労働法制改革の意味
斎藤 隆雄
397号(2015年3月)所収
黒田日銀総裁が連合の新年会合に挨拶に来たそうだ。某新聞のコラムに、企業の賃上げを言祝ぐために、「政府、日銀、共産党」そろい踏みだとあった。誰も賃上げに文句は言えまい、ということらしい。案の定、おめでたい「春闘相場」で第一四半期を乗り切ろうということであろう。年末選挙で、アベノミクスを批判した野党は、株式市場ではなく、労働市場を見ろと言ったのだから、見事に罠に嵌まったかの如くである。後は、制度改革論争しか残されていない。これでは何が問題なのか、さっぱり分からないではないか。選挙に幻滅した労働者の疲労感は癒やされないどころか、更に重くのしかかっている。
1.資本収益率とデフレ
デフレ均衡という言葉が経済評論家の間で話題になっているそうだ(これをニューノーマルというようだ)。長期停滞論も噂されている。中央銀行が流動性を市場に垂れ流しても、一向にデフレが克服できない。今や、先進国と言われる富裕資本主義国はどこもかしこも中央銀行の量的緩和政策に依存している。これは何を意味しているのだろうか。人々は何となく気づいているだろうが、日本において最初にデフレが始まったのは、80年代末からの土地バブルの崩壊であった。そして、米国でサブプライムローンを端に発した金融危機も、土地バブルである。また、それに関連した欧州ではスペインでの土地バブルが現在の欧州危機のきっかけであった。土地という、生産物でない自然素材にカネが注ぎ込まれ、それがあたかも価値があるかの如くに浮かれる経済というものが、既に資本主義経済の末期を意味していたということなのである。これまでチューリップだの、石油だのと自然物をバブルの対象として経済が歴史上何度も破綻したことは知られた事実であるが(チューリップは農産物ではあるが…)、土地バブルの次に来たのが、低金利とデフレという新しい時代の幕開けにふさわしい低空飛行経済の到来である。帝国主義が新しい収奪先を見失うという前代未聞の時代に突入した訳である。否、もしかすると次の収奪先を探すのに手間取っていると言いかえるべきか。* 1
さて面白いことに、新自由主義がバブル崩壊の前後にいずれの国においても流行したが、これは資本が投資先を見失った時に発見した、新しい標的のことだったのだ。20世紀前半期に資本主義崩壊を食い止めたケインズ主義的有効需要政策の結果生まれた公的領域を改めて食い物にしようという、まるで自分の創り上げた身体を食べ尽くそうという試みであったのだから。だから、それは所詮間奏曲以上のものではなかったということが、この間の顛末ではっきりしたのである。ただ、この間の簒奪劇を見てみると、人間を資本と見たり(人的資本論)、時間や空間を切り刻んで商品化したり、果ては人間の頭脳の中にある知識をも商品とするという資本の究極の姿が立ち現れてきている。土地バブルはまさに資本主義的生産消費機構の集積体である都市の中に生まれた疑似中世領主制のようなものを生み出した訳である。地代で肥え太る現代版領主たちは林立する高層ビルという城塞に住まい、領地を睥睨していたかのごとくである。
そして、いよいよ収奪の対象を主体の解体にまで及んで、結果、デフレという低成長時代に突入したのではあるが、資本はそれでも利潤率の低下に苦しんでいるのであろうか。かのピケッティ氏も言うように、残念ながらそうではない。資本収益率は所得を上回って、格差は年々拡大しているのである。何故こんなことが可能なのだろうか。それを解き明かすには、もう一度過去に戻ってみなければならない。世界の富裕国における労働者階級は、既に随分前から生活資料を得るための賃金を上回る所得を得ていた。20世紀初頭の恐慌と階級闘争の激化の中で、資本が学んだのは、労働者への乱獲政策ではなく、養殖政策への転換であったのだ。ほどほどの賃金と「中産階級化」という幻影を与え、包摂されてきたのである。しかし、時代は変遷する。
産業資本が利潤率の低下に苦しむようになり、労働者階級のなけなしの貯蓄も収奪の対象となったのが70年代から始まった金融資本主義である。資本が資本家という具体的人間像を透明化するのは、資本が物として純化していく過程である。21世紀初頭に資本収益率が拡大しているのは、産業資本そのものが半ば労働者階級へ払い下げられたからである。これは別に資本が労働階級の所有となったという意味ではもちろんない。資本が生み出す収益の内部で、所得配分に割り当てられる部分が極小化しているだけである。生活資料を生産する基礎的産業資本にとって、それこそ労働者階級が必要とする生活商品の生産は、もう資本にとって魅力的な対象ではなくなったという訳である。デフレとは、そのことを表す結果なのである。* 2
2.労働価値が疑われる理由
年収一千万円以上の労働者の労働時間規制がなくなるという法律が成立するようである。既に、多くの労働市場でこのような「年俸制」が現実化している。労働を時間で評価するという労働慣習の解体は、長時間労働へのフリーハンドを資本が得たと非難するだけでは、事態は収まりそうもない。そもそも「労働価値」そのものが疑われているのだから。
アダム・スミス以来の経済学の基本が、もはや現実把握の尺度ではなくなってきたと、今どきの経済評論家が喧伝し、資本家層のやんやの喝采を浴びている中で、我々はこれを「絶対的剰余価値の収奪」という産業資本主義の時代にあったお決まりの批判で済ますことができるだろうか。単純な労働時間の延長、働き過ぎと言われるホワイトカラーへの更なる収奪、という批判手法は今日の現実を必ずしも的確に捉えていない。事態は更に深刻だ。単純な出来高払い賃金への回帰なら、労働者階級の運動もかつての団結を取り戻すだろう。問題は想像以上に複雑だ。近年、欧州の左派が非物質的労働やレント論を持ち出すのはその複雑さの副作用でもある。つまり、労働が労働者の全生活を囲い込み、労働時間が意味を無くしてきたからである。労働時間が意味を持つのは、労働時間と非労働時間とが区別されている限りであって、全生活が労働であれば、時間で区切る必要がないのである。だが、にもかかわらず奴隷ではなく、賃金労働者であるためには、余暇も休養も健康管理も労働の範疇に引き込まれ、企業に管理され、更に人格や精神活動に至るまで企業管理と文化の下に置かれなければならない。そこに主体はなく、市民的人格もなく、資本の臣下としての労働者が存在するのみである。
それでは、まるで資本家ではないか、と疑われるかもしれない。まさにその通りである。だから、賃金労働者を個人経営の資本家だと強弁する論説(人的資本論)も現れる次第である。労働価値を時間で測らないという言説は、労働そのものには価値がなく、生産物の価値実現にまで責任を取らされる雇われ安月給の資本家という訳である。なぜそんなことになったのだろうか。なぜそんなことが可能なのだろうか。
年収一千万以上と言えば、おそらく全労働者の1?2%でしかないだろう。彼らは何を創り出しているのだろうか。報道によれば、金融資本のディーラーであったり、企業の企画部門の立案者であったり、いわゆる肉体労働ではない知的労働ということになるらしい。企業の研究開発部門の労働者や高度な技術労働者は、その知的立案能力あるいは情報処理能力を「評価」されているのだ、という一般的な理解によって「残業代」はいらないのだとする訳である。では、彼らは何を生産しているのだろうか。彼らは個別に生産物を作っているわけではないことは、素人でも理解できる。彼らの労働が企業にとって死活的に重要であるからこそ、破格の賃金を与えているわけだが、だからといって生活時間をも削らして働かせて、資本の思惑通りの価値を生み出すのだろうか。そんな労働集約的な種類の労働ではないことは確かである。むしろ、ここで取り上げられている労働者たちは、自ら企業の求める高度な知的労働を主体的に(臣下的に)取り組んでいると考える方が理にかなっている。
であるなら、彼らを労働者階級の一員と呼ぶべきではないと思われるかもしれない。だが、ここからが重要なのである。彼らのような「エリート」と呼ばれる労働者たちの働き方が極限られた知的労働の範囲に収まっていると理解できるだろうか。彼らの労働能力が他の多くの労働者と代替え可能ではないというのではなく、産業構造自体がこれらの知的労働者を資本家予備軍として位置づけることを要求しているのである。既に、資本の出し手と資本の管理者とは随分以前から分離してきたが、この資本の管理自体が今や複合的な産業間の連携の上に組み立てられるようになって、高度な熟練技術者をしかも大量に経営の下士官として位置づける必要に迫られてきている。* 3評論家たちはこれを「知識資本主義」だの、「脱工業化」だのと表現するが、しかし、彼らエリート層が資本家階級の仲間入りをするのかと言うと、必ずしもそう言えない。なぜなら、今日の技術革新の変遷と速度は彼らエリート層を生涯資本家として生きていけるほどには保障しないのである。多くが使い捨てであるからこそ予備軍であり、その競争の内部で少数の新しい資本家たちが生まれてくるのである。
従来、企業内部で育てていた幹部候補生たちだけでは、企業間競争と買収合併の嵐の中で生き抜くことができなくなってきた現代の多国籍企業が求めているのは、このような多層化された労働市場と階層構造なのであって、これらをいわゆる「マルチチュード」とは呼ぶべきではないし、なにがしかの希望を託すわけにもいかないだろう。* 4
労働を時間ではなく成果で測るという新しい資本主義の精神は、全員資本家となるという幻想と幻滅を人々に植え付け、生産と消費とを切れ目無く包摂する企業社会として、労働が価値を生むのではなく、生産と消費を巡る貨幣にこそ唯一の価値があり、消費される物こそが貨幣を生み出すという転倒した構造を創り出したのである。
3.価値のある労働は存在するのか
派遣労働法制が改正される。ホワイトカラーへの締め付けと対称的な形でのもう一方での再編は下層労働者階級への企業サイドでの組織化を支援するものとなっている。派遣労働者はまさに先に言った人的資本の典型的な労働形態であるが、彼らが進んで資本家幻想を抱くはずもなく、流動的な過剰人口を構成する資本の景気循環の安全弁としての役割を常にこれまでも果たしてきたし、これからも果たしていくことになるだろう。派遣労働は様々なグレードをもってバラエティに富んでいるが、この労働は中程度の熟練度を持ったものから、未熟練労働まで企業の使い走りとして景気変動に対応する最良の労働力である。この労働が未だ時間で測られているのは、政府官僚がいみじくも吐露したように、「物」として扱われているからである。* 5
しかし、今や非正規労働者、パート労働者と共に巨大な層となったこの低所得層の労働者階級は、格差糾弾の焦点となりつつある。ここでは、労働が時間で測られ、それ自体が価値を持っている世界が未だに機能しているという意味では、富裕資本主義の辺境でもある。この世界は、労働力が再生産できる程度にも評価されない賃金での労働ということから見れば、労働が最も搾取されている領域であり、更にそのこと自体が労働を最も疎外された状況に置くことにもなっている。成熟した資本主義が生み出す機械化され高度に情報化された生産構造の中では、この領域での労働は常に変動し流動する種類のものとなる。それは産業の隙間を埋めるものでしかなく、機械にとって変わるまでもないような細々としたマニュアル労働が中心となる。とりわけ、これらの労働が消費場面に最も近い領域に位置することが多く、どこにも位置づけられないという意味での「第三次」の産業労働となっている。本来、消費末端の社会的共同性を形作っていた労働は、企業末端の使い捨て労働となって、管理された情報端末となっているのである。
4.21世紀の社会
超低金利の21世紀資本主義経済が新しい均衡を生み出している社会においては、国家(政治)と資本(生産)と社会(消費)が相互に均衡しながら停滞している時代だと見ることができる。国家はこれ以上に資本に寄与できないほど借金まみれで、資本はこれ以上社会と国家を収奪できないぐらい金融化が進み、社会は消費の再生産をできないぐらいに消耗しつつある。確かに、資本主義が行き詰まっているという言説があちこちで聞かれるが、資本主義が自然に消滅することはありえない。なぜなら、資本はそれ自体が物であり、人が物と認識するしかできない関係性だからである。だから、資本主義が行き詰まるということは、その関係性を支えている人が消滅するしかないのである。
日本がデフレの最も最先端に位置して超低金利の資本主義を均衡させているという現在を見れば、明らかに労働者階級は資本の要請の下で、自らを資本家と位置づけ、消費の王様と位置づけ、自らを再生産する必要をまったく忘れてしまう社会に移行しているといえる。明日の糧を得るのにも事欠く貧乏資本家にとって、自らを再生産する必要は感じないであろうし、資本家である限りは国民国家などは気にかけることでもなく、一攫千金を夢見てただ消えゆくのみである。
労働者階級は今、岐路に立っている。国家、資本、社会の呪縛に絡め取られて、解けない均衡の中で自滅するのか、国家・資本・社会という均衡からさよならするのか、それが問われている。
脚注
* 1
次の標的が戦争、という徴候が現れてきている。ベトナムでの敗戦以降、何回となくこの局地戦パターンを繰り返しているが、明らかに戦争に勝利することではなく、金融市場の混乱に乗じた収益獲得が目的である。
* 2
デフレを世界的な賃金均衡化の圧力による現象だと、そしてとりわけアジア新興国の資本主義化によるものだと、これまで述べてきたが、これは労働者の生活を支える諸商品の生産がそこで主に生産されていることと関連している。
* 3
これまでの産業分類がもはや経済活動の実態を表現する道具として用をなさなくなってきている現実がある。消費動向をリアルタイムで生産に反映するシステムが構築され、分業体制が生産系列のオンラインで処理される時代に突入しつつある。
* 4
ネグリたちの言う「マルチチュード」で、唯一参照できるものは、「脱出」という考え方である。今日の資本主義の精神が知識と頭脳に入り込む時代にあっては、そこから脱出することは変革の第一歩となる。
* 5
最近、この領域の労働市場においても、かつての内職のような仕事をインターネットを使って請け負わせる企業が増えてきている。もちろんここでは出来高払いであることは論を待たない。