賠償問題が暴く事態の本質
斎藤 隆雄
358号(2011年6月)所収
福島原発のメルトダウンが引き起こした激震の第二幕が開いたようだ。賠償問題である。政府は賠償機構を設置して、予想通り全国の電力会社を巻き込んだ体制を組みつつあるが、この間の資本家達の声明を拾ってみると、彼等の利害計算が透けて見えてくる。東電は自らの組織の温存が既成事実化したことで、賠償金額の上限を設定するよう政府に働きかけている。彼等は、アメリカの賠償法が上限(1兆円)を設けていることをしきりに宣伝し、国家による補償へ切り替えることを画策している。一方、政府は上限を設けることに抵抗しているが、これは被害住民の利害を代表しているのではない。民主党政府は元々小ブルジョア達の利害を取り込むことで政権についたからには、前政権の自民党の基盤を掘り崩さなければならない。その為にも、ここで賠償金の上限を設定するという選択肢は自殺行為に近い。農業問題への独自の政策を掲げる小沢派にとっても、これは譲れないところであろう。
では、鉄鋼/自動車/電気といった基幹産業大ブルジョア達はどうか。彼等にしてみれば、これは東電の解体に近い危機であるから、次善の策として税金の投入を目論まざるをえない。電気を大量に消費する基幹産業は、電気料金の値上げは出来るだけ避けたい所だから、「ただでさえ先進国の中では電気料金が高い国だから、資本の海外移転が促進される」と脅迫めいた脅しをかけている。
民主党政府にとっては幸い、年金問題などの従来の課題から増税論議がなされていることを好機に、消費税値上げへ舵を切り始めている。その為に、銀行団への債務圧縮という駆け引きを打ち出しているのだ。それに対しては、メガバンク側は法的根拠をあげつらいながら、東電への追加融資が出来なくなるぞと牽制している。
これらのことは見え易い構図だが、ブルジョア達の利害には共通するものがある。それは、如何にしてこの賠償をプロレタリアートに転化するかということである。それを巡って、どこに線を引くのか、自らの階級的な地位に従って次々と策を弄することになる。
1. 基幹産業ブルジョアジーとその同盟者たち
今回の震災と福島問題は基幹産業にとってスクラップアンドビルドの好機である。政府の復興資金の取り込みと下請け産業への再編圧力を強めるために新たな投資を画策している。合理化攻撃を復興事業という名目で大手を振って行える訳だから願ってもない好機と言えよう。決算も復興という名目で損金扱いし、実態はいざ知らずリーマンショック以来溜め込んだ内部資金を活用することで、新たな資本構成を構築するだろう。
東電の危機は彼等から見れば、とりあえず解体されないことが確約されたのだから、後は電力料金の弾力化という小手先の政策を政府に承認させることが重要になってくるだろう。一刻も早い電力事業の再編と東電の株価維持が先決だろうから、連合傘下の労働者上層の利害と一致するはずである。原発をこれからどうするか、という問題は電力供給の維持という大原則が補償されれば、原発関連産業の幾分かの損害と比べてもよしとせねばならない。
小ブルジョアからの「資本が海外に逃避する」だのといった批判は彼等にとっては当てはまらない。既に、利益の大半を海外であげているのだから、今更言われたとしても痛くも痒くもない。彼等にとっては今回のケースは状況による選択の問題でしかない。その点では、連合傘下の組合員達は雇用問題という対立点がある。政府との妥協点はその当たりにあると踏んでいるはずである。
銀行資本の債務軽減という政府の横やりに対して、口先では株主の利益をあれこれ言って入るが、それは大量保有者である金融資本の利害を慮っているだけであり、政府がこれから発行するであろう復興資金(国債)の消化を手助けすることとの駆け引きになっていくであろう。今回のケースでは、電力の社会的役割があまりにも大きいので、大ブルジョアジーにとって与し易いのである。
2. 小ブルジョアジーの利害
被災地域の農業/漁業者である小ブルジョアジー達はこれまで地域に下りてきた補助金で支えられてきた階層である。だから、東電への異議申し立ては補償金の規模によって変わってくるであろう。彼等にしても東電が倒産してしまっては賠償されない可能性が高まるが故に、抗議行動の矛先が政府や自治体へと向かわざるを得ない。
元々、原発の恩恵を被ってきた地域であるから、「日本にとって原発がいるかどうか」といった問題には無関心である。むしろ、この地域で生活が再建できるか否かという問題が優先されるので、日本政府の問題解決能力すなわち財政力が守られなければならない。つまり、増税論議には賛成に回るだろうし、更なる地域振興策を要求する必要から特別な地域としての復興策を掲げることになる。
ただ、今回の賠償問題が一時的な問題ではなく超長期な課題であるため、地域的な利害だけからなる復興構想では彼等の本来の生活再建とはほど遠い結果となる可能性が高い。故に彼等が誰と連携を組むかという選択の岐路に立たされるだろう。まずは、資本の論理か、社会の論理かの選択が現れ、次に脱原発か、成長路線かというかつてと同じ選択が現れるだろう。その時、彼等が何を選択するかによって、未来が決定される。
同じく小ブルジョアの立場に立つのが、東電内の労働者である。超優良企業の従業員である彼等は今、連合傘下の労働者上層との利害調整を望んでいるだろう。「がんばれ日本」というスローガンを提唱し、そのことで最も恩恵を受けるのも彼等である。問題の拡散と政府幻想への依存は彼等の階級利害を覆い隠すことに役立つであろう。
3. 資本の論理と社会的偽装
資本主義の原則に従うなら、今回の事象はどう処理すべきなのかを、この際はっきりと知っておく必要がある。東電の決算が発表されたが、そこでは「事業継続に疑義がある」と書かれている。その通りだ。本来なら東電は今回の件で倒産しているはずである。そうなると東電の資産は債権者によって分配され、解体されることになるはずである。電気事業は他の資本家が買い取り再開されるだろうが、株式と社債は紙くず同然となる。現行法制がどうであれ、福島原発の現状を引き受ける資本家はおそらくいないだろうから、そのまま放置されると言うのが資本の論理であろう。
周辺住民による福島原発の収束等は不可能であるから、国家を前提としない限りこの事態は放置されるというのがおそらくリバタリアン達の想定する未来図であると思われる。つまりそうなると、再臨界は時間の問題であるから、放射能飛散は更に広がり関東/東北圏一帯は人が住めなくなる可能性が大きい。
では、そうなることが分かっていて資本家達はどうするか想像できるだろうか。彼等にとっては生活者がどうであれ、人間がどうであれ、問題は剰余価値であるから、日本経済が壊滅的危機にあって事業の海外移転と国内残留との利益計算をすることになる。放置するなら国内産業はたとえ維持できたとしても、日本経済は形をなさなくなることは確実であるから、資本家達の共同的利害は、日本帝国主義を解散するつもりがないのなら、福島原発の早期収拾以外に選択肢がないのである。たった一カ所の原発の崩壊が日本経済を解体するぐらいの脅威を生み出すと言うことをここで確認しておく必要がある。
では、資本家達の共同的利害を実行に移すための機関である国家は、この危機に対してどのように動かせばいいのだろうか。これも単純な利害計算の問題である。賠償をできるだけ値切り、負担をできるだけ労働者に負わせるということである。それを如何にソフトに目に見えないようにするかが彼等にとっては重要なのである。(ちなみに、賠償機構を設計したのは三井住友と中央官僚たちの合作である。)
政府そのものがそこに住む人々の共同利害の下に形成されているという幻想を前提に、彼等は出来るだけ自らの損失を最小にすることを考えるからには、東電の事業継続と政府による賠償システムの構築が最もあり得る選択であるし、また現在そのように進展している。そして、その範囲で電力という公共財を錦の御旗にして薄く広く賠償資金をかき集めるというのが彼等のいつもの手段である。その際に、彼等が考慮する問題は大口電力料金への軽減策、法人税負担の最小化、復興債権の消化、原子力事業の継続、国家の信用度の維持、放射能汚染レベルの国際基準化(最も許容度の広いものへ)といったことであろう。更には、復興に際して被災住民への資金貸し付けシステムの構築とその業務の引き受けといった新たなビジネスチャンスも狙ってくるであろう。「市場を利用する」ことが最も効率的だという彼等の信念からはそういうことしか念頭にないであろう。
一方、社会の論理からは何が考えられるだろうか。まずは、当事者性という最も重要な問題がある。実際に原発周辺の避難地域の自治体や住民(およそ8万人と推定)は自らこの災厄を解決する権利と義務があるだろう。東電はもちろんのこと、利害関係者としての地域住民がこれからの福島原発をどうするか決定するシステムを構築するべきである。現在のところ、こういったことは全くなされていないばかりか、政府との連携も報道を聞く限り充分ではないようである。これは地域住民がこれまで如何に東電から恩恵を被ってきたかという問題とは関係なく、自らの地域を自らが責任を持って解決するという前提が必要である。
次に、電力供給の恩恵を受けてきた東電管内の受益者達のこれからの選択肢を問うべきである。それは、住民ばかりではなく、企業、自治体、公益団体を含めて住民投票を考える必要があるだろう。
更に、東電に関係する株主、社債所有者がおよそ70万人いると言われているが、彼等もまた発言する権利と義務がある。市民社会としての義務と言う観点から、この賠償問題を利害関係者が全て発言するシステムを構築してはじめて、社会的な構想が立ち現れるというのが近代市民社会の論理のはずである。
後者の二つは責任/義務の限度という観点からは、限られたものと考えられる。そこに正当性があるか否かは、市民社会をどう見るかによるが、資本主義経済を基礎においた市民社会の観点からは重要な岐路でもある。
最後に、専門家と称する科学者や行政管理者たちはこの問題に対して、助言以外にするべきではない、というのが社会的なやり方であるだろう。考えられ得るあらゆる可能性を精査するためにはテクノクラートたちに権利を保留させる必要がある。なぜなら、彼等こそ日本の原発推進の原罪を作った人々であるからであり、専門性による権利を認めることは二重の権利を認めることとなり、専門性と市民性とを分断することになるからである。
以上のことが社会的な見地から見た最低限の、そして当面の方策であるだろう。そしてこれらはおそらくブルジョアジーたちが自らの利害を袖の下に隠しながら公言する可能性がある見解である。しかし、それは社会的な偽装でもある。
4. 労働者階級の構想
賠償問題に対する労働者階級の態度は、この問題の根の深さを徹底的に暴くことである。反や脱という判断の前に、事態の我々の側への獲得がまず必要である。幻想の政府まかせや専門家まかせはもはや自らの生存権の放棄に近い。今回の事象が危機における階級闘争の見え易い現れとしてしっかりと捉える必要があるだろうし、この息苦しい生活を強いている根源的な問題性をこの危機においてこそ暴き、変革し、我々の必要とする社会の構想を立て直す契機としなければならない。
労働者階級はこれまで、この原子力問題に対して権力者の側からも革命を僭称する側からも欺かれてきた。その歴史的教訓から、我々は従来の反原発運動の市民運動が持つ不安定な社会構想に対して疑義を提起してきただろう。今や、小ブルジョアジーや自由主義者までが原発の不必要性を叫び、ドイツやスイスでは国家レベルで脱原発を決定している事態に、一般的な従来からの自然エネルギー社会を提起することが労働者階級の社会構想に繋がるのか、今一度再考する必要があることは疑いない。
原発のない経済体制を構築するとは如何なる社会であり、文明であるのかという根源的な問いを抜きにしては現在の諸課題に応えることが出来ない。その為には、当面の反原発や脱原発への社会運動に対し徹底的な応答と参加をなし切る必要がある。未踏の領域への一歩としてそれは位置づけられるであろう。また、共産主義者はこのことを踏まえながらも更に、従来の生産力主義的な理論、経済成長を社会主義社会の前提とする従来の構想を含めた古い理論構成を再討議する必要があるだろう。我々もまた転換を迫られているということを忘れてはならない。