新自由主義と階級闘争(3)
齋藤 隆雄
330号(2009年2月)所収
III. 新自由主義思想の展開-アメリカ帝国主義の場合-
新自由主義の思想の萌芽はロシア革命に対するブルジョアジーの対抗思想の中に既に現れていた。一つはJ.M.ケインズ(1883-1946)を筆頭とするリベラリズム思想であり、もう一つはF.ハイエク(1899-1992)を筆頭とする古典的自由主義である。新自由主義思想の直接の基礎にあるのは古典的自由主義思想であると見られる。第一次および第二次世界大戦とそれに挟まれた世界恐慌期を含む20世紀前半にブルジョアジーが選択した思想はリベラリズムであった。古典的自由主義思想はその過激さから革命と戦争の時代においてはあまりにもリスクが大きすぎると思われたのだろうか。1936年にはケインズが『一般理論』を、44年にはハイエクが『隷従への道』を著している。恐慌期とその後の戦時経済を統括したアメリカ政府の政策はケインズ理論に親和性のあるニューディール政策であり、軍事経済であった。戦後の冷戦時代に反共政策が敷かれ、ニューディール派が追放された時期もあったが、経済は一貫して国家独占資本主義政策であったし、それが戦後復興に最も相応しいものであった。
リベラリズムが絶頂期にあったのは、1961-69年のケネディ/ジョンソン政権時代であった。この時代は同時にアメリカに於ける公民権運動の時代であり、ベトナム反戦運動にリンクした様々なリベラル左派の運動が開花した時代でもあった。マイノリティの市民運動やフェミニズムが第二期の活動期に入った時代である。これらの社会思想はケインズの経済理論と整合的であり、完全雇用や金利生活者の死滅、低金利政策、累進課税など、経済民主主義につながっている。政府の役割は資本主義の暴走を管理するために様々なルール(規制)を作り上げることであった。
ケインズ主義者であるJ.K.ガルブレイス(1908-2006 )が29年恐慌を論じた一節の中に次のようなものがある。
「預金保険制度が創設されたことによって、我が国の銀行制度は革命的な構造変化を成し遂げたのであるが、今日にいたるも、なおこの点は十分に認識されていないといえる。この制度ができたという一点をもって、29年当時あれほど効率的に破綻の連鎖を引き起こした人々の不安心理は一掃されたといっていい。従来の体制の下では倒産が倒産を呼ぶということが容易に起こりえたのであるが、新制度の導入によってこの欠陥が是正されたわけである。たった一つの立法措置によって、これほど多大な成果が得られた事例はきわめてまれである。」(「大恐慌」p289)
預金保険機構は現在も十分に機能しており、80年代以降の繰り返し起こっている金融危機に際してもブルジョアジーにとって多大な貢献をしているが、この制度自体はケインズ的であり、リベラリズム的である。今回の金融恐慌に際してもアメリカはこの政策を有効に活用しているし、更に銀行への資金投下を含めた国有化的政策も躊躇することなく実施している。日本に於いても、90年代末に発生した金融危機時に預金保険の枠組みを強化したし、銀行の国有化も実施されたのは記憶に新しい。
しかし、古典的自由主義によればこれらの政策は「国家の不当な介入」ということになるはずである。預金を補償したり、銀行を保護したりすることは、銀行による貸し出し規律が緩み、無責任な経営が蔓延するという問題点を指摘する。いわゆる、「モラルハザード」という問題点である。この点については更にいくつかの問題が派生している。80年代以降頻発する金融危機に対して、銀行に対してモラル(倫理)を期待するのではなく、新たな規制(自己資本規制)を設けることになった訳である。これがBIS規制の強化−自己資本比率の底上げ−である。
このように、一旦規制を始めると現実がそれをかいくぐり変化し、また新たな規制が生まれるという連鎖が生まれることは確からしい。では、新自由主義経済は古典的自由主義とはどう違うのであろうか。あるいは、どこが同じなのだろうか。また逆に、リベラルな政策は何故放棄され、また今日、「新ケインズ主義」などという復古的な動きが何故起こっているのであろうか。ブルジョアジーは何を選択しようとしているのか。そして、現実には何が進行しているのだろうか。
このことを考えるのに、1970年代に始まった一つの変化に注目したい。それは、60年代のリベラル左派の運動への古典的自由主義からの反転攻勢である。
70年代に現れた新自由主義思想の芽を二人のアメリカの思想家に見てみよう。一人は、財政学で活躍したJ.M.ブキャナン(1919- )である。75年に『自由の限界』を著している。彼の言説はケインズ型財政による公共投資は不況対策としてたとえ有効であったとしても、そこで生まれた財政赤字を好況期に償還できない、というのであった。それが政治の流れであり、一度発生した公共投資に利権や企業との繋がり、官僚的利害ができ、容易には削れないし、膨れ上がった財政規模を好況期に縮小することなどできないというのである。これは、ケインズ思想の弱点を見事に言い当てている。ケインズの思想は政治的には貴族政治であり、賢人政治を理想としているのであって、戦後的な大衆政治においては財政赤字が膨れ上がるだけであるという指摘は説得力がある。彼の国家観は、いわゆる再分配政策への批判を通じて合理的で効率的な『夜警国家』を目指そうとするものであった。
しかし、彼の大衆社会における「民主国家」の再分配政策批判はケインズ政策の一つの弱点を指摘してはいるものの、公共投資の乗数効果が望めなくなった資本主義経済の限界を明らかにするものではなかった。むしろ、それは国家の肥大化と官僚組織化による再分配政策が資本の収益を圧迫しているとする新自由主義経済思想へと繋がるものとなっていった。ここでは、国家は未だに公共的な存在であり、政策のより良い選択を提起するという前提は崩れていない。
次にもう一人の思想家、ロバート・ノージック(1938-2002)である。彼の著書『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)は、新自由主義を語る上で欠かせない存在である。彼は60年代の公民権運動のリベラル思想を代表する思想家ジョン・ロールズ(1921-2002)への批判をはっきりと意図して本書を書いている。彼の思想はハイエクやフリードマンなどと同じ古典的自由主義の系譜に属しており、90年代に日本にも現れた「自己責任論」を基調とする論説を支える古典的な著書なのである。ただ、彼は書名が示唆するように資本主義的無政府主義に繋がる論説を展開しており、自由主義思想の何たるかをある意味鮮明に示しているという点で注目に値する。
本書は邦訳で500頁を超える大著であるが、内容は英米系の分析哲学を基調とする論理の展開を主としており、全編彼の言う「最小国家」の正当性を論証するために費やされている。内容は多岐にわたっているが、我々が関心を持つのは彼が国家の形を最小にしようとする根拠である。元々ブルジョアジーが国家権力を制限しようとする歴史的機縁は絶対主義国家権力による様々な商業行為の制限や税や法や行政の独占に対する撤廃運動であった。自由というスローガンは、自由な生産活動や商業活動のことを意味していた。しかし、絶対主義国家の打倒という社会運動に諸階級を動員するためには、自らの個別利害における自由ではなく、人間の自由という普遍的な価値付けを必要としていた。ノージックもまた同じ論理空間を共有する。つまり、ジョン・ロックの国家論を下地に、自然状態にある人間を議論の出発点とする。
彼によれば、自由権を最大限尊重する社会とは極限まで国家権力を制限する社会ということになる。そのために作り出されたものが「保護機関」という名称の組織である。それは、個人の外から発生する暴力や犯罪から守る機能を持つ組織である。それは今で言う警備会社のような存在なのであろう。それが独占する形で進化するのが最小国家ということになる。
本書の冒頭で彼は次のように言う。
「国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力、盗み、詐欺からの保護契約の執行等に限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。」
彼の議論の特異な点は、権利侵害行為があった時に国家は侵害者に損害賠償を求め、執行し、現状復帰を図るということにある。あらかじめ特定の行為を禁止した法は権利の制限となるので認められていない。税は強制労働と同じなので、これも認められない。無数に細かい論証が重ねられるので、ここではそれを詳細には論議しないが、彼の論説は究極の消去法である。功利主義、経験主義、福祉政策をことごとく論難していく。
彼自身が序で、突拍子もない議論をすると予告している通り、社会的制度や道徳などの基本にある規定を一つ一つ反駁していく。功利主義に対して、快・不快を基準にするなら、人を寝ている間に無痛のまま殺しても許されるのかとか、経験主義については、経験機械という空想科学小説まがいの想定をして議論したり、論証ゲームとしては面白いかもしれないが、それ以上の説得性がないのも事実である。ただ、彼の論証や議論は現在流行しているインターネット上の言説と似通っているという印象を持つのは私だけであろうか。いわば、自らが世界を設計しているという著者自身の位置が見えてくる。彼が最小国家を求める根拠は、確かにブルジョアジーが近代革命のスローガンに掲げた自由が絶対主義国家を打倒することに絶大な役割を果たしたにも関わらず、自らが作り上げた自由の概念がブルジョア国家と整合しなくなったことの証明となっている。論理の世界だけで煮詰めていけば、そうならざるを得ないのは、当然と言えば当然であろう。
ノージックの本書での中心的な論理は拡張国家(リベラリズム国家)への批判である。ロールズが『正義論』で、個人への富の配分が偶然による部分が大きいことを指摘するのに対して、彼は、「何故、保有物は部分的にも自然的才能に依存してはならないのか。」と問うて国家の再分配制度を否定する。ロールズのリベラリズムは個人的能力差を認めた上で全体的な社会的利益を優先する選択理論を取ろうとするのに対して、ノージックはそれが富者への権利侵害であるという観点から批判する。
「すべての人々の間には、平等の推定はない。一緒に協同生活を行っている個人達の間には、あるいはその推定があるかもしれないが。しかし、それを論証する議論を見いだすことは困難である。」(p368)
とはっきりと断言している。彼の人間観は抽象的な利益判断主体であり、単なる契約主体でしかない。相互に関係することがない。だから、個々人の差異は認められていない。このような観点から社会を眺めてみると、協同というものは存在しなくなるし、国家はもちろん社会さえ存在しなくなるだろう。見えざる手と個人所有、交換と契約という限られた側面を要素とした関係しか世界には存在しなくなるのである。
古典的自由主義が社会的思想として広く世界を覆ってきたことは、一時代を形成した国家独占資本主義の時代が過ぎ去ったことを明確に示している。リベラリズムが自ら自壊してきたと言えるだろう。
ノージックの思想は後にリバタリアンという名称で広く日本でも知られるようになるが、彼の理論を元に自由主義についての著書を書いた稲葉振一郎は、彼の理論の欠陥を「ルサンチマン」の存在にあるとしている。昨年の秋葉原での事件がそうであったし、階級闘争をテロリズムとして扱うという世界観においてもそれは現れている。70年代以降のアメリカ帝国主義と世界ブルジョアジーが選択した思想は、この古典的自由主義を基調としているのである。
リベラリズムが放棄され、古典的自由主義を基調とする新自由主義が選択されたことでブルジョアジーが手にしたものは何か。それは、今では現実が鮮明に暴露しているだろう。古いケインズ主義的国境線が捨てられ、多国籍企業と国際金融資本が自由に行き来できる世界を作り上げることが可能となり(グローバリズム)、架空の膨大な金融資本が数理的な経済理論で作り上げられ流通するという世界が可能となり(信用資本主義)、固定費扱いされる労働者たちの低賃金労働が可能となった(格差社会)のである。そして今、新たな局面が登場しようとしている。金融恐慌によって新自由主義思想は岐路に立っている。架空資本によって作られたバブルははじけ、大量消費の宴が終わり、失業者の群れが町に溢れ変える世界が登場した。労働者階級は新自由主義思想という悪い夢から醒め、団結の思想を再構築しようとしている。
今、古典的自由主義者たちは何を言い出しているのか。金融資本を潰し、それに寄生していた多国籍企業を潰し、資本主義の原点に返れと言い始めている。金融資本だけは救済しようと言う論者もいる。一方多国籍企業は生産設備のスクラップと企業統合に余念がない。彼らにすれば、潰れるのはご免だ、低賃金労働は手放したくない、と言う。「新ケインズ主義」を選択しようとする者もいる。ブルジョアジーが分解し始めている。
問題の新自由主義者たちは今何をしようとしているのか。古典的自由主義者と彼らとの決定的違いは、前者は階級すら認めないが、後者ははっきりと階級闘争を意識している。おそらく、彼らは当分の間「新ケインズ派」に鞍替えするだろう。なぜなら、今こそ国家と言う中間物を利用する時だからである。労働者階級が自らの団結の思想と革命の政府を発見する前に、今ある「小さな政府」を大きく見せなければならないと、彼らは言うだろう。だから、我々は今早急に革命の政府とは何かをしっかりと提示する必要に迫られているのである。