共産主義者同盟(火花)

低金利と架空資本

斎藤 隆雄
336号(2009年8月)所収


 昨年来の金融恐慌については既にその概要は述べてきたが、今回はもう少し過去に遡ってそれらの大まかな機縁と経過を考え、この間世界中の政府が財政金融政策を行っている根拠とそれが生み出すであろう結果を考えてみたい。
 まず、今回の金融恐慌の直接の原因についてはこれまでも述べてきたし、また各方面で様々に論じられているので、繰り返す必要はないだろう。2000年から現在までアメリカITバブルが崩壊して以後、CDSに起因する住宅バブルが何故可能になったのかを考えてみよう。一般にグローバル経済と言われるようになったのが、世界的な通信ネットワークの完成と主要帝国主義経済圏の規制緩和であるとされている。その完成の時期は概ね1995年と考えられている。米財務長官ルービンが就任し、「強いドル」政策を宣言して過剰消費大国へと舵を切ったというのが95年であった(同時にこの年はWTOが締結された年でもある)。世界中の貸し付け可能な金融資本が架空資本となってアメリカに流入したのだが、元々これらの膨大な金融資本はどのようにして生まれたのか、そしてそれらはどこから来たのかが疑問として生まれる。
 2005年にバーナンキが「世界的蓄積過剰論」を世界経済の主要な現象として取り上げたが、巨額のファンド資金や投資銀行が運用する架空資本はどこから流れてきたのか、である。 これらの資金は現在では概ね高度資本主義国の年金ファンドや保険ファンドなどと言われている。 * 1 それから忘れてはならないのは石油産出国の資金である。これら巨額の金融資本は本来の資本主義的な循環であるなら、産業資本に投下され新たな生産活動において利潤を生み出すはずである。しかし、現実としてはそうはなっていない。今回の金融恐慌では持続不可能な信用力の低い労働者への貸し付けを繰り返して、地価の高騰によるバブルという架空市場を形成した。
 では、何故産業資本に投下されず、架空市場に資本が投下されたのか。それは利潤を生み出す産業資本が存在しないからである。つまり、資本の需要が不足しているのが世界経済の現状なのである。膨大な資本の供給に対し、需要が不足している場合、当然金利は低下し、行き所のない資本は自ら架空資本となって世界中を駆け巡るのである。これまで、各国経済圏の規制等で部分的に滞留していた資本も今日のグローバル経済のネットワークによって瞬時にかき集めることができるようになった。行き場の失った資本が金融資本家たちによって様々な金融商品の形をとってねずみ講的に運用されてきたというのが、今回の危機の根底にある。
 では、資本が行き場を失ってきたのはいつ頃だろうか。80年代初頭は資本が極端に不足していたし、急速なインフレで価値の減価が激しかった。しかし、当時もアメリカは「強いドル」を言い続けてきた。70年代の後半から金利が上昇し始めたが、85年のプラザ合意以降は落ち着き始め、それ以降70年代レベルを超えて金利が下がり続けている。とりわけ、日本は95年以降歴史上かってない程の低金利であったし、今もそれは続いている。

主要国長期金利推移

 このような右下がりの金利低下は明らかに資本の過剰を現している。 そして、貯蓄と投資(貸し付け可能資本)は等価 * 2 だから、バーナンキの言っていることは現実をよく説明していることになる。そして、低金利は投資環境の改善であるから一大投資ブームが起こる条件が揃ったことになる。80年代以降の新自由主義経済が何をしたかは、これだけで鮮明に理解できる。つまり、消費(賃金)を減らし、蓄積を高めて、膨大な資本を形成したということである。形成された資本は再投資されなければ単なる退蔵資本となるから、投資先を当然第三世界へと向けることになる。東アジアでの経済成長や最近の南アメリカ、ロシア、インドでの成長経済はこれらの資本が関わっていることが想像される。
 しかし、95年以降はその図式さえ機能しなくなった。アメリカが自国へ資本を吸収し始めたのがその現れである。次々と生み出される過剰資本はアメリカ経済の消費(借金)へとつぎ込まれ、 ついに破綻したというのがこの間の出来事の顛末である。 * 3
 では、この過剰な資本は本来の生産資本へと投資されれば「健全な資本主義」へと回復するのであろうか。否である。なぜなら、元々過剰な資本が生産資本へと投資する環境は整っていた。銀行を介さずに市場で資金を調達できる制度整備は新自由主義経済の目指した所であった。しかし、資本は生産資本へとは向かわなかったのである。なぜなら、企業は新たな生産投資をして商品を供給したとしてもそれを需要する市場が育っていないことを知っていたからである。投資すれば、明らかに過剰生産となって自らの首を絞める結果が見えていたのである。新自由主義経済は「自己責任論」を流布したが、その結果人々は自らの消費経済を管理するようになり、年金や保険、貯蓄へと向かわせた。それは消費を生み出さず、資本を生み出す結果となることはあきらかである。
 貯蓄の過剰、資本に対する需要不足ということになれば、当然需要を作り出せばいいのだということになる。この間の危機に対応した各国政府の財政支出はその需要を作り出す政策だということである。これをケインズ主義だと言ってはいけない。違うからである。元々、ケインズが提唱している政策は一国主義的である。IMFが創設される時に、イギリス代表のケインズとアメリカ代表のホワイトが論争したのは有名な話である。ホワイトは今で言うグローバリズム(アメリカ基準の)だったのである。ケインズの需要創出政策は国際的な資本移動に制限がなければ成り立たない。1943年にケインズが戦後の世界経済のルールを三点挙げている。第一は、一次産品貿易の国家管理。第二に、重要物資の国際カルテル。第三に、工業製品の輸入数量規制である。これらは現在一つとして現実のものにはなっていない。
 では、現在のグローバリズム経済の中での需要創出政策とは何なのか。それを考える際に前提となることは、グローバリズム経済の正体を明らかにすることである。これは単純なことである。つい最近、前の日銀総裁だった福井が率直に語っている。
 「グローバル化の影響で世界の賃金が限りなく同じ水準に収斂する。経済学的には理解できる現象でも、一国の社会的側面からみると割り切るのが極めて難しい。だから政治的にうまく対処しなければならない。」
 つまり、グローバリズム経済の下での需要創出とは国民経済の破壊ということである。皮肉なことに、先進国の福祉政策が生んだ年金ファンドが自らの未来の姿を歪め、投下された資本は再び過剰生産を呼び込むことにならざるを得ない。年金基金にしろ、保険基金にしろ、インフレ率に合わせて資本主義的に運用するには成長経済が欠かせない。しかし、投下すべき生産資本が不足しているとするなら、架空資本のままマネーゲームに賭けるしかないのである。そして、ゲームの一回戦が終わってみれば、福井の言うように労働者賃金の平準化が待ち受けている。年金も保険も、いわゆるセイフティネットは崩壊しますよ、と宣言している。二回戦は本当の過剰生産恐慌が来る可能性を増大させている。
 国家が前面に出てこざるを得ない下地をこのように捉えることで、今盛んに投下されている公的資本の必然性が正当化されているのである。政府が国民経済を守ろうとすればグローバリズムは変質せざるを得ない。しかし、あからさまな保護貿易は既に各国が構築したグローバリズム経済システムを崩壊させてしまう。そこで手が付けられているのが新たな金融規制である。新BIS規制にしろ、新会計規則にしろ、どれも資本家達の次の蓄積構造の模索であり、次の収奪の準備である。ほどほどの失業対策もブルジョアジーにとっては必要と感じられているが、雇用形態についての彼らが克ち取ってきた権利は手放そうとはしない。ということは、今後失業率が来年にかけて更に上昇することは確実である。賃金カットや景気回復期での加重労働も復活するであろう。
 ただ、問題は行き場を失った架空資本は今後どうなるのかという点である。成長が期待される新たな機能資本がない以上、向かう先は新興経済圏と次のバブル期待でしかない。中国、インド、南米諸国とASEANといった成長経済が見込まれる経済圏への資本投下がこれから再開されるであろう。日本では00年代に一旦国内回帰した生産資本がまた空洞化の速度を速めることは確実である。これは、日本の下層労働者階級の賃金が新興国労働者並に平準化するまでは続くと考えていいだろう。その間、社会的激動が起こらないように如何に軟着陸させるかが政府の任務となるだろう。そのためには、デフレ政策は維持されなくてはならないし、バブル政策もコントロールされなければならない。今回の危機のように資源価格高騰を招くようなことがあっては、インフレ危機と社会的危機を招き寄せることになる。
 そこで先進国政府のこの間の金融改革は、かなり規制色の強いものになっている。これらの政策は明らかに新古典派的政策である。間違ってもケインズ派とはいえない。グローバル経済を維持しようとするなら、これ以外に選択肢はないと言える。
 デフレと低金利、管理されたバブルと新興国への資本投下/収奪に対抗する我々の社会的運動に何が求められているのだろうか。一つは国際金融資本へ吸い上げられる架空資本の原資たる労働者階級の余剰資金を国内循環へ戻す仕組みを作ることである。これはケインズ的ではあるが、このことによって労働者階級の階級的な精神を復興させるきっかけにすべきであろう。これは排外主義を招くと批判する向きもあるかもしれないが、日本の復古的排外主義はもはや労働者階級には受け入れられないだろう。むしろ、彼らを解体するものとなる可能性が高い。また、第二にはこれらの資金循環において社会的企業の役割を前面に押し出すべきだろう。それによって、歴史的に敗北した計画経済思想への決別を鮮明にすることができるのである。

 今回はやや荒っぽい提起をさせてもらった。展開不足の部分や歴史的分析の不足もある。読者の忌憚ない意見を望むところである。とりわけ、これからの世界経済の行方を分析することはきわめて重要な仕事となる。現実から何を学ぶかが、我々の運動が根源的で批判的であるかの指標であろう。




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