大阪市長選の奇妙な先進性
斎藤 隆雄
387号(2014年3月)所収
大阪という地は、奇妙な先進性を持った地域である。市長の橋下は今世界中で流行しているポピュリズム政治の最先端を走っていると見られている。彼の政治スタイルは非合理な保守性と合理的な行政手法という本来非和解的な要素の混合物を、民主主義という形態の中に見事に押し込めることができる先進性?を持っている人物である。その市長の今回の辞任?再選挙行動は、周辺党派からの戸惑いの声を巻き起こしている。それは巷で言われているような「大義がない」のではなく、「民主主義的」合理性がないからである。
橋下の頭の中は、現代の複数政党による代議制民主主義という政治の根幹を否定する、より大胆な独裁政治のイメージが拡がっているのだろう。これまでの彼の発言をみても、それが見て取れる。選挙に勝てば、後は全権委任したものと判断していいのだといった考えは、民主主義という危うい制度の合理的な判断である。その合理性は、市民社会全体の合理性ではなく、彼の政治思想にとっての合理性である。かつてのワイマール共和国の危機に際し、決断政治を称揚した政治学者がいたが、その現実的実践をナチスが強行した結果、「国家社会主義」という思想の正体がその姿を現すことになった。それが如何に排外主義的で非合理的なものであったかは周知だが、その政治手法はきわめて理路整然としていた。
この政治手法は、彼の党派性そのものである。それがはっきりと判明したのは、彼の盟友であり、党の代表である石原が自らの党内で民主主義的に決めたことに従わないという態度表明をしたからである。どうやら多数決は高校生のすることであり、大人にはそんなものはいらないらしいのである。石原にとって、現代の民主主義は嘘っぱちであって、政治的決定は俺様がするのだということを堂々と述べたということになる。彼にとっては、維新の会は俺様の党であって、党員はだまって従えと言っていることになる。さすがに、橋下は大阪市民を党員とは言えないので、選挙に打って出たが、自らが選ばれれば、石原と同じことをするだろう。
彼らに共通している思想性は、しかし、現代世界の現実をしっかりと反映している。左右を問わず、良かれ悪しかれ、今日の民主主義制度が破綻しているという感覚は、多くの人びとが共有している。それは、世界中で民主主義を標榜しつつ、誰の目から見ても非民主主義的な手法を正当とする政治が堂々と通用し、蔓延しているからであり、それが実際の政治的現実であり、民主主義や多数決はただ現実の政治にそれらしい装いを施しているだけであるという実態が、誰の目にも明らかになってきているからである。米国の諜報活動しかり、エジプトの軍部クーデターしかり、今進行中のウクライナでは欧州もロシアも自らの非民主主義的手法を如何に粉飾するかに苦心惨憺している。(クリミアの住民投票は、アメリカやロシア、中国といった多民族国家だけではなく、すべての国民国家にとって脅威となる事態であることは、その形式的合理性から明らかである)問題なのは、民主主義という形式ではなく、その背後に隠れている階級闘争であり、帝国主義的な領土再分割であり、それを支えるイデオロギーなのである。
さらにもう一つの例を見てみよう。先の都知事選である。脱原発が争点になるはずが、結果的に生活関連政策を唱えた桝添が選ばれたことが示しているように、都民は福島のことを忘れ、自らの生活を優先させたことになる。経済さえ何とかなれば、すべてがうまくいく、あるいは少なくとも自分の利益になると考えた結果であるが、それは低い投票率に示されたように、未だ暢気な都民も少なからずいるということでしかない。棄権した人びとは、ある種の諦念を持ったことだろう。選択された政策である経済政策は、ほとんど選択の余地のないものであることは明らかである。選挙応援で、小泉が「誰がしても同じ政策だ」という種の発言をしたそうだが、その合理的な判断は正しい。むしろ若者が田母神を支持したという報道を見ると、彼に石原や橋下の独裁性を期待した可能性が大きい。選挙の度に争点となる経済的な政策や生活関連の諸政策は、一つの国の政治システムによって決めることができないという現実は、今や常識の部類である。(リーマンショックを日本政府が防げたと信じる人はいないだろう)だからこそ、その背後に隠れた階級闘争を民主主義的粉飾で隠蔽し、自らのイデオロギー政治を貫徹するという、いわゆるファッショが復活しているというリアリズムを我々ははっきりと認識し、覚悟をきめなければならないのである。
橋下の今回の奇妙な選挙は、だから、代議制民主主義を形式的に準拠しているかに見えて、それを完全に反故にしようと目論んでいるものだ。それに対して、周辺党派は感覚的に嫌気がさしているように見えるが、対立候補を立てないという挙に出たのは、報道によると、「独り相撲」をさせようということのようである。これは、正しい方針だろうか。
残念ながら、否である。なぜなら、選挙費用が何億とかかるとか、無駄な選挙だといったことが、橋下の政治手法を批判することにはなっていないからである。周辺党派がそのような不十分な批判しかできないのは、彼らが立脚しているイデオロギーからして、むしろ当然であるとはいえ、今回の橋下の政治手法に一種の違和感を持って、対抗馬を出さなかったことで一致したという意味では、大阪は先進的である。つまり、選挙がすべてではないということを間接的ながら示したからである。そんなもので全能感を持つなよ、と釘をさしていることになるからだ。しかし、これだけならばおそらく反橋下勢力は敗北することになるだろう。
反橋下を旗印にして、政党政治を行おうとするなら、今日の代議制民主主義を否定することができない。石原のように多数決を反故にしたければ、転覆か革命しかない。石原はスターリン式だが、橋下はヒットラー式である。すくなくとも、ヒットラーは選挙で選ばれているから、彼の独裁はドイツ国民の歴史的債務となった。
では、正しい方針は何だろうか。この場合、代議制民主主義に則るなら、投票所に行かなければならない。そして、白票を投ずるという方針しかないだろう。この白票にはふたつの意味がある。一つは橋下への拒否であり、もうひとつは、選挙制度への疑義である。白票には、政治的メッセージを書き込んでもいいだろう。「ブルジョア独裁かプロレタリア独裁か」と。
大阪市長選の先進性は、このように、本当に問われている現代政治の焦点が隠されている。