共産主義者同盟(火花)

「維新の会」・民主党を消滅させよう

渋谷 一三
371号(2012年9月)所収


<はじめに>

 民・自・公の3党は消費増税法案を成立させてしまった。この愚行の責任の殆どは愚昧な首相野田にあることは言うまでもない。が、小ブルジョア路線を取ることも出来ず、都市住民を巻き込んで大ブルジョア路線を取ることにも純化できない。要するに自民党と同じ体質であり、2大政党制による政界浄化と円滑な方向転換を制度化しようとするブルジョア政治の永遠化の試みは失敗に終わった。
 「国民の生活が第一」は小ブルジョア路線を採ることを小沢さん自身は鮮明にしつつも、党派としてはこのことに無自覚なメンバーを多く抱え込んでいる。代表代行の山岡氏に至っては労働組合上がりの不勉強な人間の典型のような人物で、この党派の将来は暗い。
 「日本維新の会」に至っては、安倍元首相と秋波を送りあう関係であることを自己暴露せざるを得なくなり、「小さな政府」という誤った路線に絡めとられる理論的弱さを内包しつつも公務員削減に取り組もうとしている「みんなの党」との齟齬をきたし始めている。「みんなの党」はケインズ路線の清算を試行する部分であるのに対し、「維新の会」はブルジョア路線すらとれない復古派になり下がっている。

1. ケインズ路線の清算を巡って

 経済を国家という装置を使ってコントロールしようとするケインズ主義は、経済が国民経済である間は国民国家という枠組みと照応してうまく機能してきた。やれることの範囲はそう多くはなかったが、中央銀行の経済政策とあいまって所得の再分配機能をも果たし社会資本の整備にも有効に機能してきた。
 だが、ケインズ主義はそもそも、企業が国境の枠を超える生産性を獲得してしまったからこそ生じたブロック経済が2度にわたる帝国主義間戦争を引き起こしてしまったことへの対策として考え出されたものであることを鑑みるならば、企業を国民国家の中に押し込めることができないにもかかわらず国民国家の政策として経済をコントロールしようとする本源的矛盾を孕んでいた。
 ブロック経済の代わりに多国籍化=各国民経済ごとに企業を作る=が進んだことはケインズ主義が国民経済を前提にして成立したものである以上、極めて理にかなった必然的形態発展であったと言えよう。
 だが、多国籍化が限界を迎える。各国民経済ごとに「支社」を作る方式は、「支社」間の分業と協業を有機的に組織し一つの企業体として効率的に振る舞うことへの支障としてその程度を増していき、ついには企業の側から国民経済体制を壊す動きが始められてしまった。これがケインズ主義がふるい捨てられた歴史的物質的根拠である。ケインズ主義が誤っていたからふるい捨てられたというわけではない。
 これが「グローバル化」といわれる現象である。
 この物的根拠の変化に照応してケインズ主義の清算が求められた。その最初の「答え」
が「小さな政府」路線であり、その政治的表現である「新自由主義」が猛威を奮ったが、ケインズ主義の清算をすることができなかった。労賃や消費(福祉政策を含む)は国民経済ごとに異なり決して平準化してはいないからである。「グローバル企業」のみが国境を超えてしまっているだけで、中小企業は依然として一部の優秀な企業が多国籍化を遂げることが出来るだけである。中小企業が直接に「グローバル企業」になるというふうには事態は進展していない。このことに気づかずにグローバル化が進展してしまったという仮定に基づいて国民国家の役割を死滅に追い込み基礎自治体があれば十分と思い込んだのが「小さな政府」・「新自由主義」路線であった。
 したがって、現実からのしっぺ返しを受けている。
「先進国」と呼ばれる帝国主義国家の中のグローバル企業が「後進国」のグローバル企業に負け、超過利潤を得られなくなった帝国主義本国の労働者階級の買収ができなくなり、絶対的貧困化が始まっている。欧米にはホームレスや失業者があふれ、日本では賃金の切り下げと雇用の不安定化が進行した。
 ケインズ主義の清算を巡って次に登場したのが、理論的整合性や体系を持ちえない対症療法のスローガン化としての「セイフティ・ネットワークの再構築」を唄う社民党や日本共産党や公明党のような諸派。世界的にも新自由主義への反動として即時的に登場しているが、解決にならない。もうひとつが「みんなの党」などにみられるケインズ政策実行部門の廃止を追求するセクターである。ただし、このセクターは「公務員改革」と銘打っていることからもわかるように、すでに必要がなくなったケインズ政策に照応する公務部門の全廃が求められていることが分かってはおらず、公務員が多すぎるだの賃金が高すぎるだのと、的外れの的当てをしている。直感として公務部門に改革の余地があると思ってはいるが、ケインズ主義との関係と分析できていないためにあちこちにぶち当たっては余分な「敵」を作っている。
 この流れの中に復古主義者が入ったのが「日本維新の会」である。

2. 道州制は要らなくなったケインズ主義部門の屋上屋を作る作業である。

 民主党をはじめ「日本維新の会」などは地方分権を声高に叫ぶ。先の「基礎自治体さえあればよい。」とする新自由主義の発想である。
 地方に分権すれば汚職や癒着はもっと簡単にできるようになり、ここをチェックする検察機能も追いつかなければ、マスコミにかわる地域報道機関もその調査報道能力をはるかに超え暴露することなど到底できない。業者との癒着や地域独占がいかに非効率な行政コストを生むかは、東北のがれき処理費用が最低の東松島市の7倍の費用を請求されている自治体があることからもすでに明らかになっている。
 地方分権が小泉改革で唱えられたことを思い出せば、「平成の大合併」によって基礎自治体を作れば国民国家は死滅していくという新自由主義の夢想に基づく政策であることは言うまでもない。
 民主党および「国民の生活が第一」は、この点でも新自由主義の批判が出来ていないことを自己暴露している。滑稽なのは「日本維新の会」で、これに道州制の制定を付け足している点である。
 衆議院議員定数を二分の一にするだの一院制にするだのと言って、肥大化した統治機構の改革に取り組むかの姿勢を演じているが、道州制が成立すれば道議会議員が増え道政府の行政機構とその公務員が増え、行政機構も含めその肥大化は一挙に増す。現在、地方議会を含めると日本の議員の数は3万人にものぼる。この3万人は民主主義幻想のための必要なコストというのだろうが、地方議員に至ってはどぶ板政治以外にすることはほとんどなく、その社会的存在意義は、多数決を採り決定するための頭数という決定機能にのみあると言って過言ではない。だから比例して減数し、たとえば日本全国で3000人でもいいのである。
 道州制はここに議会と行政機構を新たに付け加える。その大義名分は都道府県単位では狭いというのだが、道にしたところで道際にまたがる事業というのは必ず発生するのである。事業ごとに関係する自治体の協議体を作れば済むことを道州制にするというのである。
 そもそも府と市の二重行政だとして大阪都構想を打ち出して行政機構のスリム化を進める素振りをした「大阪維新の会」だが、行政のスリム化をしようとするなら府をなくし国と地方公共団体だけにするか、国・道・市町村の3レベルにするというのが「維新の会」としての一貫性であるべきである。
 要するに、「維新の会」には論理的整合性(新自由主義批判)もなければ政策的整合性もない。それどころか、要らなくなった行政機構の廃止という歴史的命題の解決に逆行するとんでもない政党である。
 
 以上、見てきたとおりの理由により、民主党や維新の会への投票は労働者大衆の生活をますます圧迫する政治勢力の支配を承認する行為であると断ずる。




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