共産主義者同盟(火花)

入植者植民地主義と歴史家論争
(4/27木戸衛一講演報告を兼ねて)

斎藤 隆雄
467号(2024年08月)所収


 第一次世界大戦時にレーニンが『帝国主義論』で「革命的祖国敗北主義」を提起した時、彼には何が見えていたのだろうか。そして今、世界各地で局地戦が展開されている中でこの「祖国敗北主義」なる言葉がほとんど聞こえてこないのは何故なのか?

1.現在は帝国主義時代か?

 2020年代に始まったウクライナと中東ガザでの戦争によって世界情勢は大きく変わろうとしている。現状は国民国家と民族自決権問題という聞き慣れた課題に関わる問題であるかに見えるが、現在が「帝国主義の時代」であるとするなら、ロシアとイスラエルという「帝国主義的な」国家による植民地戦争という古色蒼然とした響きのある規定が浮かび上がってくる。果たして、そうなのか?

 問題をもう少し限定しよう。イスラエルによるガザ殲滅戦から今語られているのは、一つは「入植者植民地主義」というこれまで耳慣れてこなかった言葉である。そしてもう一つは、これも耳慣れない言葉であるドイツにおける「歴史家論争2.0」である。この二つの言葉はこれまでの議論を拡張する役割を果たすものであると思われる。

 まず、冒頭の疑問に対する応答として、崎山さんの次の言葉を引用しよう。

 《『帝国主義論』は資本の矛盾に分析が集中されており、他民族支配の形態としての植民地問題も抱えているにもかかわらず、植民地諸国、従属国、半従属国における人々、民衆、人民の問題はほとんど書かれていないという点を指摘しておかなければなりません。》(崎山政毅『〈帝国〉とは何か』p.4「言語文化研究」14巻4号)

 崎山さんの提起は、既存の帝国主義規定に対して一つの疑問を提出している。確かに、レーニンが植民地問題に関心がなかったわけではないことは彼の諸著作を見ればわかる。差し迫る帝国主義間戦争を前にして彼の帝国主義への分析は、欧州革命とロシアという情勢に規定されて植民地問題を語ることを差し控えたと考えられる。しかし、それは時代的な限界性をも孕んでいることも確かであり、当時の帝国主義への理解が「社会主義」革命の切迫という関連から語られていたことも事実である。では、植民地問題は帝国主義間戦争を社会主義革命に転化することによって解決するほどの問題であったのかというと、現在から見るならば、明らかに違うと言わざるをえない。ここに、帝国主義規定のバージョンアップが求められる所以である。

 崎山さんの論文はネグリとハートの『帝国』が書かれた2000年代初頭のものである。そして、この『帝国』は従来の帝国主義論を拡張したものでもあった。つまり植民地問題を含む第三世界における20世紀の歴史を取り込んだ、現代のポストコロニアルな諸問題を包含している。そしてそれから20数年が経ち、現代世界は帝国主義と国民国家/民族概念に入植者植民地主義と歴史論争を新たに提起しているのである。

 ※ 百年前のレーニンの「祖国敗北主義」とネグリたちが21世紀をマルチチュード(多数者)革命と提起したこととの関係はどのようなものだろう。前者は明らかに「祖国」を意識したものであり、祖国(Br)が敗北することが祖国(Pr)が勝利することだと解釈できるが、後者は初めから祖国を予定していない。北米ネイティブアメリカンの運動家であるダンバー=オルティスはこのネグリの提起を批判している。入植者植民地主義によって存在をなきものとされた人々の運動は今もネイションの復権なのである。

2.純血主義という暴力

 「入植者植民地主義」はしかし今新たに作られた概念ではない。久しい昔から語られていたものであるが、これが植民地問題として、あるいは帝国主義論として取り込まれて語られることは少なかった。それは帝国主義の植民地支配における典型的な形態ではないという思い込みから来ていたのだろう。とりわけ19世紀末期のベルリン会議におけるアフリカのおける分割の完了から見るなら、この入植者植民地主義は特異な形態に見えたのかもしれない。当時、この入植者植民地主義の典型的なケースは南アフリカであって、アジアにおける欧米列強の植民地支配には見られない形態であった。では、なぜ南アフリカという地域で欧米入植者が先住民を排除し、あるいは奴隷化して白人排外主義国家を形成したのだろうか。

 時代は大航海時代である。1652年オランダ東インド会社の医者であったヤン・ファン・リーベックが家族親族、社員約80名を引き連れてケープに入植したことから始まっている。しかし、これはイギリスの清教徒がメイフラワー号に乗って北アメリカに上陸した1620年よりも後である。清教徒が宗教的な使命を抱えて「新大陸」へ乗り出したことと比べてリーベックの入植はそういう宗教的使命とは異なっていたし、その後数年してケープの土地を囲い込んで農園を営み始めてアフリカ各地から奴隷を導入し経営し始めたことから経済的な動機が主要な原因であったと考えられる。そしてこれは北アメリカ大陸と同様の経過を辿ることになるが、一つ異なるのは現地の先住民であるコイサン人やサン人などとの混交を問題としなかった。リーベック自身はそれを奨励していたことも伝えられている。(オランダ系の白人のことを後にボーア人と呼ぶようになる*1)これは中南米におけるポルトガルやスペインの支配に見られる傾向であって、入植による先住民の排除という形態を当初は取られていなかった。

 しかしこの時期欧州ではオランダとイギリスは海上覇権を巡って戦争を繰り返していた。17世紀後半は3回の戦争(英蘭戦争)によってオランダの衰退とイギリスの世界覇権が台頭してきていた時代であった。この時期(18世紀初め)のケープ入植地は東インド会社の社員700名と約1600人の入植民がおり、約1100人の奴隷と先住民の牧畜民がいたと言われている。そして世紀の終わり頃には自由民1万3830人、奴隷1万4747人になっていたという記録が残されている。

 事態が動いたのは、フランス革命後のナポレオンの革命戦争による英国との戦争であった。1794年オランダ東インド会社が破産を宣言、その機に乗じてイギリスはケープを占領し、1814年にイギリス領としてしまった。この時期、イギリスはアメリカとの独立戦争に敗北して、新たな植民地を探しており、同時期にはオーストラリアへの入植も開始されていた。その後オランダ系入植者との戦争や先住民間の戦争などを経て、19世紀末期に排外主義的国家として徐々に形成され、20世紀当初には南アフリカ連邦としてアパルトヘイト体制に通じる統治構造が出来上がる。

 このように見てくると、この19世紀におけるイギリス植民地(南アとオーストラリア/ニュージーランド)と旧植民地であったアメリカ合衆国とが強烈な排外主義的な先住民隔離政策をとっていたことが見えてくる。アメリカ合衆国では独立後、19世紀を通じて先住民(ネイティブアメリカン)の多くのネイションで虐殺行為を行なっており、特に南北戦争後のミシシッピ川の西側における虐殺行為(ジェノサイド)は目に余るものがある。当時、西部の各地はまだ州には昇格できておらず、州内の先住民の数が入植者の数よりも多かった。当時の連邦法で入植者の数が先住民の数よりも多くならないと州として昇格できないとなっており、入植者自らが率先して先住民を虐殺していった。

 この19世紀における英米領域におけるジェノサイドは、当時における白人至上主義がダーウィンの進化論が大きく影響していたとも言われているが、同時にドイツにおけるナチのアーリア人至上主義とも通じる共通観念が見られる。合衆国においても(保留地)、南アフリカにおいても(ホームランド)、インデアンや黒人が狭い地域に押し込められていることから、ナチがポーランド(ドイツ領)においてユダヤ人をゲットーに閉じ込めたやり方と同じである、また現在のイスラエルがヨルダン川西岸地区やガザ地区で行っているやり方にも通じているのだ。

 ポルトガルやスペインが中南米で行った入植活動、フランスがアルジェリア等で行った入植活動との違いはこの混血を許さないという極端な排外主義的政策が根底にある。この特徴的なイデオロギーが現在のイスラエルのシオニズムに入り込んでいると見ていいだろう。

 これらの19世紀における特徴ある植民地主義はイギリスがどこでも採用したかというとそうではない。アジアではそれは不可能であった。なぜなら、人口が稠密で侵略前までに相当な経済的発展のあった地域ではできなかった。逆に、領土に対して人口が希薄で先住民がまだ遊牧時代であった地域で行われている。彼らが「発見」という言葉を使うのはそのためである。つまり格好の餌食が目の前に現れたというほどの意味となる。この極端な欧米人的主観主義こそが現在のイスラエルの蛮行を許しているのである。

3.歴史家論争2.0の意味するもの

 それに関連して今、ドイツにおける「歴史家論争2.0」は第二次世界大戦後の世界観を完全に凌駕した新たな時代があらわれたことを示している。

 4月27日京都で木戸衛一さんの講演を聞いた。木戸さんの話は最近右傾化が噂されている欧州政治の中でドイツが突出しておかしくなってきているという情勢の話をされていた。この間のイスラエルのガザ侵攻に対してドイツがガザでの「ジェノサイド」疑惑に対して一切反応しないという態度を取っているだけでなく、更に国内でパレスチナを擁護するような言説をも抑圧するという政治的対応をとっているのである。これはシュルツが「ドイツはハマスの攻撃を断罪し、イスラエルの側に立つ」と断言し、パレスチナ支持のデモを禁止したことから始まる。昨年10月の彼の所信表明で「イスラエルの安全はドイツの国是だ」と言い、国連停戦決議においてもアメリカと共に一貫して反対してきた。更に今年1月の南アの国際司法裁判所への提訴に関しても、「イスラエルに対するジェノサイド非難を、連邦政府は断固かつ明確に拒絶する」と表明した。また、国連パレスチナ難民救済機関への資金拠出も停止し、人権理事会決議にも反対した。このような極端な対応をとるドイツの深層にあるものは何なのかをめぐる論議がいわゆる「歴史家論争2.0」である。

 1980年代後半に起こった西独でのホロコーストを巡る論争は「歴史家論争」と呼ばれていた。この論争に関しては従来から日本でも論評されてきた。特に左派リベラルの間では、ホロコーストとスターリン主義やポルポトのジェノサイドが取り上げられ、比較できるという立場の右派とホロコーストは絶対的な存在だとする左派とが対立してきた。歴史修正主義の側がナチとホロコーストを相対化しようとするのに対して、ハーバーマスが戦前のナチスドイツを全面否定し、ホロコースを絶対的な道徳的対象とした。これによって、彼にとっては戦後のドイツは国民国家ではない、すなわち国民的アイデンティティはいらないとしたのである。この論争は多岐にわたっておりこれ以上詳細には私も追求できないが、このハーバーマスの立場は党派的にはドイツ社会民主党のものであり、これが現在のシュルツの立場と完全に重なると見ていいだろう。

 では現在、この歴史家論争によってハーバーマスがとった立場が今やイスラエル絶対主義として立ち現れてきているのは何故なのか。木戸さんも指摘していたが、2021年になってダーク・モーゼスなるジェノサイド研究者がドイツの現在の立場が「カテキズム(教理主義)」に陥っていると批判したことから、論争が再燃してきたわけであるが、ここで特に問題となると思われるテーゼは「反シオニズムは反ユダヤ主義である」という一節である。モーゼスはドイツの学術界における「反ユダヤ主義を口実としたマッカーシズム的状況」が存在することを指摘している。

 論争はガザ侵攻の前から燻っていたが、侵攻によって更に焦点化されつつあるようだ。この問題はナチズムやホロコーストを特異点として語る従来の議論が現実の歴史によって揺さぶられていると言える。これまで、我々もまたこれまで事あるごとに「ナチズムあるいはファシズム」を目の前の非道な行為に対して投げかけてきたが、このフレーズ自体がもはや意味のないものとなりつつある。昨年のイスラエルのガザ侵攻に際してネタニヤフは「ハマスこそ新しいナチスだ」と発言し、急速にナチスインフレーションを起こしてきたからだ。ここで再度前節の議論を思い出すならば、ナチスが特異な現象ではなく、19世紀欧米列強の植民地主義につきまとう一般的な現象であったという新たな「帝国主義論」が必要であるということになる。そしてナチスを批判するには欧州の近代史そのものを批判することが避けられなくなる。穿った見方をするなら、そのような批判から免れるためにはナチスを特別なものにしておかなければならないということになろう。

4.何が起こりつつあるのか?

 木戸さんの資料によると、最近の世論調査では、イスラエルの軍事行動は正当化できないとする意見が多数となってきている。これは極めて自然な反応だと思われる。では、ドイツ政府がこのような自然な反応ができなくなってしまっているのは何故なのだろうか。どうやら政治的思惑も少なからず介在しているようなのだが、根底的には欧州におけるユダヤ教徒に対する根強い排外主義とその裏返しとしての道徳的な拒否反応、そして更にそれにイスラムやアラブに対する差別が加わって重層的な言説の混乱が見られる。

 歴史家のマイケル・ロスバーグは21年4月『ディー・ツァイト』紙で20年から始まったこの論争を振り返って、二つの歴史家論争の間で、文脈が一変したと述べ、かつて相対化論を掲げた右派が比較不可能性と唯一無二性に固執するようになったのに対して、ポスト冷戦時代に国際化された批判的議論では、植民地ジェノサイドをはじめ他事例との接続と比較によってホロコーストとその責任の理解が深まったと述べている。「時代と構図の変化を捉え損ねて取り残された左派は、期せずして右派と同盟する羽目に陥った。」(『世界』6月号p.206)のである。

 かつて歴史家論争の中で、右派が「国民の歴史」の必要性を説き、ナチス時代を含めて歴史を語るべきだと言ったことに対して、ハーバーマスは国家のアイデンティティはいらないと言い切った。それはドイツが欧州の中でこそ生き残れるという意味ではあったのだろうが、ここに国民国家の否定が含まれていた。まさに、これこそ左派リベラルの限界であり、また精一杯の国際主義であっただろう。しかし、右派の国民国家のアイデンティティは少数民族のアイデンティティや被抑圧民族のアイデンティティとが等価に論じられないという現象を浮上させている。歴史的文脈の中で変遷する国家精神というねじれが今ほどはっきりと目に見える形で現れたのはかつてなかったのではなかろうか。レーニンが戦争を目の前にして言い切った「祖国敗北主義」という国民国家の否定は国家一般の否定ではなかったと同時に、ハーバーマスの国家アイデンティティの否定もまた欧州内政治における政治的レトリックであったとも言えるのである。

 改めてここまでの議論を振り返って、国民国家と帝国主義、あるいは民族問題を議論の俎上に載せてみると、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻はソビエト崩壊以降のバルカン、アフガン、イラクと続く戦争の歴史的役割の変化を象徴するような変動を示している。合衆国の一極支配なのか、多極化世界の出現なのかといった地政学的な議論は従来からの世界観の延長上で見るものでしかない。むしろ問題は、そういう力学的な世界ではなく、根源的な近代国民国家体制そのものが変革期に入ったということではないのかという予感とそれら歴史的段階を支える現代帝国主義理論の再構築もまた求められているのである。

参照)

木戸衛一『ヨーロッパ=ドイツ政治の現状と対抗運動』(2024年4月27日ひと・まち交流館での講演レジュメ)
橋本伸也(関西学院大学教授)『「歴史家論争2.0」とドイツの転落』(『世界』24年6月号)
アシル・ンベンベ『西アフリカのクーデタは約1世紀続くフランス支配の終わりを告げている』(『世界』24年5月号)
ロクサーヌ・ダンバー=オルティス『先住民とアメリカ合衆国の近現代史』(2022年青土社)
宮本/松田『新書アフリカ史』(1997年講談社新書)
柴田育子『「公的な歴史認識」の基準をめぐって ドイツ歴史家論争』(http://tsukuba.repo.nil.ac.jp>files>8.pdf)
「ナチスとシオニストの協力関係 知られざるシオニズムの闇の歴史」(http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hd/a6fhd300.html

脚注

*1 ボーア人がどれほど混血が進んだかについては諸説ある。後にアフリカーナーと呼ばれる混血人種との言語的近親性によって同一視されることもあるようだ。




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