社会主義運動の現状と課題
渋谷 一三
375号(2013年1月)所収
<はじめに>
西欧で社民主義政党が軒並み政権の座につくという現象が起きたが、私も含めてこの現象の解釈ができず、新自由主義への反動というぐらいの解釈しか出来ずにいた。しかし、「手厚い保護」が経済発展の枷となり、働かずに「保護」される人間への羨望と反発から新自由主義への支持や最近の新ファシズムへの支持へと民衆の振れ幅が拡大している現実が、社民主義への迫力のない支持の根拠であったことが鮮明になった。
農業ではフランス型の保護農業が一応の成功を示し、フランスの食糧自給率は殆どの品目で100%を越え、食糧輸出国となってきた。ソ連の2種類の集団農場方式は悲惨な結果をもたらし、中国の人民公社の実践も飢えを何とか満たす程度のものにしかならず、徹底した一人っ子政策を生み出してきた。だが、日本では農業の資本主義化の萌芽が見え始め小ブルジョアジー(自営農民)による農業生産という資本主義の下で生まれた農業形態が初めて変革され、本格的に資本主義化する可能性が鮮明になった。われわれはここからも学べるようになってきた。
こうした資本主義の深化は従来の「社会主義の政策」とされてきた概念の大胆な検討を迫っており、社会主義とされてきた概念や理念の多くが、実は、資本主義の発展が求める自然発生的要求への拝跪でしかなかったことを突き出してきている。支持を急速に失っている日本の社会主義・社民主義運動は、変化した資本主義の要求に対応出来ずに、自民党などと同様に古い資本主義の要求した概念や制度を「社会主義の政策」や「実現すべき理想」として思い描いているだけであることが鮮明になってきた。それゆえに支持を失ってきたと言える。
21世紀に入ってからの変化の積み重ねが、根源的問いを可能にするまでに鮮明になってきた。
本稿は、鮮明になってきた点を明らかにし、歴史が突き付けている問題をこのように理解するのがよいのかも含めて、社会運動の論争に寄与していくことを願って稿を起こすものである。
1. 新自由主義や新ファシズムの台頭
消費増税を進めてしまった菅・野田民主党は、実現できる力などないくせに、理想としてはスウェーデン型高福祉国家を目指したつもりで財務省の掌で踊った。財務省は1000兆円になろうかという国家財政の累積債務を少しだけ「健全化」し、これだけの負債を生み出し続けた体制を続けられるようにしようとしているだけだった。何も新しい構想などなく、国際的信認を失いそうな勢いの円相場の圧力に反応しただけのことである。だから、無駄を果てしなく生み出してきた外郭団体の一つたりとて潰すこともせず、「あすもまた呑気に今まで通りにやっていける」現実を生み出すための現実の変革として消費税の増税を図っただけのことである。
怠慢な社民主義者ですらない現民主党勢力は、官僚機構にいじめられている小沢氏を助けなければいけないという第1義的任務を本能的に肌で感じることもできないほど、社民主義者でも小ブルジョアでもなかった。どのような社会的勢力をも代表していない右往左往集団に未来がないのは当然のことだが、彼らが増税の言い訳として口にしたのが「社会保障の充実」だった。だから、この「社会保障の充実」について検討する必要がある。
年金制度の破綻は目に見えている。すでに破綻し始めていると言っていいのかもしれない。同年代の半数以上がなる大学生の殆どは、バイトという、低賃金層を生み出すための装置の一員となって、親の脛をかじりながらかろうじて大学を卒業していく。この大学生という階層に国民年金の保険料を支払う能力などあるはずがない。この世代の保険料は月額15000円程度にもなるという。この階層の不払いを誇大に宣伝して年金制度が危機だからとして、増税や、赤字の国民年金と黒字の厚生年金や共済年金との統合をはかろうとしているきらいが大いにあるが、それはそれとして、国民年金保険料を払えない階層が増大しているのは確かなことである。
共済(公務員)や厚生年金(企業従業員)は、雇用者側が半額を負担している。これだけでも保険料の実質的な負担は半額になる。だが、もっとも大きな原因は、国民年金に加入することを義務づけられている人々は、共済や厚生年金加入者以外という点にある。公務員や大・中企業従業員でないということは失業者か「社保あり」と求人欄にかかれていない就労先の労働者ということである。国民年金の「健全な加入者」は自営業者しかなく、自営業者の大半の年収は、その長時間労働にもかかわらず、大企業労働者の半分程度である。運転資金にもことかく月にでもなれば滞納し、滞納が溜まれば支払う意欲もなくなることは目に見えている。
かくして自公・民は「3制度の統合」をはかり、黒字の制度から赤字の制度へ資金を流すことにした。これは、見方を変えれば、黒字団体から資金を奪うことなのだが、給付額を下げる「改革」に着手できていない以上、給付開始年齢を引き上げるなどのことしかできない。この結果、再雇用制度の拡大を制度的に図るしかなくなり、これが若者の雇用を邪魔し、若い世代の失業率を増やし、派遣社員などの半失業低賃金労働への「就労」を余儀なくさせている。若い世代の犠牲の下での「年金改革」となっており、若年層の非大企業労働者・非公務員階層に不満が鬱積しており、失業している若年下層労働者階級から「おやじ狩り」や「振り込め詐欺」などを行う人材が供給されている。この階層がファシズムを支えている。
そのファシスト政党は年金給付額の上限を決めるなどの改革すら口に出来ず、給付開始年齢の引き上げをしさえすれば年金問題が解決するかのごときことを言っているにすぎない。自公・民と同じ、若年層の失業者を増やす方策である。その上、この程度のことでは年金問題を解決することはできないことには言及しない。保険料を払う若年層が減少している。人口減少と失業とで。ファシスト政党は自らの支持基盤の利益すら代表していないのである。
基礎年金を創設し最低7万円の年金を国民の全てが得られるようにするためには、消費税の全額をこれに充てなければならない。介護は介護保険で独立採算にしなければならないが、一旦成立してしまった介護保険制度はこれを当てにした浪費構造をすでに作り上げてしまっている。介護施設を利用できるのは軽度の要介護者。これは利用者側の「使わなければ損」意識と、施設側のコスト計算の双方からの事情で、自然発生的にそうなっている。施設からすれば1対1対応に近い人件費を食う重度要介護者を収容するよりも職員一人で10人以上をまとめて「面倒みられる」軽度要介護者を受け入れるほうが採算ベースにのることははっきりしている。きれいごとを言っていては倒産するしかない。
7万の年金では命をつないでいくことはできない。介護制度を独立採算制にすることもできない。増税は浪費構造の延命を保障するだけで、何も解決はしない。だが、増税によって社会保障が行われるかのような幻想を与えることにある程度成功している。
これが、社会保障をめぐる日本の情勢である。
この状態を解決しようとするために、全く逆の方向として新自由主義が常に発生する根拠がある。新自由主義にもいろいろな型があるが、高福祉というふれ文句が実現の可能性がないと判断し、米国式自己責任・放置型と「みんなの党」式支配機構の簡素化型とが歴史に登場している。
米国型は年金などなく野垂れ死にさせる方式で、治安の悪化と自衛武装とを必然とする。当然、日本にはなじまない。すると徹底した官僚機構の再編しか道がない。外郭団体の一切を解体し、仕事ごとに民間へ発注する改革によって国債の発行をゼロにすることは十分に可能だ。だが、これは官僚の天下り先をなくすことになり、官僚機構の徹底した抵抗にあう。選挙で選ばれる運命の政治家が、終身雇用を保障されている官僚に、知識の面でも具体的ノウハウの面でもかなうはずがない。この道を志した小沢さんが攻撃され、大臣だった渡辺さんが自民党を離党し「みんなの党」を立ち上げるしかなかった。
しかし、官僚層の抵抗は、トップ官僚を年収2000万程度の高給で処遇することで解決することは可能だろう。それは天下り団体を存続させるよりもはるかに安上がりで個々の官僚にとっては同じ収入を得る道であるはずだ。「みんなの党」の新自由主義は発生する根拠をもっており、民主党とは違って存続する。官僚の処遇に成功すれば外郭団体の大幅削減は可能だ。
新自由主義を標榜するはずだった「維新の会」は、党首の屈折した無定見から、ファシズムの道を進み始めている。この政党は、下層階級の鬱積した憤懣を爆発させる装置となりはてており、攻撃対象をみいだしては報道機関に実況中継させる劇場型政治を提供している。ローマ帝国の闘牛場の役割になぞらえてもよいし、ナチスのユダヤ人迫害になぞらえてもよい。大阪都構想は、市議会一つで済んだ大阪市の新各区ごとに区議会が必要になり、議員や行政員の増加をもたらす。決して二重行政の解消による簡素化ではなく、「統治機構」の肥大化を生む。さらに、道州制は道議会を必要とし道行政員を必要とする。国・道・都道府県・市町村と4重行政をもたらす。要するに新自由主義ほどの整合性を全く持っていないのである。ファシズム政党と断ずるゆえんである。
こう見てくると、社民主義の高福祉政策は高負担を余儀なくさせた上で、この制度を当てにして巣食う「それなりにしか働かない」公務員のような人間を生み出す。生活保護制度を「使わなければ損」と言わんばかりに悪用し、収入を低く申告する人間や偽装離婚する人間などが決して少なからず発生する政策を提示しているにすぎない。だから、新自由主義の主張に力を与える対極を形成しているにすぎない。
社会主義的未来を提示しているものでもなければ、社会主義的未来を切り開く道でもない。だが、社民主義者は、こうした閉塞的政策を言っているにすぎないという自覚はなく、新自由主義を論理もなくただスローガンを繰り返すことで批判したつもりになっている貧困を自覚してもいない。
社民主義の政治経済学の貧困が新自由主義をアシストしている。
2. 資本主義的農業の発生
資本主義の農業政策は、小作制度をなくし自営農にすることによって生産意欲を高め小作人の半奴隷状態から解放するというものだった。中国革命も農業面でみればこの資本主義の方策を採りいれた革命と見ることもできる。戦後日本におけるGHQの方策と同じである。
八路軍を形成した人民は小作農出身であり、八路軍が進めた土地革命も、地主階級の打倒と農地解放だった。1960年代に入っての人民公社の集団農業の実践は、ソ連邦と同様、自営農による農業生産の生産性を超えることはできなかった。
人類は小土地私有者としての農民による農業生産が最も効率的であるという結論しか持たなかった。すなわち、土地所有者という資産家=小ブルジョアジーによる農業生産以外に生産性の高い農業を実現するすべを持っていなかったのである。さらに言い換えれば、小ブルジョアジーという資本主義を廃絶できないということを社会主義運動は宣告されていたのである。
だが、認めたくない現実は認めないことにして、農民は小ブルジョアジーではないこととして社民主義を標榜してきたのが、世界全体の社会主義運動の限界だった。ソ連邦の崩壊と中国の人民公社の解体は、認めたくない現実をごまかす実践自体の終焉を意味していた。
もう一度確認しよう。農業に関する限り、人類は資本主義を廃絶できないという限界を抱えていたのである。
日本共産党はTPPに参加しないことが日本の農民を守る労農同盟・民主連合政府(小ブル・労働者連合政権)の政策だと考え、TPP参加反対をもってして農業政策を終了している。
だが、日本の農業史に、TPP参加を標榜する農業企業体が登場してきた。会社形態での農業生産である。土地を大規模に会社が所有し、資本家階級から労働指揮者を出し、賃労働という経済的強制のみをもって生産を指揮するという形態である。小ブルジョアによる農業生産から大ブルジョアによる農業生産である。
この方式は資本主義的農業形態の大変革を示している。同じく資本主義的農業生産であるが、歴史上初めての大ブルジョアジーによる農業生産形態が出現したのである。米国における牧場主が日本の関東地方に匹敵する面積の牧場を所有していたとしても、その経営形態は個人経営であり、あくまで小ブルジョアジーによる生産方式である。
日本で出現した会社形式による農業企業体は、週休1日ないし1.5日の月給制で働く労働者である。この農業労働者は泊を伴う家族旅行をあきらめなければならない「土地に縛り付けられた」従来の農民とは違う。有給休暇を取って体を休めたり、病を癒したりすることが可能になった労働者が出現したのである。「資本家に雇われた土地を持たない新たな小作人」ではなく、「農業会社に勤務する会社員」なのである。
従来農業を忌避して「都会に出て働く」ことを選択してきた原因となる農業のマイナス面が農業企業体の出現によって払拭され、長男に限られた農業継承者を、長男も次男も農業従事者になることが出来るようになり、長女も次女も農業従事者になれるようになったのである。この変化は画期的である。高齢者だけになって耕作放棄していた土地・地域が、若者を雇用する活性化した土地・地域になるのであり、農業が歴史上初めて本格的に資本主義化されたのである。
このことは、マルクス流にいえば、「資本主義の開化的進歩的側面」であり、「資本主義化することによって初めて資本主義の廃絶の条件を獲得する」事態が招来したということになる。農業会社に勤めることによって、農業生産協同組合に勤務する態度や生活様式を獲得する。他方、資本家は会社員としての農業労働者を雇用することによって、専門的農業知識をもたない賃労働者を農業生産労働のデリケートで総合的な(百姓的な)労働の下へと組織する力能を獲得していく。
この力能をほぼ全員の労働者が獲得していけば、それはとりもなおさず農業生産協同組合の成立であり、社会主義的農業の始まりである。
社会主義運動は以上の見地から農業を考えたことがあるのだろうか。
3. 保育所の不足と、保育料と同額にもなる保育所補助金給付
保育所が不足しているという。女性が就労するために、こどもを「預かってもらう」ためにである。こどもは5〜7万円で保育所に入れることが出来る。なぜその値段かというと5〜7万円の補助金が国から保育所へ助成されるからである。当の働きに出た女性労働者は15万程度の賃金を受け取っているのが一般的な相場である。国の補助金で見えにくくなっているが、彼女が得た収入はこどもを保育所に入れることで「チャラ」になっている。二人目のこどもからは、彼女が家庭で育児に専念していた方が社会全体の「生産性」としてははるかに優れていることになる。二人以上を保育所に入れれば、国家財政上は2倍、3倍の赤字を生む。二人入れれば賃金が消えるのに働きにでるのは、その後の就労の為であり、社会保険分が「得」になるからである。国家財政から10万から14万の支出が出ていることは回り回って増税や増税ではどうにもならない破滅的事態の招来となるのだが、この点は一顧だにされていない。
二人目からは保育所に預ける方が社会全体としては高コストになる。このことから、保育所の経営の省力化(合理化とごまかすが)を一層推し進めようと動機が発生する。他方、女性労働者の側からは子どもは「一人だけでいい」とする動機が発生する。二人目をのぞむかどうかは女性労働者の得る収入と深い相関関係にあり、高収入を得られる階層は二人目以上を望む。だが、いずれにしても「共稼ぎ」しながら3人以上を育てるのは経済的に割に合わないだけではなく、追い立てられて歯を食いしばりながら働く状態が10年程度続くことを意味する。この負担は女性に集中しているのが現状で、戦後のように「強いられた専業主婦」であれ専業主婦が4人程度の子どもを育てた時代とは大きく異なる。
保育所の省力化の動きは、幼稚園制度の実質上の廃止を日程に入れた。午前中しか幼児を「教育」しない幼稚園の施設を午後あそばせておくのは膨大な社会的ロスだというのが本当の理由である。こうすれば、新たな大きな投資をせずに保育時間の総量を増やすことが出来るからだ。保育所は教育してはならず幼稚園は教育施設であるという建前は、保育所の側からも足枷であり、無駄に時間を過ごさせ続けなければならないというのは、ある意味で逆にプレッシャーではある。そもそも教育と保育との間に厳密な線を引くことなど出来ないのである。建前とは別に利用者側からすれば「子どもを預かってもらう」のが幼稚園・保育所の社会的ニーズである。午前中しか預からない幼稚園は専業主婦階層のための施設であり、そんなものは廃止してしまえというのが「共稼ぎ」階層のファシズム的本音である。
「女性労働者」の側から見てきた。子どもの側からみればどうなのだろう。0歳から1歳で保育所に預けられ、母と別れる際に泣きわめけども何の効果もないことを学び、やがて泣くことさえ止めて「保育所に収容される」ことを拒否する感情を沈潜化させ、目の前の「収容所の現実」を受け入れ、「壁の中の楽しみ」を見出すようになっていく。
このように描くと恣意的だと怒る向きもあろうが、保育所労働者から見れば、率直な「言ってはならない本当のこと」である。保育労働者が長時間労働の中、自らもまた保育所に子どもを預けて働く中、母親のように一人の子どもを見守り、母親のように子どもの話を聞き、子どもと共に食事をしながら食事のための技能や栄養についての知識を培っていくというような接し方はできない。断じてできない。保育労働者の良心はあっても、物理的にできないのである。疲れから、良心に基づく行動すらできないのが本当のところである。
子どもたちは慢性的に愛情不足のまま小学校に入学する。愛情を自分に向けさせるために保育所で覚えた自己主張の強さが小学校でぶつかる。座れない子、他の児童に命令する子、一つのことに集中出来ない子などなど、その程度が激しくなったからこそ昔からいたにせよ「座れない子」等と命名される現実が生じ、学校が荒れる事態が進展した。これは「共稼ぎ」の普遍化とともに進行した事態である。「こどもが変だ」「こどもが壊れ始めた」と言われた時期から30年が経った。「親も変だ」となって10年になる。
幼児を保育所に収容することを、「女性の社会参加を保障する」とか「保育の社会化」などと持ち上げて礼賛するのが社会主義運動だと思い込んできたのは一体何時からなのだろう。
ソ連邦のモデルから、こどもを保育所に収容するのが先進的でよいことで、子どもを家庭で育てるのは社会的存在である子どもを私的所有しようとする資本主義的意識で、さらに女性を家庭に縛り付ける男性の女性支配装置であるとされるようになった。これは一体何時からだろう。
実際は労働力不足だった日本の資本主義が、安価な労働者を必要とし、主婦層を解体してパートタイム労働者という存在を生み出す過程と軌を一にしている。ソ連邦でも労働力不足から女性労働者を必要としていた。この二つの事情が合わさって、「共稼ぎ」礼賛を思潮としてきた。この思潮は社会主義運動ではなく、資本主義の自然発生的意識であり、これに社会主義的意味付与をしただけのことではなかったのか。
この見地から幼児教育を再検討していくならば、全くあたらしい教育論の体系が生まれる。女性の社会参加の概念も大幅に変わるだろう。そもそも、家庭という抽象的構造物が社会的存在ではないと立てること自体がおかしいのであり、家庭を中心に子どもを育てることが社会参加をしていないと立てることがおかしい。社会に「参加」するという発想が可能な、狭い「社会」概念の批判的検討こそ必要ではないのか。資本主義と密接に結びついた現在のジェンダー論を深化させていくことこそ社会主義運動の任務であるのに、資本主義の水準にすら負けている。だから、ジェンダー論として資本主義の砦たる米国で発展している現実がある。ここに拝跪して「洋行帰り」風を吹かしているだけの似非知識人が跋扈してはいないか。
この領域の再検討は大規模な社会主義運動として展開され、その成果に委ねるしかないし、本稿の中で詳しく立ち入る余裕もないが、再検討の必要を述べるという狭い任務を満たしているわけでもないことをお断りしておきたい。