原発のリスクとコスト
斎藤 隆雄
357号(2011年5月)所収
福島原発事故の衝撃は、これからの日本の形を変えていくことになる。チェルノブイリがそうだったように、これは既存の政治/経済/社会/文化の一切の人間の暮らしのあり方の総決算であるから。その結果が最善となるか最悪となるかは分からないけれども、劇的に変わっていくことは確かである。
事故以降、既に多くの人々が原子力発電の危険性については語ってきており、また我々も90年代にいくつかの論議をしてきたので、ここではそのことについてはこれ以上繰り返すことは再確認以上のことにはならないだろう。この間、これまで反原発を市民運動として闘ってきた人々や反原発を専門家として訴えてきた人々の多くが、あまりにも「典型的な事故」であるということを異口同音に話しているのを聞き、これが想定された予測できた事故であることを知ることになった。故に、今日問題となっているのは原発が何故存在するのかという根本的な問いではないだろうか。
1. 危険性
核分裂物質を扱う技術については、従来から我々が未熟なものしか持ち合わせていないということが分かっていた。スリーマイルやチェルノブイリでの事象ばかりではなく、様々な小さな事象までがそのことを指し示していた。今回の福島での出来事はその現時点での総決算であると言える。
しかし、それでもこの未熟な危なっかしい発電所を作り続けてきた背景は、明らかに軍事的で政治的な性格にある。今回、原発周辺からの避難住民が大挙東電に抗議行動に赴いたというニュースをつとに聞かないのは、そのことを表している。政府や電力会社が喧伝する安全性については、反対する人々だけではなく、多くの住民が既に信用していなかったということである。危ないと言うことが分かっていたからこそ、周辺自治体には多額の金が交付されたり、寄付されたりした訳であるから、危険性の受容という態度がそこにあったと考えていいだろう。つまり、危ないと分かっていながら尚かつ受容するという態度は、それが国家の政策であり、単なる一企業あるいは一公的施設という性格のものではないことを示している。聞く所によると、福島原発周辺のある自治体は後二つの原発(7、8号基)の誘致を働きかけていたということである。この積極的な姿勢もまた、危険性と背中合わせの多額の交付金目当てであったと考えられる。これだけ危ない施設が一企業体の利益だけからなっていたら、このような受容は考えられない。最後は国家が補償するという想定無しには考えられない行動である。
あるいは、こうも考えられ得る。多額の金銭そのものが、原発存在の危険性を暗示しており、その危機が地域の振興策と天秤に架けられていたとも言える。危機を巡る政府・電力業界と地域住民との危ない駆け引きがそこに介在していないとは言えない。政府側は多額の金銭による地域住民への危機管理(物を言わせない)であり、住民の側は危機対応での政府補償という切り札の暗黙の約束である。これは、この危機管理という側面では既に問題化している軍事施設と同一の構造を持っていると言えるだろう。
電力会社は電力自由化以前は、地域独占の半官半民の企業体であった。これは国家の経済政策の根幹をなす業態であったことを示しており、ガスや水道事業等とともに公共的な役割を担ってきた。80年代以降の新自由主義の嵐が吹き荒れた時代に、鉄道と通信が民営化されたにも関わらず、電力が自由化されたとはいえ依然として巨大企業を維持できているのは、この原発の政治的性格が大きく作用していることは明らかである。つまり、原子力の利用(電力と兵器、管理技術等)は国家的な事業であり、政治的軍事的な管理の下にある事業なのである。
更にまた、電力が今日の産業の米であり、これなくしては大半の工業製品とその生産/消費は不可能であるからこそ、資本家階級にとっては最も川上に位置する産業であり、鉄鋼とともに国家を支える背骨の産業だと言っていいだろう。だからこそ、多少のリスクは軽視されるというのが今回の事象の背景にある。人口過疎な土地に建設し、大量の交付金を落として住民運動の危機に対する保険とし、最終的な国家の補償によって国民全体に負担させるという政治的な仕組みこそが原発リスクへの巧妙なシステムなのである。
電力に関しては既に石炭石油ガスによる発電量で充分にカバーできるという隠された真実があるが、これは「電気のない暮らし」という不安心理を払拭することにはなっていない。政府と資本家達はこの「不自由な暮らし」をいわば武器にして、原発リスクへの堤防を低めているし、更に今回は津波による産業施設の壊滅がこの危機を薄めている。また、原発事故が化学工場の爆発事故や航空機/車両の事故と比べて、数段危険度が高いにも関わらず時間軸が長いことから危機への人々の認識が遅れがちになることも、政府資本家達には好都合なリスクとなっている。
故に、これらのことを考えに入れれば、我々はこの原子力発電というリスクに対しては只一般的な経済性や科学的な検証だけではなく、政治的・軍事的なリスクを含めた人類史的な検証が必要であり、原理的で根本的な分析と闘いを長い時間をかけて問い続けなくてならないだろう。
もう既に政府と資本家達は「国家的な危機」宣伝に乗り出しており、基地問題で問い直されていた日米軍事同盟などどこ吹く風と、米軍との共同行動を臆面もなく行い、ブルジョア達の国際共同行動を貫徹している。これが日本の労働者階級にとって更なる高い犠牲を強いるものだということをはっきりと明らかにしていかなければならない。
2. 採算性
四月二十日現在での福島原発の現状から推量すれば、予測されるこれからの進展は底が抜けた原発への冷却水の絶え間ない注入とそこから流れ出る高濃度の汚染水の海への流出という果てしのない悪循環が数年続き、炉心での作業が可能になるまで待たなければならないだろう。格納容器の解体にはこれまでの経験から四基全てを完了するには、最短でも十数年という歳月が必要と思われる。おそらく、それまでにチェルノブイリ以上の巨大な格納施設を建設する必要に迫られるであろうし、搬出された核分裂物質の貯蔵にも更なる施設の建設が必要となるだろう。当然の如く、周辺地域の住民は移転を迫られ、新たな町を遠隔地に作るのか、それとも補償金だけで済ませるのかという問題も起きてくる。漁業補償は国内だけでなく、諸外国からも迫られる可能性が生まれるだろう。
これらのことを総合的に考えるならば、原発の危険性を今回の事象が新たな基準となることは確かであるし、そうしなければならない。危険性の予測とは、全て未来のことであるから、過去の事象からしか導きだされない。そして、今現在福島ではその予測の基準となる過去が生まれている。
従来、原発の安全性を喧伝していた政府や電力会社は、スリーマイルやチェルノブイリでの事故を対岸の火事の如くに扱ってきたが、もはやそれは可能ではない。そして、原発の安全性を採算性との関係で論じることも、今回の事故で重要だと確認しなければならない。
採算性等と言えば、論外だと反発される人々もいるだろうが、これまで政府や電力会社はこの採算性(つまり金になるということ)を盾に、この狭い地震国に50数基という原発を作ってきた訳だし、その裏には核兵器への転用という政治的な下心も含めて国家的な事業として推進してきた訳であるから、このことははっきりとさせておかなくてはならない。
一民間企業の能力を超えたものだということが、今回の事故において明らかになったからには、原発がどれだけの利益を生み出し、どれだけの費用が必要かがはっきりと計算できるようになった。事故以前には、この費用は予測のレベルであったが今や現実上のレベルとなったからには、原発が事故の可能性とあらゆる事態の予測の上で、どれだけの採算性があるのか、どれだけの電力料金と税負担が必要なのかは明らかにしなければならない。
東京電力の昨年度の売り上げは5兆円で純利益は1300億円である。今回の事故を受けて銀行団が2兆円の緊急融資を行ったと聞いている。おそらく、住民への補償は保険で賄うだろう。足らずは政府頼みということになる。廃炉費用は一般的には一基一千億程度だが、今回はそれでは済まないのは明らかである。石棺建設費用を含めて一兆円は下らないと思われる。これを十年でやろうと思えば、それだけで東電の純利益は全て使い果たしてしまう。電力料金の値上げは避けられない。政府は全国の電力会社への協力を求めているようだが、原発が国策である以上、全国一斉の値上げしか取れないだろう。そうなると、電力会社への国家管理が強化されなければならなくなる。
既に、一ヶ月が経過し、停電や農業/漁業への被害はもとより、今被爆している人々のこれからの健康被害とその治療と賠償、避難住民への補償、更には廃炉の費用等膨大なコストが全て計算されなければならない。放射能汚染に対する対策は既にいくつか実施されつつある。汚染地域での活動に防護服や計測施設の設置、土壌撤去など本来ならばコスト計算の中に参入されなければならない費用が行政活動として執行されつつある。おそらくこのまま曖昧なままに放置すると、それらのコストは計算されなくなる恐れが既に発生しつつある。
政府は「一義的には東電の責任」と言いつつ、事後的な危機管理すらできそうにもない。我々はこの仕事を社会的責任として、あるいは社会的運動として立ち上げる必要があるように思われる。電力という今日の社会にとって不可欠な公共財を政府や一企業に任せるべきではない。リスク計算は全ての国民にとって、原発論議の前提条件として、徹底的に行うべきである。
その上で、原発が我々にとって必要なものか、あるいは可能なものかを判断すべきである。これは政治的な問題であると同時に経済的社会的問題であるが故に、この採算性の論議は最低限の前提である。なぜなら、核分裂を扱う技術が今日の我々にとってどれだけのリスクとコストがかかるかを知ることは、どのような社会にとっても必要不可欠な問題だからである。それは先に述べた補償問題や廃炉問題ばかりではない。晩発性の病症や遺伝子損傷による将来に亘るリスクも含めた問題と政治上のリスクとしての安全保障問題が当然含まれるだろう。これらはこれまでほとんど想定されていないものだからである。
我々は採算に合わないことはするべきではないし、複数の選択肢がある以上、合理的な判断に従わなければならない。だから、これは一企業の問題ではなく、社会の政策選択の問題であると言うことをはっきりとさせなければならないだろう。