共産主義者同盟(火花)

周回遅れの新自由主義と使い捨てのケインズ主義

斎藤 隆雄
365号(2012年2月)所収


 昨年末に話題となった大阪ダブル選挙は、大阪都構想を掲げて走り回っている橋下知事の新自由主義が勝利し、他方欧州ではリーマンショックの後始末の第二幕がギリシャを皮切りに始まり、EU全体の財政政策を揺るがしている。どちらの旗印も使い古しの政策であり、この二番煎じが何かを解決できるとも思えないが、他方でマルクス主義にも現状を分析できていないという批判が絶えない。果たして、今我々に求められているものは何なのか。

1.地方行政における新自由主義

 東京の石原都政がそうであるように、今の日本の大都市行政は新自由主義を旗印にしつつある。これは何故か。周知のようにこの日本版大都市新自由主義はご多分に漏れずケインズ主義的福祉行政との合体構造物であるが、保守的な日本主義と官僚制への反感を利用した「小さな政府」理念とマネタリズム的なグローバル主義という訳の分からない混合物と化している。この奇妙な混合物政治は、今の資本主義社会が抱えている矛盾の断末魔の叫びのように見える。おそらく、唯一健全さを保っていると思えるものは民主主義的な公開制というポーズだけであり、それが奈落の底に落ち込むのを防いでいるかのようである。
 大阪で起こっている橋下維新の会の選挙勝利もこの間の日本の政治過程の上からは自然な成り行きでもある。元々日本の地方政治と官僚制は明治以来の地方行政体質が抜け切れておらず、百年前の行政マニュアルがまだ生きている。橋下が地方公務員の給与体系を一般労働者並みに引き下げる政策を「革命」と称したのは、1871年のパリミューンの原則の140年遅れの実現であるとするなら、彼が1868年の「維新」と1871年の「革命」を重ね合わせていると好意的に解釈することも可能である。
 しかし、彼の行政改革は残念ながら日本の1868年以来の官僚政治に対抗する軸が1871年のパリコミューンの理念ではない点である。日本の地方行政への批判、地方官僚への批判は近代合理主義的な手法で充分なぐらい腐り切っているので、俗にいう「民間的手法」という考え方で十分に「変革」ができる。それは、今日日本の行政が突き当たっている困難を何等解決できるものではないのではあるが、「変革」という印象は与えることができる。周回遅れの選手を追い越したと言って喜んでいるのだが、先頭はもっとはるか前方にいるのである。
 80年代から始まった旧統治機構の修復は「国有鉄道」から開始されたが、明治以来の家父長的な統治の構造は日本の隅々に至る迄浸透しており、今日に至るも未だその残存物に蝕まれている。しかし、その残存物の基本は明治期の統治者達が恣意的に構築したのではない。ここでは封建・絶対主義論争を蒸し返すつもりはないが、少なくとも統治構造には旧社会の母斑を残すものであることだけは確認しておこう。旧国鉄が破綻寸前にあった時でさえ、資産を簿価で計上していたという信じられない会計処理ひとつをとっても、様々な所に旧態が手つかずのままになっていたという事実がある。全国津々浦々に至る迄これらの旧弊に属する慣行や規則が山ほどもあることは想像がつく。更にその上、戦後の高度経済成長期の政策思想が屋上屋を重ねている訳であるから、生半可な改革では近代化はできないということである。
 では、これらの「近代化」がたとえできたとして、今日の日本社会が突き当たっている困難に解決を与えてくれるのかと言えば、そうではないのである。例えば、今日の大都市構造が出来上がったのは戦後の高度経済成長期であって、大都市行政機構はその時期に急成長している。俗にいう箱もの行政と呼ばれる土木建築行政が隆盛を極めたのはこの時期である。その後、成長期を終え人口流入が止まり、都市は福祉行政へと転換していく訳であるが、90年代以降税収が減少し、それさえ維持不可能となっているにもかかわらず、失業と高齢化で労働者階級は流民化していかざるを得なくなっている現状からは、ゼロサムを旨とする本来の新自由主義的手法は病人を街頭に放り出すに等しいという喩えが相応しい。

2.可能性としての新自由主義

 では、何故それが分かっていて新自由主義を選択するのか。とりわけ、若者がそれを望んでいるという世評は真偽は別として何故なのだろうか。
 今、変革を望んでいる人々にとって、それしかない、という風に見えるということ。腐敗した官僚制、使い物にならない行政機構、破綻寸前の福祉政策、落ち込む経済、倒産と廃業の中小企業、所得格差の拡大といった、これら現状を喩えた標語群。明治期以降スローガンとしてきた「富国強兵」や戦後の「高度経済成長」といった国家目標が失われた今日、頼るべき社会目標は「新自由主義」だということになってきている。それが唱える近代合理主義が都市を救う、日本を救う?というのである。とりわけ、日本社会が依存してきた行政機構への反発は家父長制的な社会の裏返しであるとも見える。大阪に於ける維新の会の勝利は新たな依存対象の発見であった。新自由主義の可能性にひとまず賭けてみよう、という気分がそうさせている。
 ところが、新自由主義はその発祥の思想を見ても分かるように、ハイエクにしても、フリードマンにしても、先進資本主義国の中間層の思想である。今後十数年間、中国の労働者所得が日本の労働者所得に追いつく迄、この中間層の思想は機能する可能性がある。小泉政権が国政レベルで行った新自由主義政策の結果、誰もがその負の側面を垣間みたにもかかわらず、リーマンショック以降、資本主義の屋台骨が揺らぐや泥舟の「ケインズ主義」に大挙して乗り始めたことで、ますます現状の危機が深められた。中間層がいない新自由主義社会は理念上ホッブスの社会である。結果は火を見るよりも明らかで、実現の可能性すらない。先に挙げた訳の分からない混合物政治が結果的に日本を支配することになるだろう。つまり、何がだめだったのかさえ検証できないということである。
 日本の周回遅れの新自由主義が掲げる多くの政策構造を見渡して分かることは、そのほとんどが外国製であることだ。「維新」という言葉は皮肉を交えて言うなら、明治期の新興武士層の危機意識と同形であるが故に相応しいと言える。今後、国政への転進が成功するとしても、大山鳴動ネズミ一匹となるだろう。更に言うならば、一部で流布している「ファシズム」規定は、ファシズムが何であったかを知らない人たちの言う批判である。旧い左派が使いたがるファシズム規定は、単に強権的な政治や治安管理的政治を喩える代名詞になっているが、ヒットラーが実現した雇用の回復は今の橋下には不可能であることを指摘しておきたい。

3.共産主義の再生

 危機の時代にあって、共産主義思想が復権するのは自然な成り行きである。しかし、共産主義にも負の遺産が残っている。「計画経済」という負の遺産が未だ人々の脳裏に焼き付いている限り、「新自由主義」の破壊力には太刀打ちできない。計画経済は同時に官僚制の肥大化と同義だからである。
 橋下は彼の政策が格差の拡大を招くと公言している。ただ、彼のその言説が通用するのはその言葉の裏に「民を見捨てない」という日本の家父長制的ケインズ主義が生きているからである。「年金制度をぶっ壊す」とも「皆保健制度を解体する」とも言っていない。その意味では本当の新自由主義ではない。彼が資本主義制度への批判をしない限り、何をどうしても現実の困難を解決することはできないのだが、同時に共産主義を旗印に掲げる人々の中にも、共産主義がケインズ主義の延長線上にあると考えている人たちがいる。共通するのは、それを表に出すか出さないかという違いがあるにしても、既に大きな前提であることが分かる。ただ、ここで言われているケインズ主義的政策はケインズの名を冠しているが、彼の思想とは全く関係がない。ビスマルク的政策と言ってもいいだろうし、社会福祉政策と言ってもいい訳だ。時には国家資本主義と言っても部分的には言い当てている。
 欧州の社会民主主義政治がマネタリズムの金融政策を従来から採用していることは知られた事実であるように、何とか主義が現実の下部構造を分析も批判もせずに、その時々の経済情勢に歴史的に対応するだけになって久しい。その意味で共産主義の側からのケインズ批判は、『一般理論』への批判ではなく、ポランニーが分析した資本主義社会の姿から始めるべきだろう。共産主義思想が様々な歴史的分岐を豊かに展開した19世紀の思想と同様に今日、資本主義社会を分析した思想も多岐に亘る。資本家たちや小ブルジョアジーたちの理想をひとつひとつ腑分けして、労働者階級の社会実現に向けた根本的な批判が求められている。
 最後にケインズ主義への批判の観点をあえて付け足しておこう。彼が追求した資本主義制度の生み出す失業への救済を国家の財政政策に求める方法論は、批判の矛先にはならない。求められているのは、彼の国際貿易決済のための金融政策が歴史的に見捨てられているという点である。共産主義思想がただかけ声だけの国際主義であるなら、ケインズにもたどり着いていないということである。今、トービン税が話題となっているようであるが、トービンがケインズ派の一人であるという意味では、我々も周回遅れである可能性が高い。マルクスが国際貿易の理論を残していないという愚痴を言う前に、我々は自身の国際主義を原理的に示す必要があるだろう。
 共産主義の再生は、ケインズ的政策理論ではなく、グローバリズムが孕む下部構造の変容を根底的に批判し、その世界大分業社会の展望を明らかにすることである。我々の前には無数の課題が突きつけられているが、使い古された思想の焼き直しではなく、その克服が求められている。




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