新自由主義とは何だったのか
渋谷 一三
326号(2008年10月)所収
<はじめに>
「社会主義圏」の崩壊とともに勃興した新自由主義の姿がようやく筆者にも分かってきたような気がします。
「社会主義圏」の崩壊という政治的激変との関連で捉えることも出来るのかもしれませんが、筆者はこの観点にこだわるあまりに、新自由主義の暴露に失敗しつづけてきたように思います。結論から言えば、利子生み資本の運動が資本の運動の最も大きな運動となったことに照応して新自由主義という政治的動きが「帝国主義国家」を席巻したのではないか、ということです。
1. 新自由主義の名の下に行われた改変
米国では、sub-prime-loan(サブ・プライム・ローン=準優先貸付)の焦げ付きで、大不況が起きている。それは住宅バブルとセットだった。住宅バブルのすぐ前はITバブルとその崩壊だった。そのすぐ前は、バブルという言葉を日本に紹介し定着させた例のバブルだった。このように、バブルとその崩壊を繰り返している=やめることが出来ない=架空資本(利子生み資本)の運動がほぼ直截的に顕現しているのが米国です。こうした国は、新自由主義が完成している表れでもあるので、こうした国を例にとっても分かりにくい。日本を例にとることが一番わかりやすいので、日本を例にとりながら、新自由主義なる政治運動が何を変化させたかをまず見ていくことにします。
日本の新自由主義は、米国の「市場開放」「非関税障壁の除去」圧力という外圧によって始まります。外圧から始まるというのは、偶然ではなかったわけです。米国標準に合わせるのですから当たり前です。
初めは、銀行に対するBIS規制という「外圧」で始まります。金融の規制基準を「国際化」するという外圧で始まったこともまた、象徴的でした。架空資本の運動に政治を合わせたのですから(政治は経済の集中的表現)金融の規制基準の国際的統一という要請から始まったのも偶然ではなかったのです。
JAPAN as No.1などと持てはやされた時代は、もの造りの生産技術で日本が世界の最先端を行っていた時代でした。このすぐあとにユーロドルなどという得たいの知れないものが何やら乱舞していると聞かされ、やがてバブルという耳慣れない言葉が登場し、気がつけば日本が米国の一等地のビルを購入して騒いでいました。過剰になった資本が流動し欧州金融市場に登場したのが「ユーロドル」という現象だったのでした。これは第1次石油ショック(国際的に見れば、第1次石油価格吊り上げ成功)で利益を大きくした産油国の、投資対象を見出せなくなった過剰な貨幣が欧州の金融市場に登場したことから顕著になり始めました。通称オイルマネーと言われ、特別扱いされましたが、製造業を中心とする「実需」への投資は一巡し、投資を求めているわけではない状況が顕著に世界的に現出した最初がたまたま産油国のお金だっただけのことで、石油と特別に関係があるわけではありませんでした。
そもそも株式の売買自体が頻繁に行われること事態が資本の架空性を表わしていますが、それは実需としての株の売買と形式上区別がつきません。近代経済学(非マルクス経済学)では、この区別をつけるために過剰流動性という言葉を使いますが、どこからが過剰なのかわかりにくいのです。新規に株式を上場し、資金を調達する。あるいは、増資・増株をした場合、株を購入した資金は企業に入ります。しかし、一旦売却された株を売買するのは、いわば株式配当金を受け取る権利の売買であって、実需とは何の関係もありません。これを架空資本と呼ぶのですが、現在の株価を見ると、株式配当金を目当てに買える値段ではありません。配当金が銀行利子よりも安い株が多いのです。銀行などの機関投資家も企業からの借り入れ要請がなくなれば、過剰になった資金に利子を払うために株式を購入します。こうして株価は不断に吊り上る傾向を持ちます。同時に銀行の利子率は下がる傾向を持ち、これがまた、株価の均衡点を上げ、株価を吊り上げる傾向を再加速させることになります。こうした運動を「利子産み資本の運動」としてマルクスは区別して研究に向かっていましたが、マルクスの時代はそもそも産業資本の資本が不足し、ここに資金を供給するために信用創造を始めた時代(銀行の時代)でしたから、現実の中に研究対象・検証対象を見出すことは著しく困難でした。
現代というのは歴史上初めて利子産み資本の運動が主要な運動になった時代です。1980~1990年ぐらいに主要な運動になったようです。金融で言えば、デリバティブ商品の登場と相待ち、政治で言えば新自由主義の登場です。
このころまでに、「多国籍企業の時代」は終わりました。製造業を中心にサービス業まで含めて、むき出しの金としての過剰資本という形を取らない、企業という実需の形式をまとった資本の移動が完了したのでした。多国籍企業は当たり前のこととなり、企業の進出にとっての障壁は国際標準化される過程が終了したのでした。
こうしていよいよ剥き出しのかね時代が始まりました。「カジノ資本主義」だの「ギャンブル資本主義」だの、とにかく訳が分からないが前とは違っているという現象描写の用語として、さまざまな命名が飛び交った時代でした。人格的にはハンガリー生まれの伝説的投資家ジョージ・ソロスに代表される時代です。
ソロスの退場は、「金融工学」なるこけおどしの「学問」の成立と前後します。金融工学なるものは、実需と関係なく利益を生む方法を捻出するバブルあるいは詐欺商法の別名でしかありません。私たちにとって問題なのは、こんな詐欺「学問」をあざ笑うことではありません。「利子産み資本の運動はバブルを必ず伴走させる」という現象叙述の内的連関を明らかにすることです。
ともあれ、日本では遅れて孫さんだの三木谷さんだの堀江さんだのというITバブル長者が出現します。
このあとこれまた遅れて村上さんを人格的代表とする「禿鷹ファンド」が登場します。この2つの例の人物は「規制緩和」なくしてはありえなかった「栄華」であり、また規制緩和さえなければありえなかった没落でもあります。ホリエモンの株の操作は緩和された規制の下では合法的な、国際的に見れば米国の長者の2番煎じに過ぎない、ものでした。だからこそ、インサイダー取引をしたというでっち上げで、非合法な粛清を加えるしかなかったのです。同じように、村上さんも阪神電鉄を亡き者にした罪で、同じインサイダー取引をしたとされリンチを加えられ没落していきました。が、二人とも今回倒産したリーマン兄弟社に金を回してもらって仕手戦を代行した米国の手先でしかなかったはずでした。そしてリーマンが資金を回せるようゲームのルールを改正したのが小泉改革=通称金融ビッグ・バンでした。
2. 時代遅れの小泉改革
9・11以降に見せた小泉の対米追随軍事路線も1章で見た対米追随=新自由主義の政治の集中的表現でした。まさに軍事は政治の集中的表現形態です。今またあの手この手で延長しようとしているイラン沖での給油活動という軍事も時代遅れの対米追随政治路線の結果です。
米国の政権が共和党から民主党に変わるかもしれないから様子を見ようという動きが自民党内に出てきて、この時期に福田首相が辞任するというストーリーが実行されることになりましたが、このような日和見的判断で時代遅れなのではありません。アフガニスタンとイラクの原油をブッシュ一族のものにし、ますます原油の価格決定権を握ったはずの米国ですが、1バレル140ドル台に載せたはずの原油価格を維持することすら出来ず、9月14日には100ドルを割ることになってしまっています。原油にしてこのていたらく。他の諸物の国際価格の決定権を失い始めている。この変化は急激で、ユーロと欧州中央銀行の発足後に起こった変化であり、ブッシュ政権下で急速に進みました。
前稿でも指摘したように、ドルはユーロに対して40%も下落し、基軸通貨の位置をユーロに奪われ始めています。各国の外貨準備高から見れば、ユーロは、ドルの位置をいつでも取って代ろうとしています。基軸通貨はドルからユーロに変わろうとしている。現在というのは、その過渡期であると言ってもいいのでしょう。
こういう時代に、米国基準を国際基準として有り難く拝し、米国の要求に合わせて「規制緩和」をするという政治自体が時代遅れであることに、自民党「改革派」なるものは、まだ気づいてすらいないのです。規制の無い競争などは有り得ないのです。規制が無ければ「悪貨は良貨を駆逐する」というのが唯一の経済原則なのです。それ以上の自主的規制は「無農薬野菜」のような特殊な場合のみ成立するだけです。上位の規制そのものを商品価値として売るという特殊な場合だけです。したがって、「規制緩和」という場合、一般的には規制の数を減らすことと同義です。これが、昨今の「偽装」事件の連発の根拠でもあります。規制緩和後、北海道の精肉会社・大阪の肉卸会社・大阪の料亭・大阪の米卸会社などなど、小泉政権後、食品の偽装が頻発しています。これは、偶然でしょうか。
規制の緩和によって直接取引も自由になる一方、中間業者の数も利益が出る限り増え続けます。利益がでなくなる線で新規参入が止まることになります。だから、卸などのとりわけ中間的な流通業者は傾向的には減少することが強いられます。経営が苦しくなるということです。同じことは消費者側の短期的利益から見れば、流通コストの削減と見え、歓迎されるべきことのように映ります。この場合の規制緩和は中間業者いじめとして現れるわけでして、検査・監視を強めない限り偽装はやけくそ的必然でした。換言すれば、参入規制緩和という一つの規制緩和は、検査規制の強化という一つの規制強化とセットされなければならなかったということになります。
一つの規制緩和は一つの規制強化とセットされなければならないとすると、規制緩和を一般的に唱えることは何の意味もないことになります。どのような規制緩和を規制緩和といっているのかを逐一検討していけば、小泉さんの言った規制緩和は米国基準に日本を合わせるという以上のなにものでもないことが分かります。
この間、ヨーロッパは殆んどが社民政権となり、これを隠れ蓑にして米国基準の国際標準化を拒否してきた。米国の言うグローバリズムを拒否することによって、経済を立て直し発展させてきた。国家予算の肥大化―国債の大量発行―財政破綻というケインズ主義の行き詰まりを、米国は「グローバリズム」によって、欧州はEUという擬似的ブロック経済の創出という方法によって、乗り越えてきました。ここに来て、米国方式の破綻が明らかになり、欧州の相対的優位性がはっきりしてきました。そこで、日本もAU創設に動くべきだというご都合主義の輩が出てきましたが、以前に指摘したように、戦後処理をきちんとしてこなかった日本がAU創設のイニシアチブを執れるはずもありません。加入すら危ういはずです。なぜなら日本の経済的利益のためにAUに入りたがっているという歴史的経緯が何よりも雄弁に日本の下心を表明しているからです。東アジアの各国は、日本に収奪されるためにAUを作るほど「学ばない人々」ではありません。
3. 架空資本の運動はバブルを必然化させる。
この項は、本稿では現象の承認ということにとどめます。その内的必然性の論証は、別稿を必要とすると思われます。
4. 新自由主義とは架空資本の運動のための環境整備だった!?
そうとも言えるし、そうでないとも言える。まず、そうでないという側面から見てみましょう。サッチャー・レーガンに始まり、たかだか20年で用済みの烙印を押され、サブプライムローン問題に発した「金融危機」で引導を渡されたという歴史的経緯を見るならば、この新自由主義という代物が、理論に基づく原理主義的運動ではなく、極めて政治的な運動であったことが推察されます。
政治的運動という点から見れば、新自由主義が支持された諸国は、いわゆる先進国、帝国主義国だけではなく、「先進国」という点が共通項として挙げられる。結論から言えば、ケインズ主義の破綻以降、先進国の経済政策を決定付けたケインズ主義の枠組みが邪魔になり、この制度的遺物としての肥大化した官僚機構がやることもなく存続している奇妙な「無駄遣い」を片付ける運動だったと言えまいか。もちろん、新自由主義を語る連中がこのことを意識化していたならば、もっと短期間の政治運動で済んだのだが、連中はケインズ主義が残した機構の掃除という風に認識せず、陳腐な経済理論の体裁をとったために余計な時間と労力と行き過ぎと経済の疲弊を招いてしまった。
1927年の大恐慌以来、国家予算を肥大化させ、国家という機構を通して所得の再分配を行うケインズ主義が、資本主義が避ける事が出来なかった恐慌を避けることの出来る方策として資本主義世界を席巻したのでした。ケインズ主義は「社会主義圏」を対抗として意識し、自らを混合経済と命名してはいたが、混合する相手の社会仕儀経済なるものなどなかったので、今ではより純粋に、恐慌を避ける資本主義システムと位置づけることができるでしょう。
時期が微妙に同時期なために、「社会主義圏」の崩壊がケインズ主義の終焉をもたらしたかのような誤解が生ずるのは無理も無いが、ケインズ主義の終焉の方がほんの少し早い。財政の肥大化が「後進国」との経済競争上負担になり、国家財政と貿易収支の双子の赤字の原因となっていたからです。
実際、ケインズ主義を止めた国から不断のバブルとその崩壊という現象が「復活」している。復活を括弧に入れたのは、過去の産業資本主義段階での競争・市場支配のための過剰生産から惹き起された恐慌とは性質を異にしているからです。だが、今、焦点を当てているのは、恐慌という現象の復活という表面的類似性なのです。とにもかくにもケインズ主義の時代には「恐慌」という現象が緩和され、景気の波をケインズ主義で緩和できていた時代でした。
日本はといえば、ケインズ主義を止めたのに未だにケインズ主義政策をとっていた時期と同規模の国家公務員・官僚機構をかかえたままです。小泉改革は米帝の要求を呑んだだけで、新自由主義がケインズ主義の生んだ機構という残滓の清掃活動と意識されていなかったためもあって、未だに官僚機構の再編ができていない。郵貯の民営化だけが実現したことで、後は何もできていない。中途半端などという上等なものではない。郵貯に保有されていた金融資産を国際的収奪の場に組み込めただけの話でしかない。道路公団は残り、天下り団体という無用の長物は行政法人などと名を変えて存続してしまっている。
自民党は道路族を復活させ、地方の公共事業による「格差是正」などという茶番を模索している。要らぬ道路で潤うのは一部の過剰になっており倒産するのが定めの土建業者であり、地方の貧困への波及効果などない。断じて無い。そもそも高度成長期・ケインズ主義期の公共事業大盛況の時代を通して農村は疲弊し続けていったのではなかったのか。
これよりは民主党の政策の方が、無自覚的にではあるがケインズ主義の残滓の掃除にかなっている。高速道路を無料化すれば、道路公団を解体できる。膨大な無駄遣いが消滅する。運賃が安くなり物価を下げる効果をもたらす。ガソリン税を撤廃すれは、車が都市部以上に必需品となっている農村部での生活を存続しやすくなる効果を持つ。ガソリン税に巣食っている必要以上の土建業者を消滅させることが出来、この予算分の無駄を消滅させることが出来る。残念なことに民主党はケインズ主義の残滓を一掃するという自覚を持っていないために、この観点から見た時には政策がぶれているものの、民衆は直感的にこの事情を感じ取り、民主党の支持率を上げている。
総選挙がいつ行われるか不透明な状況であり、今解散することは自民党には不利であることも確かだが、民主党が勝つのは歴史的必要性に根ざしており、いずれにせよ民主党が勝つ以外にはない。
次に、新自由主義の改革が利子産み資本の運動にとって都合の良い環境を整備する運動だったのかという点ですが、日本を見る限り、村上ファンド・堀江手法への弾圧という事態に現れているように、架空資本の自由な運動環境を整備したとは言い難い。架空資本の自由な運動を言うなら、キャピタルゲイン(資本取引による利益)への分離課税は撤廃すべきである。というのも、法人が株の取引によって利益を得た場合には法人の収入になるのであって、分離されて課税されるわけでない。ところが個人投資家の場合には分離課税され、形式上の平等性が保てないからです。企業の資産に目をつけ、株を買い進めることによって企業を買収し、この企業の資産を売却して利益を得るという手法は否定されてしまったのです。産業資本主義的健全性が発揮され、産業資本に敵対的に作用する架空資本の動きは非合法とされてしまったのです。
米国ではそうではなかった。その結果、産業資本が衰退するという効果を付随させつつ、バブルを生み続けるポーカーゲームのような「カジノ資本主義」「ギャンブル資本主義」という現象を生み出すことが出来た。利子産み資本の自由な運動を保障するということは、米国式資本主義を現出させることを意味するのでした。
欧州は米国とは違っていた。EUの形成という運動に平行して、各国が社民政権となり、利子産み資本の自由な運動を保障することよりは、ヨーロッパという比較において広い市場を獲得した産業資本にいかに有効に資本を提供するかが試みられた。
こう見てくると、新自由主義は誤った政治・経済思想であり、新自由主義が一旦の流行を獲得した根拠は、ケインズ主義の終焉にあり、この残滓を制度的にも一掃する必要性にあったと断じることができましょう。
5. 「先進国の没落」と「後進国の発展」
米国では年収2万ドル以下の労働者が60%を占めるまでになってきています。日本でも派遣労働法によって年収2万ドル以下の労働者が20%を越え、パート労働者と合計すれば50%近くになっているのではないかと推測されます。この10年で、日米の労働者の賃金は半減し、中国の労働者の賃金との格差はおよそ10倍以上から3倍前後に縮まってきています。ほぼ同額になるのは、時間の問題でしょう。
また、日本の貿易収支も、長らく輸出超過であったのが、この8月に輸入超過に転じた。輸出超過によって輸入代金を支払ってきたのであったが、この構造が破綻したのです。食料や安価なエネルギーの輸入によって食べてこれた時代=飽食の時代の終わりが告げられたのです。グルメごっこも終わり。
一言で言えば労賃の世界的平準化の流れの一環ではありますが、そう単純化して分かったつもりになれるほど現実は単純ではなく、複雑に紆余曲折をするであろうことは間違いありません。しかし、労賃の世界的平準化に向かっていくことも事実であり、平準化に向かう動きが格差や収奪構造を新たに生むことも反面の事実でありましょう。
世界的に単一の共和制国家が成立する経済的根拠が熟して行くのは確かなことではありますが、自然に放置すれば千年2千年単位の遅々とした動きにしかならないでしょう。ともあれ、米帝が没落することだけは比較的早急な歴史過程であり、ユーロが覇権を握るのか、一挙に中国ないし日本を排除したAU(アジア共同体)が覇権を握るのかは分かりませんが、米帝が没落することだけは確かなことです。