新自由主義と階級闘争(4)
齋藤 隆雄
333号(2009年5月)所収
IV. 新自由主義思想の展開-金融恐慌以降-
我々は新自由主義経済が本格的に開始された80年代に、当時目に見える形で動き始めた新たな政治経済の背景にあるものが利子生み資本であることを暴露してきた。そして、当時流行しつつあった社会思想を批判的に分析して、その背後にある利子生み資本-架空資本の運動がどのように連動しているのかを指摘してきた。1985年6-7月に「火花」46-47号紙上で掲載された「またしてもマルクスの名によるマルクス主義批判」(国崎俊)と題する論文は柄谷、浅田、岩井といった当時ポストモダンとしてもてはやされた思想家たちの分析を行っている。その中で、これらの新しい思想潮流が世界経済の新たな動きと連動していることを示唆してきた訳である。その一節を紹介してみよう。
「ところで利子生み資本の発展は、信用制度-金融制度の発展であり、この全社会への拡大・浸透である。一方における利子生み資本の運動、およびそれと密接に結びついた架空資本の運動、他方における信用貨幣制度の発達。これはまた独占の形成と不可分である。
利子生み資本の運動(商品化された資本の運動)、またそれと密接不可分な架空資本の運動と、現実資本の運動とが複雑に絡み合った今日の資本の運動の下にあっては、諸商品は、使用価値の側面においても、価値の側面においても、従来の古典的な商品のあり方から一変している。膨大な広告やまたいわゆるブランドなどといった非物質的な諸商品との複合商品として、また他方、社会的労働なる価値実体からは切断された利子生み資本・架空資本-信用制度に媒介された商品として、個々の商品としては"固い"物質的な肉体を具えた商品でありながら、その形而上学的性格が完成されている。」(47号p27-28)
二十数年たった今日から見れば、もはや物質的肉体さえ具えていない非物質的な金融商品が世界中に流通し、資本主義的信用-金融制度そのものを崩壊に追いやったのである。まさにこれらの架空資本を支えた根拠はアメリカにおいては古典的自由主義という抽象的人間観そのものであり、個数に解体された肉体を持たない合理的利益追求体としての個人集合体制がそれであった。
一方、日本に於いては幸か不幸か戦後労働運動、社会運動、文化運動の歴史的遺産がブルジョアジーの前に立ちはだかっていた。まず、彼らが一掃せんとした標的が日本のマルクス主義であった。階級闘争の戦場では当時官公労への一斉攻撃が始まっていたし、実際80年代を通じて国鉄労働運動への解体攻撃と、労働戦線への分断攻撃と「連合」の形成が進行した。それらの階級闘争の思想的な表現がポストモダンであり、ニューアカデミーであった。以後、新自由主義の30年間は戦後日本の階級闘争における労働者階級の組織的思想的な背骨をへし折られた時代であったと言っても過言ではない。
しかし、日本のブルジョアジーは世界的な新自由主義のグローバルな展開を充分利用できたとは言い難い。とりわけ90年代初頭のバブル崩壊以降、政府による膨大な財政政策が一方で組まれ、他方で金融を中心とした規制緩和政策を進めるという場当たり的でジグザグな政策を繰り返した。小さな政府と言いつつも、実際は一つも小さくはならず、軽い法人税と重い国債依存、整理されない政府諸機関と利権構造という従来からの仕組みを変えることはできなかった訳である。更には、バブル崩壊以降の不良債権処理に失敗した金融機関に対しては国有化という手段に頼らざるをえず、新自由主義的政策とはとても呼べない保護政策を繰り返した。また、90年代中期以降世界的な長期金利の低下傾向が顕著になるにつれて(それはすなわち新自由主義的世界経済の行き詰まりを意味していた訳だが)、アメリカを中心とする利子生み資本の運動の世界的な集中と管理が進行していた中で、日本の金融機関は身動きの取れない状況であったことも注目に値する。
2000年代に入って、新自由主義的政策として唯一進んだことが労働市場における規制緩和であり、保護政策の撤廃による国内植民地政策の実行であった。小泉政権が行った中産階級への攻撃は国内植民地層への見せかけの依拠であり、小さな政府が低所得労働者にとって最良の政府であるというプロパガンダがそれまでの実質的な大きな財政支出への批判として機能した。元来、新自由主義思想は利子生み資本の世界的な収奪構造を可能にするための社会思想である訳だから、国民あるいは国家をまとめる思想ではないし、国内に植民地を作るしか道がないことも事実であるので、小泉のとった道は日本における唯一可能な選択肢であったかもしれない。しかしながら、この政策を有効に利用しうる産業とは多国籍企業を中心としたブルジョアジーであり、国内産業とプチブルジョアジーは更なる没落を被ることにならざるを得ない。自己責任論や「気分は戦争」といったルサンチマン風の言説流布や、ライブドアや村上ファンドを巡る検察権力とエコノミストたちとの二分された評価の背景には、この国内階級闘争の構図が色濃く反映している。そして、80年代に流行したポストモダン思想はこれらの階級関係から自由ではなかった。彼らが「左旋回」したと嘆く一部の評論家たちの指摘を待つまでもなく、新自由主義思想の無政府主義的な要素の展開がこの時期に開花していくことになる。
小泉政権以降の日本の政治がブッシュの参戦圧力に乗じて海外派兵や改憲の動きに傾いたり、従来のケインズ型有効需要政策に舞い戻ったりと、相変わらずの迷走を繰り返すのは新自由主義的グローバリズムが従来の国民国家を溶解するという根本的な作用への抵抗であり、利子生み資本の運動への日本的保守思想の抵抗運動であると言える。利子生み資本の世界的展開であるグローバリズムにとって、国民国家の内部にある民衆の生活規範や伝統的な共同体思想は遺棄すべき思想であり、個別の「主体」という架空性が民主主義と言う論理に結びつけられた構造をこそ求めているのである。日本版新自由主義が中曽根にしろ、小泉にしろ常にアメリカ帝国主義との親密さを演出しなければならないのは、徹底した自由主義が日本にはこれまで存在したこともないからであり、それを国家の原理にする必要性をブルジョアジー自身が持っていないからである。
では、昨年のリーマンショック以降の世界的な有効需要政策の展開は、新自由主義的グローバリズムの終焉を意味するのであろうか。元々、今回の金融恐慌は90年代中期以降のグローバリズム経済の行き詰まりを打開すべく展開されたアメリカを中心とした国際金融資本の新たな蓄積運動であった。現実資本への投資が既に飽和状態であり、過剰生産状況にある中ではけ口をアメリカ国内の不動産バブル形成とローンによる過剰消費によるファイナンスをサイクルとして、独自の金融商品-架空資本の運動を膨らませていったというのが原因であった。つまり、過剰な利子生み資本に対して現実資本が生み出す利潤率の低下が未来の労働をも先食いし、更には価値実体のない土地や債権を対象としたバブルを形成した訳である。これらは16世紀以降の資本主義経済が繰り返し生み出した必然的な経済現象であり、これを支えているのが自由主義と言う社会思想なのである。
資本主義の歴史がこれまで金本位制やケインズ主義的な有効需要政策などによってこれらのバブル経済を管理しようとして失敗してきたのは、貨幣商品を基本とした自由競争市場が人間の本源的な共同社会の構造を包摂することができないからであり、抽象的で分解された人間の欲望を物質的に調整管理しようとするからであった。新自由主義グローバリズム経済が自由市場競争のイデオロギーを世界的に拡大させ、国際金融資本の膨大な利益と富の集中と偏在を可能にしたことで、これからもこの富に群がる資本家たちが繰り返し現れることは間違いがない。現在、世界的に各国政府が銀行資本の立て直しと需要創造に巨額の資金を投入しているが、これは過剰生産設備の再編と企業統合を促すための政策であり、新たな多国籍巨大資本が登場することになるだろう。
自由主義的な市場万能思想が一時的に調整期に入ったという限りでは、現在の先進国諸政府を支えるイデオローグ達は新たな社会思想の模索を開始するだろう。「新ケインズ主義」、「グリーンニューディール」というスローガンが見え隠れするが、これらの政策群からは今日の国内外の労働者植民地の現状を打破する幻想すら見えてこない。金融資本への事前規制/管理、時価会計基準の緩和等の政策はグローバル経済の運営主体を再構築するための政策であるし、失業対策や福祉政策の見直し等も利子生み資本の蓄積を政府機関が介入するということでしかなく、政府そのものがこれまで以上にグローバル経済の一経済主体として介在し、国際機関を通じて調整(闘争)するという局面に進んでいくだろう。当然、国家間の合従連衡がG20という枠で加熱することは予期できるし、とりわけ資源を巡る争闘戦が激化するだろう。その中で、国内植民地労働者が自らの解放のために依拠すべき思想は、ワークシェアリングや生活保障政策の構築といった「ケインズ主義的」な国民国家的に完結した政策思想ではないことは確かである。変動為替制度下において一国経済を政策的に完結することは不可能であり、とりわけドルが基軸通貨である限りケインズ主義政策はそれ自体無効であると言わざるを得ない。
新自由主義は個人の利害の自由を基礎においているのであって、資本主義の基礎構造にある思想であることを再度確認すべきである。古典的自由主義のように「神の手」によるごまかしもなく、激烈な階級闘争のただ中にあってブルジョアジーが勝利するための思想であることを肝に銘ずるべきである。だからこそ、国内植民地労働者階級は富の蓄積の根源であり、収奪の実体である利子生み資本そのものを解体する思想を獲得すべきである。労働者階級の現代における革命が最初に手を付けねばならないものがそれである。おそらく、それを可能にするためには政治権力だけでも経済権力だけでも、あるいは社会的規範だけでもない、実験的な運動を模索することが必要だろう。しかし、政治経済権力を等閑視するべきではないことも確かである。今日の我々の生活世界の中に利子生み資本が根深い所に浸透している現状を確認して、制度的変革と生活的変革を同時に追求する階級闘争を構築していくべきではないだろうか。
V. 個の「自由」を如何に乗り越えるか
最後に、今日の階級闘争の現れ方を考えてみよう。新自由主義の時代の階級闘争はこの30年間を振り返ってみれば明らかなように、個人的な戦いであり、小集団での戦いであり、日常生活の戦いであった。それは、個別課題を巡る制度要求闘争であったり、生活世界の消費運動を巡る戦いであったり、国有企業の生産性/合理化闘争であったりした。しかし、それらの戦いの個々の運動の根源にある社会的な設計思想はきわめて根底的な変革を必要とするものであったし、現状の政府機能のあれこれの改変で実現するものではなかった。
個別の戦いが一つの社会変革へと導くことがなかったのは、それぞれの戦いに含意された根源的な人間社会への問いかけを相互に共有するための社会的思想を構築するという条件が存在しなかったからである。これが新自由主義の社会意識と戦うことができなかった根本的な理由であろう。自由を乗り越える社会意識の前に立ちはだかる壁、すなわち個の存在である。
確かに、一方でソビエト連邦の崩壊が社会主義的意識を潰え去ったという見方をする人々もいるが、むしろそれ自体が個別の自由を組織することができなかったことによって崩壊したと見る方が現実に合っているだろう。人々の生活を支える生産組織とその様式は、個別の商品と貨幣を通じて物質代謝である消費活動を個別的欲求へと導き、個の自由という擬制を不断に形成し、共同性と公共性を解体していく。近代とはそういう時代であり、唯一の社会性が資本であるという世界が資本主義であり、ますます人々の生活世界から無縁な空疎な存在となっていくのである。
社会主義であれ民主主義であれ、政府機関を通じて資本主義の暴走に共同性と公共性の枠を嵌めようとするには、資本が持つ幻想の自由を制御する必要がある。だが、それは同時に自己矛盾であり自由を否定しつつ自由でありたいと願うことに等しい。
自由主義の系譜はロックやノージックの思想を辿れば分かるように、荒野に一人立ちはだかり世界を設計する思想であり、他者の存在しない世界である。利子生み資本が一見何の媒介も経ずに価値増殖する形態を獲得するのは、そこに他者が存在しないという自由の世界があるからである。我々がこれを乗り越えるためには、過去の遺物たる民族や宗教はもちろん、民主主義でさえ捨て去る必要があるかもしれない。この30年の戦いが個の戦いであったことを否定的に捉えず、この戦いが階級闘争の新たな局面であると捉え、ここから如何なる教訓と新しい共同性を獲得していくかが今問われている。個の「自由」は捨て去ることはできず、乗り越えるしかないと確認しつつ、一つ一つの戦線で獲得された財産を共有することから始めたいと考える。