2010年初頭の経済・政治情勢
渋谷 一三
341号(2010年1月)所収
<はじめに>
来年度の国家予算案が決まった。92兆円強の空前の予算規模となった。税収は37兆円。45兆円が国債ほかに依存している。
新自由主義の破綻を受けて強いられた予算編成とはいえ、財政の健全化の兆しを期待して民主党に投票した少なからぬ人々の失望を買い、「子ども手当て」や「高速道路無料化」などの政策への批判や支持率の低下などを生んでいる。
小泉政権時代に「規制緩和」の名の下、法人税が大幅に安くなった。これは法人税を米国基準に合わせることによって、主に日本の多国籍企業の本社を日本国内に繋ぎ止め資本収入を確保する狙いをもってなされた処置だった。さて、この結果、景気が良くなっても税収は増えない構造が出来上がってしまった。「百年に一度の恐慌」などと架空資本のバブルごっこを性懲りもなくしている米国の後始末に税金を大量に投入する「時代遅れ」のはずのケインズ主義の財政政策を要求しておきながら、それによって景気回復がしても、税収は増えない構造が出来上がってしまった。
民主党は、このことに無自覚なために、未曾有の予算を立てた上、財政健全化の展望すら示すことができないでいる。
民主党の限界はとりもなおさず小ブルの限界である。
本稿はこの点を中心に、2010年を一瞥していきたい。
1.「こども手当て」や「高速道路無料化」の政策は改善可能である。
「こども手当て」は公明党の発案で始まった典型的ばらまき政治である。自民党が同調したのは、連立政権を維持するためであって、ブルジョア階級の政策ではない。この時期のブルジョア階級の政治は、「新自由主義」であり、法人税の大幅減税と小さな政府による労働力再生産費の低廉化政治だった。サッチャー・レーガンに始まり、小泉もその信奉者だった。<はじめに>の項で述べたように、米国標準という労働者階級にとっての悪貨が世界を席巻していた時期であり、強いられた法人税の税率大幅値下げとはいえ、生産性とは全く関係ないところで貧富の格差を増幅させる野蛮な米国方式に屈服したのが、小泉政治の真髄だった。
さて、抗えないということで日本でも導入された規制緩和の大合唱=新自由主義が、「百年に一度」の大恐慌を生んだそうですから、新自由主義は破産したのだということを確認しておこう。というのも、未だに新自由主義の破綻に無自覚な自称政治家が、自民党を中心にごまんといるからだ。大幅な財政出動というケインズ主義の手法に頼るしかない各国政府の経済政策が、新自由主義の破綻を宣言している。新自由主義の破綻を認めないのであれば、財政出動などせず、小さな政府の使命として、経済は市場に任せて、口出しをしないことだ。
さて、新自由主義が労働者階級の再生産にも失敗し、米国ではホウムレスと食料券の配布を中心とするテント村、日本では派遣村等を生み出している。これらの「収容施設」に落ち込んだ労働者は家庭も持てず子を持つことも不可能で、使い捨て労働者と宣告されている。
明日また自分と同程度の労働者として子を育てることが労働力再生産ということである。後進国並みの費用で労働者を再生産することは出来ず、後進国で労働者が再生産されればよいというのが、「資本の論理」である。この結果、米国や日本の治安は極端に悪化し、荒んだ人々が街を歩いている。マルクスが労働者階級の疲弊と表現した事態が進行している。労働者階級の窮乏化は確実に進行した。
この対症療法として、取り合えず労働力再生産費だけでも補助しようと自然発生したのが公明党の提唱した「子ども手当て」であった。
民主党もこの流れを踏襲しているだけで、新自由主義の破綻を宣告することも出来ず、勿論、新自由主義へのオルタナティブを提起することも出来ないでいる。
民主党の子ども手当て案は、額のみが自公と違うだけである。来年度は実質月額1000円増になるだけなのに、国家予算はもう破産状態である。「子育ては社会で」という文句のもとで、労働者を安価に再生産しようとする目論見は実現する前から破産している。労働者の賃金カットを復元するという「高くつく労働力再生産」の道を歩む覚悟も方針もなく、「社会的に見る」という安上がり再生産システムの破産も宣告されている。
月額20000円程度にすることに反対する国民はそう多くは無い。子育てが出来る階層は現行の12000円でもよいのであり、これが26000円になったとしても、現在子育てが出来ない階層が子育てを始められるわけでもないからである。現在子育てをしていない階層の疲弊は、賃金だけではない。精神的にも疲弊しており、パチンコに費やす金はあっても栄養バランスのとれた食事にありつく金はない。消費を煽られ常に飢餓感にさいなまされ金銭感覚もおかしくなっているため、「子育て手当てがパチンコ代に消える」という巷間のジョウクもあながち大げさとは言えないのが現実である。
高速道路料金の無料化ないし1000円化も同じである。高速に乗って旅に出かけることの出来る階層は余裕のある階層であり、1000円でなければ、出かける回数が減ったり、近場に出かけるようになったりするだけのことである。経済波及効果は観光地を通じての限定的なものでしかない。これを止め無料化することを支持したのは、無用な高速道路建設をやめ、減価償却を終えた道路を無料化するという当たり前の経済原則を貫くことを求めたものであり、国家財政から差額を負担することなど求めていないのである。だから、国家財政が圧迫されるぐらいなら、減価償却の済んだ道路のみを維持管理費のみ徴収するという政策で十分満足するのである。ところが、何を勘違いしてか、「マニュフェストを変更してもよい」という世論の意味を理解することが出来ず、高速道路の無料化をしなくてもよいかのような政策をとり始めている。赤字の地方路線のみを無料化するという全く正反対の政策である。国民が求めたのは利用率の低い、一生に一度も使わないかも知れぬ道路を建設するために、建設費をとうに回収した路線から高額の利用料を取ることをやめることだった。全く正反対のことを始めた民主党は、自らの政策の意味すら理解していなかったことを曝け出してしまった。支持率が下がるのも頷けるというものだ。
あえて「労働者階級の政策」を対置するとするなら、「原価償却を終えた道路の維持管理費のみ徴収」か「原価償却する見込みのない高速道路の建設を一切停止し、国道ないし地方道の整備で代替する。」か、物価を押し下げ労働力再生産費を下げ、しいては後進国の労働者との労賃の国際競争力を増す「トラック等物流の1000円化」政策である。尤も、最後の政策は、はっきりと小ブルの政策ですけど。
2.なんでこんなに金がないの?
こども手当ては1000円増額しただけ。鳴り物入りで「仕分け」したはずの公共事業の削減が大した額にはならなかったとはいえ、史上最高の国家予算になるのは、なんとも展望がない。使った金は実際は農民への補償として消えている。民主党への票を税金で買ったということも出来るのだが、自民党はこうしたレベルの批判すら出来ず、的外れのことをのたもうているので、どうしようもない。
農民への補償は小ブルの政策として一貫性を持つならよい。フランスは手厚い農業保護政策で食料輸出国ですらある。こうした農業を目指し、食料自給率100%を目指すというならよい。一貫性があるというものだ。だが、それがない。米作休耕田10a当たり15000円の補償をするなら、水田として維持させ数年以内に米作を再開するか他の食物を生産させるかの計画と一体でなければ意味が無い。農業をやめようとしている高齢の農家に意味のない収入を補償しているだけのことである。
小ブル政党にすらなれていない体たらくでは批判のしがいもないというものだ。小ブル政党に成れていたとして、「それでも労働者階級の利害と大いに異なり、両立できる種のものではない。」ことを展開したいのだが、それはもっと先になりそうだ。
新自由主義の破綻を宣言し、すでにブルジョアジー自身によって破綻を宣告されたケインズ主義の破綻も確認し、領導する経済思想がないまま、とりあえずEUを模倣し、いわば「新社民主義」の道を歩もうとすべきなのが、民主党政権の歴史的位置なのです。とにもかくにも、自らの位置を自覚すべきです。この自覚がなく右往左往しているのは見苦しいだけでなく、自民党政権復活の道を開いてしまうでしょう。新社民主義の土壌を破壊してきた米国ではこの傾向は顕著で、オバマ大統領の支持率は5割を割り、民主党しか当選してこなかったマサチューセッツの上院議員選挙で初めて共和党が当選するありさまになった。
オバマはイランから撤退する口実としてアフガン派兵を言う中途半端さのため、結局はイランに派兵されていた兵員をアフガンに振り替えただけの結果に終わり、ブッシュの戦争犯罪を暴く立場を手にすることもできなかった。ブッシュ一族にアフガンの石油利権を保証して黙らせるというせこい政治的計算が、かえって自らの政治基盤を弱らせたのです。共和党の妨害や反対の渦を巻き起こし、これと戦うふりをする小泉流劇場政治をするほうが「なんぼかまし」だったでしょう。闘えないオバマの「Yes We Can」は、色あせ、共和党政権へのゆり戻しは現実味を帯びています。
日本では社民党が残存していることが示すように、新社民主義という小ブルジョア政治の道は閉ざされていない。欧州型の小ブルジョア政治が可能であり、それが資本主義の新しい延命の道として世界的になる物的根拠はあります。労働者階級と小ブル階級の未来をかけたせめぎあいの時期が今です。
労働者階級は相変わらす世界的に立ち遅れており、せめぎあいは顕現化することができていません。ソ連のスターリニズムとその崩壊という70年の歴史の負の遺産の影響が大きいのです。が、だからこそ、根本的総括が可能であり、この点では試行錯誤を繰り返しているだけの小ブルジョア政治と大差はない。どちらも、体系を持ちえていないのです。