アベクロイズムの新たな混迷(1)リフレ派を巡る問題
斎藤 隆雄
419号(2017年9月)所収
景気循環局面の好況が昨年来から芽生え始めてきた。失業率の低下とパート労働者賃金の上昇がそれを暗示している。しかし、連合の高度プロフェッショナル政策を巡る政権との密約が労働組合本部へのデモンストレーションによって葬り去られるという労働貴族たちの無様な醜態が示されているように、アベクロイズムの必死の階級攻勢が内政外交局面で目立ち始めている。文科省を巡る利権政治の一端がほころびを見せる中で、政権支持率の下落への対応というばかりではなく、次なる彼らのステップに向けた新たな攻勢として捉える必要があるだろう。
1.21世紀二度目の好況局面は何をもたらすか
周知のように02年から07年かけての1回目の好況局面は、言わずと知れた小泉政権下で労働者階級は徹底的に痛めつけられた。実質賃金の下落と失業率の高止まりが大企業を中心とした巨額の金融資産との対比で人々をイラつかせた。派遣村に象徴されるように階級格差が日に日に拡大して階級闘争が激化して行ったことは記憶に新しい。しかし、その政治的動揺が民主党政権となって裏切られると展望を失った没落せる中産階級のファシズム的傾向が顕著になったのも絵に描いたような展開であった。
13年以降の第二次アベ政権における日銀クロダとの二人三脚は、ファッショ的雰囲気の中で、靖国派とリフレ政策というとんでもない組み合わせの中で、ブルジョアジーの最後の期待を背負って登場したが、デフレ脱却も賃上げも実現しないまま現在に至っている。一方、リーマンショック以降の日本経済はほとんどその様相を変えず、低迷する民間投資と大企業を中心とした海外収益の肥大化で巨額の利益保留を抱えたまま、ついに少子高齢化局面に突き当たった労働市場における逼迫という、予想されたとはいえどん詰まりの「好況」を迎えている。
振り返ってみれば、日銀の「異次元緩和」がもたらした膨大な貨幣はそのほとんどが預け金の形で日銀に眠ったままであったし、市中銀行の貸出も低迷したままであったが、大企業の海外からの収益は金融資産となって相変わらず金融市場において跋扈しており、企業のわずかばかりの投資においても多くが東京を中心とした不動産へと注ぎ込まれ、ミニバブル的な様相さえ窺われる。アベクロ政策がことごとく失敗しているにもかかわらず、景気循環局面で労働市場が逼迫しているのはなぜだろうか。このことの解明が、次の政治局面を占う上できわめて重要だということは理解できよう。
2.1300兆円を超える国家債務と財政政策
事態を理解する上で復習しておく必要がある。今日の日本の置かれている経済政治局面は一筋縄ではいかない事態なのだ。分かったような振りをする輩ほど信用がおけない。事態を複雑にしている問題は四半世紀前のバブル崩壊から始まっている。あのバブル期の想像を絶する地価の高騰と急降下は、貨幣で表された価値の意味について多くの人々を混乱させ疑念を抱かせたはずである。あの価値はどこへ消えたのか、と。80年代の新自由主義経済の経過と帰結をここでは語らないが、あの不動産へ投じられた債務は、実は消えてなどいなかったのである。
随分と以前に本誌において私が取り上げたことがある、リチャード・クー氏の分析は「失われた10年」が「バランスシート不況」であると指摘していた。つまり10年間、家計も企業も借金の返済をし続けていたということである。では、誰に返済したのか?
債務とは、誰かの借金だが同時に誰かの資産でもある。債務が正常に返済されるには債務が資産となって返ってこなければならない。しかし、周知のように90年代以降日本経済の成長率は止まったままである。否、むしろ巨額の公共投資をつぎ込んだにもかかわらずということを考え合わせれば、日本経済はその富と成長という資本主義の本来の姿さえ失ったと言っていいだろう。だからこそ、「資本主義の終焉」とまで世のエコノミストが騒ぎ出す事態となったのである。
確かにあの債務は大方民間部門では清算されたが、それは単に付け替えられただけである。言わずと知れた巨額の国家債務である。現在1300兆円にまで膨れ上がった国家債務は、あのリーマンショック以降の米欧の巨額債務をさえ上回り、GDPの2.4倍にまでとなっている。誰もがこの巨大債務を返済できるとは考えていない。均衡財政予算だの、増税だのといったことではもはや何とかできるレベルではなくなっている。従来から政府日銀が一体となってデフレ脱却を画策し、「成長!成長!」と叫んできたのは、インフレによる名目成長率の上昇とその結果としての価格で表した富の増大による債務の解消がこの四半世紀のブルジョアジーにとっての喫緊の国民経済上の課題だったからである。しかし、もはやそれは絶望的な彼岸となってしまった。日銀クロダが今やり始めていることは、この巨額債務を日銀が買い入れるというリーマン以降の先進国中銀がやり始めた不良債権の買い上げ政策と同じことを「異次元」の規模でやり続けているということなのである。このことの帰結は、既に昨年本誌で述べたように、財政ファイナンスしか選択肢が残されていないということなのである。
3.一連のアベクロイズムの意味
日本経済のデフォルトが眼前に迫っているにもかかわらず、人々はその由って来る機縁も意味も理解できないまま20年五輪などと浮かれている世情にあって、世界中のエコノミストは日本経済をいわば資本主義終焉の実験場として眺めている兆候がある。
リーマンショック時にイギリスの金融庁のトップであったアデア・ターナーが近著で、巨額債務を解消するには財政ファイナンスしかないと言った上で次のように指摘している。
「もう一つの可能性として、公的債務を正式にはマネタイズしないが、(1)満期が到来した国債を常に新たな国債発行で置き換え、公的債務のGDP比は上昇を続け、かつ(2)公的債務の金利が下がり続け、着実にゼロに近づくことで、公的債務の利払いが常に可能であるように見える、というシナリオが考えられる。こうした状況では、公的債務の上限はないように見える。実際のところ、恒久的に金利のつかない債務は、本質的には通貨と変わらない。このため、債務が半永久的にロールオーバーされる可能性が高く、その金利が低くなればなるほど、債務とマネタリーファイナンスの違いは重要ではなくなる。日本の現在の経験は、この違いの限界を試していると言える。」(『債務、さもなくば悪魔』2016年p.204の注20)
少なくとも、FRBやECBは本年中に膨れ上がった債務の返済を模索し始めたが、日銀にとってはそのような返済スケジュールは全く絶望的なのである。ターナーが言うように、「見える」ということが唯一の命綱なのであり、日銀のバランスシート上で眠っている国債は永久に塩漬けされたまま、低金利政策を永遠に続けるという選択肢しか残されていない。つまり、一部の国際金融市場で動く数行のメガバンク以外の国内銀行は完全に日銀の政策の下で管理された国有銀行と同じなのである。
このことは国内経済における企業活動が成長も衰退もしないように管理され、唯一日本経済を支えていた巨大多国籍企業が海外で稼ぎ出すことで金融市場を賑わわせるということが、この体制の意味するところなのである。この詐欺手法が健全に「見える」ようにするためには、金融市場での邦銀の「見せ金」がいるし、世界に冠たる日本の健全性を見せるためにも「観光」と「五輪」は必要不可欠な飾り付けなのだと考える方が合点が行くというものである。
もともとデフレが始まったのが02年からだと言われているが、この同じ時期の好況局面でのデフレが何故始まったのかと言えば、90年代以降一向に伸びない国内需要がその原因である。90年代におけるそれが先に言った民間部門の債務返済過程であったが、02年以降のそれはむしろ構造的な需要停滞であると見ていいだろう。これまでも何度も指摘したが、もはや日本国内において新たな投資先は不動産を除いて全く存在しない。そして現在、その不動産投資においても都心における既存の土地開発でしかなく、新たな価値を生み出すことはなく、むしろバブルを発生させ、過剰債務を再生産するしかないのである。従来日本経済を牽引してきた自動車、電機、建設の分野において見られるように、エネルギーシフトによる電気自動車やスマホに代表されるアップル、グーグルといったIT特化型の企業の席巻により日本企業は衰退の兆候を見せ始めている。アベが期待をかける20年五輪による建設需要も一過性でしかないことは誰の目にも明らかであり、活路は軍需産業という有様である。その軍需はこれも周知のように生産財ではない以上、日本経済にとって腐朽化への道を準備するしかないのである。すなわち、「失われた」何とかと言われる日本経済の衰退構造は全く何も変わっておらず、巨額国家債務の肥大化によるデフォルトという時限爆弾を抱えて奈落の底へ驀進していると言っていいのである。
4.当面の我々の政策課題とリフレ派
日銀クロダがリフレ派であることは有名であるが、彼の拠って立つリフレ理論は金融屋の数量説に依拠した特殊な傾向を持っている。元来貨幣数量説はフリードマン一派による理論的枠組みであったが、戦後のドイツ金融マフィアたちのオルトリベラリズムの金融政策でもあった。ワイマールとヒットラーという悪夢から未だ覚め切らないドイツの国是と言ってもいい政策である。この数量説と欧米の銀行屋たちの主流派経済学との混合物がクロダのリフレ理論だと言っていいだろう。貨幣数量と金利操作によって経済を管理するという29年恐慌を総括したハイエク流の伝統を引き継ぐものたちである。故に、彼はアベの構造改革(規制緩和路線)には賛同しても、財政政策には関心を示さないのである。
一方、29年恐慌のもう一つの翼であるケインズ派は言わずと知れた財政政策と有効需要という国家主導型の処方箋を提唱していた。一世紀を経過して、この二つのブルジョアジーの政策は危機に際して結合しつつある。先に引用したターナーもスティグリッツ、クルーグマンもニューケインジアンであり、財政ファイナンスを提唱し始めている。もちろんケインジアンである以上、リフレ派のインフレターゲットがその政策の中心であることは言うまでもない。需給ギャップを解消するための財政出動は現在の日本の巨額国家債務が足枷となり難しいと考えられていたが、財政ファイナンスによりそれが可能になるというのであれば願っても無いことだろう。おそらくそういうブルジョアジーの二つの翼が統合するのも遅くないと思われる。何故なら、現在の日本の政治的な翼はほとんど全く差異がなくなってきているからであるし、そのことの意味は実は日本経済が直面している危機を反映しているからなのである。リフレ派の二つの翼が財政ファイナンス政策によって統合され、日本の政治が体制翼賛となる日も近いと考えていいだろう。
では、我々の当面の闘争方向とはどのようなものであろうか。左派の提唱する闘争局面は労働市場と憲法問題(安全保障問題)へ絞られてきている。エネルギーシフト問題は二つの問題の結果次第で変化しうるだろう。労働規制緩和の攻防は、高プロ政策に見られるように労働時間規制の撤廃にその焦点があり、解雇の金銭解決制度導入という戦後労働法制の根底的な改変がブルジョアジーの目標である。これらの攻勢的な仕掛けは何を意味するのだろうか。左派は従来から戦後労働法規の徹底的遵守により、ブラック企業の排除と残業時間の解消による雇用増大を提起していた。しかし、現在のような好況局面にあって有効求人倍率が1を超えている現状ではこの提案は説得力がない。もちろん最低賃金の上昇や賃上げ要求は消費需要の喚起という意味において無意味ではないだろうが、大企業の御用組合である連合などは同調しないだろう。では、この分野での攻防は単に政権の緩和攻勢への抵抗闘争に終わるのであろうか。積極的政策提案はないのだろうか?
問題は二つある。一つは、直接的労働過程への介入である。現在のドメスティックな企業のほとんどが零細下請けかサービス関連産業であり、労働現場の社会的改革が急務となっている。これは上場大企業とは別個の世界を形成していると言っていい。この分野での陣地戦は既に始まっており、労働組合的闘争とは様相を異にする組織化が求められている。もう一つは、制度改革への介入である。いわゆる戦後労働法制が製造業中心のブルーカラーを対象とした制度であったことの限界が今日目立ち始めており、これへの労働者側からの制度改革案の提起が求められている。労働時間規制については、インターバル制度と残業規制は欠かせないが、労働慣行改革としての非正規労働法制の改革が急務だろう。継ぎ接ぎだらけの労働法制ではなく、労働者主体の企業改革が今求められている。
本稿では安保法制問題については次回にしたいが、最後に今後課題となるであろう財政ファイナンスについて、ターナーの提起する改革案を紹介しておきたい。彼は真性リフレ派であるが、いわゆる貨幣数量説を取らないし、インフレターゲット論に対しても懐疑的であり、主流派経済学とも距離を置いている。俗にヘリコプターマネーと呼ばれる財政ファイナンス政策は彼によれば一回限りの限定的政策であるという。しかしそれによって起こることは有効需要の直接的な喚起であり、デフレからの脱出に有効だとしている。おそらくこれを実施したとしても日本では投資需要が増大するとは考えられない。なぜなら、デフレは単純な金融現象ではなく、経済構造そのものに原因があるからである。
ただターナーの提起の斬新さはそこにあるのではない。先進国全体に堆積している過剰債務の解消に問題意識がある。彼は29年恐慌に際してヘンリー・サイモンズらがルーズベルト大統領に提案していた「シカゴプラン」を評価している。つまり銀行改革である。この分野の改革は金融制度改革であり、その対象となるものは世界金融市場であり、国際通貨市場である。
日本がデフォルトに直面した時に起こりうるのは資本の海外逃避であり、国内経済は急激なインフレと円価格の下落である。この時、市中銀行の全面的国有化と巨大金融機関の分割を実施し、その後100%準備銀行として再編し、通貨を刷新することが求められる。一時的な資本規制と為替管理が必要となるが、この時全面的な不換紙幣の廃止とデジタル通貨システムへの移行が有効だとしている。つまり銀行による貨幣創造を禁止するということである。国有化された市中銀行は後に郵政民営化と同じ手法で株式売却を経て民間に返されるが、その時は資金振替機能しか持たない金融機関となるわけである。貨幣を管理するのは中央銀行だけということとなる。国際金融市場への復帰については金融規制とIMF/BISとの攻防も予想されるが、この改革案の欠点は、資本の配分機能を株式市場に依存しすぎるという問題が残る。
ターナーの提案は過激だが資本主義経済と市場を債務危機から守るという意味では理にかなっている。金融危機を防ぐには流動性を制限することがその要である。瞬時に時価評価できて、売買が成立するような金融資本は制限するか、禁止すべきである。つまり、現在の主流派経済学が前提とする「効率的市場仮説」と「合理的期待仮説」が成立する条件をすべて制限することがおそらく資本主義の次の一歩を準備するためには必要である。消費市場の成熟とデフレ現象が象徴する資本主義の黄昏を過渡として受け継ぐには過剰債務を潰してからでなければならない。それに一番近いのは日本かもしれない。
5.次の第一歩
結果的に財政ファイナンスについて我々が判断する問題ではないということを明らかにしておかなければならない。これはブルジョアジーの問題であり、彼らが墓穴を掘る課題である。これについてあれこれ語ることは敵に塩を送るようなものである。
ここまでの論議は、完全に資本主義段階での改革であり、最小限綱領と言われている領域に入るのだろう。しかし、今日このような最小限最大限と言った物差しが必要であるとは思えない。過渡期綱領と呼ぶ人もいるようだが、現在の資本主義が直面している課題への共産主義からの解答はそれほど確定的であるとは言えない。資本主義をぐずぐずと延命させるのではなく、終着駅へと早く送りだし、次の乗り換え電車を用意しなければならない。昨今、「革命」という言葉が氾濫している時にあって、この手垢にまみれた言葉は使わないでおこう。どうやら「革命」という言葉は先進資本主義国家における長年の矛盾の弥縫策、複雑怪奇となった法と制度の整理というぐらいの意味しかないようである。新興ブルジョアジーや資本主義にしがみつく中産階級の常套句となってしまったこの言葉は、彼らの悲痛な叫びでもあるだろう。エスタブリシュメントを追放せよ!官僚制度をぶっ壊せ!という彼らのスローガンを我々は否定しない。どうぞやってください!しかしそれは君たちがやり終える仕事ではないよと付け加えておこう。