アベノミクスの終わり
渋谷 一三
386号(2014年2月)所収
<はじめに>
「アベノミクス」なる言葉が浸透してしまってから1年が過ぎた。変化したことは、78円〜80円ほどで安定していた1ドルの為替相場が104円前後で安定したこと、インフレ率が政府発表で1.2 %になったこと、円安によって大企業の内部留保が急速に増大し株式市場を通じての資金調達の役割が著しく縮小したこと、25%もの円安によって貿易収支が赤字に転じたことなどである。
3本目の矢という実体のない宣伝文句が、言い訳用の空文句であることが露呈し始め、唄えど囃せど経済に好転の兆しはないことがはっきりしてきた。
物価は上がり始めた。4月からは消費税増税分の物価が上がることははっきりしている。賃上げ闘争など全く無縁な下層労働者や年金生活者にとって理想的な環境であった緩やかなデフレは終わってしまった。安倍政権によって終わらされてしまった。
緩やかなデフレは、実質賃金の増大とそれに遅れての名目賃金の引き下げという、インフレと全く逆の過程を意味していた。これがあと10年も続けば、インフレの進行する中国や韓国、台湾の労働者とあまり変わらぬ賃金で働くことになり、日本の労働者の労働力商品市場での国際競争力は回復し、「産業空洞化」の逆の過程が始まるはずだった。
だが、日本のブルジョアジーの多数派は、上記の自然過程=緩やかなデフレによる経済再建というシナリオにあえて人為的に逆らうシナリオ=「アベノミクス」を採択した。ユニクロ社長のような少数派は、国際展開の比重の高さから日本という出自国の「母斑」に拘束されず、アベノミクスのような人為的インフレ・ターゲット政策に批判的である。そのあまりに、社内公用語を英語と決めたり、国際的に同一賃金にしようと試みたりしている。要するに多国籍化した企業にとっては、安倍政権の政策など何の意味もないのである。
下請け孫請けの地場産業でありながら、世界有数の技術水準をもつ大田区や東大阪の小・中企業は、異口同音に「アベノミクスの効果は実感できない。」「むしろ悪くなっている。」と答えている。
では、どのようなブルジョアジーが安倍政権を支持しているというのだろうか?
1. キャノンは感謝、トヨタは黙す。
キャノンの生産は多国籍化していない。大分県の「子会社」で世界の需要量を全量生産可能であるようだ。機種によって生産ラインが変わるなどの事情によって、いくつかの工場があるようだが、自動車などと異なり、現地生産をする必要がない。そのため、輸出した製品の売上代金は他国の通貨で得ることになる。これを日本円に替えるのであるから、円安は膨大な利益をもたらす。民主党政権末期と比べれば、たった1年の間に25%の大幅増益を得られたのである。何も特別なことはせずに、である。
政府に感謝するのは、経団連会長だったからだけではない。
他方、トヨタは内部留保を数兆円積み増したと言われるが、事情は異なる。
多国籍化しているので、日本で生産した車を輸出する比重は極めて軽い。現地生産し現地で販売しているので、本国への送金を日本円に変える時に円安の恩恵を受ける。だが、円高時のリスクを回避するために現地通貨のまま企業内留保しておくことも得策である。したがって、キャノンとは違って、円安効果を手放しで喜ぶはずもないのである。
「大企業」と一括して論じても仕方がないのである。
2. 株価上昇は経済発展の阻害物である。
2014年1月に入って東京市場では株価の下落が続いている。
16200円近辺を記した日経平均は1月末には15000円を割った。今や、東京市場の売買代金の6割を占める外国人投資家が利益確定の売りに走っているからだ。ドル高を背景に、相対的に安価になった日本株を買いあさり株高を生み出してきた外国人投資家が、今、慌てて売り浴びせているのである。
なぜか?!
ハイパー・インフレに陥らないようにするために、「異次元の量的緩和」政策を止める「出口戦略」が問われているからだ。スイスのダヴォス会議で黒田総裁は出口戦略を口にせざるを得なかった。米国がすでに量的緩和の段階的終了を開始したのに、金融収縮の心配のなかった円がいつまでも量的緩和をしておく大義名分がなくなってしまったのである。
ということは、外国人投資家は、「円を超低利で借りて日本株を買い、株価を吊り上げ、借りた時より円高になったら売る」という円carry trade を終了すべきである。急いで売り、日本株買いをやめなければならない。
売りが売りを呼び、株価の下落はとどまることを知らない。
アベノミクスの1本目の矢が折れてしまったのである。
株価上昇を喜んでいた一般投資家は、含み益の夢を見ただけで、利益のあるうちに慌てて売るか、既に売ってしまって、得た利益で買い増した株の株価が下がり、得た利益を吐き出した上に含み損を抱えたかである。
そもそも株とは、過去に投資した資金で得られた利益の所有権を永遠に主張するものである。過去の労働が未来の労働の支配権を主張しているのである。過去に投下された資本は何も新たに生み出しているわけではないのである。むしろ徐々に摩耗し、生産設備の更新とともに株価は0にならなければいけない性質のものである。だが、株は永遠に権利を主張する。企業が投資家から自らを守るためには、発行株数を増やして1株当たりの「権利主張権」の価値を下げていく以外にない。
かくして、大企業は回りくどいことを止め、株式市場から資金調達をするのではなく、利益を企業内に留保し、株主に配当という形で還元することを止める道を取り始めている。
さほど力のない企業が増資をして株価を下げて、効率の悪い資金調達をしている。発行済み株式が100万株で1株100円だった企業が、100万株を追加発行すると、発行済み株式は200万株になるが、1株は50円に下がり、100万株増資しても市場から調達できる資金は5000万円にしかならない。増資をせずに手持ちの株を50万株放出しても安定経営ができるのであれば、新たな負債を抱えずに済むのである。仮に75万株の自社株を保有していたとすると、200万株に増資した場合、保有比率は32.5%に下がる。増資せずに50万株を手放した場合、保有比率は25%に下がる。増資が必ずしも有利な手段ではないことが分かろう。増資に嫌気して1株が40円まで下がったら、増資しない場合と同等になる。
そして配当という利子請求権数は倍になって、経営に口出しをする。配当を増やすように圧力をかけられる。
力のある大企業が新たな資本需要のために利益を内部留保していくゆえんである。
シャープは増資して、420円の株価を270円に下げた。増資した分を入れて総額で割った一株の理論値は280円だったので、ほぼ理屈通り。これならば、シャープは420円で自社株を少しずつ放出して資金調達をしたのと全く同じである。自社株保有率の低下率が増資しない方が低くてすむという利点があるものの、多額の資金を一気に調達することはできず、やむなく増資したのであろう。だが、その結果自社株保有率は著しく低下した。シャープ株が禿鷹ファンドに買い進まれていたら、世界最高水準の技術だけ盗まれた上で資産を売却してファンドの儲けにされていたであろう。
かくして、大企業は大企業であればあるほど、多国籍企業であればあるほど、株式市場を嫌う。ここで、株価が高いということは、同じ配当金を得るのにより高い金で過去の資本投下に対する配当請求権を買うということを意味するにすぎない。過去に投下された資本の利子請求権という「非生産的」請求権の売買が高くなるということは、資金の前向きの活用を妨げる。株価高は、マクロ的に見ても、経済発展にとっての阻害要因に過ぎないのである。
安倍政権は株高を演出してしまった。
今、量的緩和を止める=資金を過去の労働の分配に費やすことを止める=soft landing が問われている。経済成長にとっての阻害要因を作り出してしまい、その政策を止めることを迫られている。何のことはない。究極のジグザグをやっただけで、実質的経済成長を図る手立ては何もしていないのである。
消費増税に伴う景気の冷え込みを緩和するためにする大規模な財政出動の先は、世界的に見て異常に高い比率の日本の建築・土木業界という旧来型産業の構造改革を遅らせ、脱原発などの成長産業の発展を阻害するだけである。
3本目の矢などなかったのである。
あったとしたら、銃の横においてあった弓矢を取ったその矢だった。
今時、銃ではなく弓を選択するのか!という種の選択だった。信長もびっくりというものだ。