現代のアナーキズム(3)
斎藤 隆雄
407号(2016年5月)所収
我々が一世紀前の革命を率いた理念を、今再生するにあたって必要なものは、この百年の間に降り積もった無数の抗体を歴史的に分析することである。現代のアナーキズムが提起するものは、その分析と実践の自然発生的な道具でもある。そこに何が対置されているか、それが何に対して対置されたか、一見そのように見えるものが隠された真実を覆い隠すものであるという古ぼけた啓蒙思想の構造の復権が、現代に蘇らせなければならない。なぜなら、今そういう時代だから。
6.生産力と科学技術について
次の課題は、生産力である。現代のアナーキズムはマルクス主義を「生産力主義」であると批判している。これはエコロジストも同じである。そして、「科学は万能ではない。地球の資源は限りがある。生産力主義は環境破壊を招く。」という批判は、よく耳にする。確かに、従来のマルクスレーニン主義によれば、共産主義社会とは物質文明が最高度に発展した社会を想定している。必要なものは無条件に与えられる社会だと。例え話として、道行く人がのどの渇きを覚え、最寄りの民家に水を求めた時、日本ではコップ一杯の水を与えることに何の躊躇もしないだろう、と。水道の蛇口から水が出るように、あらゆる生産物が出てくる社会が共産主義社会であると譬えられたこともある。* 1
これはただの妄想なのだろうか。ハリウッド製のSF映画ではあるまいし、そんな絵空事を信じてはいけないと言うのは容易い。世界を見渡せば、一杯の水でさえ困難を極めている人々がいるのだという事実も分かりやすい批判だ。しかし、批判は何を生み出しているかを顧みる必要がある。おそらく生産力主義という批判は、資本家たちの「成長理論」と同じレベルで考えられているのではないだろうか。資本の飽くなき拡大志向は最大利潤を求める資本の本性である。彼らにはそれを止める必然性がない。なぜなら、拡大を止めるということは資本にとっては死を意味するからである。市場に於ける競争は、最大利潤を求め市場を独占するということ以外にはないからである。適度な利潤などというものは、競争からの脱落を意味している。問題はだから成長理論ではなく、ましてや環境収奪でもない。特別な成長理論があるわけではなく、資本そのものが成長を欲しているのだ。
むしろ「生産力」への批判が意図せずにではあるものの、それが生み出しているものは科学技術批判のことである。資源収奪型の生産技術や環境破壊型の技術は、どのような社会にあっても生まれてくる。それらを如何に制御するのかが問われなければならないのであって、それを市場に委ねてはならないということである。これを単なる「事前規制主義」だと捉えてはならない。新自由主義者たちはこれらの破壊的技術を市場に委ね、社会と折り合わなくなると「事後に規制する」ことを主張している。これは核兵器で世界が滅亡してから考えようというのと同じであることに気がつかない。つまり、人間は一定の地球的環境の中で生存できる「生物」であるということを理解できない理論に導かれている人々の考えである* 2。
共産主義思想に於ける生産力を巡るアナーキストからの批判は、計画経済派の実態的な失敗(主要にはソ連に於ける核汚染、中国に於ける環境破壊)を念頭に置いていることは想像に難くない* 3。確かに、資本主義の勃興期にロンドンが霧の都(スモッグの都)と呼ばれたことがあることを我々は知っている。それぞれの時代に、資本主義が離陸する時には必ず破壊的な環境破壊が起こる。だから封建的生産力の牧歌時代からの離脱は犯罪的だ、資本主義的原始蓄積期はいらないと言うことは容易いが、鉄鋼と電気の時代を経ずしてどのような社会を打ち立てようというのだろうか。ほとんど説得力のない、誰も望んでいない社会を掲げて革命が起きると考える程我々はお人好しではない。(しかし、後発資本主義経済の原始蓄積期が今日、不可避に環境破壊を生むと考えるのではない。計画経済派の経済建設理論がそのことに無自覚であったことは事実で有り、また現在それを教訓化することは可能でもあるが、同時にそれは世界共産主義革命を前提としてしか実現しないとしか現段階ではいえない。)
問題はだから、ここでもまた科学技術の批判的な人間的な規制理論である。おそらくアナーキストはこれを倫理問題へと置き換えるだろうが、これは倫理ではなく、科学技術論争である。科学技術は資本主義がもたらした一種の信仰であり、現代の資本の最後の砦である。これを我々が手なずけることが求められているのであって、生産力を批判することでも、牧歌時代へ逆行することでもないということを確認すべきである。
そしてその上で、科学技術が資本主義と如何に相携えて発展してきたかを思い起こすことが必要になる。科学と科学技術とは本質的な違いがある。このことを歴史的に、露わに、具体的に暴露した社会が日本であるという指摘を、山本義隆が近著で詳しく述べている* 4。文科省が大学から人文科学系のカリキュラムを追放しようとしているのも、この好個の例と言えるであろう。資本家たちは口を揃えて技術革新が必要であると唱和し、現在のデフレを克服するには欠かせないのだと宣う。しかし彼等が科学を極めようとしているのではないことは誰でも分かる。要はこれまでにない「売れる」商品を作りたい、そのことによって特別な利潤を得たいというだけであり、それが技術革新によって生まれると知っているからである。新たな生産方式、新たな商品が新たな消費を生み出し、経済が成長し拡大するという意味に於いて、それは生産力主義であり、成長論である訳である。そしてその中に、これらの考えが善であり、人々の生活を豊かにする希望の理念であるという潜在的な隠されたイデオロギーがあることを見抜く必要がある。否、それらは既に分かっている事であるにも関わらず、人々はこの信仰を捨てることができないというのが現実であろう。そのことがはっきりと現れるのが、軍事技術と民生技術という恣意的な区分けである。どちらも科学技術の発展に欠かせない社会的な側面であるが、軍事と民生とを分けることができないことは、軍事技術の民生転用や逆の転用が不断に行われている例に事欠かないからである。
つまり、科学技術や技術革新は人々の生活を豊かにも、貧しくにもする。それはその技術によるという当たり前の前提が忘れられているからである。そして、だからこそ本論で云う経済成長も人々を豊かにする場合と、貧しくする場合とがあり、それは成長のみが何かしら善であるということでは全くないし、むしろ「経済成長」が人々に及ぼす影響を精査することが必要であり、「成長」を善とする人たちは、そのことで何かしら階級的利害を表明しているのだという人文科学的分析が要請されるのであると、少なくとも言えるのである。
マルクス主義が生産力主義であるという批判は、マルクスが歴史的な資本主義的な生産様式の分析を行う中で用いた、今そこにある資本主義社会のイデオロギーから出発したという科学的手法を、そのまさに彼の批判精神を抜き取り、19世紀末から始まった第二次産業革命に接ぎ木したものを対象としている。社会主義を国有化政策と混同し、国家が主導する産業政策を社会主義と規定する、20世紀初頭のねじれ現象が今日の共産主義を巡る理論論争に不幸な影を落としている。このことについては、別途分析が必要であるが、明らかにそれは当時の政治状況と密接に関わっており、単なる技術論争でも、経済理論論争でもなく、政治・経済・社会・科学を巡る分析が求められる。
先に現代のアナーキズムが20世紀初頭から80年代に至る過程で、譬えて云えば冬眠していたと云ったのは、このことと密接に関係している。20世紀初頭のマルクス主義への批判は計画経済批判であった。ハイエク等の古典的自由主義経済思想がその後のファシズム経済批判と同一視される基礎を作った。戦後処理の基礎的なイデオロギー(冷戦思想)をそれが提供したと云えなくもない。ところが、戦後資本主義世界の経済思想がケインズ主義とその後継者たちである新古典派統合であったことは、ダブルスタンダードの典型のようなねじれを生み出した。政治的には、帝国主義と社会民主主義のねじれと言ってもいいだろう。その間、アナーキズムは19世紀思想としては表舞台へ登場する機会を失われていた。その反面、戦後思想のねじれを穿つようにビート世代がマルクス主義とアナーキズムを繋ぐ思想的冒険として様々な形で登場した。1968年革命と後に命名されるようになった世界的な政治変動はその現れであったと考えられる。
生産力批判、成長経済批判というものはこの20世紀初頭からのイデオロギー史を紐解かなければ見えてこない種類の問題でもある。今日、新自由主義が席巻した世界政治の荒廃した状況から新たなアナーキズムが登場しつつあるのは、時代の要請でもあることを理解しなければならない。それは、かつてのボルシェヴィキと対峙したそれではない。経済成長神話への批判が、戦後世界の中から生まれてきたという歴史的事実(「沈黙の春」「成長の限界」)からするなら、資本が持つ成長願望と直接的な対峙が為されなければ、この課題は解決しないということを確認しておこう。
脚注
* 1
これはかつて松下幸之助が自らの企業活動=大量生産を譬えて云った言葉である。
* 2
NPT 体制の崩壊にもかかわらず、北朝鮮の核実験に大騒ぎしてみせる大衆操作マスコミ機関の宣伝に対して、加藤典洋氏のロナルド・ドーア評価は注目に値する。ただ、一家に一台原子爆弾を備えようという故小松左京氏のSF話もお笑い話に終わらないことを付け加える必要がある。
* 3
ここにも隠された前提がある。社会主義社会と自称するソ連中国の経済発展は、資本主義的発展とは違う経路を辿るべきだという自称他称の言説である。半封建的社会であったソ連中国に於ける革命が資本主義的発展を経由せずに高度に発展するはずという似非歴史観が、スターリンによって作り上げられたことを記憶しておく必要があるだろう。
* 4
山本義隆『私の1960年代』2015年 (株)金曜日