またぞろのAU「構想」さわぎ
渋谷 一三
335号(2009年7月)所収
筆者は、拙稿「2003年経済情勢」でAU(Asia Unity)(アジア共同体)が実現する可能性がないことを再度確認した。それ以前の90年代初頭に、仮にAUを真剣に考えるなら戦後補償をきちんとし、韓国・朝鮮・中国はじめ日本が侵略した諸国の「信頼」を勝ち取らなければならないことを指摘していた。
西ドイツ(当時)並みの戦後補償では西ドイツ並みの「信用」回復を得ることは出来ず、それ以上の補償をして初めて西ドイツ並みの「信用」を得ることができるだろうことも蛇足ながら言及していた。
しかし、その後、20年間、日本はAUを準備する努力を一切せず、靖国参拝などむしろ逆の動きを重ねてきた。
こうした政府の動きに無批判なまま時を重ねてきたマスコミ界が、米国の尻拭いに嫌気をさして、突如AU構想をぶち上げ始めた。この厚顔無恥・無節操な動きが日本に侵略された諸国の顰蹙を買うのは当然のこととして、一体、何のために、厚顔無恥・破廉恥なアジア共同体構想をぶち上げ始めたのか、それを暴露するのが、本稿の狙いです。
(1) 無前提に語られる「100年に一度の大恐慌」
知性のかけらもない麻生首相に始まり、多くの経済学者までもが、何の論証も前提もなく「100年に一度の大恐慌」という立場を取っている。「大恐慌」への対策をめぐっては全く違う立場を取る金子勝さんと谷口誠さん、また分析が違う寺島実郎さんなど、今回の不況から抜け出すのは容易ではないぞというトーンの金子さんから、1929年世界恐慌になぞらえてしまうのを立場化してしまっている感の強い谷口さんまで、奇妙にも、「100年に一度の大恐慌」という文言上では一致している。
(2) Green New Dealの評価の「奇妙な」一致
米国崇拝の抜けない谷口さんから、「恐慌は質的・構造的大転換を要求している」との立場からオバマのグリーン・ディール構想より前にエコ革命構想を打ち出していた金子さんまで、エコへの社会的投資を歓迎する点での「一致」が見られる。
(3) 米国の没落という観点の一致
米国債の買い手がいなくなったという現象からドル基軸通貨制の揺らぎという現象などの諸現象という事実から、「米国の没落」というシェーマでも、多くの論者の「一致」が見られる。
以上の3点に着目しながら、筆者の考えを述べていこうと思う。
1.「100年に一度の大恐慌」という表現には何の根拠もない。
この表現をほとんどの人が使うが、100年に一度の根拠を述べていない。なのに、この表現を使うのは、それが米国発という点と不良債権の額が大きいという点から気分的に使っていると思われる。だが、今回の米国の住宅バブルの崩壊は少なくとも火花派には予想できており、多くの論者もそれに先立つITバブル崩壊の処理のための住宅バブルの形成という見解を持っていた。したがって、問題はバブル依存体質の解明であって、100年単位の産業構造の変革の偶然から提唱されたゴンドラチェフ曲線がどうのこうのというのは、決して問題の解明に接近する手法ではない。
バブルの崩壊から立ち直るために別のバブルを用意するしかなく、それがバブルの乗り移りにすぎないと分かっていそうなのに巨額の融資をしてしまう何とも情けない経済「学」が米国流経済「学」であることがはっきりしたわけではある。が、欧州は何故に巨額の融資をしてしまったのか?ここに事態を解明する鍵がある。欧州の中でも「金融立国」なるものを目指し世界3大金融市場の一角になったロンドン市場を抱えるイギリスが「被害」が最も大きかった。米国内の金融資本並みに巨額の「融資」あるいは「投資」をしてしまっていたのである。
この根拠はITバブルへのかかわりの深さによる。日本はたまたまそれ以前のバブル崩壊の後遺症に苦しんでいてITバブルに乗ることが出来なかったためにITバブル崩壊の被害に遭わずにすみ、だからまた米国住宅バブルに関わる必要がなかった。だから今回日本は比較的「軽症」で済んでいた。何の哲学も持たぬ不勉強の森が総理の時に「IT化」を提唱し、遅ればせながらの「金融立国」「ITバブル同乗」路線を目指した歴史事実からして、今日の日本が軽症でいられたのは偶然にすぎない。「失われた10年」に入っていたからであり、10年もかかる治療にもならぬ治療法をしていた自公行き当たりばったり政権という愚かな政権が幸いしたという偶然である。
バブルの処理にバブルを用意するしかないというのは、過剰生産による恐慌と全く意味合いを異にする。過剰生産の場合は消費量を増やすか生産量を減らせば根本的に解決する。消費量を増やす取り組みがケインズ主義の骨子であり、国家予算という所得再分配システムを通じての内需拡大や労働者への所得分配率の拡大などの方策がそれです。他方、生産量を減らす試みが帝国主義間戦争による過剰生産力の破壊やその後の多国籍化という国際競争による企業数の調整などです。ということで、29年大恐慌の処理に恐慌を用意するしかないなどということはないのです。
なのに、バブルの処理にはバブルを用意するしかなかった米国流経済「学」なるものは、何なのかということが問題の中心として浮上します。
榎原さんのいう「信用資本主義」が解明の糸でしょう。榎原さんはマルクスを丁寧に分析・継承して「信用資本主義」の概念を復活させました。筆者は信用資本主義という訳語が美しすぎて誤解を生じやすいと思うので、英語での訳語「クレジット資本主義」をそのまま使おうと思います。
株式投資のように、株が上場された瞬間は企業の活動と結びついていますが、その後の株の売買は投資家相互間の株式所有権の移転に過ぎず、何等産業資本と関係していない。これが架空資本。バブルはこの架空資本を巡って発生している。
「投資家」はいわばポーカーゲームをしているので、株価を吊り上げ高値を作ってから徐々に売り、下がったところで買いを入れる。買いを入れる行為そのものが、株価を吊り上げる働きをするので、株価は再び上昇に転じる。上昇を促進した後再び今度は大量に売り、株価の大幅下落を演出する。そこで、また買いを入れる。この繰り返しのたびに利ざやを稼ぐことができる仕組みになっている。
このゲーム過程は産業資本と全く関係していない。この過程を主導できるのは、より多くの貨幣をもったいわゆる機関投資家(銀行・生保・証券会社)やこれに対抗するために大口個人投資家が連合したヘッジファンドなどである。純粋な個人投資家は、この過程に翻弄されるだけの運命で、ポーカーゲームに例えるなら、相手が怖くなって降りるまで掛け金を上乗せし続ける資金のないゲーム参加者です。
金はゲームの参加者の間を巡っているだけで、とりあえず実体経済とは何の関係もない。ゲームの最大の被害者は最大の利益を上げてきた者たちです。個人投資家はほとんどの場合「被害者」でありますが、自己資金で行っている間は株価が下がって「含み損」になっても、上昇するまで待てば損得なしの水準まで持っていくことができるのです。利益を上げてきた機関投資家やヘッジファンドが、個人投資家を犠牲にして吸い上げる額を超えた時点でいつでもそれは潜在バブルなのです。機関投資家相互間の掃討戦が日程に上り、これを回避し続ければ続けるほど、バブルの額は膨らみ「大恐慌」が発生する仕組みになっています。
株価の暴落はとりあえずは実体経済とは関係ないのです。ところが、損をしたのが機関投資家の場合のみ、貸し出し不能や貸し剥がしなどを通じて実体経済に影響が出てくるに過ぎません。繰り返しますが、架空資本のやり取りで挙げた利益は同額そのゲームの参加者何某の損となっているのであり、株価の「暴落」は必然であり、繰り返される、過程の一部の構成要素に過ぎません。
ITバブル→住宅バブルを通して上昇した分とほぼ同額株価は下落すべきであり、それが来ただけのことなのです。そして、今回の敗者が前回の敗者日本ではなく米国・英国の金融機関だったに過ぎません。大騒ぎをすることではないのです。米国と英国が「失われた10年」でも「20年」でもやればいいだけのことなのです。
ところが、ブルジョア政治のレベルの能力すら失っている自民党は大騒ぎをする。麻生ごときは総理にしがみつく材料にしているありさま。
日本にとって米国のバブル崩壊が問題となるのは、輸出依存体質の経済構造ゆえであり、米国に輸出の多くを依存している限りでのことでしかない。
トヨタやホンダのように北米市場に輸出の多くを依存していた企業はとりあえずダメージを受けるが、スズキのようにインドにシフトしていた企業にとってその影響はあくまで間接的なものでしかない。その上、よく考えてみれば北米市場ですらGMとクライスラーが実質倒産したわけで、中期的にはシェアーの拡大が望める好機到来とすら言える。日本にとっての問題はここにはない。問題は、仮に中国市場やインド市場へのシフトが成功裏に終わったとしても、インドや中国の労働力の方が数倍も安く、日本の輸出依存体質ははるかに早く行き詰る点にある。このことについては、後でもう一度振り返ることにする。
2.求められている構造転換はGreen New Dealか?!
金子さんは、「情況1・2月合併号」で、『シュンペーターが言うように、産業がイノベーションで大きく技術革新があった場合に、新しい市場のフロンティアが生まれてくる。そこが最大の利潤を生んでくる。逆に言えば、それを食い尽くすと資本主義は停滞に陥ります。』として、『日本は産業戦略が全然ないから、オバマの「環境エネルギー革命」に乗っかるしかないでしょう。』と産業構造の質的転換と結びつけた内需刺激策を提唱しています。
この点で筆者とは全く異なります。筆者は産業構造の転換の質を問うのではなく、クレジット資本主義・架空資本がドミネイトする経済構造の廃棄を可能とする経済(体制)として協同組合主義(社会主義)の現実的内容を措定しようとする立場です。
ともあれ、金子さんは『グローバルな企業自由化、市場化が、現在に至って国有化や公的資金投入に帰結しているという事実から、理念として失敗であったと断じることができます。』(「世界」790号)とシュンペーターのイノベーション論の見解とは異なる問題意識=新自由主義の破綻という観点から経済の質を問い直しています。
これに対して、谷口さんは『世界は米国を責めるよりも、国力が相対的に低下したとはいえ、依然として米国に政治的にも経済的にも依存し、米国の一極支配を助長してきたことに責任を感じるべきだ』と、米国の支配と闘い米国の国力を低下させてきた勢力からは絶対に生まれない発想を平然と口にし、あろうことか強盗でもあり後出しジャンケンの帝王でもある米国をかばい、説教まで垂れている。
こうも立場の違う二人が、表現上は同じ表現を取る。すなわち、グリーン・ニューディールが産業構造の質的転換を孕んだ良い内需刺激策だというのだ。
筆者は金融ゲームにルールを作る「規制強化」派ということになる。だが、「規制」によって恐慌を緩和することは出来ても、ポーカーゲームのこの種の「金融恐慌」はつきもので、解決策ではないだろうと思っています。しかし、オールターナティブな経済建設を明らかに出来ていない以上、具体的に提出することが出来る規制をすることが次のステップを準備すると考えています。
はっきりしていることは一つ。文化の後進国米国の規制反対論は間違っているということ。米国に都合の良いルールでなければ「規制反対=自由主義」を唱えているだけのワンパターン。誰かのルールが都合悪ければ「認めない」で、後から作った自分のルールを正しいと主張する軍事力を背景にしたあとだしじゃんけん。いい加減に米国のガキ大将ぶりに世界が辟易として見限り始めたということ、そのことを米国民が感知し、オバマを選び本能的に失地回復に乗り出したにすぎないということだ。
求められているというより、始まっている構造転換は「米国の没落」「ドル基軸制の没落」という構造転換だという方が適切でしょう。グリーンはグリーンで資金投入が受けられれば好都合というだけのことで、相対的に別の動機から進行している歴史過程でしょう。
3.多くの論者が一致しているドルの没落
筆者も一致している。だが、である。
谷口さんに登場願おう。なんとも能天気で「アジア共通通貨バスケット制度の設立」をご提唱下さっている。日本が大東亜共栄圏を掲げて侵略した歴史がなかったがごとく。大東亜共栄圏と「東アジア共同体」の相違を論証する努力をしようともせずに「東アジア共同体の原点に立ち戻れ」と平気でご託宣を述べられる無神経の持ち主も、ドルの没落を認めているからこそ、日本のご都合で平気でAU騒ぎをしているということだ。
それよりも寺島実郎さんの指摘する「大中華圏=greater China 構想」の方が現実として進行している。『9月26日に北京五輪の功労者顕彰大会を行ったとき、驚いたことに「中華人民共和国の成果だ」などとは全く言わない。執拗に「中華民族の歴史的成果」だというのです。』 香港・台湾・華僑シンガポール・華僑マレーシア・豪州華僑・米国華僑などなど「大中華圏」が実態として進行しているのです。「アジア共同体」なる胡散臭いものなど相手にする必要など全く無いのです。
『北欧や東欧の一部は単一の通貨でなければ経済を防衛できないとしてユーロに参加する動きを強めていますし、ロシアのプーチン首相は中国に対して、お互いの貿易はお互いの通貨で決済し、ドルの決済はやめようと呼びかけています。』(「世界」790号)と、金子さんもドル基軸制の揺らぎを事実をもって指摘しています。
「ついに買い手がいなくなった米国債」というタイトルで本山さんも情況第3期80号で、ドルの没落を指摘しています。また、『97~98年のアジア通貨危機の際、米政府は、資金不足の企業を共済しようとしているとしてアジア各国の政府を非難した。だが、米政府は08年9月、金融危機で経営破綻した自国の企業に対し救済措置をとった。』と米国のダブルスタンダード(二重基準)ぶりを暴いています。
誰しもが認めるドルの暴落ということは、ドルの暴落が論理的帰結としての推定の域を出て、事実として進行していることを物語っています。現実に目を向けない人で無い限りドルの暴落を認めない人はいないでしょう。さほどに明らかにドルは暴落しているのです。
現在1ドル95円前後で推移しているためにドル安を実感しにくい。それは円も相対的に安くなっているせいです。それでも2割近くドルは価値を下げたことになります。ユーロ対円も2割ほど円高になっているので、円安はますます実感しにくいが、ユーロのダメージは大きいのですから当然です。だが、ユーロ対ドルの比率を見ると、ドルの下落ははっきりします。円高であるならば、ドル:ユーロの比率は変わらないはずですが、ドルは下がっているのです。
今回三者の中で一番被害の少なかった日本が独歩高になって良いのに、円高になったがドルに対してもっと切り上がらないという現実が隠れている。この事実は一方でドル基軸制が機能していることを表わしているものの、それ(ドル基軸制)は日本に対してという限定付であることが分かる。日本は相変わらず米国の輸入に依存しているからであり、米国離れを射程に入れていないからでありましょう。では中国市場へシフトすればいいのかといえば、事態はそう単純ではない。中国もまた米国の輸入に依存して経済発展を達成してきたからです。中国の対米輸出は全輸出の2割ほど。最大の輸出相手ではあります。これに日本を加えると4割近くになる。日本ほどではないにせよ、対米輸出依存の傾向はあったのです。米国が輸出依存型経済発展諸国の引き受け先であった時代は終わり、中国は日本ほど米国の輸入の恩恵にあずかることはできなかった。日本が中国の輸出の引き受け先になることもできない。したがって、日本が中国にシフトすることもできない。現実は、こうした循環の中にある。
現在インドや中国への日本の輸出が回復してきていますが、これは設備投資を中心にするもので、1回限りという性格が濃いものです。次の設備投資の波が来るころには中国もインドもそのかなりの部分を自国で生産できるようになっていることでしょう。また、今回の設備投資の回復も消費財の輸入国たる米国の経済回復が見込めない以上、大きなリスクを孕んでいる。
基軸通貨国が膨大な国債を発行して世界の消費を引き受け輸出国の経済発展を支えるという構造が維持できなくなったのです。ということは、輸出依存型経済発展モデルがなくなったことを意味します。シュンペーターの論にのった技術革新が行われようと、それは一過性で一時的であり、輸出依存型国家を維持できるものではありません。内需拡大といって大量消費や実需ではない公共投資等をしていられる時代でもない。ケインズ主義の時代はとうに終わっている。米国は自国通貨を切り下げ輸出力の回復に努めるでしょうが、輸入を減らすための自国の生産の回復にとどまり、輸出をするほどにはならない。米国製品は工業に限らず農産物においても品質が悪く、これが改善される見込みがないばかりか、どのような国家も輸出に依存することはできない時代が到来したという宣告がなされているのが今回の事態の意味するところだからです。
ブルジョアジーが最も恐れている事態、世界経済の萎縮(シュリンク)がおきる可能性が一番高いのです。輸出という形態は部分的となり、例えば米国トヨタが米国の自動車を生産し、日本コカコーラがコーラの生産を分担し日本では再びペプシに勝つといった、内在化した「輸出」が生き残る、その結果、世界の貿易量は縮小したのち不均衡な拡大を緩やかに始めるという図式が最も可能性が高いと思われます。
一言で言えば行き詰まり。ブロック経済の失敗からブロック内への収縮もありえず、だからこそ、EU以外には地域経済圏も出来ず、ましてや日本が東アジア地域経済圏の盟主なることはありえない。有り得ないことだが、東アジア経済圏が出来たところで日本は入れてもらえない。可能性は大中華経済圏の方にある。が、これとても解決策にはならない。輸出依存経済が成立しないという条件への構造改革・経済改革という要請に応える解決策は目下のところ無いのです。だからこそ、意気消沈している社会主義者の猛烈な学習と協同組合主義の経済発展モデルが現実的な要請となっているのですが、ブルジョアジーの延命策の方が先に提出される可能性も高い。混沌としたまま不況と親しむ経済モデルが定着する可能性も高い。