新型コロナへの対応について
里野 凛
453号(2022年1月)所収
(1)
現在、いわゆる「オミクロン株」の流行により日本では感染拡大期に入っている。
先行した沖縄ではすでにピークアウトした可能性もある。少なくとも指数関数的な増加傾向は止まったと見てよいだろう。
この沖縄の傾向は、今回の流行がどの程度の幅と高さの波になるかを予見する一つの目安となるだろう。おそらくデルタ株の2〜3倍程度の高さ、半分程度の幅となるのではないだろうか(※高さは検査をどれだけ広げるかに依存するので、第5波と同程度の検査要件とした場合の予測)。
(2)
この第6波を前にして、第5波と同様に二つの傾向が見られる。
一つは、PCR検査の徹底、感染者の早期発見・隔離による封じ込め、早期の蔓延防止措置の発令、緊急事態宣言といった感染対策を強める傾向。もう一つは、5類相当への扱いの転換、2類扱いの制約を解くことでコロナ治療にあたる医療機関・医療設備の拡充、日常の社会生活の継続を主張する傾向。
国政政党では、立憲民主党や共産党などの野党が前者である。
維新の会、国民民主党はこの間、後者へ傾き始めているがまだ動揺的である。自民党は医師会・旅行業界などの圧力団体との利害関係や内閣の支持率重視によって、党内でわかれてまとまらない状況となっている。
マスメディアは引き続き感染者数の増大を騒ぎ立て、感染率が高まっていることを精力的に報道する姿勢を示していることもあり、岸田首相はコロナ対策の大胆な政策転換を打ち出せないでいる。
ただ、世界的な傾向として、新型コロナの重症化率、致死率が下がっていること=弱毒化傾向は多くの人々が意識するところとなり、これまでは異端者扱いされていた後者の傾向が市民権を得つつあるように見える。
(3)
新型コロナウィルスは、いわば人類との共存期に入ったと評価してよいのではないだろうか。
そのように評価すれば、検査の徹底、隔離、そのための緊急事態宣言といった政策(政治的選択)は、メリットよりもデメリットの方が多くなる。弱毒化して、感染力を増したウィルスに対して、徹底検査・隔離するのではコストが見合わなくなり、徹底しようとすれば人々の社会活動を著しく制約することになり、社会全体が疲弊していくことになるだろう。
昨夏の第5波、デルタ株の流行にすでにその兆候は見てとれたともいえ、オミクロン株により決定的となったと見てよいだろう。
(4)
とすれば、保健所、一部の医療機関に負担が集中する2類相当の扱いを転換する必要がある。
保健行政を切り捨ててきた新自由主義政策を批判することはそれとして必要だが、それでも数十万、数百万規模の感染者を保健所が掌握することは不可能である。人類との共存期に入ったウィルスによる感染症への対応は、従来のコロナウィルスやインフルエンザウイルスと同等なものに転換していくことが必然的帰結である。移行期においては医療費を無料とするという措置は継続しながら、感染者を広く受け入れて症状に応じて適切な治療が受けられることを優先すべきだろう。
また濃厚接触者の洗い出しに労力をさくことも無駄である。もはや市中のどこにも感染リスクは存在している。そしてウィルスに曝露しても多くは自分の免疫で対処し、発症を押さえ、免疫学習を重ねることで、重症化リスクを回避する能力を高めている。
(5)
現行の新型コロナワクチンが感染拡大への予防効果を果たさないことは事実として明らかになった。
そもそもmRNAワクチンは、初期ウイルス対応のものとして作られ、変異があれば短期間で追随するワクチンを開発できるというふれこみだった。しかし、今進行しているのは、与党も野党もマスメディアも、何の疑いもなく、初期ウイルス対応のワクチンの3回目接種を急がせているという事態である。
その一方で、新型コロナワクチンの副反応は明るみに出され広く検証にかけられることなく、ひっそりと事例として積みあがっている。マスコミの沈黙は見事なまでにそろい踏みというのは、巨大な利権とその意図が貫徹していることの証左だろう。
弱毒化した状況を踏まえ、また感染拡大への予防効果は期待できず、重症化予防効果も薄まっていると推定されるmRNAワクチンの3回目を接種して、本当にデメリットよりもメリットが上回るのか、冷静に分析・評価しなければならない。デメリットにふれずにメリットばかり宣伝するのは誇大広告の手口であるということは、認識しておかなければならない。今マスメディアに登場することが許されている「感染症医」の多くはその担い手となっている。
少なくとも、低年齢層へmRNAワクチン接種を奨励すべきではないことは疑いなく、その他の年齢層においても、ウィルス流行初期対応のため、中長期的なリスク評価不十分のまま承認されたmRNAワクチンを、現在の弱毒化したコロナウイルスへの対応として使用推奨するのは今日的には不適切といわなければならない。
重症化防止という点では、種々の対症療法が知見として蓄えられており、その知見を広く医療者で共有することに医療行政の資源を費やすべきだろう。
(6)
ワクチン接種と同様に、マスクの常時着用も見直しを呼びかけるべき時期だろう。
当初より、医療用でない市販のマスクの感染抑止効果は限定的とされてきた。限定的でも少しでも効果があるのなら着用したほうがよいという論理が支配的となり、通勤、通学時など屋外でもほとんどの人々が今も着用を継続している。これはまさに、現在のコロナ対策に対して、疑問を感じたり、自分で判断したりすることを放棄するよう日々教育・訓練されているに等しい。
感染リスクがほとんどない開放空間ではマスクを外すことを推奨し、重症化リスクが低い年齢層へのマスク強要の風潮とは批判的に対峙すべきだろう。そのことを通して、一人ひとりが、新型コロナウィルス対策のメリットデメリットを評価し、判断し、場面に応じた適切な対応を行う訓練をつむように方向づけよう。
(7)
新しい感染症の流行によって世界中の多くの方が命を落としたことは傷ましい出来事である。同時に、この感染症の対応をめぐって、社会のいたるところで亀裂が入り、軋轢が生じ、罵倒の言葉が飛び交ったことも残念な出来事となった。その最も強い推進者が、ワクチン利権であり、それと結びついてワクチンパスポートの導入を推し進めた行政や一部の医療関係者である。そしてマスメディアはその同伴者として振る舞いつづけ、ワクチン推進のメリット・デメリットを客観的に評価しようとする人々に、反ワクチン、陰謀論者というレッテルを貼ることで、議論を封じ込める風潮を作り上げてきた。
ただ、そうした利権や政権政党とは距離をおいているはずの人々の間でも、異なる見解に対して、議論を発展させる方向での対話ではなく、自分の見解に固執し、相手を押し込め、「正しさ」を押し付けるような風潮が広がった。
新しい感染症をめぐっては、わかることは限定的であり、そしてそれもまた流動的である。その中で判断し、選択を迫られることになるため、それぞれが重要視する情報によって、ある程度の幅、隔たりが生じるのはある意味で必然だろう。
それぞれの判断を尊重しながら、情報交換し、意見交換し、進行する現実からの検証を通して、対応能力を広げ深めていく、そのような風潮をこそ育んでいかなければならない。
そしてそれを、次の新たな感染症の出現への対応の財産として継承していくようにしよう。