何が困難か:Covid19の世界
斎藤 隆雄
439号(2020年6月)所収
5月に入って先進各国はロックダウンを解除しつつ、経済の再開を模索しつつある。感染症の爆発は第一次のピークを超えたようではあるが、これから発展途上国の感染情報が明らかになってくるにつれて、現在の世界の渡航制限は持続され続けるであろう。道半ばにおいて現在のCovid19の世界を描写するのは困難ではあるが、感染初期の喧騒に対する世界の知識人の分析も出揃ってきている現在、一定の評価は重要であるだろう。
1.二つの争点
今回のCovid19を巡る世界的な経済社会の危機と動揺に関わって、二つの論議が起こっているように見える。一つは、ここまで社会を動揺させた事態になった原因は何かという社会の側の原因についてである。確かにSARS-CoV2の致死率はインフルエンザよりは高く、また発症経路が特異であるということはあるにしても、中世紀のペストや第一次世界大戦期のスペイン風邪を想起させるほどの社会的動揺を招いたのは何故なのだろうか。
このことについてはまずD.ハーヴェイが的確に指摘している。
「新型コロナウィルスとは、規制なき暴力的な新自由主義的略奪採取様式の手で40年にわたり徹底的に虐待されてきた自然からの復讐だ」*1と。
言うまでもなく、新自由主義政策の総本山である英米において感染者数と死者数において飛び抜けた数値を示していることがそれを証明しているだろう。M.デイヴィスが具体的にそれを指摘し、アメリカの公衆衛生制度の脆弱性を糾弾している。
「アメリカ病院協会によると、患者を収容できる病床数は1981年から1999年の間に39%も減少した。この数値は普通ではない。削減は「センサス」(ここでは病床稼働率の数字)を上げて利益を増やすために行われた。だが、病床の稼働率90%というマネジメント上の目標が意味するのは、伝染病や医療上の緊急事態の際に、病院に殺到する患者を収容する能力がゼロに近いということだ。*2
この半世紀にも近い新自由主義政策の下で世界の公共圏が削られ続け、利潤と合理性という資本の原理が貫徹した社会がかくも脆弱であったということを実地に証明したという意味では特筆に値する。英首相ジョンソンが「社会はあった」と言わしめた現状に対して我々は何を教訓にし、どのようなこれからの社会像を想定すべきであろうか。ブラックスワンに対して資本主義社会が脆弱であるということはこれまでも了解されていたことであって、市場経済はその混乱の中で生まれてきた生き残りを賭けた競争世界であるという事実を今更ながらに我々に示したのであるなら、第二の論議が重要になってくるであろう。つまり、この危機に対して社会を防衛するのか、それとも市場に委ねるのかという論議である。一般的な論評とは違って、今回の感染症爆発に対して各国が採用した政策ははっきりと二つに分かれている。一つは中国や欧州大陸諸国に見られるような生政治に則ったロックダウンと、もう一つはスウェーデンや米国、初期の英国、日本等に見られる集団免疫路線である。前者の施策に対してはG.アガンベンが典型的なようにロックダウンがカール・シュミットの「例外状況」を想起させるという批判とその反論であるJ-L.ナンシーの「技術経済権力」という反批判が現れている*3。もう一つの施策である積極的施策を施さずに集団感染に委ねるという方向は、日本や米国のように曖昧な路線を採る国もあるが、基本的には新自由主義路線をそのまま継続するというものである。確かにアジアでのSARS-CoV2の特性が欧米と違っているという未確認な情報もあり、実際にその致死率には違いがあるが、そのことは度外視して論じるならば、この方向性は明らかに社会の階級闘争の隠されていた現実を露出させてきている。アメリカにおいては保守系の仕事よこせデモやミネソタでの黒人虐殺をきっかけに起こった暴動などはその典型であろう。日本においても「自粛させるなら補償をよこせ」というデモや「検察庁法改正」を巡るツイッターデモなど、これまで押さえ込まれていた階級矛盾に対して怒りが巻き起こっている。
つまりこれらの二つの議論から明らかになってきているのは、我々が求めている社会のあるべき姿は何なのかという問題に応えるべき指針が生政治か市場政治かという二つの岐路を示しているということである。そしてそういう現実に対置されるものは生政治に対しては人権が、市場に対しては社会主義が相変わらず現れるのである。いずれの選択肢においても結局、人権と社会主義がセットなった検証済みの使い古された理念が呼び戻される。
2.日本の特異性
欧米各国の典型的な政治とは異なって、アジア各国の政治とその結果は随分と多彩である。韓国、台湾、ベトナムなどが押さえ込みに成功したのは、明らかに新自由主義的な熱中が少なかった国々である。特に韓国と台湾は既にSARS感染症で痛手を受けていたことで公衆衛生部門での新自由主義的な愚行を行わなかったことで見事にCovid19の第一の波を防ぐことができた。そして意外なことに中国においての派手なロックダウンは明らかに生政治的なものであるということである。それが「人民戦争」の名において「得意の持久戦」を想起させたというのは検証に値する*4。
他方で日本の感染症対策は一見でたらめの如くに見えるが、基本は集団感染という「放置路線」であり、巷に言われているような習訪日やオリンピックなどの原因論はその基本路線の表層的な現れである。意図的にPCR検査を絞ったことで医療崩壊を見かけ上は隠蔽でき、自粛という市場(市民社会)への丸投げによって自己責任と相互監視による規律を見事に作り上げていった。このようなこの間の日本における経緯は海外メディアが「謎」と呼ぶ不可解な様相を露呈しているが、日本国の内部から見るなら極めて妥当な経緯ではある。何故なら、まず「集団感染」に見られる国民生活を感染症に対して放置するという路線は当初から公衆衛生体制そのものが平時において「戦時」体制を求める新自由主義体制では今回のような感染症爆発は想定外であり、何のプランも準備もできていないということが明らかであって、政府ができることは何もないことを完全に理解しているということである。つまり元来から生政治的に国民生活を防衛しようというような発想を持ち合わせていない政府にとっては、唯一繕える方策は放置していることがバレないようにすることだけである。PCRにしても、クラスター対策にしてもそのための煙幕だと理解すればいいだろう。その意味では、今世界で論議されている今回の感染症問題によって露わになっている議論とは別個で別次元であるということでもあり、謎と言えば、その通りだと言わざるを得ないのかもしれない。
3.何が困難か
これほどまでに未知の感染症に対して脆弱であったという事実は、21世紀の変革の方向性を示唆しているように思われる。十数年前のリーマンショックで金融化資本主義の脆弱性が暴露され、3.11でエネルギー政策の脆弱性が暴露され、そして現在コロナパンデミックで公衆衛生部門の脆弱性が暴露されたわけであるから、これまでの新自由主義経済とグローバリズムがこれまでの戦後世界の生政治の社会の基盤を完全に食い潰したと言っていいのだろう。かのリーマンショックがすべての住民に住宅を供給するという架空のローン社会を想定し、福島原発が無限の安価なエネルギー源を供給するという幻想を与え、合理化と民営化によって万全の公衆衛生体制を構築するという幻影が無残にも打ち破られたということは、この半世紀の人間の生命活動そのものがことごとく期待外れのハリボテの上に築かれていたということを明らかにしている。これほどの衝撃を社会に与えている今回のパンデミックが今後社会に対して明確な変革の方向性を与えていないというのなら、それはあまりにも鈍感であろう。もはや一刻の猶予も我々には残されていない。
しかし事態が重篤である程、変革も困難である。困難の第一は、新自由主義政策によって変質した生産様式と社会構造の修復が資本主義的生産様式に根付いた根本を問い直さなければできないということである。それはある意味では17世紀以来の世界の社会的構造そのものを問い直すことでもある。つまり資本主義的生産様式の変革のみならず現代社会を存立させている規範と意思決定構造、自由と民主主義そのものが変革を迫られているのである。故に第二の困難は、我々には今ある危機に対して準備し提起する何ものかを、とりあえず修正する何ものかを持ち合わせていないということである。確かに金融化資本主義に対しての規制やグリーンニューディール政策、そして公共圏(公衆衛生部門)の再構築といった弥縫策は考えられるであろう。しかし、それらが現実の困難に対する根本的な解決策であるとは誰も思っていないということである。幾分かのよりましな未来があるかもしれないという淡い期待の気休めでしかないということはわかっているが故に、現状の延長線上での迷いを払拭するだけにしかそれらは存在していないのである。ではなぜ今回のようなパンデミックが社会的に起こったのかを再度問い直すことが求められている。明らかに中世期の黒死病や第一次大戦期のインフルエンザのような累々たる死体の積み重ねとは明らかに違う様相にもかかわらず、世界中でロックダウンが行われ、生産活動が停止し、排外主義と人種主義の蔓延と抵抗闘争の拡大が起こっているのか。アガンベンが言うような「例外状況」ですらない政府の動揺がここまで蔓延したのか。ここに現在の困難が典型的に現れている。
だから、三つ目の困難は世界が明らかに袋小路に突き当たり、矛盾が煮詰まり、僅かな衝撃によって崩壊してしまうという事態になっているにもかかわらず、それを認識できず、ただただ特異なウィルスの脅威だけをあげつらうしかなく、それがピークを過ぎていけば何事もなかったかのごとくに現状復帰しようという呆れるほどの現実失認症候群が現れる事態となっていることである。現代社会の様々な危機論が危機を期待するが故に危機を認識できないというパラドックスへと陥る事態、現状を変革するか保守するかを問わず、あらゆる言説総体が今ある自らを認識できないという事態に我々が陥っているということが問題の困難さを象徴している。
4.転換の予兆はあるか
2010年代に吹き荒れた世界的な街頭闘争、M15から占拠闘争、蝋燭から雨傘、黄色いベストからBLMへと至る民衆の格差と差別への怒りの爆発は何を意味しているのであろうか。これらの運動の最も基本にある基調は民衆の自己決定権への希求であり、それは政治的には民主主義であり、思想的には生きる権利である。この自然発生性に対して左派が対置するのは「社会主義」だとするのは早計である。なぜなら、そこへ至る道筋が明らかになっていないからであり、そこへ至る回路には幾重もの袋小路が待ち受けているからである。人々が格差と差別に苦しんでいる時、問いかけなければならないのは、それが何故そこにあるのかとまずは問い直されなければならない。格差が生まれ、社会が重層的な差別構造の真っ只中にあるのは如何なるカラクリによるのかを解明できなければ、解放理念たる「社会主義」は単なる念仏にしかならない。
では、そのカラクリの基本にあるものは何なのかが問われなければならないということになる。言い換えれば、この資本主義社会が日々再生産する格差と差別は何に起因するのかという問いに答えるべきだということである。これへの解答には多くの論者がこれまで挑戦し、様々な仮説を提起してきたことは周知だろう。近年で言えば、ピケティさんが分析したように資産所得の拡大の方が所得の拡大よりも大きいという資本主義の富の偏在法則を歴史的なデータで明らかにし、累進課税による富の再分配を提唱したが、そもそもそのような富の偏在そのものを生み出す基礎にあるものは何なのかが問われず、累進課税という政治上の手段で是正するということ自体が問題をすり替えることでしかない。アダム・スミスがもうすでに200年以上前に言及したように、富を独占している資本家階級がそういう政治的な行動を阻止することは明らかだからだ。おそらく一部の人々は200年前とは政治制度が民主化されているから税制という政治的決定によって可能なのだと言うかもしれないが、では何故人々が現在も99%の要求を掲げてウォール街を占拠するような運動が起こるのかを説明できない。つまり、資本主義的生産が一人一票の民主主義を如何にコントロールし、資本家たちが意のままにしてきたという歴史を直視していないのである。問題はだから政治上にはなく、経済様式そのものにあるということを直視することである。資本主義特有の市場という情報と商品の交換システムが貨幣という媒介を通して人々の生活を支えているということ全体がもはや桎梏となっているのである。そしてこの交換システムが人々の情動と市民社会の内部にある関係性そのものを主体の意思決定から仮想された貨幣関係へと閉じ込め、人々を差別と憎悪の再生産に至らしめるのである。この交換システムそのものを廃棄するための手がかりが今、やっと我々は垣間見ることができるようになってきた。
MMTが近年明らかにしてきたことは、後期資本主義の管理通貨制度によって商品貨幣から信用貨幣へと完全脱皮することで新自由主義経済による金融化、直接金融システム、証券化経済という新たな貨幣流通構造が、金融資本主義そのものを解体し、もはや資本主義的生産様式の持続可能性を廃棄し始めているということを示したことである。内生的貨幣流通においていよいよ国家と中央銀行にその矛盾の焦点が移行しつつある。私はこれを経済様式の歴史的変遷によって国家と中央銀行が経済様式の内部に包含しつつあるという予兆として見ている。これこそ、根底的な変革の兆しであり、行政的政治主義から脱却し、国家そのものを問い直す契機となることを期待したい。
現在、東京都知事選挙において山本太郎が金融システムの大改革を前提とした15兆円の地方債発行を政治的スローガンに掲げている。これはMMTが政治的舞台へ登場する一つのステップであると思われる。彼の政治的階級的位置がポピュリズムであるという批判には依存はないが、その掲げる意図せざる効果について我々は注視しておかなければならない。いよいよ政治が国家を問いなす段階へと突入しつつある。
脚注
*1 『世界』20年6月号p.56参照。
*2 http://www.webchikuma.jp/articles/-/2004?page=2
*3 『現代思想』5月号各論文参照。
*4 羽根次郎「『科学』的『占い』に抗する大衆動員の予防について」(『現代思想』5月号)