中国式資本主義の未来(2)
斎藤 隆雄
386号(2014年2月)所収
昨年11月に中国共産党は第18期の第三回中央委員会を開き、習政権の路線を決定した。内容的にはこれまでと大きく変わるところはなかったと報じられている。原文を読める立場にはいない筆者には判断ができないが、「市場経済」路線に変更はなく、李首相の断片的な報道を見る限り、より一層この路線が浸透するだろうという予想はつく。資本主義国のジャーナリストたちは、いつ中国が「社会主義」の看板を下ろすのか、に注目しているが、そもそも社会主義とは何なのかを問わない限り、この問題への解答は得ることはできないだろう。
4.法人資本主義の現在
1980年代の一時期、我々の内部討議の中で話題となったひとつの論議がある。それは日本資本主義の特殊性についての論議であった。いわば日本式資本主義の構造の問題である。従来から日本の独占資本の株式持ち合いはよく知られた事実であったが、それに付け加えて日本的雇用慣行や企業別組合という英米系の資本主義社会には見られないいくつかの特色があった。そのことを一部の学者が取り上げ、日本の法人資本主義が資本家による支配の衰退と労働者による支配の可能性を展望する学説として話題となっていた。これを我々はどう見るのかという問題である。
元々株式の持ち合いというのは、戦後の財閥解体以降の再編過程で系列化を意図した銀行や旧財閥の中心企業が持ち株会社の禁止という制限の下で編み出された資本連携の一手法であった。旧財閥家族の資本支配力が衰退したとはいえ、銀行を中心とした資本関係は戦後の混乱期において経営上求められた優先事項であったことは推察できる。しかし、この持ち合い関係とは資本所有の関係で言えばきわめて特異な関係を形作ることになる。というのは、企業間の株式の持ち合いはそれ自体相互に何の支配関係も生み出さないように見えるからである。単に株式が交換されるだけで、実際上の資本は動かないからで、等価の株式交換であれば競争関係にある企業間の正常な資本主義的な関係であればあまり意味のない手法に見えるのである。
ここに戦後の独占資本主義体制が経営者主導の企業体制であったことの問題が浮上してくる。つまりこれらの経営者は資本家階級を形成しているのか否か、そして本来の資本家階級はどこにいるのかといった問題である。「所有と経営の分離」は既に20世紀初頭に巨大装置産業において特徴的な傾向であったが、それらは発達した株式市場を通じて資金調達をする直接金融構造の中にあって、従来の
「自由主義段階における資本主義から帝国主義段階における金融独占資本へ」という規定を生み出していた。これらは老舗の英国資本主義ではなく、ドイツとアメリカにおいて顕著に現れたが、明らかに国家と銀行を中心とする資本家層に支配されていた。しかし、戦後に日本に現れた「株式持ち合い構造の中での経営者企業」とは何なのかという問いには十分に応え切れていなかった。
そこで現れたのが「国家独占資本」という国家の役割の登場であったが、これは今で言う「開発独裁」路線に近い資本主義の構造と重なるものであろう。日本の戦後資本主義の発展過程をたどれば、冷戦構造の中で米国政府の支援を受けた日本政府の積極的な産業政策が復興経済を支えたことは明らかであり、株式持ち合いそのものを可能にする諸制度の整備や系列化の支援は、国家と資本の癒着という意味で先の国家独占資本という分析はある意味合理的であった。金融と産業の行政指導は日本の高度経済成長期において大きな役割を果たしたことは今や常識の部類に入っていると言っていい。
では、この時期の日本の資本主義における資本家階級とは誰のことを指すのか、が改めて問題となってくる。つまり、資本所有と経営の関係からするなら一部の学者が言うように英米系資本主義社会における資本家階級が日本において希薄かあるいは存在しないということも言いうる。企業従業員からのサラリーマン社長が経営する日本の独占大企業が系列資本の持ち合い構造の中で、政府系の金融機関もしくは護送船団方式の銀行集団からの融資によって支えられているとするなら、これは明らかに従来の資本主義社会とは異なった構造にあると言えるだろう。この「特異?」な資本主義が実は「開発独裁資本主義」という今やアジア各国に普遍的に見られるスタイルと同型だということもわかりやすい事実だ。
80年代の日米構造協議以前の日本の資本主義が「開発独裁」であったと見ることで、この一見奇妙に見える資本関係が新しい資本主義の姿であり、資本家階級の姿であることが見えてくる。かつて独自の階級を形成し、産業と企業を支配していた資本家階級集団は、官僚と産業エリート層の複合体へと変化していったことを認めなければならない。古い資本家階級も新しい資本家階級もその構成が流動しているとはいえ、資本の利害を代表することには変わりがなく、労働者階級との利害の相反は歴然としている。「開発独裁」期の資本主義の高度な成長によって、労使対立が曖昧になったり緩和されたり、その歴史的背景による特異な労使慣行があったりすることはこの資本主義の特徴ではあるが、階級闘争がなくなった訳でもなく、資本主義が成熟するにつれてその階級対立が露わになってくることも、今日の日本の資本主義社会を見れば明らかだろう。
では、これらの認識の下で中国式資本主義を眺めると何が見えてくるだろうか。中国政府の関係者が時折表明する言説に、「これは日本のかつての姿である」という言葉ある。彼らは明らかに日本の資本主義発展のスタイルを意識して分析しているのは明らかだ。我々はここから何をみるべきだろうか。
5. 90年代における分岐
「1980年代以降、中国の近代化路線は社会主義型から開発独裁型への転換が行われた。市場メカニズムの導入や民営化の推進によって、経済体制は統制型から混合型へと変わってきた。」(唐亮『現代中国の政治』2012年)
現代中国の政治経済体制の評価は上記のようなものがほぼ一般的である。しかしここで言う「開発独裁型」の経済体制は中国近代の歴史過程に規定されて、その独自の特色を持っている。日本が明治維新以降、一種の開発独裁型(富国強兵/殖産興業路線)であったが統治機構は国際関係からの圧力を受けて、欧州型へ近似させようとした。その結果が軍事独裁型へと転換していったのは主として同時代の国際政治構造に規定されていたと言っていい。その意味で、中国経済体制が今日の国際政治構造に規定されていることは当然である。先に、80年代の中国共産党の模索がネップであると言ったが、この時期の改革がソ連のペレストロイカを意識していたことは考えられる。1987年の第13回党大会における胡耀邦・趙紫陽路線は後に「政治改革が最も進んだ時期」と呼ばれるのはネップ路線の政治改革の模索であっただろう。
しかし、この路線の結果は89年の天安門事件となって一挙に政治的表舞台へと現れたことで、転換が図られることになる。この転換が今日の独特の政治経済体制を形作っていると言える。ケ小平の「南巡講話」と江沢民の「三つの代表」論はこの時期の転換を象徴している。すなわち、党の独裁が社会主義規定であり、経済システムは市場経済へと全面移行するという方向性である。ここで言う「社会主義」というのは、計画経済でもコミューンでもない。生産分配構造はすべて市場を通じて行われることとし、所有関係においてのみ国家が統制するという意味である。
問題はこの所有関係が何を意味しているかが問われる。党=国家は土地と国有企業を中心としてその所有を手放さないが、企業所有の形態は株式所有であり、経営層の党員支配である。党と官僚機構は経済の主要な部門を掌握し、その経済的地位(利害)と党の方針に規定されているものの、その主要な経済活動の動因は利潤の追求であることは疑えない。なぜなら、利潤の追求が党と官僚の生活の源泉であり、法人企業という形式から生まれる分配の源泉が利潤であるから、党=国家官僚はこの構造の中では自ずと階級として成長していくことは避けられないだろう。80年代のネップ路線から90年代への開発独裁路線への転換は、だから世界政治経済構造の歴史的な転換に照応する自然発生的な展開であり、そこに「社会主義経済」への模索は存在しない。それは単に現状への適応であり、事態の推移への追認であるだろう。
今世紀へ突入して以降、胡錦濤路線が社会・法制度を急速に「近代化」し、整備しているのは、既にできあがりつつある経済構造への上部構造的対応であり、党が官僚階級として成長していくための整頓なのである。この新たな動きを汪暉は「脱政治化」と表現しているが、国内政治的な意味での「福祉国家化」ということではそうであろうが、東アジア的資本主義構造の中においては、日本の法人株式持ち合い構造の中での「疑似社会主義」がそうであったように、早晩自らの資本主義的なダイナミズムに解体されざるを得ないであろう。それに対し「社会主義的市場経済」路線が抵抗する術は未だ用意されていない。
ケ小平が「近代化」の終了を2050年に設定したという話は、真偽のほどは分からないが、「社会主義市場経済」の「新自由主義的金融資本主義経済」への転換が目の前に迫っているということだけは確かである。今後の中国共産党の方針が、毛沢東のコミューン型経済とのハイブリットを模索することで新たな社会主義モデルを構築するという、数少ない可能性が残されているのみである。
6.姓社か姓資か
社会主義か資本主義か、と問うことは本来愚問である。なぜなら、資本主義は設計思想に基づいて創り上げるものではないからである。正統性を問うなら、社会主義か否かと問うべきだろう。そして、私の結論は、中国の経済は社会主義ではなく、中国式の資本主義が進行しているということである。それは今後社会主義へ転化していく可能性はあるか、と問えば、それは当然あると答えなければならない(日本もそうであるという意味で)。
中国共産党が国共内戦から勝利した時、手にしていた経済は開発独裁に最も近い形態であった。国民党政府が組織していた経済は生産力の半分以上が国有経済であり、アメリカの援助物資を横領する傀儡政権であった。この時、権力を奪取した中国共産党内の経済政策方針は社会主義か資本主義かという分岐を問われていた。つまり、未だ中国は資本主義でも、もちろん社会主義でもなかったからである。そして、周知のように毛沢東はコミューン型の社会主義路線を選んだ。彼の模索は、ソ連型の計画経済から人民公社コミューンへと悪戦苦闘した末、文化革命という最後の路線を大胆に進めたことで力尽きた。ケ小平が選んだ路線は、何ら新しい発見でも路線でもなく、国民党から政権を奪取した時点に後退しただけであり、80年代のネップ路線から次への展望を示し得なかったことで、今日の中国社会の矛盾に満ちた姿があると言える。
中国社会の未来が、かつてソ連に対して反スターリン主義(トロツキー路線)が提起した副次的政治革命が有効かと問えば、それは明らかに無効であると断言できる。なぜなら、毛沢東が提起した文化革命は完全に未完であるからだ。確かに、彼は紅衛兵に対して失望したことで解放軍を用いて事態を収束したことの含意は、ケ小平を残した根拠でもあるだろう。だが、大躍進政策の敗北の収拾過程で見た中国社会の変革課題は、毛沢東の目には資本主義への道ではなかったことの意味を我々は未だしっかりと位置づけていない。
中国革命への視点は我々に常に重大な課題を突きつけているということを肝に銘じておかなければならない。