パレスチナ解放闘争の苦闘と前進
国崎 俊
126号(1992年2月)所収
「蜂起が日を重ねるごとに、パレスチナ人民は新たな勝利を刻んでいく。占領地の外にいるわれわれは、占領地内部の人民の痛みと苦難を分かちあっている。自分の子どもをイスラエルに惨殺された母親、父親の痛みと苦難を分かち、占領軍に骨を打ち砕かれた男たち、女たちの痛みと苦難を分かち、イスラエルの獄中で呻吟する数千人の人民の痛みと苦難を分かつ。闘いはあまりに長く続き、われわれの痛みと苦難はあまりにも大きいが、われわれの勝利は確実である。それこそ歴史の教訓である。」(アブ・ジハド)
インティファーダが開始された約半年後、PLO軍事司令官アブ・ジハドはイスラエル特殊部隊によってチェニスで暗殺された。暗殺される直前の『アル・ファジル』紙(東エルサレムで発行されているアラビア語紙)のインタビューに答えてアブ・ジハドは先のように語った。(高木規矩郎『パレスチナの蜂起』読売新聞社 1989.10より)
1987年12月に開始されたインティファーダは4年が経過した。長期にわたる闘いは苦難にみちみちており、とりわけいわゆる湾岸戦争は巨大な苦難をパレスチナ解放闘争に課した。更に東欧・ソ連のスターリン体制の解体もまたパレスチナ解放闘争に一層の困難を課している。ソ連からの膨大なユダヤ人のイスラエルへの流出・被占領地への入植は新たな困難を生み出している。
だがしかし、湾岸戦争でイラク寄りの姿勢を取ったとしてアメリカをはじめとする帝国主義者どもから袋叩きにあったことはもちろん、アラブ世界からさえ孤立を余儀なくされてきたPLOは、この間の中東和平会議において“受動”から“能動”への局面転換を勝ち取ったといえそうである。どのような後退も、どうのような苦難もパレスチナ解放闘争を消滅させはしない。パレスチナ問題が厳然として歴史的に存在し続けるかぎり、パレスチナ人民は闘いに立ち上り、あらゆる困難を乗り越え、後退から前進へと闘いを進めていく。被占領地で闘いを続けるファイサル・フセイニ(中東和平会議パレスチナ代表団諮問委員会委員長)は、湾岸戦争におけるPLOの態度に対する非難にたいして、したたかにこうこたえている。
「私はPLOに対する怒りを表明する西欧の要人たちに幾度も会いました。私は次のように答えました。健忘症に罹られたようですね。イラクの戦力を築き上げたのは、この国に軍事技術と科学兵器とを提供したのはパレスチナ人ではないことをお忘れになっています。あなたがたがお造りになったあのイラクの軍艦は、溺れている私たちを誰も気にかけないでいるとき、船出しました。私たちに差し伸べられた唯一の手はイラクの手だったのです。イラクは私たちを利用しようとしたとおっしゃるのですか。状況から利益を引き出す権利をなぜ私たちにたいして拒むのです。私たちの方でも、イラクの軍艦に手を差し伸べたのです。誰が私たちを非難できましょう。私たちに反対し、あらゆる援助を断わったアラブ諸国ですか。それに、西欧はイラクの軍艦を沈めることにしたわけですが、そのために私たちの協力を取りつけたり、私たちに犠牲を払わせたりできるなどという考え違いをなさらないよう。」(『パレスチナ研究誌』No.40 1991年夏号のインタビューに答えて 湾岸戦争ファックス通信編集委員会『資料 湾岸戦争と世界のゆくえを考えるために』 No.5 より)
I
中東和平会議は完全にアメリカ主導の下に準備され、始められた。だからパレスチナ解放闘争の内部で会議参加に対する強い疑念や、公然たる会議参加反対の意見がでたのは当然であった。PFLP、DFLP、そしてイスラム原理主義のハマスやジハード等である。ファタハ等のPLO主流派は、そして被占領地区の中心的な指導者たちは会議参加を擁護した。イスラエルの主張に基づいて、会議からPLOを除外するというアメリカの方針に対してどのような評価をくだし、現実にどのような方策を取るのかが問題であった。だが、実際に会議が始まってみると、このイスラエルとアメリカの思惑は見事に失敗したといえる。表向きPLO代表ではなかったが、パレスチナ代表団は、全員公然とPLO支持を表明し、自分たちがPLO指導下にあることを表明したのである。PLO排除は実質的には空洞化され、代表達はPLO代表として行動した。パレスチナ代表団のオレカイト(アンナジャ大学助教授)は会議に先立つ発言で「私も、また、他の代表達も、PLOによって選ばれ、PLOを代表しているのだ」と言い、同代表団団長シャフィは会議における演説で「私たちは我々の指導層への忠誠を公言することを禁止されている。しかし、私たちの指導層はすべてのパレスチナ人によって民主的に選ばれたものであるばかりでなく、民族のアイデンティティーと団結の象徴であり、我々の歴史の番人であり、現在の保護者であり、未来への希望である」と述べた(芝生瑞和「中東和平を現地に見る」(中)『エコノミスト』1991.12.3.) 。
イスラエルはわれわれが本誌94号で指摘したように(「パレスチナ国家樹立宣言の意義について」)、インティファーダによってすでに大局的には受動の立場に追いやられたのであり、湾岸戦争によるパレスチナ解放闘争の側の「後退」にもかかわらずこのイスラエルの受動的立場に変化はなかったのである。イスラエルはだから和平会議において種々様々な権謀術策を弄しているのであり、なんとか時間を稼ぎ、占領の現実を定着させようとしているのであり、あれこれの挑発(パレスチナとの個別会議に先立ってパレスチナ人の占領地からの追放など)をしかけているのだ。だが、パレスチナ解放勢力のなかが和平会議への参加をめぐって意見の分裂をみたそれ以上にイスラエルにおける意見の分裂は深刻である。和平会議に反対するユダヤ原理主義政党テヒヤとモレデットはシャミル等のリクードとの連立を解消し、2人の閣僚を引き上げた。また労働党によるシャミルの和平会議への非積極的関与に対する批判もまた強まっている。イスラエル社会は和平会議をめぐって大きく分裂しつつある。
イスラエル労働党員で閣僚経験もあるモセ・シャハルはパレスチナ国家創設に賛成の提案を同党大会に提出した。彼は言う。
「私は内閣のなかでしばしばシャミルに、2種類のパレスチナ人しか存在しないということを、もうそろそろあなたも理解すべき時期だといってやりました。つまりPLOを、そのあらゆる勢力を含めて、パレスチナ人の民族的希求を表現するものであると考えているものたちと、イスラエルとの妥協を現に拒み、今後もずっと拒み続けるであろう原理主義者たちの2種類のパレスチナ人しかいないのだと。第3のタイプのパレスチナ人、シャミルが夢みるシオニストのパレスチナ人など存在しません。そのようなパレスチナ人など決してみつけることはできません。」(前出『資料 湾岸戦争と世界のゆくえを考えるために』No.5より)
「アラブ世界は一つの民族であり、一つの文化、一つの伝統なのです。ほとんどの専門家は、例えばサッダームがなぜ軍事的には敗北しても、彼の国の人々にとって英雄であり続けているのか、理解していません。ほとんどの専門家は、イラク人やアラブ人が西洋にたいして持っている怨念の深い根を知らないのです。まさにそれこそが、我々とアラブ人との紛争のなかで生まれる悲劇の本質的な理由の一つなのに。イスラエル人の多くは、この紛争に対する解決策は、互いの尊厳を守り、互いに尊敬しあうことの一環として手に入れられるものでなければ、決して実現することはないのだということを理解していないのです。アラブ人に関する我々の問題の一部は、この地域の人々の心理学的、歴史的動機について知識のあるイスラエル人指導者がいないという事実から生じているのです。例えばゴルダ・メイアはアラブ人のことを何も理解していなかったのですが、そのようなものは彼女一人ではありません。・・・イスラエル指導者の誰一人としてバース党が何であるかを知らないのです。」(同)
労働党内のいわゆるハト派でもなく、かつてリクードとの連立に大きな役割を果たしたシャハルがこのようなことを言う局面になっているのだ。
また先に引用した高木規矩郎『パレスチナの蜂起』には次のようにある。
「『おれたちのしていることは、住民をおびえさせているだけだ。義務とはいえ、恥さらしの行為だ』『モラルは、毎日毎日低下している。今やっていることは、おれたちが身につけてきた価値観とはまったくそぐわない』『心はズタズタだ。アラブの連中は逆に強くなっていく。この屈辱的な状況から逃れるには政治解決しかない』/イスラエル首相シャミルは八九年一月末、西岸のナブルス郊外にある軍の野営地を訪れ、降下部隊予備役との“対話集会”に臨んだ。だがシャミルの意に反して、パレスチナ住民に対する弾圧政策を非難するどなり声が飛び交い、対話のはずが、さながら抗議集会に様変わりした。」(前出 p.182)
「インティファーダが激化してくると、レバノン戦争後一時鳴りをひそめていたイエシュ・グブルに加わる予備役の間で西岸、ガザでもレバノンの体験を生かして行動を起こすべきかどうかという議論が再燃した。その結果彼らは占領地住民の制圧を目的として、占領地を軍事独裁地区にしかねない弾圧政策にはくみしないという原則を確認した。『グリーン・ライン(イスラエルと占領地との境界線)を越えて占領地には入らない』『占領地内でも非居住地域では兵役を続けるが、パレスチナ住民に対する規制行為には参加しない』『棍棒は持たない』『特殊な武器は携帯しない』。実際の行動についてもさまざまな意見が飛び交った。その後、占領地での軍の行為が一段と野蛮で非人道的な性格をあらわにしてくると、イエシュ・グブルは一般市民の弾圧を目的とした命令には断固参化を拒否するという強い姿勢の請願活動を始めた。/『パレスチナ人はイスラエルの占領に反対して闘争を続けている。二十年以上にわたる占領と抑圧をもってしても、パレスチナ人の民族解放闘争を阻止することはできなかった。パレスチナ人の闘争と、軍の野蛮な抑圧によって占領継続、政治解決不在という恐るべき代価が支払われた。われわれ予備役は、ここに道徳的、政治的退廃に協力するという責務を担うことはできないとの決意を表明する。われわれは占領地での闘争弾圧に参加することを拒否する』/請願には六百人の予備役が署名、このため三十七人が逮捕された。」(同 pp.184-185)
イスラエル当局は占領地への予備役投入から“弾圧専門部隊”のグリーン・ベレー(国境警備隊)の投入へと切り替えたが、無抵抗の住民への無差別銃撃などの暴虐行為を引き起こし、力による押さえ込みがますます困難になっている。
イスラエル内のいわゆる平和勢力の限界・弱さは言うまでもない。パレスチナ解放闘争がそれに期待を寄せることはないだろう。だが、にもかかわらず、イスラエル社会内の分解傾向がますます強まることは明らかであろう。
まがりなりにも始まった和平会議の行方は未だ混沌としている。尚幾多の紆余曲折が予想される。だが、パレスチナ解放勢力−PLOの柔軟で粘り強い闘いはその曲がりくねった道にもかかわらず、勝利への前進を着実に遂げていくだろう。
II
パレスチナ解放勢力−PLOの強さのもっとも大きな根拠は、人民との直接の結合、解放闘争の政治活動に大衆をできるかぎり直接に巻き込んでいっているところにある。イスラエルのますます苛酷になる弾圧・暴虐きわまりない圧政の下でこのことが貫徹されていっているのだ!これはインティファーダ以前とそれ以降で著しく異なった現われとなっている。被占領地の人民・大衆が闘いの前面に出、中心になったからである。インティファーダは言ってよければパレスチナ解放闘争を真に大衆的な、全人民的な闘いにしたのであり、まさしくこの革命運動の全人民性に依拠して1988年のパレスチナ国家樹立宣言があったのである。
この大衆性は、今回の和平会議をめぐる論争の<場>の広さ・大衆性と、イスラエルにおける論争の<場>の分散性との著しい対照性として良く現われている。会議についてのパレスチナ側の大衆的な論議について、芝生瑞和は次のようにレポートしている。
「マドリードへ行った“占領地”のパレスチナ人代表者たちは、数人づつのグループで、各地で集会を開き、マドリードの会議について、またこれからの交渉について人々に“報告”し、そこで活発な論議が行なわれていた。それは“直接民主主義”ともいえるかもしれない。・・・私が感心させられたのは、マドリード会議にパレスチナ人代表が参加するのに反対していた人達も、壇のうえにのぼり、その立場と主張を堂々と述べていたことである。・・・その議論は本当に真剣なものだった。言葉が無駄に使われてはいなかった。誰もが雄弁で、説得力があり、そして迫力があった。」前出(下)同 1991.12.10.)
また、代表団スポークス・ウーマンのハナン・ミハイル・アシュラウィもまたこう言っている。
「マドリードの会議から帰って、絶えることなく各地の代表が来て話しあっています。南はヘブロン市から北はジェニン市まで。避難民キャンプから、また企業家のグループや、商人のグループ、労働組合、元囚人委員会や、青年組織に至るまでです。これらすべては私たち(の和平交渉の努力)を強く支持しています。それから大衆集会やタウンミーティングです。私たちが出かけていき直接語りかける。それは私たちを啓蒙し、多くの情報を与えてくれます。だが、あらゆる集会と同様に、“反対”のグループの方が声高になる傾向があります。しかしそれは、少数派であることは明らかです。少数派はむしろスローガンをかかげ、彼らの立場を強く主張します。もちろん私は前者を好ましいと感じますが、少数派も、その主張を表明するためにこの機会をとらえ、使う権利があるのです。」(芝生瑞和によるハンナ・アシュラウィへのインタビュー 同前 1991.12.17.)
こうした努力とともに、インティファーダを闘いぬく住民たちの組織においても様々な創意工夫にみちた試みが続けられている。先に紹介した被占領地のファイサル・フセイニは次のように述べている。
「現在、インティファーダは、獲得したものと失敗したものとを明白にするための総括を行なっています。・・・私たちは今日、地区委員会と人民委員会とを再建しなければなりません。<地区委員会>というのは<打撃戦力>のことではなく、蜂起の初期には、キャンプでも、村や都市でも活動的だった社会生活上の委員会のことです。これらの委員会が行なうのは、人々の日常的な必要を保証すること、経済的、家庭的、地域的な改革を援助することです。これは、インティファーダの初期には活発だったのですが、おかげで、占領者たちの手ひどい妨害に会いました。私たちのほうもまた、対占領軍闘争の調整を行なう<闘争委員会>と<人民委員会>との間の境界線をはっきりさせなかったことで、委員会の困難さを増大させたのです。これまで、これらの委員会設立の呼びかけは、もっぱら蜂起統一司令部のコミュニケにより行なわれてきました。そして、蜂起統一司令部は、指令の実現は自分の管轄に属するとみなしてきたのです。そこに間違いがあるのです。というのは、インティファーダの<非常に闘争的な>組織が、自分達のイメージに合わせて委員会を作り、最前線に行くのも辞さないもっとも闘争的なメンバーを集めたからです。その結果、闘いには参加したいが、戦闘的な活動家になりたいとまでは思っていないメンバー、グループ、社会階層は委員会の外に出ることになったのです、しかるに、私たちがもっとも必要としているのはこのような民衆であり、彼らにこそ地区委員会の仕事を担ってもらいたいのです。・・・これらの委員会に求められているのは住民を助ける諸活動です。例えば消費者擁護委員会は、地域産業を管轄とし、これまでのように物事を成り行きに任せずに、地域産業が品質を向上させて輸入品に対抗するよう奨励することにする。また、この委員会は、住居や店舗の家賃の決定とか、それらの措置の点検などにおいても一役買うことができるでしょう。私たちはいくつもの種類の人民委員会を必要としています。社会事業委員会、健康管理委員会、生産委員会、・・・私たちは二種類の募集の統合、地区出身の自発的メンバーと地区出身とは限らない技術者との組み合わせにより委員会を構成することができるでしょう。また、地区委員会が決してに人々の生活から遊離したものにならないようにせねばなりません。そのためには、方法は一つしかありません。委員会のなかに、家庭の母親、財界人、弁護士、医者など、社会と直接関わりをもつ人間が入ることです。例えば、人々が委員会に対する恐れからイスラエルや外国の商品をボイコトするなどということはもはやあってはならない。自分の信念に基づいた行為でなければ。」(同)
このような大衆組織の活動は、それこそニカラグァやその他あらゆる解放闘争の経験を踏まえ、かつ闘いの現実の特殊性に基づいて試行錯誤をともないながら遂行されているのだ。
III
「パレスチナ国家樹立宣言の意義について」その他でも強調してきたように、パレスチナ解放闘争の最大の特徴の一つはその“国際性”である。イスラエルという「国際的な階級関係、帝国主義諸列強間の関係を支える社会全体から、生み出された」反革命突撃国家のあり方に対応して、「パレスチナ解放闘争は、一貫して国際的な性格をもち、国際的な地盤のうえに闘われてきた」。イスラエルが占領政策を持続し、拡大すればするほど、イスラエル社会内の階級的な分解はより一層進行し、拡大し、当初の「国際性」を疎外し、ユダヤ原理主義運動などをますます一方に生み出し、かくて国家精神が脆弱にならざるをえないのにたいして、パレスチナ解放闘争はその“国際性”をますます拡大していく。今回の中東和平会議の過程もまたそのことを示している。