共産主義者同盟(火花)

「維新の会」は消滅させるべきである

渋谷 一三
381号(2013年9月)所収


<はじめに>

 この間、日本維新の会なる政党がファシスト政党であることを折にふれ指摘してきた。彼らはマスコミとタイアップして煽情的挑発的発言を繰り返し、地味で緻密な論理構成をする人々を嘲笑し、見世物にするという手法で跳梁跋扈してきた。
 その代表的な番組が読売系列の「たかじんの何某委員会」である。宮崎何某と勝谷何某という煽動家をはじめ、パネルの殆どが現状に不満を感じ苛苛しているが何故苛苛するのかを分析することなく自分より社会的地位の高い階層を攻撃の的にしてスッキリしようという煽動家で占められ、ここに一人だけ違う人物を入れ、この人物の意見をみんなで攻撃し嘲笑うという『いじめの構造』を教え込んでいく番組である。
 この種の番組は「たかじんの○○」という一連の番組に共通するものである。また、
 宮崎何某や勝谷何某などの煽動家を世に出したのは朝日系列であり、右翼が朝日は左翼だと思い込んでいることがとんでもない不勉強であることを証明しているような二人である。
 こうした番組を梃子に、ジャーナリズムの死滅の駄目を押しているのが現在であり、この風潮を最大限利用しているのが「維新の会」なる政党である。
 また橋下徹個人は、毎日マスコミに会見するシステムを作り、取材の努力をしなくなって久しい怠惰なマスコミを支配下あるいは強い影響下に置くことに成功している。
 この手法がファシズムの特徴の一つであることは常識であった。が、今やファシズムに関する常識が常識でなくなるほど、国民の知的水準は落ちている。再び、ファシズムへの反省を国民の常識にまで高める努力が必要になっている。
 「大阪維新の会」の支持層は労働者下層とこの層と同水準の収入しか得られない小売業者である。わかりやすく言えば、公務員より安い年収の階層であり、この階層の年収は200万〜300万。公務員および労働者上層部の400万〜800万との間には100万円ほどの谷が存在する。明らかに社会階層的に亀裂が入っているのである。
 この下層は公務員より激しい賃労働に従事しているのにその半額ほどの年収しかないために、公務員に激しい憎しみを抱いており、公務員を攻撃する「大阪維新の会」や橋下徹個人の姿勢に溜飲を下げているのである。この層は東京より大阪に突出して多いので、東京の「たちあがれ日本」とは性格を異にしている。

本稿では橋下発言の批判を通して、ファシズムについての理解を深めたいと考える。

1. 従軍慰安婦

 橋下代表の意図は単純明快である。(1)強制連行はなかった。(2)従軍慰安婦は日本軍だけではなかった。日本だけが韓国・中国に責められるいわれはない、というものである。
 これは言外に欧米の侵略・植民地支配が責められず、これに対抗するために同じ帝国主義になった後発の帝国主義国日本だけがなぜ責められなければならないのか、という「義憤」が含まれており、中・韓はこうした「歴史認識」をしつこく利用し続けて自らの利害を日本に飲ませようとしている卑劣な国家だ、とでもいう「義憤」が含まれている。

 さて、上記の主張は橋下個人が考え付いたものではなく、歴史修正主義者と呼ばれる一群の「保守」主義者たちの主張である。
 これらの者たちが保守主義者と呼べないのは、保守という大切な機能を果たそうというのではなく、現状の変更を声高に叫んでいる不満分子であり、資本家階級の利害と結びついていないという特徴を持っているからである。
 この特徴は、ファシズムと全く同じである。
 歴史修正主義者が卑怯なのは、第2次帝国主義間戦争から70年近くが経ち、生き証人や「証拠」がなくなり始めてから、「実は○○ではなかった。」と言い始める点にある。
 従軍慰安婦に関しては、その存在自身を否定することができないと観念し、「強制はなかった」という修正を加えるのがその本質である。こう修正することによって、朝鮮人従軍慰安婦は「自発的意思」で売春婦になったのだと言外に言っていることに気づいていない。「あなたは勝手に売春婦になったのに、補償を要求している。」と貶めた相手と会って「誤解を解きたい。」などという会談に誰が応じる必要があろう。恥ずべきは、相手を貶めているのが自分の言説だということに気づくことすらできぬ橋下代表の知性の欠如である。その上、貶めている相手に謝罪ではなく「誤解を解く」ために会うというのだから、「厚顔無恥」という罪名まで加わる。
 さて、強制はなかったのだろうか。証拠書類などなくても、あったと断ずるべきである。書類があったが、すでになくなったというケースも十分に考えられるし、書類を残さぬように日本軍がやったというのも十分考えられる。が、何もなくても植民地の女性が志願して売春婦より劣悪な環境と条件の売春をするはずもなく、侵略者の性奴隷になろうとするわけもない。
 そもそも、従軍慰安婦にさせようとする強制があったか無かったかと論ずること自体が、知性も歴史一般の認識能力も欠如していることを表象している。歴史修正主義者と名乗る知識すらもない連中は、GHQとともにやってきた米兵相手に自発的に売春をした日本人女性がいたことを念頭にでも置いたのだろうか。だとすれば、米国が日本を植民地にしたという事実が必要であるし、暴力的民族支配をした歴史が必要である。日本は朝鮮に対し、中国に対し、侵略行為を働き、暴力的民族支配を軸に奴隷根性の朝鮮人・中国人を「育成」してきたのである。原爆という非人道的な武器を使用した米国の犯罪は犯罪として、日本が朝鮮・中国に対して行ってきた植民地支配・侵略戦争とGHQの日本支配とを同一に論ずることなど出来ないのは、歴史学のイロハである。
 
 橋下徹の念頭には、「裸の王様」があるのだろう。きれいごとを言って売春制度を否定してきたどの歴史的勢力も売春制度を廃絶することに成功したためしはないという厳然たる歴史的事実を、だれもが認めようとせず、建前ときれいごとを声高に叫ぶ人間への嫌悪で溢れている。彼の眼にはそう見えている。少なくとも「維新の会」を支持している層はそう思っており、霞が関の官僚と全く同様に「市民運動」家を、建前を声高に叫ぶ輩として嫌悪している。
 筆者はこうした「市民運動家」が存在することを否定しない。こうした似非運動家に嫌悪を感じる。歴史的に売春制度を廃絶することに成功したことはないことも否定しない。ファシストが不勉強で半可通なのは、例えば革命軍などの士気の高い軍隊や人民自身が武装した軍は強姦や略奪などはせず、仮にした者が隊列に紛れ込んでいたら厳罰に処すことが出来ていたという反面の歴史的事実を全く学んでいない点にある。
 革命軍といわなくとも、例えば織田信長の3000の軍隊が、人数だけを集めた今川軍に勝利できたのは、その士気の高さにあり、その後の織田軍の快進撃は、略奪や強姦をした者を死刑に処すことによって人民の支持を得たことによる。
 要するに歴史的前進を代表する勢力は、歴史的に『猛者のいやし』などとは無縁であり、従軍慰安婦などは必要としてこなかったのである。ファシストは、少しかじっては自分に都合のいい「事実」だけを抽出して声高にわめき散らすのである。まともに学習することすら奪われた下層の不満分子の特徴そのものが党の性格になっている。
 この点でも「維新の会」はファシスト政党であると言える。吉田松陰に会っていない武士としての不満分子は京都で狼藉を働いていただけであり、「維新」を名乗るのもおこがましいというものである。

2. 「二重行政の解消」と「地方分権」の2大基本政策同士の矛盾

 「維新の会」が大阪府で支持を広げた草創期の橋本氏の主張の基本は「府と市の二重行政の解消」という具体的な些細なことだった。これなら実現可能な政策であり、行政の無駄な支出にうんざりしていた下層の府民の支持を得た。
 支持層の下層府民にとって市の美術館も府の美術館も全く縁のない施設であり、この施設の管理のために支出される年間何億にものぼるこれら施設の維持費と暇そうに働いていそうなイメージの館員は、恰好の攻撃目標に感じられていた。鬱積していたこれらの感情に火をつけ、それでいいんだと肯定し解放してくれたのが橋下徹氏である。下層府民にとっては、目障りな公務員を減らし赤字財政を黒字化してくれるという主張は溜飲を下げられる主張だった。
 さらに、自身の生活が苦しくあっぷあっぷの状態の「ぎりぎり納税者」たる下層府民にとって、すぐ眼の下の生活保護受給者は目障りなお荷物的存在に映り、ここに転落しないように日夜頑張っている階層は、生活保護受給者を半分羨ましい怠惰な人間と映す煽動にはまりやすい心理構造を持っている。その上、下層階級は生活保護受給者と近い生活をしているために、不正受給者を身近に具体的に知っており、だからこそ余計に、生活保護不正受給者への容赦ない攻撃にすっとした解放感を感じる。
 かくして「維新の会」の政策は下層階級に熱狂をもって受け入れられた。
 この屈折した感情を解き放ち、攻撃対象を具体的に措定してくれた指導者を持った大衆は矢継ぎ早に攻撃行動を求める。これが、緻密な論理構成抜きの「本音」の暴走を生む。その「本音」の正非の検証などいらない。まちがった意見として否定され抑圧されてきたが、批判をきちんと聞いて考え納得するという作業になじみがないために維持し続けてきた「間違った本音」を公然と言って構わないという解放感。これが、維新の会の躍進のエネルギーの源泉であり、橋下徹氏自身もこうした高揚感に身を包む一員であるからこそ、こうした大衆の心をつかむことができた。
 その熱狂、「本音」の暴走の一つが一連の慰安婦発言であったことは間違いない。

 他方、橋下徹氏は「地方分権」を無駄の解消という脈絡の中で「二重行政の解消」と同義として掲げてきた。
 だが、よく考えてみると、地方分権をしたら自動的に無駄が解消するわけではない。むしろ分権した自治体ごとの二重・三重行政をもたらす可能性の方が大きいはずである。
 橋下徹氏の主張通り道州制が実現し、大阪都が実現したとしたところで、関西道の議会と大阪都議会さらには大阪区議会と、議会だけとってみても三重である。行政機構やそれらの機構が天下りのためにも勝手に作る諸施設の膨大な無駄は推して知るべしである。
 また、マスコミなどのチェックが働きにくいために汚職が起きやすい。事実、兵庫県下や大阪府下では宝塚市長の汚職疑惑や吹田維新の会の市長の身内企業への入札抜き発注疑惑などが発生したばかりか、その解明は遅々として進まないでいる。
 「地方分権」一般の主張と行政の無駄の解消はむしろ対立概念であり、相互矛盾する概念ですらある。
 地方分権の主張が高まったのは中央官僚による統制が現実を理解していない統制であり、実質は一個人官僚による統制であり、陳情のために地方自治体のトップが何度も上京しなければならないという政治資源の浪費がおきるなどの事情による。
 だから、その解決は、具体的に個々の権限を各レベルの自治体に移す具体的作業であり、この作業さえできれば予算は自動的にその権限に見合ったものになる。一律に予算を地方自治体へ移譲できるというほど呑気なものではないはずだ。県と市町村との関係一つをとってみても、個々の権限の具体的移譲なくしては混乱しか生まれないことは容易に想像がつこう。
 また、例えば薬剤行政などは地方分権などすべきものでもない。「国は軍事と外交だけ担えばよい」などという荒っぽい主張がまことしやかに語られているが、こうした主張は自己の主張のほころびを縫うための辻褄あわせにすぎないことが分かる。

 維新の会の主張は、このように矛盾だらけで荒っぽく、彼らの主張が支持されたのは下層大衆の憤懣からであり、だからこそ筆者は、「維新の会」運動はファシズムであると断じてきている。




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