共産主義者同盟(火花)

研究ノート:問題提起に代えて

斎藤 隆雄
434号(2019年11月)所収


 現代資本主義の批判が曲がり角に来ている。主流派、非主流派、マルクス派を問わず現代資本主義の諸相が従来の定説から乖離し始めていること、従来の理論と整合性がとれないことが鮮明になってきている。このことは、これまでの蓄積されてきた理論が役に立たなくなってきているばかりではなく、現実の資本主義的生産様式そのものが大きな歴史的転換期へと移行し始めていることを示唆している。我々にとっては、このことはもう一度これまでの資本主義批判の立脚点を総点検する必要性が求められていることでもある。今回は、研究ノートとして20世紀における金融をめぐる理論史の一断面を垣間見ることにしたい。

1.架空資本とは何か

 現在、世界のデリバティブ商品の増加率は、世界のGDPのそれの三倍に達している*1。そしてその想定元本は世界GDPの十倍を優に超えている*2。この膨大な架空資本の堆積物は何をしているのだろうか。多くの経済学者が現代資本主義の特徴を「金融」に見出して、「金融資本主義」や「金融グローバリゼーション」などと呼び習わしているが、そもそも金融とは何であり、膨れ上がり手に負えなくなった膨大の架空資本とは何なのかを解明できているのだろうか。最初の問いはまずそこから始めてみよう。
 われわれがこの架空資本の初期的形態である利子生み資本に着目したのは、1980年代であった。いわゆるサッチャー・レーガンを頭目とする英米資本主義が「規制緩和」を旗印に70年代危機への突破口として全世界に突撃を開始してきた時、彼らが槍玉に挙げた仮想敵は戦後の福祉国家路線とケインズ・ニューディール政策に対する巻き返しであった。そしてその最も顕著な最初の現れが金融規制への緩和路線だったことを思い出す。ここに明らかに金融問題が争点となっていたことが意識され、更に80年代末にアメリカ自身が純債務国となったことで、基軸通貨であったドルの命運とアメリカ帝国を頂点とする戦後資本主義世界の構造転換を予感されるものとなってきた。
 しかし、それは周知のように東西冷戦の終焉とソ連崩壊によってこの構造転換に対する問題意識が希薄化されてしまったという苦い経験を持っている。87年ブラックマンデーと90年代初頭のバブル崩壊、中南米諸国の債務問題と東南アジア諸国の発展と97年アジア通貨危機という連続した資本主義の激動は、しかしこの利子生み資本の巨大なうねりが生み出した危機であることは明らかだった。
 では、この利子生み資本の今日的な形態である架空資本とは今更ながらに何か新しく発見された形態なのかというと、そうではないことは誰もが知っている*3。何らかのキャシュフローを資本還元することによって得られる資本の観念は随分古くから経済の世界に存在していたし、架空資本の代表格である国債や債券はこれもその原基形態は中世にまで遡ることができる代物である*4
 だから、最初の問いに答えるためには、まず『資本論』から始めるのがいいだろう。

 利子生み資本において、資本関係は、そのもっとも外面的でもっとも物神的な形態を得る。この場合に、われわれがもつのは、G-G’、より多くの貨幣を生み出す貨幣、両極を媒介する過程なしに自らを増殖する価値、である。(『資本論』第三部第24章)

 このG-G’という媒介のない貨幣の増殖という形態は、それだけを見ればマルクスも言うように古風な形態である。高利貸しは有史以来からある世界遺産級の代物である。このなんの媒介もなく、より多くの貨幣を生み出す貨幣という形態こそ、この世界を支配し転倒し錯誤している現実の根源でもある。この資本が生み出す形態は資本主義的生産関係の中から不死鳥のように蘇り、資本賃労働関係に決定的な転倒を生み出した。

 そもそも利子生み資本なるものがあらゆる錯乱した形態の母であって、たとえば、債務は銀行業者の考えでは商品として現象しうるが、…労賃はこの場合には利子と解され、したがって労働力は、この利子をもたらす資本と解される。たとえば一年間の労賃が50ポンド、利子歩合が5%とすれば、一年間の労働力は1000ポンドの資本に等しいものとみなされる。資本家的な考え方の錯乱はここでその絶頂に達する。けだし、資本の増殖を労働力の搾取から説明する代わりに、その逆に、労働力の生産性が、労働力そのものはこの神秘物たる利子生み資本だということから説明されるからである。(同第28章)

 現在ではこの労働力=資本という観念は、人間=資本という拡張された観念としてあまねく流布している。今日の派遣労働者の賃金は人件費でさえないことが当たり前のように会計処理されている。この観念が現代世界に復活した契機となったのは、19世紀中葉における資本蓄積の新たな形態である「株式会社」が民間市場に現れた時代であった。この時、貨幣が貨幣を生むという形態の典型的な錯誤が「株式」として立ち現れ、経営と所有とが分離され、資本荘園制が登場したのであった。
 その後の歴史は後に譲るとして、G.ベッカーが1960年代に「人的資本論」を発表した時、いくばくかの躊躇があったという逸話が残っていることは特記しておいていいかもしれない。実は、マルクスもいうように、既に18世紀にはW.ペティが同様のことを示唆していたが、まさにその錯乱した観念が普遍的な資本の観念となるには長い時間が必要であった。利子生み資本が今日のように世界を席巻するまでには長い歴史があり、G?G’という古代以来の搾取の形態が資本主義の時代に復活するにはある種の壁があったということでもある。
 ここでわれわれは一つの疑問に突き当たる。かつて資本主義創世記において賃金労働者たちは奴隷の如くに使役されていたではないか、ということである。あれは労働者を資本として扱っていたのではなかったのか、という疑問である。ここで改めて言っておかねばならないのは、人的資本という観念が資本還元という未来のキャシュフローを前提にしているということであって、産業資本主義時代における相対的過剰人口の使い捨て時代と決定的に異なるということである。これはこれから解明していくべき歴史過程の重要な留意点でもある。*5

2.金本位制から管理通貨制へ

 今日の世界を席巻している「金融資本」の淵源を辿ってみると、1960年代に辿り着く。これまでの通常の説明ではニクソンショックと変動相場制移行から80年代規制緩和という脈絡で述べられてきたものを、更に遡ってみると、60年代のベトナム戦争による軍事支出拡大とドル危機にたどり着く。そしてそれがIMF体制の危機として捉えられ、戦後のポツダム体制の解体を招くと捉えられていたのだが、その根拠は何か。
 それは、戦後世界資本主義体制を形作ったブレトンウッズ体制が想定していた、あるいはケインズが二つの世界大戦の教訓を組み込んだ新しい資本主義論を実体化させた国際通貨貿易決済機構が想定していたところのそのものが、想定とずれ始めたからなのである。二つの時代が重なり合って入れ替わる時期には、次の時代を先取りした動きと前の時代の残滓が根強く残っている要素が混合する。60年代とはそういう時代だったのだ。
 ケインズに代表される戦後の経済政策の基本を作った理論の想定は、金本位制の廃棄と国際資本市場の制限だった。これは戦前期の金本位制が果たしていた国民国家間の通貨決済機能が破綻したことによる弥縫策であったが、それは同時に管理通貨制度という現代の通貨制度への移行期でもあった。この歴史的変化は何故どのような力が働いてそうなったのかは問われてしかるべき疑問だろう。この問いにはこれまで多くの論者が様々な説明を繰り返してきた。しかし、このことの眼目は変動為替制度の下における国際的資本移動の自由化という今日の視点から見るなら、明らかに利子生み資本の運動の発展に伴う制度的帰結であったと言えるだろう。すなわち、管理通貨制度という貨幣制度がリーマン危機以降、現在のような架空資本たる国債(債務)によって生み出されることとなった起点がそこにあったということなのである。貨幣が金商品に依存せず管理されるようになったことによる帰結が生み出した結果がそうであるなら、時代を更にさかのぼり戦間期へと目を向けなければならない。
 ケインズが1923年に金本位制を「野蛮の遺物」*6と言った背景には、19世紀末以降の金融資本の発展、すなわち退蔵貨幣の蓄積と投機的資本の成長、帝国主義的な資本の運動が金本位制度と折り合えなくなってきたことに原因がある。金属量に制限された貨幣ストックによる市場の激変、それは資本主義経済特有の法則ではあるが、それが労働者階級へと直撃し失業率の高騰と激しい景気変動を生み出していた*7。更に周知のごとく、帝国主義間戦争とロシア革命という激動を生み出したことで資本主義は終焉の危機に追いやられていた。
 彼が想定した新しい通貨制度は世界戦争による金本位制の破壊から資本主義を如何に防衛するかという苦肉の策でもあった。それは結果的には資本主義の自然成長性という破壊から政治意思による管理へと移行する契機となった。ある意味では、利子生み資本の錯乱した物神性を人間の管理へと引き寄せようとする試みでもあったわけだ。ケインズの貨幣観は金属に従属する貨幣ではなく、債務に従属する貨幣であった。その発想が通貨の管理を導き出した。この試案は世界単一銀行と国際的短期資本移動の制限*8という構想へと発展して、第二次世界大戦後のIMF体制の基礎を形作った。
 この20世紀前半の資本主義経済を巡る貨幣観の変転は、金融資本の世界的席巻と帝国主義者たちの野蛮がなしたある意味での必然でもあった。というのも、ヒルファーディングやフィッシャーなどが理論化した金融資本の対象化は、ケインズの「資本の限界効率」という投資理論へと洗練されて、利子生み資本のブルジョアジーからの正当化を獲得したからであり、それはマルクスが述べた錯乱した物神性を「資本の割引現在価格」理論として整理し、後の投資理論の基礎となったからなのだ*9
 今日の管理通貨制度が生まれた歴史的経緯はケインズも吐露しているように、大戦によって生じた金のアメリカへの集中という現実に強いられたのだが、それによって生まれた管理通貨制度はまだ完全なものではなかった。周知のように、それは戦後のIMF体制によって規定されたようにドルの金との互換性の残滓を引きずっていた。更に言うなら、戦後の国際決済制度の未完成は、アメリカの世界大恐慌の後遺症としての民間銀行資本の未展開という現実に根ざしていたのである*10。それが次の時代を準備する動きと古い時代の遺物との闘争だったことは明らかであろう。論者によれば、これをポンドとドルの闘争と捉える者もいるが、それは表層的な見解である。ドルが世界を席巻するのは、ドルが自ら金兌換を放棄するという過程の中で生まれたと見るべきなのだ。そこで初めて管理通貨制度が完成するのである。
 翻って考えるなら、1971年のニクソンの決定までの過程を管理通貨制度の完成への過渡として把握することで、29年大恐慌以降の世に言うケインズ体制の意味が浮かび上がってくる。これまで我々が「フォーディズム」と規定していた歴史が利子生み資本が世界を席巻するまでの幕間劇であったことを知ることになる。管理通貨の意味を知ることが今日の金融資本の意味を解明する手がかりとなることをここから解明していきたい。

3.大恐慌から戦後ブレトン・ウッズ体制

 世界大恐慌から30年代のアメリカ国内金融経済構造の変革過程は、特異なアメリカ的歴史過程に起因する部分が大きい。とりわけ現在においても論争の的となっているのは、当時のFRBが「最後の貸し手」機能を発動しなかったことの意味である。19世紀にバジョットがイングランド銀行の役割を「最後の貸し手」機能として取り上げたことはあまりにも有名であり、そのことを当時の銀行マンたちが知らないわけがない。29年から30年代初頭にかけて破綻した銀行数はゆうに一千行を超えていることからみて、この政策が発動されなかった所以はいかにも不可解なのである。そこにアメリカ特有の論理と現実が作用していたことは明らかだろう*11
 1930年代の同じ時期(32年)に日本では高橋財政(国債の日銀引き受け)としてのちに有名となった政策が実施されて、金本位制によるデフレ現象から脱却している。それと比べてもアメリカの政策決定は33年のグラススティーガル法による証券業務の分離とその競争的な役割の強化(34年証券取引所法)は、ドイツや日本の政策決定とは資本主義観において根底的に異なっていた。ファシズム体制がいわゆる国家独占資本主義体制として完成する一方で、英米系資本主義が41年大西洋憲章として対置した理念は反独占・地方分権としての「自由主義思想」という農業国としてのアメリカの政治理念を反映するものであったことは過小評価すべきではない。それは膨大な数の銀行倒産を前にして事後的救済を一切取らなかったことの根拠を照らしている。2008年のリーマン・ブラザーズ社を救済しなかった論理と同じものがそこに働いていた。むしろ、このことにおいて働いた論理が資本主義への国家管理ではなく、規制であったことの重要さがその後の世界経済構造を決定したのである*12
 33年銀行法のその後に及ぼした影響は大きい。銀証分離だけではなく、とりわけ60年代のユーロドルの発展の原因となった預金金利の規制(レギュレーションQ)は、当時問題となった短期資金の金融市場での投機的活動を抑制するためであった。短期流動性への規制は、戦後IMF体制にとっても難問であって、ケインズが短期流動資本の規制を戦後の決済機構の最重要課題として挙げたのも、それが金本位制解体以降の最大の課題だからであるからだ。
 しかし、戦後世界はアメリカ帝国主義の国家としての世界戦略として登場することから始まった。1948年の欧州へのマーシャルプランはあまりにも有名だが、国内的には1951年のFRBの財務省からの独立が、戦時統制からの金融政策の離脱として記憶しておきたい。なぜなら、戦時期のアメリカ金融政策は今日でいうところの戦時総動員体制(国家資本主義的傾向)だったからだ。戦時の総動員体制としてのアメリカ帝国主義の総司令部が、戦後管理通貨体制への過渡として取り得た旧体制との妥協の産物としてのそれは金融資本の世界展開の未展開という現実からくる必然の体制であった。
 アメリカが戦後世界の覇者として世界政治へと登場すると同時に、国内金融構造の特異性の温存と東部銀行資本(ウォール・ストリート)の財務省一体となった世界展開はスターリング圏に立ち遅れていた彼らの課題でもあった。
 周知のように1950年代は欧州復興と戦前期帝国主義体制の再編過程であった。第一次大戦と世界大恐慌の結果生まれたいわゆる国民国家による財政政策が戦前期帝国主義体制(同時にそれは国際資本移動と決済機構でもあるが)の変革を強いたが、その決済機能の要であった金本位制の解体によって全面的な国家による規制(管理通貨制度)へと変貌していくのである。その過程で果たしたアメリカの役割は、第一次IMFに見られるようにポンドからドルへの移行期における過渡的なものであったことが分かる。1948年の世界の準備通貨のおけるドルの割合は6.2%足らずであり(ポンドは23%)、58年段階においても15.5%だったことを記憶しておかねばならない。現在のような5割を超えるようになるのは90年代以降なのである*13。ドルが金との互換性を保持しなければならなかったのは英帝国主義(ポンドスターリング圏)との帝国主義間闘争の結果であって、戦前期帝国主義の残滓を引きずっていたと考えるべきだろう*14。アメリカはその時、絶対的な生産力と金の独占によって君臨していたが、世界経済をネットワークできるほどのものは全く持っていなかった。むしろ、戦後期における欧州への公的支援と民間資本進出、ギリシャ内戦、スエズ動乱、イラン石油権益をめぐる英帝との角逐によって戦後植民地体制を構築していくことで過渡的ドル体制を完成させていったのである。*15

3.アメリカの黄金時代とは何か

 1951年FRBと財務省とのアコードは、国内管理通貨制度と国際金融システムおよびアメリカの世界戦略との分離として記憶されるべきだろう。財務省の拡張的財政政策と距離を置くFRBの独立性は財政と金融との齟齬を密かに生み出していた。このことは連邦準備制度が国内的な銀行システムの統合に失敗した30年代の遺産でもあった。つまり、ケインズの管理通貨制度構想とFRBが最も接近したこの時期の課題は、アメリカ民主主義の根幹にあった自由主義との整合性であった。現在の新自由主義思想が唯一ケインズと出会うのはこの管理通貨制度だからである。自由放任という野生世界崇拝の中にあって貨幣にのみ意識性を求める新自由主義者たちのケインズとの接点はそこだから、「シカゴプラン」の敗北によって再び距離を置き始めたことで、拡張主義というアメリカの黄金時代に一抹の影を落としているのである。
 戦後アメリカ帝国の黄金時代とは何だったのかという疑問もこの観点からすると鮮明である。我々がアメリカ帝国の黄金時代を5-60年代として捉えるのは、戦後最長の好況局面を実現したことと欧州・日本の高度成長期とが重なることによってあたかも資本主義が永遠の繁栄を謳歌したかのように思えたからである。欧州へのアメリカ資本の流入はソヴィエト連邦の計画経済路線との対峙という冷戦構造によって成立し、トルーマンドクトリンとして実体化されたことは周知だが、一旦は塵芥と化した西側諸国はアメリカ資本の過剰生産力の豊かな受け皿となったことで、予想された戦後不況を免れたのである。それは、アメリカにとっては「自由主義経済」の防衛という錦の御旗の下での帝国拡張の絶頂期であり、軍事?経済?社会一体となってアメリカ文明の世界的席巻期となった。しかし一方でそのことはアメリカ本国における金融政策と財政政策の齟齬を覆い隠してもいた。戦時期において過剰となった国債発行による貨幣創造が、アコードによるFRBの独立化によって徐々に旧来の短期証券の金利操作という手法(ビルズ・オンリー政策)へと回帰していった*16。これは見方を変えれば、20世紀前半期の日独による国家独占資本主義に対する巻き戻しでもあった。国内的な金融規制と帝国主義的拡張路線の組み合わせは早晩破局を迎えざるを得ない。それにいち早く警鐘を鳴らしたのが、意外なことにIMF自身であった。戦後アメリカ帝国の黄金時代を築き上げたと見られているIMF体制が実は矛盾に満ちた構造であったことが明らかになっていった。1960年、「トリフィンのジレンマ」と言われて有名となった「金とドルの危機」である。当時IMFのエコノミストであったロバート・トリフィンは、基軸通貨ドルの流動性とアメリカの経常収支が両立しないことを指摘した。この矛盾は、ケインズが戦後国際金融体制の構想において短期資本の流動性を制限しなければならないとしたことと関連しており、ドルが金と国家間決済において生きていることによる矛盾であった。「野蛮の遺物」が最後の抵抗を示し始めたのである。
 その後の60年代におけるアメリカ資本主義の黄金時代の終焉期は、戦後復興が終わるとともに労使協調型のフォーディズム体制が綻びを見せ始め、対ソ冷戦構造の泥沼的象徴であったベトナム戦争による軍事支出がその衰退を早めた。このことの最初の危機はロンドン金市場でのゴールドラッシュであったが、アメリカの金保有が減少を続けていく過程で、ついに金との互換性を放棄せざるをえなくなった。1968年の金二重価格制によって実質的に戦後ケインズ型IMF体制は終了した。
 1930年代から始まり、60年代をもって終了したケインズ時代*17はアメリカの黄金時代は見事な重なりを持って見えるが、ケインズが想定した世界中央銀行は実現せず、危惧された短期流動性が世界を席巻し始めて、それは夢のまた夢に終わったのである。その一因はアメリカ本国における金利規制というタガを外さない限り帝国の世界戦略と整合しないという戦後期の限界の露呈でもあり、アメリカ自身が撒いた種でもあったのである。50?60年代におけるアメリカ資本の多国籍化は一方で財務省とメインストリート(東部金融資本)のなせる技であったが、それはより高い金利を求めて移動する資本の必然的な動きであり、ユーロドルという新たな仕組みがケインズ時代に致命傷を与えたと言えるだろう。
 1971年のニクソンショックと翌年の変動相場制移行によってアメリカの黄金時代が終わったと言われる。しかしこの規定は、誰にとっての「黄金時代」だったのかが曖昧となっている。60年代末以降徐々に拡大し始めたインフレ傾向は現在ではスタグフレーションと呼ばれる物価上昇と不況というこれまでの経済理論では起こりえない現象を現し始めていたが、これはアメリカ製造業の利潤率の低下と軌を一にしていた。60年代のケネディ-ジョンソン時代の「偉大なアメリカ」という福祉型国家観を支えていた白人製造業労働者=プロレタリアートへの豊かな配分が持続可能性を失い始めたのである。この現象は、20世紀初頭に英国繊維産業の衰退に伴って起こった産業構造の不均等発展と同様の歴史である。第一次世界大戦によって衰退を早めた大英帝国の落日が「ポンド危機=金本位制危機」として現象したと同じことが、この時繰り返したのである。現象的には、ベトナム戦争による戦費浪費による経常収支悪化と第一次IMF体制と一体であった米ドルの危機でもあったのである。この危機は、金本位制危機の時代(戦間期)にも生じたある種の弥縫策としての変動相場制が再び脚光を浴びることになった。ドルに代わる基軸通貨が存在しない以上、この弥縫策が恒常制度として定着したのは、ドルが金との交換性を完全に切断したことによっている。すなわち、一国民国家の通貨であるドルの基軸通貨化は、金との互換性を失い漂流したにもかかわらず、相対的な民間流通貨幣として機能するという新たな時代へと突入したのである。これはアメリカにとってもリスクのある選択であった。もはや絶対的な生産力と産業構造による優位は失われつつあった以上、この新たな時代を支配する鍵概念は「金融」であったことは明らかである*18。すなわち、アメリカの黄金時代とは、戦時の拡大した生産力のはけ口としての戦争経済と第二次産業革命による消費社会の形成による拡散が支えた20年間だったのである。故に、そこでは典型的なプロレタリアートたる製造業労働者への所得配分政策が可能となった訳であり、いわゆる「フォーディズム」と呼ばれる時代を「ケインズ型福祉国家」路線として実現させたのである。それは同時に、革命の中心部隊の消失による代替として新たな敵対構造が「新しい社会運動」を生み出したことで「福祉国家」路線に華を添えたとも言える。*19

4.転換期としての70年代

 1970年代とは世界史上における隠れた転換期であったと言える。現在(2010年代)の我々が置かれている様々な課題の原点がそこに萌芽として現れたと言う意味では最も注目する必要のある時代である。まず、戦後長らく不均衡を生み出していたケインズ型IMF体制が崩壊し、変動相場制と金との兌換性を失ったドルの国際通貨化が始まったことによって、本当の意味での管理通貨制度が完成に向かったということである。このことの意味をおそらく当初誰も意識しなかったし、「ドル体制」の危機としてしか捉えられなかった。実はそれが「ドル体制の完成」であったとは誰も思いもしなかったのである。その一つの証拠が、現在経済ジャーナリズムを賑わしているMMTが実はこの70年代から始まっていたという事実であろう。金を担保にした貨幣理論が名実ともに無効となったことは、貨幣創造が銀行を通してしか、あるいは負債を通してしか生み出せないという管理通貨の真実が浮き彫りにしているからである。
 では何故現在に至るまで、この現実を認識できず、未だに管理通貨の迷宮に惑わされ続けているのだろうか。それは1970年代から開始された金融を巡る世界的な地殻変動、とりわけ後に「新自由主義」と呼ばれるようになった帝国主義の新たな段階と不可分である。新自由主義経済政策の本体は基本的に金融規制の劇的な変革であったが、その根底的な目的は架空資本の世界的な帝国主義的管理であり、その主体は世界金融資本複合体としての巨大銀行資本とFRBを頂点とするドル管理体制である。
 70年代から始まったクレジット経済とドルの帝国循環は世界における各国民貨幣が持つ地域性を統合し、世界資本主義としての金融資本流通プラットフォームが80?90年代に形成されていった。この過程はそれまでの資本主義を支える様々な理念をも変革するものであって、経済のみならず社会と文化を根底的に作り変える過程であった。この過程は、欧州銀行資本とウォール・ストリートとの角逐という帝国主義間の敵対の現れであり、かつ結果でもあった。そもそも金融の新自由主義的なサプライサイド政策は伝統的なインフレ恐怖症のドイツブンデスバンクの路線が最初であった。金融に関して言えば、ドイツは早々とケインズ主義を手放していた。そして、40年代にナチスドイツが構想したヨーロッパ金融共同体構想が70年代を境にして急速に進展し始め、帝国主義間の敵対と均衡という構造が世界的規模で進行していくのである*20。為替変動相場制への移行とユーロドルの席巻は米国債を担保とする負債経済の管理をめぐる欧州金融資本との角逐というせめぎ合いの中で世界帝国主義の寡頭政治体制の形成へと発展していくこととなった。これは、ベトナム戦争の終了と対中国政策の転換によって冷戦体制そのものをも変革していくこととなる。このとき何が起きていたのか、人々はほとんど理解することはできなかったが、世界史的な転換が起動していたことは確かであった。
 このことは、本論文の最初に述べたG.ベッカーの人的資本論に象徴されるように、人間そのものが資本となるという負債経済構造のイデオロギー的、理念的な転換が開始されていたことと符合する。69年にフリードマンがニクソン政権への介入を開始した時から、思想と文化の領域においてもこの新しいブルジョアジーの攻勢が開始されたのである。架空資本によって金融構造が成り立つ世界という管理通貨制度の完成は、貨幣が貨幣を生み出す負債奴隷制資本主義の端緒が切って落とされたのである。そしてそのためには、従来の民主主義的人権思想から派生する様々な人間主義的な思想はことごとく紛争の焦点となっていくことになった。70年代から始まる「新しい運動」と呼ばれるセクシズム、人種問題、環境問題等は68年革命の余波ではなく、新しい時代の階級闘争の幕開けであったのだ*21。そして、68年革命は実はそれまでの戦間期民主主義の一つの帰結であったということも付け加えておかなければならない。

【補足】

 本稿で述べられている「管理通貨」は、ケインズ『貨幣論』の冒頭で述べられている「管理通貨」とは必ずしも一致していない。むしろ、「法定不換紙幣」と「銀行貨幣」との現代における曖昧な議論と関係している。貨幣がその起源のまま歴史的に変遷しなかったと考えることには不自然さが漂う。歴史的な産物としての現代貨幣の果たしている位置づけこそが問われている。MMTが扱う貨幣論はそういったことの一つの証明となっているだろう。
 いずれ別稿で述べる予定であるが、管理通貨制度の現在位置は90年代以降の先進各国の中央銀行の管理者たちの実務的慣行が「新ケインズ主義」という名の新たな装いを取り始めて、古典派均衡理論の欠陥を繕い始めた頃から急速に始まったと思われる。2012年にイングランド銀行総裁が「金融仲介機能が説明されておらず、マネー、信用、銀行業は意味のある役割を果たしていない」*22理論だと嘆かざるを得なかったのは、リーマンショック以降の金融政策がバジョットを思い出させたことと関連している。もはや現代経済学は貨幣が何者なのかがわからなくなってきているのだ、

脚注

* 1 ポール・メイスン『ポスト・キャピタリズム』p.36
* 2 http://uskeizai.com/article/223228196.html
* 3 この資本が資本主義の危機に結びつけて意識され始めたのは大戦間期のホットマネーからである。
* 4 これを「債務」という括りで捉えるなら、文明発祥に時代にまで遡ることができる。貨幣の発生以前に債務は人類史の初期にその足跡を残している。(D.グレーバー『債務論』)
* 5 人的資本を近代奴隷制と関連づけて論じることは、極めて重要な課題である。植村邦彦『隠された奴隷制』参照されたい。
* 6 ケインズ『貨幣改革論』第4章
* 7 これは次のような評価もあることを付け加えておきたい。「ケインズは,あり余るほどの貨幣を供給することによって,社会問題=失業の解決を説いたのである。」(宅和公志『管理通貨制の理念と展望』)
* 8 ケインズ『貨幣論U』第7編28章超国家的管理の問題。これは後の第一次IMFの基礎となったものの一つである。「金の超国家的管理に関する満足できる制度は、…疑いもなく、一つの超国家的銀行を設立することであり、そして世界の各中央銀行が、これに対して、その加盟銀行の中央銀行に対する関係とほとんど同じ関係に立つことであろう。」(邦訳p.419)
* 9 ここで、ケインズが投機に対して批判的であったことは付け加えておくべきだろう。しかし、アニマルスピリッツにそれを解消してしまったことが限界でもあった。(『一般理論』第12章)
* 10 山本栄治『基軸通貨の交替―ポンドからドルへ』(深町郁彌『ドル本位制の研究』第5章)
* 11 当時の連邦準備制度は、全米の銀行を掌握していなかった。中央集権と管理を嫌う未加盟の銀行が多数であった(銀行数の49%)ことは、英国とは異なる歴史的な経緯であり特異性だろう。このことが大恐慌以降の銀行制度改革に様々な紆余曲折を生み出す。「シカゴプラン」もその意味で慎重な検討が必要だろう。須藤功『戦後アメリカ通貨金融政策の形成』p.132参照
* 12 D.ヤーギン/J.スタニスロー『市場対国家』参照
* 13 石見徹『国際通貨・金融システムの歴史』p.6
* 14 ブレトン・ウッズでのケインズとホワイトとの角逐は、米財務省の利害を背負ったホワイトの勝利に終わった。ケインズは没落帝国の利害を反映して理想を追ったが、ホワイトは勃興する帝国を反映して、自国の帝国利害を貫徹した。
* 15 50〜60年代のアメリカの帝国戦略は国務省対財務省という国内権力のバランスの上に成立していたことは有名で、ニューディール派の国務省が60年代の民主党政権時代を支えていたことが過渡期を長期のものにしたと考えられる。
* 16 地主敏樹『アメリカの金融政策』p.13参照。Billsとは米財務省の発行する短期証券。短期の証券や手形の割引率の操作を通じて金融調整する手法は、19世紀のイングランド銀行などの古典的な手法
* 17 ケインズ主義に関しては、その経済思想と福祉国家論とは区別されなければならない。従来、これらを総称してケインズ主義としてきたが、そのことによってこれまで隠されていた国有化政策の淵源を曖昧にさせている。
* 18 椿邦彦『国家、市場経済、グローバリゼーション』参照。E.へライナーの「埋め込まれた自由主義」概念は、金融帝国へ脱皮する前のアメリカ経済の過渡的形態であるとみることができる。
* 19 米国公民権運動を「黄金時代」の象徴にする議論もあるが、これは大西洋憲章的な反ファシズム民主主義の戦後的形態でもあり、独特のアメリカ的特異性を反映している。
* 20 マット・マーシャル『ザ・バンク』2000年参照
* 21 70年代に相次いで現れる科学思想上の転換を象徴するものとして、A.ジェンセンの一般知性論とR.ドーキンスの「利己的遺伝子」を挙げておきたい。また、経済思想上ではオプション市場を支えるブラック=ショールズモデルの発見であろう。
* 22 フェリックス・マーチン『21世紀の貨幣論』2013年(邦訳p.323以下を参照)




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