資本主義はどのように描かれているか(4)
斎藤 隆雄
352号(2010年12月)所収
近代社会学が描こうとしている資本主義社会はこれまで見てきたように、先進国社会の変容であった。すなわち、階級の消滅や多層化、個人化や見通せない危険、「伝統」の形成と解体、流動的な労働市場と貧富の格差拡大、グローバル経済下での金融資産の役割、政治の変容と民主主義の機能変化など。これらのどれをとっても、確かに資本主義批判を確定したかつてのマルクスの時代とは違っている。だが、一方でこれらは資本主義批判の基本的な内容と根本的に異なっているという訳でもない。むしろ、先進国社会の詳細で微細な変容に着目し、その鋭い分析眼を用いて先進国社会の人々の生活世界を拡大して描き出していると言える。ただ、残念なことに社会理論は常にイデオロギーの付着しやすい分野であり、前世紀の社会学はこのことから自由ではなかった。なぜなら、彼らがくしくも指摘するように福祉国家の形成と同時に派生した階級構造の変容から中間的な階級が肥大化したことが、同時に多様な社会理論が生まれる素地を作ったからである。彼らが格闘した社会分析は同時にイデオロギーとの格闘でもあったのである。すなわち、少なくとも批判に耐えるほどの社会理論は、マルクスの指し示した資本主義批判との格闘なしにはあり得なかった、ということである。
現代の欧州社会学の大御所で、現民主党政権の看板スローガンである「第三の道」を1990年代のイギリスにおいて政策提言したA.ギデンズの著書からこのことを見てみよう。
「19世紀の社会思想の枠組みからなんとかして自由になろうとするということは、次のような考え方、すなわち、マルクス主義思想と継続的かつ批判的に格闘することが、いずれにしても社会学的関心の主要な焦点となるという考え方を放棄することを意味している。かつてそうした考え方が通用していたとしても、それはまさしく、モダニティというものの理解にすでに述べたような限界があったからこそである。マルクス主義にはたしかに生命力のようなものがあり、だからこそマルクス主義はその終焉の度重なる告知にもかかわらず生き延びてこられたのである。」(『社会理論と社会学』p47)
なるほど彼はマルクスの呪縛から何とか逃れたいと思い、格闘した痕跡がこの文章からは読み取れる。多かれ少なかれ、今日の社会学者はマルクスの社会批判と格闘することなくしては自らの理論を形成することはできなかった。そして、自分はそれを克服したと思った時に彼らは思わぬ反撃に会うだろう。なぜなら、現実がそれを許さないし、彼らの根本的欠陥である現実を変えるという主体性の欠如が、常にマルクスに帰らざるを得なくさせるのである。ギデンズが言う「生命力」が何であるかを彼自身が理解する日が来るのだろうか。
7.社会主義、階級
現代社会理論の多くが階級についての詳細な分析を行い、その変容を強調する。とりわけ、先進国家における社会階層の分化や変容を経済的な発展や所得分配、国家の福祉政策などの要因と重ね合わせて、何とか革命主体の労働者階級を消し去ろうとしてきた。また、逆に階級理論の詳細な展開を意図しつつも、その構造の分析を詳細に詮索すればする程、労働者階級の実態が見えなくなってしまった社会学者もいる。
ここ百年の間、様々な階級理論が登場したが、その中には資本主義の変容-すなわち法人資本主義や独占資本主義という資本形態の分析-から説明したものがある。これらは、資本の所有とその管理という人的要因から、労働者の流動化を結論するものがあった。「労働者も社長になれる」という人生ゲームのようなありふれた理論ではあるが、都市化と産業構造の転換という生活世界の変容と福祉国家化によって、一見正統性があるように見えた時代があった。しかし、これらはフォーディズムの終焉によってそのいい加減さが暴露された。
80年代以降、新自由主義の登場によって新たに登場したのが今回紹介したベックの分析した「個人化」や「リスク」である。これらの理論は、過去の社会学が前提したいくつかの「成果」を下敷きにしていることは当然であるが、その中でも階級分析は極めて重要である。なぜなら、ここで前提されている分析はソビエトロシアの歴史的教訓をも視野に入れているからである。ベック自身もポーランドでの「社会主義社会」を直接経験した人物であるからである。
ここでの階級理論の特徴は、国家官僚層の持つ役割とエリート階層の、あるいは知識人階層の役割を、社会理論に位置づけたことである。ベックが技術革新のもたらすリスクを「専門家」という階層が果たす役割に関係づけたのはその伝統からであると考えられる。更に、これらの理論が注目するのは先進資本主義社会における産業構造の変容、とりわけ第三次産業の拡大という要因を、非生産的労働という観点からこれらの産業に従事する労働者を生産的労働者階級から分離するという階層理論へと導き、マルクスへの批判としたのである。だが、これだけでは「労働価値説」批判の一般的な展開とはなっても、搾取と支配の問題は解決しないことは明らかである。サービス業や管理的職種に従事する労働者が現実に低賃金で働き、日々これらの労働が機械と置き換わるリスクにおびえていることは近年ますます明らかになってきている。
そこで登場するのが、ソビエトロシアでの官僚階級への批判である。それは、社会主義革命によってもたらされる社会構造への批判でもある。これはスターリンやレーニンといった指導者批判ではなく、社会主義革命そのものの批判である。ギデンズの70年代初頭の著書からそれを見て行こう。
「…国家社会主義(ソビエトロシアのこと)は資本主義の止揚を意味するものではなく、工業化の推進または高率の経済成長を達成するために生み出された資本主義の代替様式である。しかしそのようなものとしての国家社会主義は、資本主義社会に特有な権力の制度的媒介ときわめて明確に異なる権力の制度的媒介に根ざしている。」(「先進社会の階級構造」p264)
これは、ソビエトロシアがテクノクラートの支配する管理された資本主義社会であるということを言いたいのである。ギデンズは階級闘争も階級社会も否定しない。更に、この階級闘争は制度化される必要があるとも言う。労働者の団結形態である労働組合はまさにこの制度化された形態であり、さしずめ日本の春闘はその典型であるということにもなるだろう。これは彼の特殊な階級闘争観に依存してもいる。
「最も単純な社会をも含めて、利害対立や顕在的闘争から自由な社会は存在しない。無階級社会においても、利害対立の原因が不可避的かつ慢性的に存在するのであり、それらが顕在的闘争に発展することも、多くの場合避け難い。」(同p139)
さらに、こうも言う。
「社会主義はまさに急進化されたブルジョアイデオロギーであると考えられるのであり、封建的な過去に対する反動の一部をなすとみなされるべきである。」(同309)
これらの言説を公式的に否定することは簡単であるかもしれない。しかし、問題は彼が提起する国家官僚とテクノクラート(専門家)たちの役割について、我々が目指す社会にとってきわめて困難な課題であると捉えることの方が重要である。ソビエトロシアの崩壊過程で取り上げられた「ノーメンクラツーラ」と呼ばれた人々の多くが、現在のロシア資本主義の支配層に移行しているという現実は動かし難い。
階級をその私的所有形態から規定するだけでは捉えきれない様々な社会的抑圧関係がここでは問題とされている。利害という一般的な言葉の中に特殊性を密かに忍び込ませて、社会の中にある広範な対立を闘争社会として描き出すという手法は、逆にそれを管理調整するテクノクラートの必要性を暗に認めていることにもなる。だから、個別利害の下にいつも階級が存在するし、闘争も収まることがないという社会観となる。ベックの描く「個人化」という近代社会の様相もまたこの個別利害という要素を究極まで問いつめた姿でもある。更に言うならその個人の中に、人格の分裂という複数の利害対立を見ようとする人々さえ生まれてくることになる。彼らが「近代」という時代に拘るのは、資本主義が生み出した人類史的な社会的統合の私的な分裂を見ようとするからであるだろう。
では、彼らの言う近代世界の様相を従来の階級闘争論で批判するだけでことが済むのだろうか。ここで思い出していただきたいのは、社会学者たちが言う所の「労働者階級」が、工場労働者、ブルーカラー、組織され単一の目的意識を持った労働者群を指しているということである。そして、それに対峙する形でホワイトカラーが分類され、個人が摘出され、それは「労働者階級」ではないという想定をもって近代世界を描き出す、という構図を形作っているのである。確かに、近代に於ける国家の形成過程に於いて官僚組織が果たした役割は大きいし、専門家(テクノクラート)が現代社会において果たしている役割は無視できない程に重要であるが、それは労働者階級の生活とその労働形態の歴史的変化とを結び合わせる方法に主体的目的意識がないことで、マルクスが本来想定していた根源的批判とは無縁の代物と化してしまっているのである。
ここで私はギデンズの言う「国家社会主義」について論じるつもりはないが、(その必要性を認めるのは当然として)彼のマルクス理解の限界を最後にひとつだけ取り上げ、ベックの「新しい運動」が何故焦点となるのかを明らかにしたい。
* 1
ギデンズは資本主義的生産を分業の細分化という近代特有の産業構造の変遷と同等に扱うことで、マルクスの資本主義批判を切り縮めようとする。いわく。
「マルクスは具体的労働の抽象的労働への移行が、いかにして近代的生産の条件であるか、という点を明らかにした。このことは、経済を独立の制度的領域として区別するまさにそのメカニズムの一つであった。」(『社会理論と社会学』p320)
資本主義を「制度的領域」ということで、近代世界からメカニズム的に救い出すことで次に彼は貨幣の果たす役割をまったく異なったものとして描き出してしまうのである。
「マルクスの著作の中で、この観念(物象化)は『生きた労働』が非人格的な経済メカニズムの法則の下に置かれるという経済的抽象過程に広範囲に結びついている。このことは、ある程度近代化の必然的事象でもあり、病理的なことと見なすことはできない。ただ病理的であるのは、コミュニケーション的に秩序づけられた生活世界にまで貨幣メカニズムが浸透してきてしまった場合である。」(同p320-21)
彼の「病理的」という言葉遣いの意味が如何にあれ、貨幣が生活世界に浸透しないような資本主義社会があるとでもいうような理解となって現れる。彼が病理的と名付ける現象を「生活世界の植民地化」と表現するのだが、この理解の仕方こそ批判的社会学の限界であると言える。なぜなら、生活世界以外に社会的領域があるかのごとくに暗に前提し、生産と生活が別個の世界を持つという世界観として現れるからである。「近代」とは生活世界を消失させるもの、人間の再生産さえ許さない世界であるということが理解できていない。
ベックはリスクの果てに見た絶望社会に対して立ち上がる「新しい運動」を発見したが、それは個人化した人々の新しい結合体としての運動であった。それは当然、古い労働者階級の運動ではなく、個別のリスクに対する抵抗運動である。いわゆる、これまで我々が呼び習わしてきた市民運動がそれに近いものであるだろう。
しかし、既に述べたようにリスクとは明らかに目に見える危機ではなく、専門家たちが指摘し警告する危機であり、目に見える事態となった時は既に抵抗することではなく、崩壊した事態の収拾しか選択肢がなくなる、といった種類のリスクなのである。その例として挙げられるチェルノブイリ原発の事故は、現在も広大な地域が立ち入り禁止となり、周辺住民は甲状腺疾患で苦しみながらも、事故原発の電力で生活せざるをえないのである。また、先進国の失業のリスクは個々人の労働市場への適応能力として処理され、集団としてさえ動きようがない、個々人の精神的病として発現する危機なのである。
このような事態に対して社会学は何を提供しているのだろうか。ギデンズがイギリス労働党へ関与した経緯からして、国家と政府の役割への新たな提案と言う従来の枠組みを踏襲するものでしかなさそうである。彼らが提起した先進資本主義国家における労働者の生活世界の劇的な変化-失うかもしれないわずかばかりの資産とめまぐるしく変遷する消費文化に浸かりながら、絶望的なリスクに曝される人々に提起するものが既に偽物と分かりながらも必要悪として放置された政府の新しい改革であるというのは、いささか寂しい限りである。何故このような結論にならざるを得ないか、それは彼らが資本主義社会の危機に対してあれほどにも精緻に分析し批判した現象そのものが、実のところ資本主義という飽くなき蓄積への欲望が持つ危機意識であるからである。彼らの分析を誰が活用し、誰がそれを利用しているのかを振り返ってよく見てみよう。
我々は彼らの分析を否定する必要はない。確かに彼らの言うように事態は進行している。資本主義の姿は日々その有り様を変えてきた。かつて所得の半分以上を食べることに費やしてきた時代から、今や老後の生活に不安を覚えながらも情報産業が振りまく仮想現実に未来を見ようとする時代へと移り変わってきた現実は動かしようがない。それを前提として、我々の次の時代の社会が根本的に変革をせまっているという現状認識として共有できればいいだろう。ここから出発しよう、しかし彼らの言う未来ではない世界を選択しよう。
脚注
* 1
「国家社会主義」という規定は社会学においては、一定の党派性を持つものとして現れる。そのことについては、別個に論じる必要がある。