ポピュリズムは妖怪か
斎藤 隆雄
430号(2019年2月)所収
大衆迎合主義が世界中に蔓延している、という。これはここ数年の排外主義的潮流の問題ばかりではなく、左派のポピュリズムもあるという言説に現れているように、多用される分析用語となっている。こういった言説の背後にあるものは何だろうか、考えてみたい。
1.黄色いベスト運動への評価
昨年来からフランスの街頭闘争が話題となっている。燃料税を巡る反対運動の街頭への登場は、リーマン以降の大衆的な街頭闘争とは毛色が違うという論評が聞かれる。ニューヨークのオキュパイ運動やスペインの5M運動とは異なって右派的な色彩が濃いというのだ。
21世紀型の大衆運動は反グローバリズムを掲げた様々な市民運動の集合体によるものとして注目を集めてきていたが、アラブ民主化運動、南欧の反ネオリベ運動、あるいはイギリスのEU離脱運動などと並行して、東欧における反移民運動、ウクライナにおける反ロシア運動、ラテンアメリカにおける左派政権の退潮など既存の運動理論とは異なる錯綜した様相を呈している。これらを大衆運動と一括していいものかどうかも疑わしいが、少なくとも民主主義的手続きを直接的にも間接的にも承認されているという意味では20世紀型の運動とは違って見えることも確かである。
こういった運動の傾向をどう見るかという点で思い浮かべるのが、1920-30年代の欧州における階級闘争であろう。イタリアのファシズム運動が当初労働者階級へ依拠するような様相を示していたし、ムッソリーニ自体が社会主義を標榜していたことも思い出される。また、周知のようにナチズムにおいても急進派は社会主義的傾向を孕んでいたし、日本の急進右派は明らかに社会主義的な色合いを持っていた。ここでいう「社会主義的」というものの実体が何なのかは重要な論点なのだが、ここでは問わない。むしろ、現在の運動の表面的な現れとの相似形に注目していきたい。このような大衆的基盤を持った激動が生まれる背景は、20-30年代においては世界戦争(ロシア革命)と大恐慌という激動であったが、今回は90年代冷戦終結から始まる新自由主義的グローバリズムとリーマンショックであることは疑いを得ない。
かつての激動においてもそうであったが、これらの衝突は古い運動理念と新しい運動理念が錯綜しているものだ。ロシア革命が第二インターの祖国防衛主義に対してレーニンが「戦争を内乱へ」と提起したように、相反する傾向がここかしこに現れるものだ。それは単純な左右の問題でもなく、上下の入れ替えの問題でもない。旧来の運動理論そのものが現実を捉えられなくなる時代が立ち現れてきているということなのだ。そこでは絶対的な正統性はどこにもなく、対立する多様な言説が現れる時代なのだ。革命左派にとって言えることは、ロシア革命と第三インターが欧州革命を巡ってファシズムに敗北したのが、あの激動の分析に失敗したからであり、その後の大西洋憲章主義への屈服が今再度、問われる激動の時代に再会したのだということなのだ。
2.誰が誰と
最近のいくつかの左派的論説の中で見られる問いに、「革命主体とは誰か」というものが目立つようになってきた。つまり、革命の主人公が誰か分からなくなってきているのだ。古典的マルクス主義の見方を踏襲するなら、それは「組織された労働者階級」ということになるのだが、どうやらそれは今や存在しないのではないかという疑義が生まれてきている。いや、そんなことは随分前から分かっていることだよと言われる読者も多いかもしれないが、では新しい主人公は誰なのかということを示すことはできるのだろうか。
サバルタンだとか、マルチチュードだとか様々な規定が飛び交う左派言説にとって、では現在の大衆運動に立ち現れてきている「抗議する」様々な人々とは何者なのかということを示す必要がありそうである。そこには、トランプ政権を支えているアメリカのラストベルトのプアホワイトたちも、東欧での反移民排外主義に賛意を示す人々も、そして黄色いベスト運動に参加しているフランスの人々も、あるいは失政続きの安倍政権を支えている日本の人々も含まれている。これらポピュリストと呼ばれる政治主体に集合する人々とは誰なのか、が今問われているのだ。
そこでまず日本を除く先進国内部で起こっている抗議運動の特徴を見てみよう。イギリスの脱EU運動を担った人々と東欧の反移民運動とは激増する移民への拒否反応が共通項として浮かび上がる。フランスやドイツの排外主義右翼の台頭もその傾向の一部だというのは分かりやすい。つまりこれは90年代以降のアメリカの対イラク戦争=対アラブ政策とアラブ民主化運動との結果だという分かりやすい構図がある。しかしもう少し仔細に見ていくと、欧州におけるそれは21世紀のEU統合以降の金融グローバリズムの影響が影を落としている。つまり、アメリカ合衆国の産業空洞化と欧州の新自由主義経済政策の結果が共通した背景にあることが見えてくる。それは先進資本主義のおける資本主義生産関係の変容と密接に関わっているということである。故に、欧米において激動する大衆運動は90年代以降の金融グローバリズムの政治的な結果であるということである*1。であるなら、これらの大衆運動の抗議する対象は、それらの政策を推し進めてきた現在の政治権力である欧米国家権力そのものであると言える。
ところが事態が複雑に見えるのは、トランプがラストベルトの労働者の支持を得ていること、ギリシャがEUから離脱せず、英国が離脱するということ、東欧の右派政権がEUから離脱しないということなど、誰が誰と対立しているのかが分かりづらいからである。これをジャーナリズムは既成勢力、あるいはエスタブリッシュメントなどという言葉で対向者を言い表している。トランプにとってはヒラリーであり、ギリシャにとってはドイツであり、ブレグジット派にとってはロンドン住民であり、ハンガリーオルバン政権にとってはブリュッセルEU官僚である。そして黄色いベスト運動にとってはマクロン政権である。これらの共通項とは何なのか。既成勢力とは誰なのか、である。
もう結論が出ているが、それは金融グローバリズムを世界中に撒き散らしている人々、あるいはそれによって利益を得ている人々のことである*2。つまり、はっきりしていることは、20-30年代欧州との相違は拡張主義的でない排外主義、帝国主義的傾向を持たない原初的なファシズムであり、更にそこに社会主義的な左派は影も形もないということである。労働者階級主体論のドイツ社民も世界革命論の第三インターも存在しないし、計画経済と福祉国家論のケインズ左派もいない。明らかに古典的尺度では先の見えない、展望のない混迷にしか見えないだろう。
では、他方で日本と新興国を含めた世界では何が進行しているのだろうか。アジアにおける軍事政権あるいはポピュリスト政権は金融グローバリズムによって経済成長を遂げ、金融危機によって痛手を負い、国際的サプライチェーンによって固有の国家的アイデンティティを喪失しつつある。米中両帝国主義の狭間にあって生き残る術を模索する中で、反グローバリズム運動は生まれず、むしろ民主化闘争が中心的な政治課題として表面化している。香港、台湾、韓国での民主化闘争は「自由と平等」を掲げる大西洋憲章理念の枠内にとどまっており、排外主義的要素は日本においてのみ顕著である。日本の立ち位置は、民主化闘争と排外主義とがせめぎ合う結節点であるという特異な様相を呈している。これは敗戦帝国主義であり、アジアで過去に盟主を気取った国家である日本の必然的な帰結であるだろうが、同時にこれは欧州における敵対構造と新興国における敵対構造との重なる地点でもあると言えよう。
いずれにしても、これらの構図に中に革命左派は登場しない。対立の極を担っていない。ここに実は展望のない世界の所以がある。かつてファシズムが革命派を弾圧し、帝国主義的拡張路線を進みえたのは、資本主義のケインズ的脱皮としての国家資本主義という選択肢があったからだ。それは左派の計画経済路線という共通の選択肢が存在したことで成立していた。それは同時に、再度の帝国主義間戦争を生み出す原因ともなったが、ブルジョアジーとの戦争はすでにその時点で終わっていた。しかし、今これらの拡張的戦争路線はブルジョアにとっても、排外主義者にとってもリスクが高いものとなっている。次の選択肢がないということの中で、敵対するもの同士の行き詰まりに大衆動乱の混迷が見えてくる。
3.反グローバリズムの帰結
既に何度も言及してきたが、再度確認しよう。安倍政権の困難は彼の排外主義、オカルト的靖国路線と先進的産業路線、金融グローバリズム、そして今や積極的移民政策という相矛盾する方向の寄木細工にあった。とりわけ現在はそれらの分裂気味のヴィジョンをこれまで支えてきた官僚的合理性も失効しつつあり、看板はどうあれ、実態は迷走している。この迷走は、反グローバリズムを掲げる大衆運動が帰着する一つの教訓を与えつつある。反グローバリズム運動と反移民運動は結果的に人・モノ・金の国境管理の強化を要求するという意味では国民国家の復権であって、金融グローバリズムを支えている国際的な情報ネットワークへの反旗でもある。ということは、他方でこの国民国家の復権は旧IMF体制下の50年代的回帰あるいは郷愁ということでもある。かの時代を支えていた「新植民地主義」の時代への回帰は、勃興しつつある新興国の利害と真正面から衝突する。それは、自由無差別な貿易体制に固執する中国の周政権の許容するところではない。つまり、G7は「一帯一路」路線を放置するというありそうもない選択を強いられるということになる。*3
反グローバリズム運動なり排外主義路線なりが行き着く先は、G7の先進国革命が一斉に起こるという想定−関税障壁を一斉に構築して国民国家に引き込もる−以外には成立する構想ではないということになるし、またそれが可能であるという想定においても、現代を支えている社会―技術―文化の全面的な廃棄を強いられることになるだろう。一国資本主義路線という現在の運動の帰結は、ある意味で同時多発的に起こっている運動の国際主義的連携の欠如を物語っているとも言える。故に、問題はこの運動の国際連帯を阻害している一国主義、排外主義といかに闘うかということに尽きるように思われるが、それを実現するために欠けている部分が何なのかがまだ見つかっていない。
ヒントはどこにあるか。それは革命左派の未だ提起できていない世界革命論と次に時代を担う主体の立ち上がりにある。そしてそれは、反グローバリズム運動が夢想している50年代的回帰という原ケインズ主義的国際主義*4の限界を突破する構想でもある。今日の大衆運動が排外主義的な傾向を生み出している根源を探ることによって、それは見えてくる。すなわち、現在の大衆運動が東アジアにおいて勃興する新しい民主主義闘争を闘う主体とアラブの自由化を求める大衆的主体においては排外主義に汚染されていないということに注目する必要がある。彼ら彼女らがこれらの大衆運動において用いた連帯の契機の一つに通信手段の驚異的な普及があったことは周知であろう。これらの運動の背後にある下部構造は金融グローバリズムを支えた構造と同じものを共有している。このことは注目に値する。確かに、これらの運動には伝統主義的な懐古主義が介在する可能性がないとは言えないが、少なくとも依拠する活動の構造の中には金融・電子空間が潜んでいることを忘れてはならない。この下部構造の内部で起きつつある新しい理念が排外主義を駆逐する契機が潜んでいると考えられる。
最もありそうな運動のリスクは、これらの排外主義的ポピュリズム運動が政治権力を掌握した場合に起こるだろう超管理社会の方だろう。排外主義の人種主義的傾向やパターナリズムが電子的管理技術と結合した時の危険性は、現在のトランプ政権の未来を予想させるものがある。あるいは日本の安倍政権のダークサイトはこの危険性を孕んでいる*5。
改めていうまでもないが、我々は実は現実をまだ十分に理解できていないかもしれない。既に新しい何かが生まれつつあるかもしれない。それを見ようとしない者にはそれはないのと同じだということだ。新しいものを見つけ出すためには、新しい眼が必要である。激動と衝突の時代には必ず何かが見えないところで起こっている。それを見つけ出すことが革命左派には求められている。未来を準備するために。
脚注
* 1
G7と称される国々の外交・戦争路線と金融グローバリズムの関係については、帝国主義一般の規定以外に冷戦崩壊以降の国際的なヘゲモニーの変容があるだろうが、金融グローバリズムとの直接的な関連よりむしろ資源外交と中東政治への介入という米国ネオコン(単独行動主義)との関連が取りざたされることが多い。今一度これらは検討に値する。
* 2
新自由主義政策を標榜する主流派を社会民主主義潮流と規定する向きもあるが、それは新ケインズ主義潮流への誤った規定に基づくものであって、賛同しえない。改めて論議する必要がある領域ではある。
* 3
逆に、全面的対立という選択肢もあるが、シリアからの撤退に示されるトランプの戦略からはそれはありそうもない。
* 4
ケインズの構想した世界は、国家間の資本の流動性を制御することにあった。とりわけ短期資本の国境を越えた移動を制限することが、国家間の不均等発展を制御すると考えらえれていた。
* 5
移民・難民流入による労働市場の競争戦と市民社会への介入が、排外主義的管理社会へと移行するという経緯を振り返るなら、東欧ロシアにおける民主化闘争が辿った歴史の再検証が求められるかもしれない。