反資本主義の再定義について
斎藤 隆雄
431号(2019年4月)所収
右派ポピュリズムの台頭が世界中で同時並行的に起こっている現状に対して、革命左派が対置する理論的立ち位置が揺らいでいる。前号において私はポピュリズム政治に現れている左右の自然発生性を反グローバリズム運動として捉えることを提起したが、いずれにしても現状の階級闘争は歴史的な分岐を画するものであることには違いない。そのことを示す論評が最近現れたので、取り上げてみたい。
1.現情勢分析--新たなサイクル論
欧州に右派的な自然発生性が横行している。フランスの黄色いベスト運動あるいは国民連合,ドイツAfD、ハンガリーオルバン政権、イタリア五つ星等々、それぞれが既存の欧州政治に対して反旗を翻している。既に前号で述べたようにこれらの自然発生性は反グローバリズム運動の一つの現れとして捉えることができるが、台頭する右派ポピュリズム政治の主体はかつての30年代におけるファシズムへと成長するのだろうか。
そのことを判断する上で重要なことは、現代資本主義下での労働者階級の現状を如何に捉えるかということであろう。そこでいくつかの参照点を取り上げつつ、検証してみたい。まず最初に、新開純也さんの昨年の論考『現情勢、2011年以降の運動の新たなサイクル』から取り掛かろう。
2011年以降、"アラブの春"に始まり、欧米でのオキュパイ運動または日本での3.11以降の反原発運動の高揚と運動の高揚が世界同時に展開されている。かつて、中近東学の板垣雄三氏はこれらの運動を、"新市民革命"と称した。(『共産主義運動年誌』19号p.51)
新開さんは一連の運動の高揚を11年以降からの自然発生性として捉え、その特徴を「不定形な市民中心、組織動員でない、脱中心(中央)、オキュパイの形態をとる直接民主主義への希求、SNSでの発信の活用といった運動の特徴」として描いている。これは従来の労働組合を中心とする組織的労働者の運動とは異なる様相だとして、「新たな周期の運動」と言い、従来型の運動を超えた地点で原初的な形態としてそれが始まっているとする。そしてその背景には三つの情勢があるとしている。第一に「アメリカをはじめとする諸列強の世界支配の再分割…搾取と収奪と圧政」、第二に「先進国では…非正規雇用の増大、福祉の切り捨て等?格差の拡大と分断」あるいは「権力のおごりと腐敗」、第三に「諸列強のナショナリズム排外主義"テロとの戦い"と称する戦争の危機」の三つの要因である。第一点と第二点前半は現在の資本主義世界の下部構造であり、第二点後半と第三点がその上部構造ということであろう。これらの分析に対しては異論もあるが、のちに論じるとして、それらの「新たな周期の運動に対しては、「肯定的に評価」すると述べつつ、その「限界」を二点挙げている。一点目は、「運動主体の問題」だという。つまり運動主体は、「現在では三分の二をしめるサービス業労働者を含む」労働者階級の中で、「労働者下層とアンダークラス=非正規雇用労働者以外ではない」としている。更に第二点目として、これらの運動が「"脱指導部"の色彩を強く持っている」が、「何らかの中心="指導部"が必要なことは明らかである」という。そしてその現実的な例として韓国における「みんなで民主党」、欧州での「ポデモス」「左翼党」が挙げられている。これらのことから、新開さんは結論的に「"工作者"の連合」から始めるべきだと言う。
では現在台頭している右派ポピュリズム運動と我々がいかに分岐していくかという課題をこれらの分析によって解決することができるだろうか。実のところ、この課題に応えるための最重要問題は新開さんもいうように、「"現代におけるプロレタリアート"とは誰か」ということ、そこにおける応答にあるように思える。つまり、これまでの従来型の古典的マルクス主義的な理論によれば、労働者階級を工場労働者を中心に位置付けてきたはずである。これは集団としての労働者群としての工場労働者がその生産過程を管理し、自らの組織性を発揮できるからであり、未来社会の主人公だとされていた。第二インターにおけるドイツ社民党が依拠した労働者観が典型的であったが、これらの理論が一国主義的な排外主義に汚染されたことで第一次世界大戦下における腐敗した労働組合官僚に屈服し祖国防衛へと結果してしまったのであった。このことから見て、組織労働者がそれ自体が革命主体だということにはならないことが明らかになり、ロシア革命を端緒とする評議会(ソヴィエト)運動が勃興してきたのであった。これらの歴史的教訓から今日の労働者階級を分析するならば、「労働者下層とアンダークラス」が「現代のプロレタリアート」だとする仮定は、現代のサービス労働者、あるいは非正規労働の置かれている労働現場の組織性を問題としなければならないのではないか、ということになるだろう。「限界」とされているのは、まさにこのことである*1。
この論点を分析するには少なくとも二つの点が重要である。第一点は、「現代のプロレタリアート」の組織性はどこにあるのか。第二点は、「現代のプロレタリアート」が排外主義と闘うには何が必要か。
第一点目の問題は、周知のように現代のサービス労働者は一方で「感情労働」とも称されるように、対顧客とのコミュニケーション能力が問われる職種であり、労働者間の相互関係が希薄でストレスフルな職種であるとされる。また、「非正規労働者」はその名の通り継続的雇用環境にないことが多く、職場労働者間の連帯が望みにくいことが言われている。つまり組織的行動になじまない労働者であることは明らかだ。その彼ら彼女らがこの間の自然発生性に触発されて街頭へと現れているとするなら、それはどのような契機で、どのようにして、あるいはどのような意識性を持って現れているのか、が問われる。この疑問に対して、よく言われているのが、ソーシャルネットワークによる結合である。そして、もしそれが正しいとするなら、彼ら彼女らの意識性は職場連帯行動の結果ではなく、ソーシャルネットワークを通じた一般的世論や個別ネットワークからの意識性だということになり、明らかに社会的、文化的なイデオロギーが直接彼ら彼女らを動かしているということになる。だとすると、これは古典的マルクス主義ではなく、グラムシの言う「倫理的、道徳的ヘゲモニー闘争」が重要だと言うことになるが、しかしこのことは旧来型の先進的インテリゲンチャによる世論形成能力が喪失している現代においてどれほど有効であるのかが問われる。
第二点目の問題は、新開さんが取り上げている運動以外のイギリスのEU離脱運動や独仏で起こっている右派ポピュリズム運動においても当てはまる問題でもあるが、排外主義的な自然発生性を阻止したり、分岐したりするためには運動の国際主義的連帯が問われることになる。このことについては論考では全く問われていないのは残念だが、おそらく最も困難な課題であることは確かである。このことを考える上で示唆的なものといえば、ポデモスやギリシャ左派政権あるいは最近のDiEM25などが提起しているEU的連帯構造の一部を共有するという考えである。また右派的なドイツAfDにおいても共通通貨の廃止は求めるもののEUそのものを否定していないように一定の根拠はある。その意味では、現在のポピュリズム的政治運動やその自然発生性をかつての30年代的ファッショと同一視することはどこまで可能なのかが問われる。その点において、新開さんが批判する「反緊縮」運動の欧州における展開が新ケインズ主義的な一国主義へと集約されるという可能性については注視する必要があるだろう。「時代錯誤の現代版カウツキー主義」などと撫で斬らないで丁寧な分析が必要となる。そしてその上で、EUナショナリズムというものがあるとしても、それは個別国民国家の抱える不均等発展と矛盾を解決することにはならないことも明らかである。ケインズの言う「世界中央銀行」構想はEU内ではすでに実現していることからして、問題がケインズが構想した時代とは本質的に異なる世界として立ち現れているということを見なければならないではないだろうか。*2
2.民衆反乱の変質
新たなサイクル論とはいささか趣を異にする論考も出始めている。それは本年初頭に発表された小倉利丸さんの『反資本主義の再定義--台頭するグローバル極右を見据えて』と題する論評である。ここではこの間の自然発生性をかなり悲観的に捉えられている。
アラブの春、ウォールストリートのオキュパイ運動、ギリシアの反ネオリベラリズム運動などは、注目されたが、その運動の帰結を「勝利」と呼んでいいのかどうか。世俗的独裁に抵抗する宗教原理主義がアラブの春のなかにはあった。金融資本への異議申し立てのなかには、ユダヤ人差別による陰謀史観による排斥感情が見られた。ギリシアのシリザは政権を右派との連立として獲得した。そしてウクライナのマイダンの運動はよりはっきりとナオナチに連なる勢力が運動を主導したし、英国のブレクジットもまた極右が世論を主導した。
小倉さんは、更にラテンアメリカにおけるサパティスタ運動や世界社会フォーラムにも言及しながら、それらが広がりを失ったり、限界に突き当たったりしていることも指摘している。そして、問題となっている極右の運動の持っている世界観の分析へと進み、二つの事例を紹介している。
一つはトランプ政権成立の立役者の一人、スティーブ・バノンのケースである。バノンの世界観は小倉さんによると、「単純なアメリカ・ナショナリズムではない。もっと厄介なものだ。」という。「彼はカトリック内の宗教改革やキリスト教神秘主義、東洋の形而上学、禅などに関心を持つが、最も大きな影響を受けたのが、20世紀初頭のフランスの伝統主義哲学者でカトリックからイスラム神秘主義者になった、ルネ・ゲノンだ」としてかなりのオカルト的人物として描いている。
もう一つの事例は、アラン・ド・ベノワのケースである。彼はフランスの極右のイデオローグであり、「新右翼」を標榜しているとのことであるが、その論議の一部が紹介されているところを見ると驚かされる。彼は、現在の直面している危機を《資本主義システムの危機、自由主義グローバリゼーションの危機、アメリカのヘゲモニーの危機である》と言い、新自由主義を批判し、市場均衡論を批判し、ブルジョワ経済学を批判する。伝統的世界観への回帰を提唱するにさいして明らかに左派の理論を換用している。
これら二つの事例に示されるように、現在の右派ポピュリズムは一筋縄ではいかない、曲者であると捉え、他方でそれに対峙する左派は有効な理論を提起できていないとする。左派は「極右に対抗できるだけの未来への展望を支える理念を構築できているのかどうか」が問われているとし、「狭義の意味での経済的な資本主義批判だけでは明らかに弱い。」と言う。極右はその弱い環を突いていると言うのだ。
小倉さんの現状への批判的眼差しにおいては敬意を払いつつも、我々にとって現状がより複雑になっていること、より複合的な様相を帯びていることを下部構造の分析を抜きにして語ることで、ある種の危機論となってしまっているのではないかと危惧する。確かに極右の台頭に対して左派が有効な反撃を打てていないということは事実であり、求められているものは同じであると思うが、左派の批判が貧困、抑圧、平等をのみ課題として論議しているのではなく、これまでも幾度となく述べたように、このような結果を生み出す資本主義の構造そのものへの批判として提起してきたことを忘れることはできない。しかし、にも関わらずそれらの批判は社会運動の形を成していないことが問題であり、なぜそうなっているのかを問わなければならないだろう。
3.資本主義批判=反資本主義の再定義
次に問題となるのは、新たに始まった「諸列強による再分割」という下部構造論の問題、あるいは広義の意味での「経済的な資本主義批判」である。新開さんによれば、現在の資本主義列強の再分割はかつての戦後期の新植民地主義的なそれではもはやないという。この新たな様相を示しつつある列強の分割戦争をどのように捉えればいいのだろうか。小倉さんは現在の資本主義を二つのサブシステムとして捉え、国家による権力の自己増殖システム、あるいは国家の権威主義的な権力効果を重視している。小倉さんのこの国家論は従来の考えに従えば上部構造なのだが、あえてこれをシステムと呼んでいるところに独自の視点がある。
「資本による市場経済的な価値増殖のシステム」を批判するには、現代の資本主義とりわけ今日の自然発生性を生み出しているグローバリゼーションの姿を的確に捉えなければならない。先にも言ったように、今日の労働者階級の現状はかつての帝国主義時代とは様相を異にしており、それは資本主義がある種の変化を遂げつつあるということでもある。確かに貧困や抑圧という意味では資本主義は一貫してそれらを生み出しつつ増殖しているのだが、そのありようは大きな変貌を遂げているし、それに対峙するための主体もまた変化している。このことをいかに捉えるかが一つのポイントになるだろう。
小倉さんは従来の資本主義批判が「労働者にもたらす深刻な経済的な抑圧という側面に限定されている」として、暗に批判の領域を拡大することを示唆している。また、マルクスの資本主義批判に対しては、国家論の領域で「国家が果す権威主義的な権力効果を過少評価」していたとし、プロ独下における「政治的な平等問題」に解答できていないという。これは古典的マルクス主義への批判としては従来からも指摘されていた課題ではあるが、これは広義の資本主義批判として論じるよりも史的唯物論の領域として論じるべき課題であるかもしれない。上部構造としての国家(=イデオロギー装置)領域の問題を資本主義のサブシステムと位置付けることで歴史貫通的な国家ではなく、資本主義独自の国家として取り出しているようにも思える。つまり、資本主義時代における国家が独自に発展し、「平等な分配装置であるだけでなく、民衆を統合する装置ともなった」として、従来の国家とは異なったものとなったと規定している。とりわけ20世紀以降の資本主義が「社会を構成する人間そのものを資本主義の意識として直接生産する過程へと転換してきた」として、「その結果が、コミュニケーションを資本と国家が包摂する情報資本主義をもたらした」という。
いささか分かりづらいが、未展開の部分を想像するに、「情報資本主義」という意味は、人間相互の関係性を資本がコントロールするようになったというほどの意味であるようだ。つまり、これまでの産業資本主義時代の「物を対象とする労働」から、情報資本主義時代の「人を対象と」する時代へと変化したということのようだ。「コミュニケーションを介して人々を制御する労働が中心をなす」時代だというのだ。このことの例証として、精神医学や心理学の権力作用*3を挙げて、「人間の非合理的な側面を包摂する」もの、つまり「文化」が資本によって包摂されているという。これまで外にあったものが内に取り込まれたということのようだ。*4
この資本に包摂された文化という規定は、現代の文化と右派が提起する伝統文化という二極対立構造を意識していることから来るものではないだろうか。かつて、ロシア革命初期にあったプロレタリア文化というものが色褪せて、ソヴィエト崩壊以降顧みられなくなったことで、現代文化と伝統文化という二項対立での視野でしか見ていないのではないか。マルクス的な発想で言えば、この包摂されているとされる現代文化のまさにそのただ中にこそ、新たな時代の萌芽が芽生えていると捉えるべきなのではないか。
確かに現代の労働者階級の現状はサービス労働化と非正規雇用によって分断されてはいるものの、新たな自然発生性が未定形なものではあっても現状への抵抗運動として次々と生まれていることからすれば、この抵抗のコミュニケーションの原初形態を伝統文化への郷愁に回収されずに発展させることは十分可能だと思われる。小倉さんが危惧するように、現状の自然発生性は非合理的な世界観に吸収・侵食されていることは一定認めざるを得ないが、このある種のオカルト志向やエセ左派志向は現代資本主義の新たな志向性と同期しているとは考えられない。
マルクスによれば、資本が生き延びる唯一の道は自らの外皮を労働の社会化に適応する以外にはあり得ない。現代資本主義が金融化と情報化へと発展してきたのは、自らの外皮を独自に社会化した結果だと捉えることができる。国家を介した権威主義的な包摂化は資本のグローバル化と国民国家の利害の激突として捉えるべきではないだろうか。極右の排外主義的イデオロギーは、国民国家への回帰以上に何かしら夢のあるビジョンであるのだろうか。日本の安倍政権に見られる靖国路線に何かしらの展望を見ることは可能なのだろうか。復古的なマインドコントロールが可能であるのは閉鎖空間においてだけであり、資本のグローバルネットワークに抗してそれが可能であるとはとても思えない。論点はむしろグローバル化する資本の世界的な構造に対置する新たな社会の構想であろう。
4.過渡期の政治問題
現代世界は個人が原子化し、個々人が自らを神格化している時代である。古典的な意味での工場労働者的結合はもはや過去の遺物となっている。また同時に、社会的運動もまた個別へと集合されて、横断的な連結環としての労働組合や政党は資本主義世界の一プレイヤーとしての役割以上には出ることはできない。そのような時代にあって、新たな社会と資本主義の廃絶を目指す運動はかつての運動、パリコミューンやソヴィエト運動、人民公社や文化革命といった領域ではもはやあり得ないと思われる。確かに、ソ連崩壊によって政治的自由の問題が喫緊の過渡期問題として議論の俎上に登ってきているが、それは近代社会の超克の問題として近代が生み出した商品?貨幣世界を如何に超克するかという問題と同義である。
ソヴィエトが崩壊したことが「社会主義の崩壊」と同義であるというブルジョアジーの側からする喜ばしい見立てを我々は共有してはならない。「20世紀の社会主義」が自由を抑圧し、官僚支配による管理社会を生み出し、ついに資本主義が圧政に苦しむ労働者を解放したとする歴史観はこの解放後30年に際してどのように評価されるべきだろうか。ソヴィエトにおける官僚支配とは何であったのかは今も問われ続けなければならない。社会主義の理念が当初持っていたものと異なったものとなったということは、社会主義が自然発生的なものではなく意識的な工作物である限り意図せざるものを発生させたということの意味を吟味すべきだろう。設計図のどこに誤りがあったのかはこれまで様々に論議されてきたが、最大の問題は小倉さんも言うように、社会主義とは経済的平等を実現させることが主眼であったということである。このことの方法論においては明らかに未知の領域へと踏み込んだことにあるように思われる。すなわち、あの官僚支配とはソヴィエトにおける「計画経済路線」の必然的な帰結であったのではないだろうか。ハイエクが見事に予言したごとく、経済の計画化はそもそもあり得ない計画であり、人間が未来を確定できない以上絶対的不可能の領域だということを見事に示した歴史的偉業でもあったわけである。官僚による人間の管理がいずれ破綻するという偉大な教訓は現代国家にとっても重要な教訓として残されている。*5
そして他方、この30年間資本主義が試みた新たな実験が「新自由主義」であった。そしてその結果、貧困と格差、抑圧と差別の世界が出現したわけである。この危機に対して資本主義が示した方向性とは何だったのか。今新しい資本主義の方向性は資本主義の持つ限界性を示している。一方で情報ネットワークによる大衆社会現象の世界的拡大がある。安価に瞬時に情報が世界を巡るというこれまでにない世界が出現したが、それは資本主義の外皮たる私的所有権の危機でもあるだろう。個人情報であれ、企業情報であれ、全ての情報がネット上に徘徊し、それを奪い合う時代へと突入している。生産と消費がこれまでにない速度で統合されつつある。それらの情報を統括するプラットフォームを独占する企業が富を収奪し、あるいは分配していく。新自由主義の初期には金融資本が先行したが、今や彼らは貨幣そのものの特性の壁に突き当たっている。貨幣の国民国家的壁の前で国家との共存を模索し始めている。代わってプラットフォーム企業が次世代の花形として登場し、今や世界中の製造業ネットワークの上に君臨しつつある。これらは世界を単一の社会へと変貌させようとしているが、それはまた膨大な富の格差を公然と世界に示しつつある。これこそ他方で世界的な隷属社会が生き生きと立ち現れてきていることを示している。
過渡期の自由問題を論じる時に注意を傾けなければならないのは、自由な選択肢はその主体の頭脳の限界を超えることができないということである。資本主義が自由であるのは貧困の自由であり、孤立の自由であるということだ。選択肢は目に見えない檻の中でのそれである。貨幣なしでは何物も得ることはできない。そこには自由はない。戦火を逃れて国境を越える自由もない。しかしヒトはこの檻を見ることができない。それは運命としか映らない。
この目に見えない檻を見えるようにするためには、政治的権力はほとんど無力だ。それは個々の人が繋がり、協同の合意を勝ち取る以外には可能ではない。小倉さんはアナキズムの限界にも言及している。そこで述べられているのは、集団における「統治」である。集団は統治が必要であり、必然的に権力が生まれるとする。権力をうまない統治というものはないのだろうか。もし集団に権力が必然であるとしたら、その権力を最小に極限するための方法はないのだろうか。近代社会は権力の分有という試みをしてきたが、この分散型のシステムはどこまで有効なのか。
他方で検討すべきは、権力の源泉とは何なのかである。権力の源泉は現在では法と情報と富であろう。これらは現在どこまで分散化できるか、そして決定過程をどれだけ透明にできるかが問われるだろう。小倉さんは市場経済が持つ資源配分機能と貨幣の匿名性を、否定的ではありつつも評価している。これは、実は貨幣という情報財を市場機能によって調整するという「市場社会主義」的発想に近づいていくことになる。この構想は、おそらく迂回的には可能かもしれないが、資本主義的アナキズムとはどう違うのかを明らかにしていかねばならない。少なくともアナキズムという限り国家を前提にしていない以上、規制者としての何らかのルールが必要となり、このルールは常に外部を持つ以上、ルール外の世界が想定されるはずであり、必然的にリヴァイアサンを生み出すことになるのではないか。
故に、市場社会主義には何らかの法規範と透明性と経済的な一定の平等を担保しうる枠組みが必要となるはずである。このことの「意識的な制度設計」*6こそ求められているものではないのだろうか。富の独占と国家権力の独占を解除するための制度設計がいかにあるべきかはこれからの課題ではあるだろうが、いかに困難であろうともこのことを抜きに次の時代を準備することは不可能であるように思われる、
5.工作者、文化、言語
新開さんが提起されている「工作者の連合」と小倉さんが提起されている「文化?言語」の問題はかけ離れているようで、意外とそうではないだろう。党や労働組合が色あせ、1970年代以降現れた「新しい社会運動」が限界に突き当たっている以上、横断的なネットワークが必要であることは論を待たない。しかし、この繋がりをいかに実現するかは、従来の発想からは出てこない。生産労働の社会化が集合的な密集形態ではなく、個別的で分散的な形態の下にあるという、とりわけ先進国大衆社会での特徴は多様なメディアミックスによるイデオロギー構造によって支えられている。かつての知識人によるイデオローグの登場はもはや過去の遺物であり、今起こりつつあるのは膨大なネットワークの内部にある集合的なカオスではないか。そこで起こりつつあることが左派であれ右派であれ非常に不安定な原初的な自然発生性であることは間違いない。そしてこのことを我々は恐れてはならないだろう。そこにこそ次の時代を準備する何者かが潜在していることは確かなのであるから。
小倉さんが「黄色いベスト」運動の網羅的なスローガンを紹介している事例を見ても、それは明らかに混沌としか言いようがない。しかしここに共通するものは多くの抑圧された者たちの叫びでもあることは確かである。組織的でないことを、意図して組織するという巧妙な構図もまた非常に示唆的である。このことは立ち現れている抵抗運動の個別性と分散性を否定的ではなく肯定的に捉えようとする現れであり、従来の「計画性」という呪縛から逃れるための一つの有効な方法論である。しかしそれは今の所、それをメタレベルで描きうる構図が資本主義的な物象化によって限界づけられていることも留意しておかねばならない。言語がその意味で課題だというのは、コミュニケーションが資本に絡め取られるということばかりではなく、商品?貨幣世界の持つ呪縛からは直接的には逃れられないという、これまで一度も途切れたことのない資本主義世界の強固な構造があるのを忘れてはならない。
21世紀の資本主義が今日ネットワークを張り巡らせて実現したのは、情報(資本)の瞬時の移動ばかりではなく、前資本主義的なものを駆逐し、情報へのアクセスを安価にし、統合する機能をますます企業に集中させる役割を果たしている。官僚主義的な統治理念、中央集権的な意思決定機構そのものがますます陳腐なものと化しつつある。それは社会運動のアナキズム的な傾向性が評価され、再生されてきていることと関係があるだろう。AIが人間の意思決定よりも優れているという場面が増え、アルゴリズムによる意思決定が評価され、クラウドによる分散型事業形態がもてはやされることとそれらの傾向性は擬似アナキズム的イデオロギーと親和性があると言えるだろう。
しかし、アンダークラスの生活世界におけるSNS的連帯は国家の権威主義的包摂によってどれだけ可能なのだろうか。ネットの無秩序的な拡大を国家管理の下に統制するという物理的な規制ばかりではなく、法と文化によるイデオロギー的抑圧装置そのものが如何なる理念の下で有効なのだろうか。現在のネットワークによる個人の力能の拡大は特権的知識人階級をお払い箱に追いやったものの、他方で膨大な情報の蓄積が瞬時に安価に手に入れることができる世界が誰もが自らのイデオロギーを発信する可能性の世界を生み出している。このような世界は極めて不安定であることは確かであり、かつてソヴェトの崩壊を促進させた情報公開と同様の現象が資本主義国家において立ち現れないとは言えないだろう。国家が権威主義的傾向を世界的規模で強めているという現象は世界的規模で膨れ上がっているネットワークへの国家の反応であると考えることもできる。国民国家内部の自由と民主主義がやすやすと国家の壁を通り抜け、それを防衛する国民国家の様々な試みがますますそれを増大させるという循環の中で立ち現れている矛盾を表現するものが権威という形をとっている。欧米ジャーナリズムが中国共産党の支配を権威主義と批判することが自らの帝国の有様と重なって見えるのはそのためである。彼らは同じ脅威に対し同じ拒否反応を無自覚のまま演じているのだ。
その世界にとって抵抗する民衆は自らの文化と言語をどれだけ獲得できるか、包摂されずに連帯できる文化をどれだけ作り出せるのかは問われている課題の一つである。支配階級のジレンマは同時に被支配階級のジレンマでもある。グローバリズムへの抵抗運動はSNSを通じて拡散し、ネットワークを通じて繋がるということ自体、情報のグローバリズムに依存しているにも関わらず、その内実がグローバリズムを否定するという運動のもつ相反する構造は現代革命の最大の課題でもあるだろう。このことを極右が伝統主義とカルト文化として対峙するなら、左派は世界革命をもって対峙するだろう。権威主義も伝統主義もカルトも自閉的な空間のイデオロギーであることには違いない。彼らの文化は既存の過去の言語を用いることでしか未来を語ることはできない。左派が語る言語は常に生成される言語でなければならない。そのことを表現しうるものこそ「世界革命」である。それは現代世界の新たな抵抗運動の生成するネットワークとして、党でも労働組合でもなく、見えない工作者の連帯という未来の変革主体であるだろう。個と運動とのつながりを生成する言語によって広げるネットワークが求められている。その意味で、言語は包摂され尽くすことができない未来をもっていることを忘れてはならない。
脚注
* 1
組織された工場労働者という観念は、先進国においては今やロボットとAIによる機械化によって生産過程から駆逐されつつある。この傾向は早晩、世界的な資本主義の拡大によって一般的なものとなるだろう。その意味でも組織された労働者という観念は時代遅れのものとなることは間違いない。
* 2
EUそのものがファッショ的な帝国形態をとるという可能性はゼロではないだろうが、そういった形態の統治理念が現れているという兆候は聞こえてこない。
* 3
これはアドルノ/ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』における道具的理性の問題性に由来するように見える。
* 4
現代資本主義社会が市民社会を解体し、資本のもとで統合されたという視点は近年新自由主義体制の特徴として論じられることが多いが、これは市民社会をどう位置付けるかにもよるものの、資本に対する間違った規定によるものである。
* 5
経済的平等が計画化によっては実現しないという意味は、それが永遠の不可能事だという意味ではない。計画という近代主義的方法によっては実現しないということである。
* 6
ここで言う「制度」とは、ブルジョア的な法概念における制度のことである。アルチュセール『再生産について』参照。