生産管理闘争の一教訓
権力闘争として労働運動を発展させよう!
流 広志
324号(2008年8月)所収
アメリカGMのストライキ
独立行政法人「労働政策研究・研修機構」の8月海外労働情報によると、アメリカでは、世界最大の自動車メーカ−GM(ゼネラル・モータース)と関連会社での工場閉鎖、レイオフやストが相次いでいる。景気減速に襲われているアメリカでは、新車販売台数が落ち込んでおり、そのため、GMは、工場閉鎖、減産、レイオフを発表し、部品メーカーでは労働協約改定交渉の際に、87時間のストライキを決行した。要約すると以下のようである。
4月29日、ポンティアック工場、フリント工場(ミシガン)、オシャワ工場(オンタリオ、カナダ)、ジャニスビル工場(ウィスコンシン)を対象とする生産行程削減にともなう時間給授業員3550人のレイオフを発表した。5月29日には、1万9000人の早期退職(7月1日)を発表。生産工程従業員に4万5000ドル、熟練労働者に6万2500ドルの退職年金支給が提示された。
6月3日には、「2010年までに北米の4つの工場を閉鎖すると発表。ジャニスビルのトラック工場(ウィスコンシン、従業員数2438人)を2009年までに閉鎖、モレイニ工場(オハイオ、同2284人)を2010年までに閉鎖、オシャワ工場(オンタリオ、カナダ、同2496人)のトラック工程を2009年までに削減、トルカ工場(メキシコ、同1973人)のトラック工程を2008年中に削減という内容である。ジャニスビル工場とオシャワ工場に関しては4月末に生産工程の一部削減を発表したばかりだった」。
「7月15日には、ホワイトカラー従業員にかかる人件費2割削減(3万2000人の人員削減)とホワイトカラー退職者向けの医療手当を削減、昨年の全国レベルの協約で設立が合意された労組運営による退職者医療基金への支払い延期などを発表した。ホワイトカラーを対象とする人員削減も含めた事業再編は2005年以来となる」。
「7月28日の発表では、8つの工場でトラックやSUV、11万7000台分の減産計画を実施すると発表。オハイオ州とルイジアナの工場で、9月29日の1シフトを削減(合計で時間給従業員1760人に影響)、このほか、カナダ・オンタリオ州、ミシガン州などの工場で、8月から12月までに1週間単位での生産一時休止の計画を明らかにした」。
「GMやクライスラーに自動車部品を供給するアメリカン・アクセル・アンド・マニュファクチュアリング・ホールディング社(以下、アメリカン・アクセル社)の協約改訂交渉が同社経営陣とUAWの間で行われたが、協約終了日時になっても合意に至らず、2月26日、ストライキに突入した。このストは5月26日まで87日間続いた」。
「経営側は、時間当たり73.48ドルと高水準となっている総額人件費を、業界で競争力を維持できる20ドル〜30ドルの水準に抑えたいと主張した。そのために平均で時給28ドルとなっている同社の賃金水準を、競合他社のダナ社(同社でもUAW組合員が就業している)と同水準の14ドル程度への引き下げをめざした。また、退職者向けの健康保険と現役従業員向けの確定給付型の年金を廃止することを提案した。これに対して、UAW側は反発しストに突入する結果となった」。
「このストは5月16日に暫定合意に至り、5月22日、組合員は投票で支持した。今後4年間有効となる新契約は、アメリカンアクセルの5つの工場(デトロイト、スリーリバー(ミシガン)、バッファロー、トナワンダ、チークトワガ(ニューヨーク))で働く3650人を対象とし、次のような内容となっている。
- 賃金水準は平均で時給10ドルの減
- 従来の時給28ドルを二階層の賃金体系とし、14.5ドル(非主要工程労働者)から18.5ドル(主要工程労働者)の水準に引き下げる。
- 早期退職とバイアウトプログラムの実施
- 早期退職を実施するにあたり、退職後の健康保険や年金を一時金支払いによって企業側が買い取る方式をとり、将来の債務の発生を回避する。これをバイアウトプログラムと呼び、応募の条件としては、勤続10年以上の従業員の場合、一時金として14万ドル支給し、勤続10年未満では、一時金として8万5000ドル支給する。早期退職者に応じた従業員には、勤続年数に応じてさらに5万5000ドルを支給する。
- デトロイトとトナワンダの2つの鍛造工場閉鎖
- レイオフ対象となる従業員は760人
- 従業員支出の健康保険料の導入
- 確定給付型年金の凍結
- 一時金の支払い
- 協約の改訂に伴い、一時金として組合員に1人当たり5000ドルを支払う。
以上のうち賃金水準抑制によって、時間当たり総額人件費は従来の73ドルから30〜45ドルに抑制されたが、経営側の目標値だった20ドル〜30ドルには及ばなかった。
「UAW関係者は否定しているが、アメリカンアクセル社のストに呼応するように、工場レベルでの協約改訂中のGMでストが決行された」。
「GMの工場単位での労働協約交渉が進められており、ミシガン州ランシング近郊のデルタ・タウンシップ工場とカンザス州フェアファックス工場では、交渉期限になっても成立せず、ストに突入した。フェアファックス工場は、GM社製で最も人気のある車種、シボレーマリブ、しかもフルモデルチェンジした2008年車種を生産する工場であり、デルタ・タウンシップ工場は、GM社販売台数上位を占めるサターン、GMCアカディア、ビュイックエンクレイブを生産する工場である。両工場ともGM社にとって重要な生産拠点でのストとなった」。
「デルタ・タウンシップ工場ではGMとUAWローカル602支部との間での交渉は期限が来てもまとまらず、4月17日から5月15日まで28日間のストが決行された。主な争点は、苦情処理、就業規則、下請けに関すること、非組合員の作業内容、配置転換、見習工の処遇、熟練労働者の作業内容とされていた」。
「UAWローカル602の支部長は、今回の協約改訂を「職の抱え込み(job ownship)」から「職の分かち合い(job sharing)」への変換と位置づけられるとしている。合意された新協約の特徴は、チームリーダーの権限の拡大にある。チームリーダーは正規賃金水準に時給で1ドル上乗せする(従来の協約では50セント)。チームリーダーには従来の職務責任に加えて、4人から6人のチームメンバーを調整する責任が与えられ、人員不足の支援にもあたる。また、組み立てラインの掲示板やデータの管理にも責任をもつようになる。5月16日に投票が実施され、2300人の組合員のうち74%が合意内容に賛成し成立した」。
「フェアファックス工場では5月5日から5月21日まで17日間のストが決行された。争点となった課題の詳細は未詳だが、工場での経営管理、雇用保障、先任権についてなど、少なくとも9つの未解決項目があったとされている。締結された新労働協約は、時間給従業員約2500人を対象としている」。
このように、アメリカにおいて、労働運動は活発に行われている。それに対して、すっかり労資協調にはまって当たり前の労働運動すら組織せず、資本の奴隷へと成り下がっている日本の「連合」は、それでも、闘う姿勢すらはっきりとは示していない有様であり、その結果、労働者の多数の信頼を喪失しつつある。しかし、時代情況は、当たり前の労働組合を必要としていると共に革命的労働運動、共産主義と労働運動の接近・結合を必要としており、「連合」はそれに完全に立ち遅れているのである。
戦後労働運動の出発点における生産管理闘争を教訓化する必要がある
労働組合運動は、一つには、労働者を資本との経済闘争によってきたえ、その生存・生活の向上を目指すものである。近年の新自由主義の席巻によって、生存権すら脅かされるという労働組合創設期のような事態が生まれている。19世紀の自由主義的資本主義段階のイギリスで労働組合が生まれたのは、まさに生きるために労働者の団結が必要であったからである。そして今、21世紀においてもまだ生きるための闘いを必要とする労働者、ワーキングプアの大群が生まれているのである。労働組合運動は、二つには、プロレタリアートの究極的解放を目指す労働者の革命的闘争の団結体でもありうる。
1990年代にソ連・東欧のスターリニズム体制崩壊を「社会主義」への勝利と誤認して、この世の春を謳歌してきた資本主義であったが、今、それは、新たな階級敵対の増大とぶつかっているのである。そして、そこから、ふたたび、マルクス・エンゲルス・レーニンなどの唯物論的共産主義やスターリニスト作家の小林多喜二の『蟹工船』ブームであるとか、様々な形での共産主義への希求が生みだされている。
そのことは、保守派の『産経新聞』の7月31日の【正論】において、ニーチェ学者の京都大学教授・佐伯啓思氏の「「マルクスの亡霊」を眠らせるには」の「急速に左傾化する若者」と題する部分で、「若い人を中心に急速に左傾化が進んでいる。しかもそれはこの1、2年のことである。小林多喜二の『蟹工船』がベストセラーになり、マルクスの『資本論』の翻訳・解説をした新書が発売すぐに数万部も売れているという。若い研究者が書いたレーニン論がそれなりに評判になっている。書店にいけば久しぶりにマルクス・エンゲルス全集が並んでいる。私のまわりを見ても、マルクスに関心を持つ学生がこの1、2年でかなり増加した」と指摘されている。その原因を氏は、「近年の所得格差の急速な拡大、若者を襲う雇用不安、賃金水準の低下と過重な労働環境、さながら1930年代の大恐慌を想起させるような世界的金融不安といった世界経済の変調を目の前にしてみれば、資本主義のもつ根本的な矛盾を唱えていたマルクスへ関心が向くのも当然であろう。おまけに、アメリカ、ロシア、中国、EU(欧州連合)などによる、資本の争奪と資源をめぐる激しい国家(あるいは地域)間の競争と対立は、あたかもレーニンとヒルファーディングを混ぜ合わせたような国家資本主義と帝国主義をも想起させる」と述べている。
氏の診断によれば、ソ連崩壊後の問題は、「無政府的な」(グローバルな)資本主義をどう制御するかにあった。そして、氏は、戦後の資本主義が、製造業の技術革新による大量生産・大量消費、すなわちフォーディズムによって政治的に安定したため、マルクスの予言ははずれたという。しかし、90年代のアメリカでの製造業の衰退と産業構造の金融・IT化は、資本と労働の著しい流動化に利潤機会を求めるものであった。
「その結果、90年代に入って、利潤の源泉は、低賃金労働や金融資本の生み出す投機へと向かった。要するに、製造業の大量生産が生み出す「生産物」ではなく、生産物を生み出すはずの「生産要素」こそが利潤の源泉になっていったのである。かくて、今日の経済は、確かに、マルクスが述べたような一種の搾取経済の様相を呈しているといってよい」と佐伯氏は言う。だが、氏は、資本主義の不安定化というマルクスの直感は当たっているが、彼の理論や社会主義への期待は間違っていたという。
そして、「その結果、90年代に入って、利潤の源泉は、低賃金労働や金融資本の生み出す投機へと向かった。要するに、製造業の大量生産が生み出す「生産物」ではなく、生産物を生み出すはずの「生産要素」こそが利潤の源泉になっていったのである。かくて、今日の経済は、確かに、マルクスが述べたような一種の搾取経済の様相を呈しているといってよい」と氏は言う。ではどうするか。氏は言う。「問題は、今日のグローバル経済のもつ矛盾と危機的な様相を直視することである。市場経済は、それなりに安定した社会があって初めて有効に機能する。そのために、労働や雇用の確保、貨幣供給の管理、さらには、医療や食糧、土地や住宅という生活基盤の整備、資源の安定的確保が不可欠であり、それらは市場競争に委ねればよいというものではないのである。/むしろ、そこに「経済外的」な規制や政府によるコントロールが不可欠となる」。そして、「マルクスの亡霊に安らかな眠りを与えるためには、グローバル資本主義のもつ矛盾から目をそむけてはならない」というのである。つまり、「マルクスの亡霊」(これは脱構築主義で有名な哲学者ジャック・デリダの著書の題名である)を「あの世」に追い払うには、マルクス主義者の用語で言う国家独占資本主義あるいは国家資本主義あるいはケインズ主義体制を再構築すべきだというのである。亡霊のお祓いには、国家が必要だというわけである。つまり、佐伯氏の主張は、サン・シモン主義的であり、ボナパルティズム的である。
「マルクスの亡霊」が蘇ってきているのは、明らかに、氏の指摘する「近年の所得格差の急速な拡大、若者を襲う雇用不安、賃金水準の低下と過重な労働環境」といった階級闘争の先鋭化を促す階級階層格差の拡大、敵対性を強めつつある階級階層矛盾の増大が、人々を耐え難いレベルにまで達しつつあるからである。それは、新自由主義の旗振り役で市場原理主義の促進者だった『産経新聞』が、18日の社説で、最低賃金の大幅引き上げを求める主張をするという変化にも現われている。もっとも、この社説は、それは、中長期的に消費=需要を増やし、生産性向上を促すという条件を付けている。実際には、1975年頃から1979年にかけて、消費者物価指数と労働生産性指数の伸びに対して、実質賃金指数の伸びが低く、その格差が拡大し続けた時期があり、それが、フリードマン流の新自由主義的な鈴木内閣そして中曽根内閣の「臨調・行革路線」の強行につながったということがある。生産性基準賃金は実質的にはとっくに破綻しており、『産経』は、そういう過去の基準を現在に当てはめているにすぎない。生産性基準原理の普及役は、日本生産性本部であるが、それが作られたのは、戦後復興過程での生産管理闘争、生産復興運動があった。そこで、理論的に大きな役割を果たしたのは、大河内一男東大教授であり、彼が日本生産性本部発足の中心メンバーとなったのである。この戦後革命と呼ばれる時期の労働運動の在り方は、その後の日本資本主義の復興過程や労働運動の在り方などに大きな影響を与えている。そこで、この過程から教訓を引き出しておくことにしたい。『戦後日本労働運動史 上』(佐藤浩一編 五月書房)をベースにする。編者の佐藤浩一氏は、同志社大学出身で関西ブント→ブント・統一委員会→ブント・マル戦派という経緯をたどった人である。この本が編集・出版されたのは、1970年代後半で、執筆者は、マル戦系の人たちである。
『戦後日本労働運動史』「まえがき」より
「まえがき」は、「戦後反革命のうえに築かれた資本主義世界体制は、奈落へとつながる坂道をすべりおちつつある」と危機論を前面に立てている。それは、「71年夏のニクソン新経済政策をもって、アメリカはドル・金の兌換制を全面的に停止し、ここに戦後国際通貨体制の崩壊が確認された。帝国主義の不均衡発展にもとづく通貨戦争・通商戦争の激化がその根底にあったが、アメリカを直接追いこんだのは、ベトナム人民の革命戦争の勝利的な展開であった。しかしこの重大な意味を歴史的に総括する間もなく、世界経済はなりふりかまわぬドルインフレにみちびかれインフレ的蓄積過程に入った。そしてそれは、73年秋の第4次中東戦争を契機に、石油危機、食糧危機等モノの面からはげしい制約をうけ、ここにいわゆるスタグフレーションが世界化したわけである」という歴史認識を基礎にしている。ここには、マル戦派が依拠した宇野経済学派の流通主義的資本主義観が現われている。さらに、ここには、宇野経済学の価値形態論における等価形態にある商品が受動的役割を演じ、相対的価値形態にある商品が能動的役割を演じるという『資本論』の価値形態論におけるマルクスの主張を逆転させ、金・ドル兌換停止による国際通貨体制の崩壊を説き、その原因を帝国主義の不均等発展にもとづく通貨戦争・通商戦争という流通上の敵対的矛盾に求めている。
私は、このような見解を、何年も前に、楊枝嗣朗氏の『貨幣・信用・中央銀行』(同文館 1988年)をもとにして批判した。楊枝氏は、同書において、「不換国家紙幣説の現実的崩壊は、1971年8月のニクソン・ショックに始まる。国際通貨たる米ドルの金交換が停止されたのである。国際流通においては貨幣の流通手段機能はみられないのであるから、兌換停止した銀行券を不換国家紙幣(=流通手段としての貨幣の機能的代替物)とみなし、その流通根拠を国家の強制通用力に求めるかぎり、不換国家紙幣となったと言われる米ドルが国際通貨として流通するはずがなくなる。米ドルの金交換停止は、国際通貨ドルの自殺であり、ドルを基軸通貨とする国際信用制度の崩壊を意味するはずであった」(同7頁)と述べている。さらに、氏は、「不換国家紙幣説は、不換体制下での貨幣流通の諸法則の支配を否定し、戦後の物価の上昇基調を減価=価格標準の切下げ・名目的物価騰貴(インフレーション)ととらえ、物価の実質的変動の一切を否定してきった。そこでは商品・貨幣の価値変化、価値と価格の乖離、あるいは価格標準の切下げによる物価変動の実質・名目の区別は、省みられることはなく、物価は名目的騰貴一色に染めあげられてきた。したがって、そこには物価が上がる論理はみられても、下がる論理はみられないのである。われわれはここに不換国家紙幣説の現実的破綻をみる」(同24頁)と批判している。
90年代の物価下落、デフレを経験している現在、われわれは、楊枝氏の宇野経済学派批判を、リアリティをもって理解できるようになっている。ドルは相変わらず国際通貨として機能し続けているし、物価は上下に動いている。
佐藤氏は、70年代のスタグフレーションを戦後のインフレ期と共通する危機の時代の徴候としてとらえ、アナロジーしている。本稿は、同書の宇野派的認識や危機論などはとらないで、生産管理闘争の実態と意義などについて確認する素材として扱う。
戦後労働運動の出発点
1945年8月15日の大日本帝国の敗北後、最初に立ち上がったのは、中国人・朝鮮人などの炭坑労働者であった。かれらは暴動を起こし、それは軍・警察によって鎮圧されたが、それがきっかけとなって、10月〜11月にかけて、賃上げ、生産再開、食糧増配などを求める炭鉱労働者の労働組合の結成が進んだ。その他、次々と労組を結成する動きが進んだが、それを言論で指導したのは、読売争議で自主管理まで進んだ読売新聞などの言論機関であった。生産管理闘争は、闘争戦術として始まり、やがて自主管理までいたり、企業・生産の労働者統制まで進んでいった。これについて、佐藤氏は同書で、「闘争のこのような展開は、第1に経営内に二重権力状況をつくりだし、第2に原材料の手当、製品販売、金融関係等の諸問題を社会的広がりのなかで解決することを求めていた。そしてこれに日本の支配階級と米軍の反革命的介入を計算すれば、闘争はプロレタリア権力の樹立へとむかわないかぎり勝利しえなかったといわなければならない」と評価している。そうならなかった大きな要因を、氏は、45年12月の第4回大会で「重要産業の労働者生産管理、農地解放、食糧人民管理を行動綱領としてかかげた」日本共産党の路線が、「だが肝心の一点、すなわち生産管理闘争を軸にすることのもつ革命的力学が、資本主義再建と根底から衝突するものであること、それが占領権力との対決へと必然的に発展することを共産党はあいまいにしはじめ」、労働組合の容認と経営協議会設置要求を掲げるなど、日和見主義に陥ったことに求めている。それには、野坂参三の帰国後の統一戦線戦術の採用によるブルジョア民主主義革命路線への転換ということがある。
戦後、続々と労組が結成されていくが、それは二つのナショナルセンターを中心としたものである。一つは、戦前の労働総同盟(戦時中は産業報国会)系のオルグによって結成されていった労働総同盟である。10月5日、全日本海員組合が最初である。もう一つは、日本共産党系の産別会議である。「45年12月25日の神奈川県工場代表者会議、46年1月27日の関東の139組合、22万9000人を結集した関東労協はいわばその主要な争議手段―生産管理闘争の指導をめざすものとして結成された。そしてそれは46年8月17〜21日の160万の産別会議の結成となる」(同35頁)。
労組結成の動きと平行して、食糧人民管理闘争が高揚した。農民は農産物の強制供出反対闘争を展開し、都市民は米よこせなどの食糧を求める運動を活発化させ、46年4月7日には、幣原内閣打倒人民大会が行われ、4月22日には幣原内閣は退陣した。5月19日の食糧メーデーでは、人民と官憲とが激しく衝突した。
これらの人民闘争、労働運動の高揚に対して、GHQと政府は徹底弾圧策を強行した。かれらは、生産管理闘争を弾圧、読売争議を鎮圧し、海員4万3000名、国鉄7万5000名の労働者の首切り攻撃に乗り出した。これに対して産別会議は、「斬首反対闘争委員会」を結成して、それぞれストライキを決行して、はねかえした。人民闘争は、吉田内閣打倒、人民政府樹立のスローガンを掲げるまでに高揚した。労働運動では、読売争議の敗北後、1炭労・電産の10月闘争に向かう。電産闘争は、生活保証給を中心とする「電産型賃金」を獲得、後の賃金闘争に大きな影響を与えた。
吉田内閣は、傾斜生産方式という統制経済に舵を切り、労組を経済復興に協力させる方向に転じた。
労働運動の闘いは、官公労に中心が移った。官公労は、民間をも引き込んで、「全国労組共闘委員会」(全闘)という共闘組織を生みだし、2・1ゼネストへと上り詰めていく。2・1ゼネストは、占領軍マッカーサーの中止命令と日本共産党による全闘幹部の説得により中止に追い込まれた。その後、労働者は職場離脱に走った。46年秋に経済復興会議が結成され、経営協議会の設置が産別会議を含めて、労組の合意を得ていた。
48年3月、全逓は3月闘争を展開、47年6月の大会で採択された「理論生計費を基礎とする最低賃金と、これに自由価格を加味した地域的生活給(地域闘争)の二本建賃金要求」(同39頁)を掲げた闘争に打って出た。芦田内閣の賃金抑制と職階制導入政策に対して、全逓は、職場闘争、地域闘争で闘いを挑んだが、敗北する。
芦田内閣は、「中小企業で続けられていた工場占拠・生産管理闘争への相次ぐ弾圧(2月31日、愛光堂印刷所、4月7日 新橋メトロ映画、4月21日、22日日本タイプ幡ヵ谷 三田)―すなわち生管の非合法化を梃子とする経営権の確立の追求としてあらわれた」(40頁)。この年、マッカーサー書簡に基づく政令201号が公布され、官公労働者のスト権が剥奪された。
生産管理闘争
この章の担当である嵯峨一郎氏は、生産管理闘争を、「敗戦下の危機と生産管理闘争」とする全体的情況を説明した後、「生産管理闘争の開始」「「生産管理」と「食糧人民管理」」「生産管理と「人民裁判」」「生産管理闘争の高揚と後退」とにわけ、それぞれの特徴を示す具体例をあげながら論じていき、最後に、「革命的政治方針の欠如」としてその過程での前衛党の役割を批判している。生産管理闘争は、当時の食糧闘争において全人民闘争と結びついており、さらに人民裁判を通して権力闘争でもあった。それは、資本家のサボタージュを打ち破るための闘争戦術として始まったが、次第に、労働者自主管理、労働者統制へと高まりつつ、しかし、政府による弾圧、資本の側の反撃に加えて、総同盟と産別会議の対立の激化などによって、後退を余儀なくされる。さらに、経済復興運動への労組の取り込みがはかられ、労働運動の任務を生産復興−生産力増大に置く大河内一男氏らのイデオロギー(後に日本生産性本部結成に結実する)の影響などもあって、経営協議会での労使協議路線もまた広がってくる。その中で、経営権の確立が、経営側から強力に押し進められるようになり、生産管理闘争は困難になっていく。しかし、それは、世界的には、60年代のヨーロッパにおける自主管理闘争やイギリスのショップスチュワード運動などとして高揚する。日本では、全金ペトリなどの中小企業における倒産や偽装倒産に対する闘争戦術として70年代以降においても取り組まれてきた。
戦後直後の時期の生産管理闘争は、資本家のサボタージュに対抗し、体制が安定しない危機的状況下という特殊な情勢を背景に行われたものであり、それは、嵯峨氏が言うように、ソヴィエト的なものを萌芽としては含んでいたし、革命党であれば、そういう方向を目指して活動すべきだったことは明らかであった。ところが、戦後いち早く産別会議結成を主導して、労働運動で多数派を握り大きな影響力を持つにいたった日本共産党は、野坂帰国後の第4回大会で、フランス共産党が人民戦線戦術に基づくドゴール政府への参加と同時に推進していた経済復興を優先するという労働運動方針と同じ方向に向かった。フランス共産党のかかる労働運動方針は、それにたいする労働組合の反発が強まって、挫折した。日本共産党は、5回大会で武力闘争による民族民主主義革命路線へと転換、コミンフォルムによる批判、所感派と国際派への分裂、両派の妥協による6全協での武力闘争の放棄、平和的手段による民族民主革命路線へとジグザグを繰り返し、混迷・混乱する中で、産別会議の解体、反共産党の民同主導の総評結成などによって、労働運動における影響力を大きく失っていく。
次に、嵯峨氏の区分に基づいて、生産管理闘争の具体例を要約して見ていこう。
生産管理闘争の具体例
A.第一次読売争議
生産管理闘争の出発点は、1945年10月25日から50日間の全面的業務管理を行った第一次読売争議であった。鈴木東民ら論説委員、編集局、調査局次長クラスが「民主主義研究会」をつくり、10月19日に、社長の正力松太郎に承認を求めたが、拒否。23日には社員大会が開かれ、一、読売新聞従業員組合の結成と承認、一、社内機構の決定的民主化、一、従業員の人格的尊重と待遇改善、一、自主的消費組合並びに共済組合の結成」の4項目と「我等は戦争責任を明らかにするため読売新聞社員大会の名をもって、社長、副社長以下全役員、ならびに全局長の即時総退陣を要求す」という緊急動議を採択した。翌日、正力は、要求及び緊急動議の拒否と鈴木東民ら指導者5名の解雇通告を行った。これに対して、組合側は、25日からの新聞自主制作を決定し、「大会は鈴木ら5名の最高闘争委員(のちに3名追加)を選出し、また各部ごとに闘争委員会を選ぶことを決定した。この最高闘争委員会もとに、25日には編集委員会が、また26日には工場関係の生産委員会がそれぞれつくられ、かくて「新聞の自主管理」の指導体制ができあがったわけである。同時に、25日には「読売新聞従業員組合」が正式に結成され、鈴木東民が組合長に就任した」(50頁)。
争議は、マッカーサーによる介入、正力の戦犯追及があって、おおむね組合側の勝利に終わった。この後、生産管理闘争は、急拡大していく。
B.京成電鉄争議
第一次読売争議の後、11月23日、京成電鉄は、御用組合の結成を指示、それに対して、自主的な労組を結成する動きが起きた。12月5日、主事補の入らない労組の結成大会が開かれ、1、賃金(本給)5倍引上げ―但し現在の諸手当は従前通りのこと、2、団体交渉権の承認、3、配給品帳簿の提出公開、の3点の要求と「戦時中に従業員のための物資を不正に横流しした張本人たちの退陣、敗戦後に配給物資の帳簿を焼却したことに関する釈明」を求めた。12月8日、会社側は要求を拒否、10日から争議に入り、「14日から、組合は戦術を転換し、「経営管理」に入った。すなわち電車を有料で平常運転し、その収入を組合長名儀で銀行に預金し管理したのである。しかも組合は、経営内容を全部おさえてしまうことにより、会社側の言い分のデタラメさをも知りつくしてしまった」(51頁)。22日、組合は、1、経営協議会を設置すべし、重役13人、労働組合代表13人より成る経営協議会を設置し一切の経営を行うべし、2、現重役は即時退陣すべし、新取締役の選任決定には労働組合を参与せしむべし、3、労働時間を短縮すべし、という要求を提出、経営協議会での会社運営の点を除いて、会社側はそれをのんで争議は終結した。
C.日本鋼管鶴見製鉄所争議
労組結成を準備、1、組合の承認、2、団体交渉権とストライキ権の承認、3、待遇改善(現収入の三倍引上げ、他に家族手当、生活補填手当)、4、会社の一方的首切り反対、五、厚生福利施設の組合監査の5点を12月24日、組合結成大会で、採択した。翌年1月10日の会社側回答は、、組合の承認、スト権・団交権の承認に止まった。組合側は、生産管理を決行する。しかし、「ただ鶴鉄がこれらの前例と決定的に異なっていたのは、《鋼管川崎製鉄所→鶴鉄→鶴見造船所》という一貫生産体制の一環に位置していたことしかも当時鉄鋼は厳しい配給制のもとにおかれていたこと、であった」(57頁)。1月18日の会社側回答が前進をみないものであったので、組合側はすべての生産手段を掌握し、塩・缶詰・軍手などの日常品の配給品の販売、建築用薄鉄板の売却、8時間労働制、職制の排除、などの手段をとった。争議は長期化の様相を呈し、消耗戦となった。そこで、事態を打開するため、組合側は、1月16日の重役会に乗り込み、社長との大衆団交を行った。社長が、組合側要求を認めたため、1月18日に生産管理を解いた。こういうやり方を「人民裁判」と呼んだ。
生産管理闘争と「人民裁判」の広がりに対して、「2月2日新聞紙上に、内務、厚生、商工、司法大臣による、いわゆる「4相声明」を発表した。すなわち、「近時労働争議に際しては、暴行、脅迫または所有権侵害等の事実も発生を見つつあることは、真に遺憾に堪えない。・・・かかる違法不当なる行動に対しては、政府においても、これを看過することなく断固処断せざるえをえない」」(59頁)。
D.三菱美唄炭坑争議
炭坑は、三井、三菱、住友の三大財閥がほぼ独占していたが、北海道では、ほぼ9割がこれらの手に握られていた。炭鉱労働者の多くは、東北からの出稼ぎ者や移住者であり、戦時中は、朝鮮人・中国人が大量に投入されていた。敗戦直後の朝鮮人・中国人労働者の暴動をきっかけに、つぎつぎと炭坑に労組が結成されていった。三菱美唄では、11月4日に労組が結成された。11月13日、組合は、1、賃金の10割増、2、坑内外の労働時間を8時間とすること、3、出勤手当てを性別扶養者の有無による区別を廃し、坑内外の二区分にすること、4、物資配給の不正一層のため、会社と組合の合議機関を常設すること、という4点を会社側に要求した。11月20日、会社側は、ほぼ要求を認める回答を出す。ところが、会社側は、鰯の現物支給という形でなされてた出勤手当分を、12月分の給与から差引いた。翌46年1月7日、組合は、1、賃金を政府決定どおり支給し、請負制を廃止すること、2、基準賃金とは別に従前どおり出勤手当を支給すること、3、木村製錬課長の東京転勤には反対であること、その他、有給休暇、公休日の有給制、婦人の生理休暇、産前産後の有給休暇、健康保険料の会社負担の要求、の第二次要求を突きつけた。そして、2月8日より、生産管理に入る。2月17日、所長らとの大衆団交・「人民裁判」を行った。2月19日、会社側は、1、賃金は請負制を廃止して定額制とする、2、将来政府の基準賃金改訂があるまで出勤手当は当分存続する、3、木村課長転勤問題は保留する、4、有給休暇は坑内夫10円、坑外夫5円とする、5、公休日は月3日とする(なおその他の要求項目に関しては大部分が保留ないし会社一任となった)(62頁)という回答を行い、生産管理は解かれた。この「人民裁判」に対して会社側は、暴行・監禁などの刑事事件として告訴し、有罪判決が出された。資本・政府による労働運動・人民闘争への反撃が本格化してきたのである。
E.東洋合成新潟工場争議
東洋合成新潟工場の労働者は、46年2月20日、労働組合を結成し、「労働組合の承認」「首切り反対」、「工場長、事務局長の排撃」などを決定して闘争に入った。「そして3月12日、会社側の「工場閉鎖」の正式発表にたいし、組合は生産管理をもって闘い工場再開をめざすことを決定、かくて翌3月13日から闘いは、196日間にもおよぶ生産管理に突入することになった」。この生産管理は、江戸川工業の争議との連帯による原料確保や農民組合からの支援もあって、賃金支払いや、労働者の採用、解雇も組合が行うなどの強力なものとなり、会社は、工場再開を決定した。
46年1月、三菱製紙系の江戸川工業所東京工場では、「工場長および同次長を除く工職員470名(うち職員136名)をもって労働組合を結成、各部から10名につき2名の委員を選出して職場委員会を構成し、さらに職場委員会で互選されあ12名をもって中央委員会を構成した。そして2月11日。「給料の引上げ」「勤労所得税、健康保険料などの全額会社負担」「8時間労働制」「団体協約の締結」など9項目の要求を提出し、15日までに回答を求めた」。これを会社側が拒否したため、3月1日から生産管理に入る。生産管理は、日炭従組や他労組との共闘により、原料その他の融通や在庫の販売などによる資金の確保などにより、当初成功裏に進むが、会社側は、御用組合の育成にのりだし、組合の切り崩しを行い、ついに組合幹部の組合員による交代が行われ、6月3日、生産管理を打ち切り、会社側と妥協することになった。
F.高萩炭坑争議
高萩炭鉱は、戦時中に発足した従業員2000余名の中規模の炭鉱であるが、社長独裁の色が濃く、給与内規、退職手当の規定、厚生物資の出納などが全く不明確であった。しかも会社倉庫に大量の物資が隠匿されていたことがわかり、高萩炭鉱労働組合連合会(1800名)は倉庫の検査、無能な所長の退陣を要求するとともに、4月5日における大会で「労使2対1による経営協議会の設置」などの要求を決定した。社長(p67)がこれを拒否したことから、組合側は翌6日から生産管理に突入、「最高闘争委員会」(各坑より1名)―「闘争委員会」(各坑より5〜6名)―「生産管理委員会」(各職場ごとに任命)という闘争体制を確立した。また組合は倉庫と事務所を占有し、所長の出勤を拒否した」。
「4月9日、安川長官立会いの下で高萩炭鉱社長、日炭従組代表、高萩炭鉱労組代表による話合いがもたれたが、そこで日炭従組代表が、業務管理をおこない石炭代金を直接高萩労組に支払うことを声明した。ついに4月12日、商工大臣は「生産管理の合法・非合法に関する政府の方針決定までは石炭代金支払に関する解釈は当事者に一任する」と回答、かくて炭代は高萩労組に支払われるようになったのである。/こうなれば会社側も折れざるをえなくなり、連日の労資会議をつうじて、組合側の要求をほとんど承認し6月14日に争議は解決した」(同68頁)。
「大衆示威行動に警告を発しその翌日には内務省警保局長名で「生産管理弾圧」が全国の警察に指令され、24日には組閣を終えたばかりの吉田首相が外人記者団にたいし「生産管理の合法・非合法を検討中である」と発表したのである。
そして6月13日、政府は「社会秩序保持に関する政府声明」を発表し、次のように強硬に生産管理を非合法とする態度をうちだした。
「・・・政府としては、最近起った生産管理なるものは正当な争議行為と認め難い。今日までの事例によれば、国民経済全般の立場から見れば結局各種の好ましくない結果を生じ、これを放任しておくと、遂に企業組織を破壊し国民経済を混乱に陥し入れるようになるおそれがあるものといわねばならない。その上もし暴行、脅迫等の暴力がこれに伴って行使されるような場合には、社会秩序に重大な脅威を与えることになる。・・・」」
G.東洋時計上尾争議
46年3月7日、東洋時計上尾工場に労働組合結成が結成された。賃上げ交渉や団体協約締結ののち、6月に同労組は、「全日本機器」に加盟する。10月、上尾従業員組合は、待遇改善をはかる前提として「増産運動」に取組むことを決定、10月20日の上尾従組増産臨時大会において向こう1ヵ月間の予定で「増産運動」を実施することになった。
ところが、当時の執行部(後に従組を脱退して「再建派」を名のる―総同盟系)は、「会社」あっての労働運動だ」「賃上げよりも増産運動」という基本的考えをもっていたが、それに対して、後の「従組派」―産別系)は、「ダラ幹追放」「即時賃上げ」などを強力に主張した。そして、24日、25日の大会で「従組派」は執行部からほとんどの職長・課長を追放して、平工員中心の新執行部(15名中13名が共産党員)を選出した。上尾従組のヘゲモニーは産別系執行部に握られた。しかし東洋時計の他の工場(本社、小石川、日野、販売など)はほとんど総同盟系で占められていたことから、こんどは上尾従祖が逆に、これら諸工場で構成する「東洋時計労働組合連合会」から除名されることになった。
上尾従組からの「再建派」108名の脱退、「連合会」からの孤立というなかで、11月2日、従組派は会社側にたいし「脱退者の即時解雇」を要求して激しい「人民裁判」闘争を行う。翌3日には脱退者による「再建同志会」が結成され、上尾工場では、総同盟対産別会議が対立した。5月。上尾駅の通称上寺で「再建派」が協議していたところを、「従組派」および支援労働者1300名が襲って工場グランドにひきずりだし「人民裁判」にかけるという、実力対決となった(上尾事件)。
会社側はこの上寺事件を理由に、上尾従組幹部約30名の解雇を決定、これにたいし従組は直ちに11月25日から生産管理で対抗した。その間、上尾従組派660名は18日間にわたって置時計7220個を製造し、全日本機器埼玉支部、電産本部、産別本部、海員組合などに販売した。
12月12日、「再建派」は、コン棒、鉄棒、ハンマー、バットなど武装した「連合会」傘下各工場従業員、総同盟系組合員および会社が雇った土建業者80名の約1000名をもって上尾工場の奪還に乗り出し、しばらくにらみ合った後、13日早朝から「従組派」のたてこもる工場への攻撃を開始した。そして、午前中のうちに「従組派」は工場からたたきだされた。しかし、「従組派」は、全日本機器埼玉支部所属の富士産業、ライト自動車、石原金属、沖電気、東邦自動車、日本信号などからの支援労働者約1000名をもって、再奪還の行動に出た。双方2000名が入り乱れて、大乱闘を展開した。「そしてこの時、「従組派」支援の富士産業の1労働者が頭を殴打されて死亡した。重軽傷者は双方あわせて200名、このかん警戒にあたていた警官隊200名は、ただ手をこまねいて見ている他になかった。上尾工場は、「再建派」の手にわたり、これにたいし「従組派」は寮にたてこもって態勢の維持をはかったが、しだいに勢力が衰え、復職した者は47年6月15日現在で200名たらずとなった」(70〜71頁)。
H.その他
46年1月には、日立精機足立工場、関東配電(1万8000名)、関東配電群馬業管、沖電気、九州猪之鼻炭鉱、日本製靴。2月には、九州大正鉱業中鶴炭鉱、古河電気工業(2500名)、オリエンタル写真。3月には、京都第二赤十字病院、東京光学、九州宝珠山炭鉱、東宝、北海道雄別茂尻、東芝車輌。4月には、帝国石油大森合金所、常磐高萩炭鉱、東京の日本競馬挽吏、小西六写真工業、日東美唄炭鉱。5月には、東北配電、日本ビクター、西羊毛工場、等々の生産管理闘争が行われた。
生産管理闘争の教訓と今日の課題
嵯峨氏は、『赤旗』再刊第一号(45年10月20日)に載った「闘争の新しい方針について」という論文45年12月1日の日本共産党第4回大会で決定された「行動綱領」から、野坂参三帰国後の46年2月25日の日本共産党第5回大会で、ブルジョア民主主義革命路線を明確に打ち出して、方針転換したことを、「日本共産党は、当初はまがりなりにもあった「生産管理」と「食糧人民管理」を結びつけて「人民革命」を実現するという方向から、全面的に後退して現に起きている広汎な闘争を「ブルジョア民主主義革命」の枠内にとじこめる方向へと転じたのであった。だから生産管理闘争は、争議中における「生産の増大」という面からのみ評価され、やがては「産業復興運動」へとのめりこむことになった。「経営協議会」といい「産業復興運動」といい、激動のさなかにおけるこうした方針の消極性は、事実上、無方針と、現に起きている闘争のたんなる追認しか意味しない。そしてそれは、支配階級にたいし反撃のための時間稼ぎを保障してやっているだけだったのである。/生産管理闘争を戦略的展望のなかに明確に位置づけることのできなかった共産党は、46年後半から、むしろ「ゼネスト体制」を推進するようになるが、それが階級情勢の転換を追いかける形でのたんなる「戦術的」対応にすぎなかったことは、もはやいうまでもない」(p76)として、前衛党の路線問題を指摘している。
さらに、嵯峨氏は、鶴見製鉄所争議において、以下のような組織体制が組まれていたことを指摘し、二重権力状態が作られていたという。
執行委員長―ブレントラスト6名
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管理委員会 常任執行委員会
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工場委員会 執行委員会(70名)
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職場委員会
嵯峨氏によれば、「工場委員会は各部門の専門家である係長・役付工員で組織され、また6名のブレーントラストは、執行委員会および管理委員会から選出されたものであり、これが全体にたいする事実上の指導部と思われる」(同73〜4頁)。そして、「こうしたピラミッド型の組織体制は、むろん鶴鉄のみの特徴ではなく、争議に突入した組合はすべて、一般組合員の自発性に依拠しつつ、権限を協力に集中した執行体制―いわば臨戦体制を築きあげたのである」(同74頁)として、これがプロレタリア独裁権力的性格を持っていたという点を指摘している。
これがグラムシの工場評議会運動を下敷きにしているのは明らかであるが、この運動の高揚と敗北の歴史を振り返れば、職場・生産点における二重権力の創出は、同時に地域ソヴェト権力、そして全国的な二重権力の創出過程における前衛党の指導・戦術・組織を必要としていることは明らかである。共産主義を掲げる前衛であれば、これらを、権力闘争の一形態である蜂起にまで発展させる「計画としての戦術」を必要とする。それは、ブルジョア民主主義革命が当面する任務であったとしてもそうである。ロシアの1905年革命において、ブルジョア民主主義革命を遂行する臨時革命政府は、独裁的権力行使によって、旧勢力や旧弊・旧制度を粉砕しなければならなかった。しかし、ロシアの自由主義的ブルジョアジーは、君主制や旧勢力と妥協した。それによって、労農大衆の零落は強まり、深まり、そして1917年の二次の革命に結果することになるのである。日本の戦後革命期、占領政策に、いわゆる「ニューディール派」の民主的官僚の影響が強かったことや戦時体制の擬制的平等主義の幻想にも導かれた平等主義的大衆意識が広範に存在したことや冷戦のために占領政策が変更され、経済復興を早めようというアメリカの経済支援があったこともあって進歩党・協同党・民主党などの自由主義的ブルジョアジーが階級協調的であった。講座派的にロシアとの共通性を日本に見ていた日本共産党は、こうした現実に対応できず、右往左往して、戦後革命を社会主義革命へと発展させられなかった。その後、戦後復興をとげ、高度経済成長を経て、先進ブルジョア国家として発達した日本資本主義の革命の追求は、ブントなどの新左翼によって進められることになるのである。社共が社会主義革命を投げ捨てていることは今や誰の目にも明らかである。
それに対して、敗戦直後の日本の多くのブルジョアジーは、生産サボタージュ、占領軍の権力を頼っての経済復興運動の組織化、生産管理闘争において示された労働者の生産のイニシアティブ・経営権の奪還、等々、国家権力と占領権力を背景にした労働運動への弾圧と総同盟などの労組を取り込んでの経済復興・生産増強運動を展開する。それに対して、日本共産党は、人民戦線戦術による経済復興会議への参加、2・1スト中止への産別会議説得などに示されたように、ブルジョアジーの復興に事実上手を貸したのである。生産管理闘争についても、フランス共産党が、人民戦線戦術にもとづいてドゴール政権に参加し、生産管理闘争を、生産復興運動の一手段として、ブルジョアジーの経済復興に協力したのと同様に、生産サボタージュに対抗する闘争手段にすぎなくされるのである。日本共産党は、4回大会路線で、生産管理闘争は、二重権力という嵯峨氏の言葉にあるように、権力闘争としてあったのに、それをあいまいにし、誤魔化したのである。
生産管理闘争を労働組合の在り方として見てみると、職場単位、工場・職場単位の団結、従業員労組、今で言う企業別労組という形態が基礎になっていることがわかる。企業別組合という形態の原型が、戦時労働政策にあったことは、いくつかの研究に示されている。工員・職員一体の従業員・会社員という概念や終身雇用の慣行も、戦時期に政府から指導され推進され作られたものである。それが、戦後、工・職一体で職場・事業所・企業単位で労組が作られるもとになった。それが企業連たる日本型の単組→労組連という形の労組構造の元になった。それは一方では、同盟系の労使一体、労使協調の企業別組合を生みだしたが、他方では、企業・工場・職場単位の生産管理闘争を生み出す元にもなったわけである。それは、当時の総同盟や産別会議の幹部にも本来的な姿ではないと認識されていたもので、自然発生的に成立したのである。かれらは、産別労組を掲げ、目指したし、それが本来の労組の在り方と考えており、今でも、共産党系全労連や「連合」は、産別組合を目指している。欧米型の労働運動では、産別労組と別に従業員団体がある。産別労組の支部が職場・企業に置かれているが、それは複数あって、それと従業員団体は任務を異にする。上のアメリカのUAW(全米自動車労組)も産別組合であって、上記のように、従業員はストライキで要求を一定獲得すれば、さっさと会社を辞めてしまう。日本の場合、正社員層は、企業に強く結びついており、賃上げや労働条件の改善よりも、雇用を重視する。「連合」は、賃上げよりも雇用を確保しようとしているのはそういうことである。しかし、この間、この層は減少してきており、非正規雇用者が増えている。企業への帰属意識が薄いこうした労働者層の増大は、産別労組や地域労組などの形態への労働者の組織化の一般的条件が拡大していると言えよう。
それに対して、ブルジョアジーは、もはやこれといった手をうつこともないし、できないでいる。今やブルジョアジーの間では、嘘や誤魔化しや卑劣やモラル崩壊などが蔓延し、目の前の利益ばかりを追い、それに目を奪われ夢中となって、ブルジョアジーは、支配階級としての責任感やモラルなどのヘゲモニー的要素を大きく失いつつある。たんに私益を求めるだけなら、公的支配階級としての性質を喪失する。それは、ブルジョア社会の外皮が剥ぎ取られつつあることを示している。ブルジョアジーは、社会の公的な代表たる資格を捨て去りつつある。プロレタリアートが、次の社会の代表としてかれらにとって代る根拠が増大しているのである。プロレタリアートが、生産・消費・流通を組織し、社会を再建し、新たな支配階級として、ヘゲモニーを行使する必要があるのである。その準備を急がなければならないのだ。短い経験ではあったが、戦後の生産管理闘争は、ブルジョアジーなしで生産や経営が可能であることを実際に示した。その後の企業別組合の労使協調の経験は、所有権=株主に対して、経営権が一定自立する形を創り出した。それに対して、新自由主義は、所有権=株主の復権をはかったのだが、その結末は、ハゲタカ・ファンドの跋扈やサブプライム・ローン破綻などによって、資本主義の大危機に帰着した。それに対して、佐伯氏のような国権的管理強化を主張する国民経済派が台頭してきている。
労働運動の領域において、私有権を擁護する暴力=国家権力というテーマにぶつかりつつあるわけである。それは、言うまでもなく、この領域において、党・前衛の建設とその綱領・戦術・組織の在り方が問われていることを意味している。この間のワーキングプアや非正規労働問題をめぐる社会的政治的な暴露が、共産党の勢力復活に一定帰着し、あるいはマルクス・ブームやプロレタリア文学の『蟹工船』ブームなどを若い人々に拡げていったことにもそのことが示されている。
生きるため、自らの尊厳のため、闘わざるを得ず、また闘おうと思想的に自主的・自然発生的に準備を始めている人々の声に応え、その欲求を実現するために、その根底にある賃金奴隷制の廃止を実現するプロレタリア革命まで導いていく共産主義党を建設していかなければならない。われわれは、その条件と針路を解明していかなければならない。
そして、現在の共産主義運動に、権力闘争の一環として、あらゆる大衆の自然発生性のあらゆる現れを指導し、発展させることが求められているのは言うまでもない。とりわけ、労働運動領域における権力闘争、二重権力、生産管理、工場・職場委員会運動、工場評議会運動、地区ソヴェト運動、コミューン運動、などの試みを発展させなければならない。その際に、労働組合運動は、「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとせず、その組織された力を終局的解放すなわち賃金制度の最終的な廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に敗北する」(マルクス『賃金、価格、利潤』国民文庫89頁)ということを忘れてはならない。戦後生産管理闘争の敗北と日本共産党・産別会議の生産管理闘争をめぐってのぐらつきは、そのことを示している。どのような自然発生的な労働者大衆の闘いの現われであれ、賃金奴隷制の廃止という終極目標を忘れるならば、「全面的な敗北」をまぬがれない。GMのストライキのように、労働条件をめぐる条件闘争なら、その敗北も勝利も部分的なものであるが、いずれにせよ賃金奴隷状態から労働者を解放することはない。労働者は依然として資本の奴隷であって、資本=主人・資本の権力に従属していることに変わりはない。生産管理は、個別職場・企業における資本の指揮・監督・命令する権力をなくすことはできるが、その進展は、この力を支えている国家権力と衝突する。この公的暴力を廃止して、プロレタリアートの権力を創設し、このようなプロレタリア解放の障碍を取り除かないと、賃金奴隷制の廃止という終極目標に向かって前進することはできない。共産主義運動が、ブルジョア国家の廃絶とプロ独の実現を目指すのは、そのためである。生産管理闘争は、労働者がその力を持っていることを示している。労働者の生存を脅かすにいたった資本主義を一掃し、共産主義と労働運動を結びつけ、プロレタリアートの終局的解放に向けた革命的闘争を発展させる必要がある。 その仕事を推進する共産主義者の党を建設しなければならない。われわれ「火花」は、そのことを94年の党大会において採択された綱領と戦術・組織総括において示した指針と基準に従って追求してきた。もちろん、それは発展させられねばならないものであり、新たな時代・条件の下で、新たな内容を獲得すべきものである。われわれは、共産主義者や先進的活動家やプロレタリア大衆との討論や学習や協議や共同行動を行い、その中で、自らを鍛え、共産主義運動の一翼としての積極的に責任を果たし、根本的な革命運動の前進に貢献していきたい。
賃金奴隷制の廃止!、プロレタリアートの政治的自由の発展! 共産主義と労働運動の結合! プロレタリア権力の樹立! プロレタリア国際主義の発展! 共産主義者の党建設を!・・・