「台湾有事」とプロレタリアート
渋谷 一三
469号(2024年11月)所収
<はじめに>
2024年5月23日と24日に続き、10月14日、中国は再び台湾島を一周取り巻く形での大規模軍事演習を行った。
日本は衆議院選挙の運動期間中で、各党は態度表明を余儀なくされた。
社民党・共産党は護憲・平和外交の対置という現実離れした一貫した態度表明に終始した。れいわ新選組は戦争ビジネスには加担しないとして軍事費の増額に反対するも、「台湾有事」に対する態度表明を出せないでいる。
立憲や国民民主党は安倍・岸田が米国との間で交わした有事法制を追認した形で、「台湾有事」への態度表明を回避している。
自公・「維新」・参政党などは、軍事費倍増を積極追認し、軍事力強化が「台湾有事」を阻止する手段だとして、軍拡路線を迷走し始めている。
要するにプロレタリアートの立場を誰も表明できていない。
1.自公は「香港有事」を叫びはしなかった。
香港の雨傘運動は、中国共産党習近平指導部による独裁政治への抵抗運動として、現にある香港の民主主義の水準を維持せんとする運動であった。
「民主主義陣営を守る」のが本音ならば、「香港有事」を声高に叫び、雨傘運動への連帯を表明すべきだが、日本のブルジョアジー(自公)は、一切、何もせず何も言わず、今日の習近平による香港への独裁支配体制構築を許してきた。
だが、台湾となると「台湾有事」を声高に叫び、長らくGDPの1%以内を堅持してきた軍事費を一挙に2倍にすることを、国会を経ずに決定してしまった。
この違いが生ずる根拠は何か。
明らかに、日本のブルジョアジーの利権・利害が絡むか否かの相違による。
台湾は今日グローバリズムを展開する大ブルジョアジーの「国際分業体制」の不可分な一翼を担っている。シャープの台湾企業による買収を引き合いに出すまでもなく、半導体関連を中心にグローバリズム資本の体制の不可分な構成体になっている。
また、海運を中心に失うことが出来ない国際航路として台湾海峡の航行の自由の確保がある。中国の内海にされてしまってはたまらないのだ。
小規模な輸出市場としての香港とは比べ物にならない。
日本のブルジョアジーは民主化運動に連帯しているのではなく、グローバル資本主義の維持のため、「台湾有事」を叫び、この動きに日本の労働者大衆を巻き込むために、民主主義陣営を守ろうとの甘言を弄しているにすぎない。
本当に民主化運動に連帯するのであれば、中国から資本撤退し、ベトナム、インド、インドネシアなどのグローバル・サウス諸国との関係を強化すべきである。その方が対ロシア上も有効である。
だが、日本のブルジョアジーは中国からの撤退を準備する素振りすら見せていない。このままでは中国経済に深くコミットして利益を上げてきたがゆえに、不動産不況に始まった中国の不況に深く足元をすくわれ自らも不況に陥り始めたドイツの後塵を拝することになる。
また、成長センターであるグローバル・サウス諸国をBRICS体制のロシア・中国に取り込まれ、世界人口の45%を占める中露支配圏が構築されることを許してしまう。
だが、非グローバル資本の利害を代表し新新孤立主義を標榜しているトランプ・アメリカとともに、日本のブルジョアジーにグローバル・サウスに接近しようとする戦略的立場は無い。
台湾有事を声高に叫びつつ、有効な中露への打撃政策を取ることさえ思いつかないのは、日米ブルジョアジーが経済利権からしか世界を見ていない必然的結果なのである。
2.大陸中国の人民の闘いは歴史的必然でもある。
仮に台湾が武力で習近平中国に併合されたと仮定してみよう。
コロナ禍で白紙運動を展開した大勢の若者は、台湾の同志との結合を深めていくのが必然である。
要するに習近平指導部を打倒し、中国共産党の支配体制を打倒しない限り、中国の人民大衆は解放されない。連続革命と銘打つかどうかは趣味の問題として、中国革命の再革命が必要とされている。
これが、歴史的必然である。
3.社会主義は独裁政権しか生み出してこなかった?
マルクス主義が暴力革命を主張して離さないのは、パリ・コミューンの苦い敗北からである。ブルジョアジーは暴力的であり、ブルジョアジーの暴力(国軍を持った暴力)に勝つ備えなしには、どのような革命も社会運動も潰されてしまうという歴史的事実からの教訓であると同時に、理論的にも導き出される真理であるからである。
新左翼はこの見地に加え、合法的に支配政党になったインドネシア共産党に対するスハルトによるクーデターと大虐殺を経験し、合法的に選挙で多数派になっても虐殺されるだけであり、暴力革命の方がはるかに死者は少ないという経験を経て、暴力の温存拡大を実現した毛沢東の根拠地路線・カストロやゲバラによるゲリラ戦争に活路を見出し発足した。
こうして毛沢東主義を掲げたパリの学生運動など新左翼と呼ばれる潮流が国際政治の舞台に登場した。1968年のことである。
ベトナムへの米国の侵略・反革命戦争への反対運動を展開することで、新左翼はドイツ、日本へと波及し、米国へは反戦運動の組織化・ブラックパンサーの結党への影響を及ぼした。
だが、ドイツ新左翼の武装闘争の敗北・壊滅に続いて、日本の連合赤軍事件を象徴とする新左翼の崩壊が起き、米国のブラックパンサーも崩壊するに至り、新左翼運動は世界的に壁にぶち当たったままとなった。
他方、旧左翼とでも呼ぶべきソ連邦型共産党は、スターリン主義と呼ばれる独特の独裁体制を生み、人民への抑圧機構しか生み出さなかった。新左翼はこの現象を理論的に解明して突破しようと一国社会主義運動の再評価などの作業をしてきたが、中国共産党の今日の習近平独裁体制への歩み(変質と表現してきたが、そんな程度のものではない)を阻止することは出来なかった。
共産主義運動における暴力の問題に理論的実践的回答を見出さない限り、プロレタリアートはブルジョアジーの暴力と戦争を廃絶する運動を作り出すことができない。歴史はそこまで、煮詰まって来ている。
だが、そこに回答が出るほど現実はなまやさしくはない。
だからと言って、ここを回避していては、「台湾有事」なるブルジョアジーの暴力に対する態度が出せない。
日本共産党なる古い共産党が「台湾有事」なるブルジョアジーの横暴・戦争への大衆の動員に「平和憲法を守ろう」としか“対置”出来ていない現実。「れいわ新選組」などの下層に目を向けた政党ですら「軍事費増大いらない」としてしか対置出来ない現実。
これが、日本のプロレタリアートの置かれている現実である。
「新左翼」もこの一部であり、この現実を免れているわけではない。