共産主義者同盟(火花)

第49回衆議院選挙結果を読む

斎藤 隆雄
452号(2021年12月)所収


 総選挙が終わって、そろそろ選挙分析も出揃う頃合いではあるが、結果から何が見えてくるのかは論者によって随分と異なる。それぞれの党派の参謀たちがそれなりの分析をしているのだろうが、この間の日本の社会分析から見るというスタンスはどうやらなさそうだ。問題はそちらなのにだ。

1.安倍/菅政権の総括という見方

 案の定というか、予想通りというか、岸田が首相指名されて首のすげ替えが済んだことで、見た目のイメージ戦略が功を奏した形となった。だから、安倍/菅の政権評価という意味では見えなくなっている。岸田だから菅よりマシだろうという票が入ったのか、それとも安倍/菅コンビのとんでもないコロナ対策に対してすっかり忘却されたのか、結果からは伺えない。ただ、9月の自民党総裁選をマスメディアがこれでもかというほど報道したことで、岸田が安倍/菅コンビとは一味違うよというイメージは有権者に与えた可能性はあるだろう。その意味では、比例区への約1991万票は微妙な数字だと言える。全投票数の約34%ではあるが、全有権者の19%でしかない。また、小選挙区の投票数との差は約760万票あるので、この数字は地縁血縁金縁の票だと考えていいのだろう。この程度の支持票で政権を独占できるという現在の選挙制度は議会制民主主義国家にはよくあることだが、民主制の成熟度の指標となるというべきか。
 ここでもう一つ考えるべきことは、コロナパンデミックによる自民党政権の右往左往を有権者がどう見たかということだ。もし、この危機を国家的な危機として認識されているのであれば、投票率56%というのはどうも合点がいかない。つまり、日本ではこの危機は本当の危機としては認識されていないし、ましてや政権のまずい対応も織り込み済みということであろう。それだけ有権者は「政治とはそういうもの」と判断したのか、あるいは10年に一度の割合で訪れる日本の「厄災」としてやり過ごそうとしていたのか。ここに日本の耐性を認めることができるのは私だけであろうか。つまり、この日本という社会の強固な現状維持構造、変えることに対する耐性と恐れがいわゆる土着性として根付いていることだ。外圧には思いのほか脆弱であるにもかかわらず、この強固な保守性はどこからくるのかは考察されてもいいだろう。

2.10年前と比べて

 10年前の東日本大震災と原発事故という大災害に際して日本人はどう反応したのか。2012年の総選挙と比べてみるとそのありようが浮かび上がってくる。総有権者数はほとんど変わっていないので(12年1億395万395万9866人/21年1億562万2758人)、得票率を比べる時に留意すべきは投票率だが、12年の59%に比べて今年は56%であるということはそれだけ10年前の危機の方がインパクトがあったのだろう。しかし、それにしてもこれだけの数値しか表示できない日本社会そのものの耐性は驚くべきものがある。ここで2009年総選挙と比べてみることも有益だろう。この年の選挙は2008年のリーマンショックによる不況をどう捉えるかが問われた選挙だったが、日本は世界の他の先進国と比べてその震度は比較的軽微であったとはいえ、非正規雇用者の雇い止めが急増したことで注目された。いわゆる民主党政権が生まれたこの選挙の投票率は69%であった。12年の10%増しであるのは何故だろうか。震災/原発事故と金融恐慌との差は何に由来するものなのだろうか。
 また、リーマンショックと今回のコロナパンデミックとの差も興味ある比較対象だ。震災とコロナを自然現象としての広義の災害とみなし、他方でリーマンショックは政治に起因するものと判断したのなら、整合性はあるもののこの判断を生み出す感性とは何なのだろうかと考え込んでしまう。この差は、コロナで打撃を受けた小経営の観光業や飲食業に従事する比較的低賃金の労働者とリモートワークで活況を享受したデジタル関連産業労働者や大企業労働者との量的な比較を考えるべきなのだろう。リーマンではほとんど全産業がダメージを受けたが、コロナの打撃は極めて選別的であった。このことが全有権者レベルで考えた時に日本社会に与えた震度が「災害」レベルとしての認識を生んだと考えられるのだろう。
 そして更に、この12年との比較で言えば、より興味深いものが浮かび上がってくる。およその投票総数では、12年が6200万ほどだが、今回は5900万(比例区は5746万)ほどと300万程少ない。しかし、自民への比例区への投票を見ると、12年が1662万であるのに対して、今回は1991万である。300万ほど増えている。また、今回話題となった維新だが、12年は1226万だが、今回は805万だ。つまり、「災害」に際しては自民へ投票するという心理が有権者に色濃く滲み出ている。あれだけの頓馬な対応をしていてもこれだけの票が入るという恐るべき日本社会の構造は特筆すべきだろう。
 一方、今回立憲と共産、社民、れいわの野党共闘が話題となったが、このいわゆるリベラル勢が「敗北」したというのは本当なのだろうか。12年の民主党への比例投票は926万、共産へは368万、社民へは142万だ。れいわはその時は存在しない。合計1436万だった。そして今回は、立憲1149万、共産416万、社民101万、れいわ221万で合計1887万である。12年より400万ほど多い。投票総数が少ないにも関わらず多いというのは「敗北」であるかどうか微妙になる。ただ、12年は嘉田さんが率いる「未来」がいたので、その数字342万を加えるとトントンということでもある。しかしそれでもリベラル勢が減少したということではないことは確かだ。
 では何かが変わったのだろうか。公明が12年も今回も711万と同じ数字であることはお見事というしかないが、磐石の組織票としか言いようがない。してみると、後は国民の中間勢力が12年は「みんな」の524万から今回の国民の259万と減少したことを考えると、日本社会の格差拡大を反映して、中間層が半減したと言えなくもない。そういえば、連合右派の組合議員の当選成績が芳しくなかったという報道を見て、それはかなり当たっていると考える。
 このように見てくると、今回の選挙はやはり日本社会はコロナパンデミックを「災害」と見たという見立てはほぼ確かなようだ。そして、その中でもリベラル勢はかなり健闘したが、それが議席には反映しなかったということのようだ。そして、中間層(大企業労働者層=労働貴族層)が痩せ細り、新自由主義勢の維新と自民に流れ、ある意味では階級対立が鮮明になってきたと考えていいだろう。しかしこのような分析は、おそらくマスコミも評論家諸氏もやらないだろうし、もっと曖昧な分析でお茶を濁し、更には目眩しのような論評を弄するだろうから、読者諸氏には注意を喚起したい。

3.野党共闘をどう見るか

 今回の選挙で特筆すべきは、いわゆる野党共闘であろう。この共闘は「市民連合」が仲介役となって成立したということになっている。これは10年代に継続して模索されていた共闘の一定の成果ではあるだろう。とりわけ、安倍政権下での安保法制をめぐる反対運動によって生まれた「市民連合」の働きかけの継続した試みが結実したものである。では、何故これまで困難を極めていた過去の経過を今回克服できたのだろうか。
 一つには、安倍政権下でのあのカルト的な立法府運営と一連の安保/弾圧法制化とコロナパンデミック状況の下での稚拙な政策運営をリベラル側から見ると、とても耐え得るものではないということだっただろう。そして、さらに追い討ちをかけたのが、司法権力の腐敗と恣意的な人事操作、オリンピック委員会の一連のゴタゴタと強行実施、夫婦別姓問題への強固な保守抵抗性などによって分岐が鮮明になってきたということである。
 もう一つは、共産党側からの現在の弾圧体制とカルト的権力構造を「ファシズム」という視点から、いわゆる反ファシズム統一戦線という観点を意識させたのだろうと推察できる。かつて70年代に共産党は「民主連合政府構想」を掲げたことがあったが、これは彼らの綱領的日本分析からして必然的に出てくる構想だろうと思われる。いわゆる民族民主革命論と言われる彼らの路線からして、日本がまだアメリカの植民地であるという認識からまずは独立しなければならないというのが彼らのスタンスなのだ。そしてこれはいわゆるかつての我々「新左翼」からの日本=帝国主義的自立→社会主義革命とは共存できないものであった。ところが、90年代以降の世界的な帝国主義体制の再編とソビエト連邦の崩壊、日本経済のバブル崩壊を通じて、日本の政治構造のアメリカ依存体制が強化され、周り回って共産党の路線に現実味を帯びさせたと言える。現時点では彼らの「反ファシズム統一戦線」は情勢に合致したものとなってきた。
 さらにもう一方のウイングに、社民党とれいわ新選組がいるが、社民党は今年大会における分裂騒ぎである意味フェミニズム的リベラルとして再生したのだと考えてもいいのだろう。また、れいわは欧米で台頭しつつある新ケインズ主義リベラルとして登場している。となると、問題は立憲民主党が今回の一見敗北に見える議席減少をどう総括するかがこれらからの当面の重要な焦点となるだろう。立憲は国民との統合を目指すというこれまでの戦後的野党路線を踏襲しようとして失敗し、今回の選挙でリベラルを選択したが、ここまで階級分裂が進行したことで、保守?新自由主義勢の巻き返しが予想される。これも戦後日本政治の常道ではあるが、今回はリベラルが見た目の敗北を期したことで、巻き返しそのものの意味が不鮮明となってきていることもあって、立憲の立ち位置が分裂含みであることも注目すべき点だろう。

4.今後の情勢

 来年の参議院選の帰趨はおそらく立憲の代表選によって変わってくるだろうことは誰が見ても明らかだった。右からの巻き返しによって立憲内部のリベラル派がどういう選択をするかが真の焦点であることも自明だ。分裂含みでかつての社会党のように曖昧な連合党となる可能性が大だが、そうなると野党共闘は御破算になるだろうし、そうなると中央政治の階級分化は階級情勢を反映しなくなり、更なる低迷と失望を招き、投票率の一段の減退が予想され、相変わらずの組織票はあるものの、自民党政権の磐石の体制が固定化され、憲法改正への道筋をつけてしまうことが考えられると、代表選前には考えていたが、結果的に泉氏が代表となったことで予想が的中する可能性が大きくなった。
 これはある意味では想定内の出来事なのだが、この分裂含みの立憲の階級的立ち位置こそが今後のリベラルの政治を決定することは確かなようだ。今回の選挙での野党連合の政権構想を見てみると、たとえそれが実現したとしても持続可能な政権となるとは思えなかった。何故なら、リベラル派のこれまでの政治的手腕から見て、かつての民主党の敗北の教訓を生かせず、船頭多くして船山に登るがごとく、あらぬ方向へと向かうことが予想できるからだ。
 現在の日本社会の閉塞感がどこからきているのかを見極める政治的路線と階級分化によるこれからの一層の階級的軋轢を中央突破できるだけの意思を固めた政党がほとんど見られないから、当面の中央政治に何程かの期待は抱けないだろう。問題となっている日本社会の没落と疲弊は単なる経済上のあるいは政治上の選択の結果ばかりではなく、社会そのものの精神構造の問題であるから、この強固な閉塞構造を解体する意思なくしては次の時代を切り開くことはできない。
 現在のリベラル派が日本の経済政治構造における縁故=家父長制社会の根強い土着性を改革するだけの力量があるようには見えないし、この強固な構造性を打ち破るために用いる政治的改革に着手できるだけの意思を持ち合わせているとは思えない。経済の低迷が閉塞的な階級社会的閉塞空間による結果であるということはこの30年間の均衡経済の実態を顧みれば明らかであるだろう。
 では、これから我々はどのような進路を取ればいいのだろうか。私にはどうもこれについて確信的なことは言えない。しかし、おおよそ日本社会の病巣は明らかだから、基底的な変革を目指す方向性は持つべきだろう。政治的言語の変革といったようなものが必要ではないだろうか。つまり、これまでの我々のコミュニケーション(啓蒙)手段として用いていた言語体系そのものに切り込むような変革が必要であると思える。うまく言えないが、例えば従来型の反共産党的な「新」左翼は一つも「新」ではなくて、今や「反スターリン」さえ大衆的なイメージを失い、むしろ右派知識人にだけ通じる特有の言語となってしまっている。右と左が共に旧世界に属するガラパゴスとなっている現状からは時代を切り開く運動は生まれないのではないか。とはいえ、軽佻浮薄な新思潮に阿ることが重要であるとは考えない。むしろ歴史認識における時代精神の先取りこそが求められているものだ。ソ連邦崩壊から三分の一世紀以上が経過した現時点での新たな全世界的コミュニケーション革命が静かに進行している現在、古びた革命構図の内部で思考していたのでは何も見えてこないことは確かなようだ。ここまでが現時点で言えることではないか。




TOP