世界の戦争の現実を理解する力もない安倍氏の軍事火遊び
渋谷 一三
395号(2015年1月)所収
<はじめに>
2015年1月20日、「イスラム国」は安倍氏の直接的敵対に対し、戦争への直接的加担とはこういうことなのだと現実を突き付けた。
先にカラシコフ銃を持ってシリアに入り、「僕のかっこいいシーンを撮影してね」などとふざけたことを言いながら武器援助の手先をしていた人物がISISに拘束された。このような人物は処刑されて当然で、捕虜の扱いを受けていたことが丁重すぎるぐらいであることはすでに述べてきた。戦争とはそういうことなのだ。そんなこともわきまえずに、武器輸出をして一儲けをたくらむなど、あまりにも愚昧である。死の覚悟なくしてそのようなことをするなど、笑止千万である。このような人物に身代金を払う必要など全くない。
もう一人のフリー・ジャーナリストについては全く情報がなく、判断のしようがない。
客観的にスパイの役割を果たし、「イスラム国」への敵対的報道をするジャーナリストであれば、処刑されるのも当然である。戦争状態という認識がない日本人の側の認識が間違っている。
ともあれ、彼ら二人が3日以内の処刑に処せられることになったのは、安倍首相の直接的介入=「中東歴訪、資金供与の旅」による。この安倍氏が提唱する「積極的平和主義」なるものは、交戦状態にある関係に直接当事者になる宣言である。だのに、当の安倍氏にはこうした認識がなく、ノコノコとイスラム国に敵対するための「援助」ばらまきの旅に出かけている。お寒い限りである。軍事が全くわかっておらず、このような人物が一国の首相になり突っ走っているのである。
自分がイスラム国との戦争状態の中に入っていきながら、相手をテロリストと決めつけ「許し難い行為」と嘆いている。「人命を楯にとって脅迫することは許し難い。」などと間の抜けたことを口走っている。自分は空爆を支持し、無辜の市民を殺戮し、大量の「難民」を生み出す行為の側に積極的に立っていることへの自覚がない。また、イスラム国兵士を殺す側に立っていることに間違いないのである。
交戦状態に入っているという自覚のない首相を首相にしていてよいのか!
1.「積極的平和主義」が交戦当事者になることを意味していることを突き付けている。
これは「イスラム国」に限ったことではない。集団的防衛に入ることは、米国の戦争相手の全てに対し、日本が当事者に入ることを意味する。集団的防衛とはそういうことなのだ。そうでなければ同盟ではなく、同盟の意味をなさない。こんなことは政治・軍事の初歩的常識であり、この常識を知らずに集団的自衛権容認に傾きそうな日本人全体に戦争の現実というものを教えてくれている。
安倍政権はブッシュ政権をまねて、この戦争の常識から国民の目をそらせるために、これをテロとの戦いと言いくるめようと必死である。大衆の争奪戦なのである。日本人は決して安倍政権に騙されてはならない。これはテロとの戦いではなく、米国がアラブ諸国の再編を目的に仕掛けた「アラブの春」戦争の結果生み出された組織との戦争への参入なのである。
2.仏紙のイスラム教冒涜に安易に加担してしまった安倍氏
仏紙のムハンマド「風刺画」は、批判を含意した風刺画ではなく、揶揄し冒涜したものであり、この背景にはフランス社会の歪な構造が隠れている。詳しくは準備中の別稿を参照されたいが、ここで問題なのは、一級フランス市民が旧植民地出身者の差別と収奪の上に胡坐をかいているところから出る優越者の傲慢に、歴史の勉強もまともにできていない安倍氏が簡単に同調し、「言論の自由だ」などと叫んでしまったことである。
安倍氏のこの軽率な発言が、単に不勉強な日本人にありがちな西欧コンプレックスにとどまっていた内はよかったのだが、一国の首相の反イスラム・反被抑圧民族の発言となってしまったのだから、重大である。
だが、安倍氏は、この軽率な発言を後悔する力すらなく、欧米諸国の歓心を得たとばかり思っている。全く「アサッテ君」である。見当違いも甚だしい。
このような軽率な人物を首相にしていてよいのか。
<P.S.>
もう一人の人質、後藤健二さんはまともな誠実なジャーナリストのようである。彼が拘束されたのは、湯川氏のような人物を助けたことにある。それ以外に犯罪的行為はしていないようだ。「イスラム国」は彼の活動を精査し、処刑をすべきではない。もし、いい加減な処刑をすれば、それはイスラム国の政治的死を意味する。