アベクロイズムの謎解き
斎藤 隆雄
413号(2016年11月)所収
黒田日銀のゼロ金利政策と安倍の諸々の言説、中央官僚のいつもながらの利権財政政策といった現在の政治複合体が一見支離滅裂のように見えて、実は国際金融資本体制の崩壊へ向けた一歩を指し示している。しかし、この複合政策を腑分けし、次なる世界を指し示す批判的言説がまだ萌芽的な分散的なものでしかない。とりわけ、日本に於ける左派的言説は彼等の政権をほとんど見間違えていると言っていいだろう。アベクロイズムの謎解きが求められている。
1.長短金利操作付き量的質的金融緩和政策と財政拡大
9月に日銀が示した新たな金融政策は、その長ったらしい名前と裏腹にきわめて単純な構造を示している。つまり、黒田が鳴り物入りで突入した大量の国債購入がもはや限界に近づいただけである。日銀の金融抑圧によって市中銀行が不満を示し始め、市中に出回るはずの貨幣は日銀の当座勘定に堆積するばかりであり、ゼロ金利の恩恵で、淘汰されるはずの企業の生き残りだけが結果し、物価はゼロ近辺で張り付くという現状は破綻に向けた明らかな経路を鮮明にし始めた。唯一の希望の星であった住宅ローン政策とREITでさえ暗雲が立ちこめる中で、黒田はいよいよ本音を吐露し始めている。いわく、日銀は万能ではない、政府の成長政策と構造改革が必要だ、と。
安倍政権は故に無内容な巨額の財政支出を計画せざるを得ず、また「同一労働同一賃金」や各種規制緩和といったできもしない言説を振りまいている。しかし、我々はここで振り返らねばならないのは元来この金融政策と財政政策、構造改革政策というものを事実として分析してきたであろうか。安倍の言説と彼が行った制度改革を見比べてみるとよく理解できるのだが、単なるプロパガンダでしかない構造改革路線と現実的実行としての沖縄基地建設、安保法制という鮮明な非対称が明らかになる。かの政権の使命とカモフラージュとを誰も見抜けていない。
日銀が国債を大量に買い入れ、貨幣を増刷する政策はハイエクやフリードマンが29年恐慌に対するケインズ主義的政策への批判として提起したものであり、新自由主義的政策の延長上に必然的に生まれるものであった。08年リーマンショック以降の世界的金融恐慌への対応を、90年代から低迷していた日本経済への処方箋として適用しようと、実は日本にとっては軽微であった金融恐慌の影響も顧みず強行したのが今日のクロダイズムであって、その結果として今や財政出動というケインズ政策に救いの手を求めているという混乱ぶりである。欧州でのゼロ金利政策や金融緩和政策が新自由主義の盟主たるドイツ中央銀行の反対を押し切って実施されているという事実と見比べるなら、事態がより一層鮮明になるだろう。世界的低成長の先頭を切っている日本経済のこの「失われた25年」は日本資本主義そのものの賞味期限が過ぎているモラトリアムでしかない。なぜなら、政権が使命とする安保法制と財界・連合共同体との日本的資本主義の結果であるからなのだ。普通の精神なら四半世紀もの間ゼロ成長である国民経済が特殊な歴史的構造にはまり込んでいるという認識を持つものであるが、この国の支配階級はこの危機を心地よく過ごしてきたばかりでなく、それが徹底的な労働者抑圧と養成してきたはずの中産階級からの収奪とアジア諸国の成長の果実からの恩恵によって生き延びてきたことを自覚しようとしないのである。
この微温的な死に至る病は少しばかりの外交的奇策や言説的カモフラージュではもはや治癒するはずもないものである。前世紀的弥縫策を以てしては今日の崩壊過程をせき止めることができない。日本的構造とはそれほどに強固なものなのであり、安倍政権そのものがその構造の象徴的な標本なのであるから、自らを否定しない限り彼等に未来はないのである。
2.「同一労働同一賃金」という言説
まず確認しておかなければならないのは、資本はより低い労賃で生産しようとするということはよほどのお人好しでない限り誰でもが知っていることであって、たとえ同一労働であっても異なる賃金(より低い賃金)が可能であれば、それを選択するのが当然である。故に、同じ職場で同じ労働をしている労働者にさえ、格差賃金を平然と支払うのが資本の本性である。
この現実をエコノミストたちは、より低い賃金の労働者はより高い賃金を求めて移動するという市場原理を教科書風に説明するかもしれないが、今ではそのような説明だけで現実を描写したと言える学者は少なくなってきた。労働現場に市場原理が働かないのは、労働者が物ではないからだという説明も一理あるが、それ以上に多くのエコノミストが指摘するのは日本特有の労働市場の硬直性だろう。しばしば指摘されているが終身雇用制という日本独特の労働慣行であり、中途採用市場の未発達がある。だから、これらの慣行を修正し労働力の流動性を高めるために解雇規制を緩和するという中央官僚たちの「アイデア」が随分以前から流布している。この規制緩和は「金銭解雇」という制度として、「ホワイトカラーエグゼンプション」とセットで法案提起されてきた。このアイデアは、欧州でもとりわけ南欧諸国に実施されようとしているから、日本独特の慣行であるという説はかなりいかがわしい。(このような労働市場の「歪み」こそ労働者の生活世界であり、労働力を市場原理に従わせることの無理こそ資本主義の無理を表している)
とは言っても、こういった現実がありそうだという人々の思い込みが存在することも事実である。しかし、現実はこの終身雇用制が機能しているのはほんの一握りの大企業であり、多くの労働者は終身奴隷制の下にいるということを忘れている。更に、90年代以降の非正規雇用の拡大によって若年層や女性労働者を中心に奴隷制でさえない、物件労働者として雇用契約を強いられているのが現実である。だから問題は労働市場の流動性でも、労働慣行でもないわけだが、では何故いま「同一労働同一賃金」などという言説が政治課題にのぼるのだろうか。
安倍が経団連に賃上げの圧力をかけたり、「同一労働同一賃金」などと言い出すのは、日本の労働力が不足し始めたからである。最近の最低賃金の上昇や有効求人倍率の上昇は非正規労働者の賃金を押し上げているが、この事実は日本の人口減少による必然的な結果なのだが、これを安倍は自らの政策の成果として取り込むマジックとして企図している。すなわち、これは言いかえれば「同一非正規労働同一低賃金」と言いかえる必要がある。その上で、解雇規制の撤廃をセットで成し遂げれば経団連への賃上げジェスチャーも資本から評価されるというものだ。自然現象を自らの意志で実現したというマジックは昔から占い師や詐欺師がよく使う手だが、安倍も同類だということだ。
ここで思い起こして欲しいのは、このような成り行きに敏感に反応し自らの政治的功名に利用する手法は1920年代の政治家たちと同じ類型になっているということだ。そこで左派はこれを捉えて戦前回帰と言い、ファシズムというのはいささか早計だ。というのも、20年代における成り行きとは国家計画経済というケインズ=スターリン派の成り行きであったが、現在世界経済はそのようなことを許すほど楽観的な状況ではない。それがクロダの金融政策に示されているようなハイエク的状況に示されている 。すなわち、資本主義の緩慢な死という状況と国家債務拡大、貨幣市場の崩壊という現実である。
このことが分かれば、今民主=民進党の「物から人へ」というアベノミクスへの批判はお門違いということがはっきりする。安倍にとっては、財政政策は物でも人でもどちらでも構わないのである。要は言説だけであるから、より受けのいい方にいつでも鞍替えする用意がある。かつての小泉内閣時のような生粋?の新自由主義(小さな政府政策に拘束された言説)ではなく、中央官僚と右派政治との蜜月による政権維持が主要な関心事なのである。だから、民進の社会民主主義的政策対置はほとんど意味をなさないし、その無効性を安倍は熟知しているが故にいつでも包摂することができるのである。そして、右派的梃子がそこで無意味無根拠に超党派で現れる可能性をますます大きくしているのである。
3.予想されているものの現在的意味
では、アベクロイズムの日本はどのような状況に至るのだろうか。その点を知る上で恰好のコメントが新聞紙上に現れた。元銀行マンの野村邦武氏が現在のクロダ路線の将来像を描いて見せている 。この言説はしばらく前からあちこちで言及されていたものだが、短いコラムで的確にまとめているので紹介しておこう。彼は、まず二つの出口戦略を示す。これはこれまで我々も指摘していたもので、放置すると必ず起こると予想されるものである。
「想定しうる出口戦略のうち(1)デフレ下でも増税を強行し国債償還を急ぐ(2)>超インフレを起こして償還負担を軽くする―という2案は、副作用が深刻で到底採れない。」(日本経済新聞10月13日朝刊27面「日銀保有の国債処理、特別立法で」)
この二つの案は、案ではなく必然的な成り行きである。放置するとこうならざるをえないという意味では、二つは同時に進行するであろうし、階級戦争の激烈な衝突が結果する可能性が大きい。この可能性の世界は日本資本主義の世界帝国構造の位置からして、システム全体の劇的な変革が起こる可能性を秘めている。
しかし、このシナリオを未然に防ぐ方法があると野村氏は提起する。
「そこで異次元の発想で特別立法に基づく二つの案を提起したい。
A案は政府に対し日銀が保有する国債の償還義務を免除し、日銀にはこの国債を新設する国債特別償却見返り勘定に移記させ、損失を計上することなく償却させる。
B案は日銀が保有する国債を、無期限の永久国債に変換し、償却を任意とする。
両案のいずれであれ、実施すれば巨額の国債を誰にも損失をかけずに処分でき、財政再建が一気に進む。」
この二つの案はこれまでヘリマネ政策としてしばしば言及されてきた。これは日銀に積み上がった当座勘定を凍結して、銀行資本と談合して解凍するという完全な国家の民営化を結果する。シュトレークの言うように「市場の民」が国家を掌握するという最終形態である。問題は、永久国債の下で積み上がった日銀口座にある貨幣をどうするかであろう。ゼロ金利の下では永久国債への利払いはたとえ数百兆円であっても、わずかなものである。政府が日銀に支払い、それが政府に還元するという落語のお題に似た様相を呈する。当座勘定にある貨幣への付利をゼロにすれば、それは市中銀行の貨幣倉庫となるしかない。しかし、そのようなことが持続可能だとは誰も思っていない。当然、この堆積した退蔵貨幣は新たな金融商品として利用可能にしなければならない。
政府と日銀と投資銀行の複合体という新しい装いの資本形態が起動するという可能性がそこには見えている。ほとんどないに等しい投資先を探すとなれば、当然それは2%のコストプッシュ(労賃と物価)による幻影に振り回される労働者階級(言い方を変えれば、住民、国家の民)と海外企業買収(とりわけ新興国のそれ)である。アベがただむやみに海外出張している訳ではなく、この下ならしであることは間違いない。彼なりの大東亜共栄圏がTPPであることは見えやすい構図である(元々アメリカのアジア版NATOになる予定であったが)。だが、もっともありそうな未来は銀行への毎年の補助金たる公定歩合による生殺し的延命、即ち忍び寄る衰退ということだろう。いずれにせよ、このようなアベクロイズムの現在的意味を説き明かせば、何が対置できるかが見えてくるであろう。
元々針の穴を通すような可能性に賭けて、方向性の見えない将来像を描いているのがアベクロイズムの実像である。世界経済の一時的凪に託けて描いてみせた幻影はその信奉者を信じ込ませるのに苦労はしないが、その現在的価値はほとんど無に近い。その迷宮に不安を感じているのはこの国の住民たちでは無くブルジョアジーたちである。彼等が巨額の内部留保を手放さないのはこの不安の現れであるが、そのツケを払うのは住民たちである。そしてその漠然とした不安は住民たちの消費行動に端的に表れている。過小消費と過大留保は一種のスパイラルとなって出口なしの日本経済を直撃しているが、これに対するアベクロイズムの処方箋はこの間の選挙行動に表れているようにモラトリアムそのものである。
予想されるものの現在的な意味が無であるとしたら、実現するはずの未来は不安定である。だが、一つだけ確かなことはこの未来は現在の否定であるということ、しがみついていた現在のすべてが否定であること、そしてその現在そのものが資本主義と国家であるということである。これが明らかになるためには、お門違いな左派と右派の言説と行動も一定の歴史的価値があると皮肉抜きで語らなければならないのかもしれない。