大評価は、「敵をみくびる傾向」と逆の誤りである。資本は、資本を再生産すると同時に資本の「敵」をも生み出すのである。社会・世界には、反資本的非資本的な領域が存在する。ローザ・ルクセンブルグが指摘した外部経済があり、また、「三位一体」の定式の土地(自然)と労働がある。ローザは、資本主義は蓄積するためには非資本主義経済との交換を必要とすると言っている。「三位一体」の定式に示されているように、資本の運動は、賃労働という外部を必要とする。
それを示す例が、6月12日の『毎日新聞』の「経済観測」というコラムの「行き詰まった成果主義=邦」にある。1990年代後半からの規制緩和、市場原理の重視の大合唱の下で、企業は次々と「成果主義賃金」を導入し、悪平等といわれた年功序列賃金を廃止し、従業員の競争を促し、企業を活性化しようと狙ったが、最近の企業の人事、労務管理担当者や研究者の会合では、「コストダウンが一番の目的だったが、制度をきちんと運用するとかえってコストがかかる」「目標管理制度の運用のためにまじめな中間管理者は疲れきっている」「できる人材への仕事の集中、スキルの囲い込みなどが生じ組織としての総合力が高まらない」とデメリットばかりが指摘されたという。従業員サイドからは、「例えば、IT関係の正社員といえば誰もがうらやむ“勝ち組”だろうが「実際は残業の連続で正直に申告すると評価が下がるから黙っている」とサービス残業を認めている。航空会社の客室乗務員は「乗客からクレームを付けられると減点になる。そのため機内での携帯メールの注意もできない」というジレンマを語っているなどの不満の声が相次いだという。「つまり、人件費を削減すると同時に企業の生産性を上げるという使用者側のそろばんも、仕事に応じた賃金がもらえるという従業員側の期待もほとんど実現されておらず、行き詰まった形なのだ。ではどうするか。さまざまな模索が始まっているが「これだ」というものは見つかっていない」というのである。
邦氏は、「どんな制度にも功罪両面がある。そして、罪の部分を丹念に修正しなくては前へ進まない。一見遠回りのようだが一気に新制度の構築を目指すより建設的だ」となんとか改良していくしかないと言っている。しかし、このような破綻した制度を放置しておけば、企業活力が失われていくことは明らかで、それはモラル崩壊をともなうであろう。実際、この間、企業・従業員のモラル崩壊を示す事件が多発している。アメリカの最大のスーパーのウォルマートにおいても、従業員の不満は、モラル崩壊、万引き被害の深刻化という形で現れている。モラルや規律の崩壊、形骸化は、社会制度や社会組織の崩壊と関係があるので、この面で、現存資本制社会が危機に陥っていることを意味している。あれほどもてはやされた成果主義賃金や競争の促進が成果をあげず、逆に、企業の危機や病弊を強めていることは、資本と労働の対立の深さ、そして、賃金制度が労働規律を崩壊させていることを示している。資本にとって賃労働は外部だからこそ、賃金制度と労働を結びつける特別の操作が必要になるのである。資本にとっては、それは可変資本の運動の問題なのだが、労働は、そうではないということである。労働には独自の運動法則があるので、資本は、それを資本の運動に合わせて変革・調整(レギュラシオン)しなければならないのである。その過程は、資本と労働の闘争の過程でもある。
資本制経済は、基本的なところで行き詰まっているのである。そこで、賃金奴隷制の廃絶、共同体経済による労働の組織化と労働規律の構築ということが、課題として浮上してきているわけである。「やればできる」式の主意主義・精神主義では、どうすることもできないことは言うまでもない。われわれは、共同労働の制度を対置するが、それは、共同体自体の再生産を目的とする共同労働の規律を生み出さねばならないのである。
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プロレタリアートが資本の賃金奴隷であるという社会的地位は、世界共通だから、その解放の基本的条件は同じである。その解放の闘いの基礎には、現実に対する悲観主義的ヴィジョンを基礎にした楽観主義という弁証法的態度がなければならない。そうではないただの楽観主義は、グラムシによれば、「たいていは、自己の怠惰、無責任、何もやろうとしない意志を弁護する仕方にほかならない」(グラムシ『獄中ノート』三一書房271頁)。そして、それは「宿命論と機械論の一形式でもある。自己の意志と能動性とは無関係な諸因子に期待し、それをほめあげ、聖なる感激に熱中しているように見える。しかも、この感激は外面的な物神崇拝にほかならない。知性を出発点としなければならないというのは、その必然的な反作用。是認できる唯一の感激は、現存する現実を変革する具体的なイニシアティヴにおける知的意志や知的能動性やゆたかな構想力をともなうものである」(同)と述べる。また、グラムシは、「敵をみくびる傾向は、それだけでも、劣等感にとりつかれている証拠である。確実に勝てると信じたいために、実際には、猛烈に敵をみくびる傾向がある。この傾向には、自分自身の無能力と弱さ(これを元気づけたい)についての判断が暗にひそんで起り、そこにはまた自己批判のてはじめ(自分を恥じること、自分の正体をはっきりと、一貫して見せるのを怖れること)を認めることができよう」(同268〜9頁)とも述べている。
そうではないものについて、グラムシは、1921年4月のイタリアのトリノ市でフィアット自動車を中心にした労働者のゼネラル・ストライキが敗北し、労働者が職場復帰した後、イタリア共産党機関誌『オルディネ・ヌオーヴォ』(1921年5月8日付)の「生身の人間」という文章に書いている。まず、彼は、「かれらは敗北が確実な絶望的な消耗戦を1ヶ月にわたって戦い抜き、名誉の敗北をとげただけである」とトリノ労働者の闘いを評価する。そして、「すでにあまりにも長年にわたり労働者は闘争し、すでにあまりにも長年にわたりこまかい活動に身心をすり減らし、自己の手段とエネルギーとを浪費している。一九一九年五月以来、『オルディネ・ヌオーヴォ』のわれわれが絶えず労働者的・社会主義的運動の中央部に投げかけてきた非難は、このことにあった。プロレタリアートの抵抗と犠牲の受容力とをあまりに乱用するな。彼らも人間なのである。街を歩き、酒場で飲み、広場で雑談をしている普通の人びとと同じ弱点をもった現実の人間なのである。疲れ、飢えをおぼえ、寒さを感じ、子供が泣くのを見たり、妻たちがひどく悲しむのを見たりすれば心を動かされる、普通の人間と同じ弱点をもった人間なのである。われわれの革命的楽観主義はつねに、人間的現実をこのように冷酷なまでに悲観主義的に把握したビジョンで裏打ちされてきたのである。人間的現実こそ、われわれが峻厳に考慮せねばならないことがらである」(『グラムシ政治論文集1』228頁)と書いている。
日本のプロレタリアートが元気を取り戻した大きなきっかけの一つとなったのは、イラク反戦闘争であった。その後、沖縄、反戦反基地、教育、下層、等々と大衆闘争が息を吹き返してきたのである。そしてそれにともなって、共産主義運動も蘇ってきた。それには、『共産主義運動年誌』の共産主義運動の主体再建に向けた地道な活動や『火花』の作業というのも、少しは役に立ったのかもしれない。しかし、客観的には、やはり、巨大な国際イラク反戦運動や反グローバル化国際運動の高揚の刺激が大きかった。われわれは、それを、国際主義の精神を貫きつつ、そのまま輸入するのではなく、「国民」的な地勢や歴史的条件と結び合わせて、現実に合うように変革して、適用していく必要がある。機械的ではだめである。歴史的環境や「伝統」などの要素と溶け合わせ、生き生きとしたものにして、人々に提示しなければならない。共産主義運動がその能力を持つことである。それがグラムシのいう「同意」=ヘゲモニー形成やレーニンが言う大衆と溶け合うというということだろう。唯物論的共産主義の英雄主義は、ありもしない神人の神話的実践や人間的現実を捨象した空疎なものではなく、具体的な歴史的現実的環境の下で、それを変革するために最善を尽くして努力する人間的営為を指すのである。それは、悲観主義的ヴィジョンに裏打ちされた楽観主義をもたねばならない。