唯物論戦線の構築のためのノート(7)
流 広志
318号(2008年2月)所収
梅本克巳氏の党論によせて―唯物論的な党組織論についての一考察
梅本克巳氏は、主体性論に基づく党論を提出している。
「「組織と人間」―主体性論の後に」(『唯物論と主体性』現代思潮社所収)という論文で、氏は、「主体性論の名の下に論議せられたことは動機からいえば大別して二つに分かれる。一つは、唯物論の外部で各人の意識的環境に応ずる」実践への跳躍台スプリングボードに関する場合と、こうした立場から提起される唯物論への批判に応じて唯物論本来の主体的性格を解明しようとする立場とである」(前掲書188頁)と述べている。
氏は、これは、ファシズムに対する観念論や宗教との協同への寛容さを生み出す反ファシズム統一戦線の主体形成を基礎づけるものだという。そして氏は、「マルクス主義は集団の主体性は基礎づけえても、個人の主体性は基礎づけえないなどという批判がある。あたらしいファシズムの準備段階ともいうべきさまざまな理論形態は大体においてこうした批判形式をまとうているが、各個人の主体性と集団の主体性とは機械的に分離しうるものではない。そして集団の主体性が確保されるためには、それとの関聯の下に個人の主体性こそもっとも強く確保されねばならぬ。鉄の規律は一切の盲目的な服従とは全く無縁のものである」(190頁)と述べる。そして氏は、主体性論への批判者であった清水幾太郎・宮城音弥らの近代主義を批判して、レーニンから、「マルクス主義が革命的プロレタリアートのイデオロギーとして世界史的意義を獲得するに至ったのはマルクス主義がブルジョア時代の尊い成果を捨て去ったからでなく、むしろ反対に二千年以上に及ぶ人類の思想および文化の発展に含まれている重要なものをすべて摂取したためである」を引用した上で、「あたらしい人間のメルクマールが、現在における人間解放の集約的表現としての革命的組織、すなわちプロレタリアート前衛党のために、寸毫のためらいもみせずかれの一切を犠牲にするというところにあることは基本的な土台である。それへの前進の度合いに応じて新しいものとふるいものとの交替が行われてゆく。しかしこの土台の上にもられるあたらしい精神の世界の内容は、その実践過程における異なった精神的支柱相互の批判と共同とを通して行われる。そして、一つの組織の中にこの過程の意味が正しく内面化されたとき、組織は一切の封建的閉鎖集団と区別され、しかも近代的集団の市民性を完全に止揚するのである。かくして組織は、現在における唯一の、ありうべき真実の、人間関係の場所となる」(214頁)と述べる。
このような党組織論は、マルクス・エンゲルス・レーニンにはない独特なものである。例えば、マルクスが『経済学批判序説』で使った土台という概念を梅本氏は、プロレタリアートの前衛党への自己犠牲的献身が土台だというふうに使っている。マルクスの有名な史的唯物論のテーゼとして知られている部分で、マルクスは、物質的土台=下部構造と精神的文化的法律的などの上部構造という形で、土台という言葉を使っている。それに対して、梅本氏は、前衛党に対する献身という土台の上に、さらに精神の世界があるというふうに論じていて、前衛党をほぼ先進的意識とイコールとして論じている。
このような前衛党論は、氏が引用する中国共産党の劉小奇が共産党員の修養を論じた「共産党員は人類のもっとも偉大にしてもっとも高尚な一切の美徳をそなえると同時に厳格にして明確なるプロレタリア的立場(すなわち(党性と階級性)をもたなければならない。‥‥党のため、階級と民族の解放のため、また人類の解放と社会の進化のための犠牲であるならば、その時には共産党員が、あたかも死を視ること帰するが如く、寸毫のためらいも見せずにかれの一切を犠牲とするであろう。『身を殺して仁をなし』『生を捨てて義を取る』ことは、多くの共産党員にとっては、当然のことと見なされる。しかもそれは、かれらの社会進化に対する科学的理解と自覚とによるのである。これ以外にはわれわれは階級社会におけるいわゆるより偉大、より科学的にして超階級的な道徳一般なるものを認めない」(同212〜3頁)というのに近い。
しかしこれは、レーニンのいう「鉄の規律」とは違う。レーニンのいう「鉄の規律」は、工場・職場規律とのアナロジーで語られており、当時の資本制工場・職場では、それは、軍隊的・兵営的規律であった。それは、レギュラシオン派が明らかにしたように、現代では、ある程度のフレキシビティを持っていたり、労働者の形成する自己規律を基本的に採用しているような場合もあるなど、一様ではない。しかし、具体的な形態は、ある程度多様であるが、資本制労働規律が基本的には軍隊的兵営的規律を基礎としていることに変わりはない。
レーニンの「鉄の規律」というのは、マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』で、「共産主義者は、他の労働者の運動より少し未来の見通しを多く持っているにすぎない」と述べたことの具体的な適用である。当時のロシアにおいてもっとも先進的な規律を実現していたのは資本制大工場であり、近代的軍隊であった。それが当時のロシアで最も先進的な組織だったからこそ、資本制大工場の労働規律は、先進的プロレタリアートの規律の基礎として取り入れられるべきものだとかれは考えたのである。それに対して、当時の中国は、欧米列強と日本帝国主義による植民地争奪戦の舞台として、領土分割、植民地支配が進んでおり、上海などの沿岸の大都市では外資による資本制大工場などが生まれていたが、基本的には、農村部の膨大な農民が大地主の支配を受けていた農民社会であった、民族解放と大地主制からの農民の解放ということが主要な課題であり、その主体は、大地主・封建勢力・買弁勢力以外の人民大衆すべてということだ。その場合には、かかる主体の精神内容は、「階級と民族の解放」「人類の解放と社会の進化」といったものとなるだろう。しかしながら、もっとも資本主義が発展した地域の一つである日本資本主義下において、このような内容では革命的精神を発達させることは不可能である。梅本氏は、戦後直後の時期において勃興してきたファシズムに対して戦う統一戦線の主体を早急に形成しなければならないと考えて、ファッショ勢力以外の全人民の結集のための主体の在り方として、全人類の進歩のために死をもいとわずに献身することを提起したのである。それは、レッド・パージが吹き荒れる反動期を迎えている中で、進歩的勢力の闘いが大きな意義を持ったことを反映していたのである。それに、大都市部は、空襲や原爆などの攻撃を受けて焼け野原となっており、工業は壊滅状態にあって、人々の多くが、農村で主に農業に従事しているような時代であり、大工場的な規律などは現存しておらず、それを基礎に、党の規律を打ち立てることにはリアリティがなかったのである。それをそのまま現代にあてはめるわけにはいかないことは言うまでもない。
梅本氏は、「共産主義的人間の形成」という論文で、「前衛ということは、相たたかう二つの陣営の最前線にあることであり、階級闘争の場合でいえば、敵階級の圧力とその攻撃をまともに受けねばならぬところだ。このように前衛は敵の攻撃を集中的にうけるところだから、そこでの組織、規律が後方にあるものよりきびしい形をとってくるのはとうぜんであるが、一方からいえば、こうした困難な場面であるだけに、さまざまな人間的弱点に対して後方とは異なった危険があるのだといわねばならない」と書いている。そして、「前衛は人間の美しさがもっとも高い姿をもって現われるところであるとともに、そのみにくさがもっともするどく出てくるところである」と述べる。さらに、レーニンの「一つの政党が、自己の誤謬にたいしてとる態度こそ、その政党が自己の階級および勤労大衆にたいする義務を、真に忠実に、また実際に続行するか否かの最重要にして信頼すべき標準である。公然と誤謬を承認し、この誤謬の原因をあばき出し、この誤謬を発生せしめた環境を分析し、この誤謬を匡正する方法を詳細に討論する―これこそ、真に忠実なる政党の標識であり、これこそ、政党が自己の義務を履行することであり、これこそ、階級を、さらには大衆をも訓練することなのである」を引用している。その上で、氏は、「真実の共産主義者は外なる敵に対して不屈であるとともに、自己の内なるものとのたたかいにもあくまでも誠実であった人々であったといえよう。このような真実の共産主義者の人間関係にうらづけられて鉄の規律というものもうちたてられてゆくのであり、前衛党の組織そのものはこのようにして、それ自体人間変革の組織として、人間のもっとも奥深いところをつらぬくものである。共産主義者の主体性といわれるものはこれ以外のものではない。そして鉄の規律とはそれ以外のことを意味しない」(253〜4頁)と独自の前衛党論を述べる。
氏は、外なるものと同時に内なるものと闘うことが真実の共産主義者の人間関係だというのであるが、意味がよくわからない。レーニンが言っているのは、党が自己の誤謬を正すために、その誤謬の原因や環境を徹底的に討論することが必要で、それが党ばかりではなく、階級や大衆を訓練することになるということである。討論は、複数の人間で行われるのだから、そこに人間関係があることは自明のことであり、また、討論は主に言葉のやり取りで行われるから、言語=社会的意識行為による社会関係が存在することも明らかである。そこにおいて、一定の集団的規律・社会的規律が生まれ、その基準が形成されるのは当然で、その点についても討論課題がある。各党員が、そうした基準に照らして、自己を省みるということが氏の言う内なる闘いということなのだろう。しかし、そうした基準そのものをめぐって議論する場合もある。問題はその中身である。
それについて氏は、「鉄の規律」は、「ふるいくさった人間関係に対しては鉄のように冷たく固い。けれどもこのくさったものをきびしく拒絶して、透明な水晶のように透明な人間関係がつくられるのである。そうでなければ困難な条件のもとで、さなきだにしのびこむ人間の弱点、相互不信、利己心等のくもの巣をきっぱりはらいのけてゆくことはできず、大衆の信頼をかちとることは不可能である」(254頁)と書いている。これは、精神主義的である。氏は、相互不信、利己心等を人間一般の心性として論じているのである。その上で氏は、それらは、全体的には生産力の発展によって消滅するものとしつつ、その未来を、党内人間関係において先取りし、実現しうるし、それによって大衆と結びつきうるとしている。しかし実際の歴史的事実から言えば、利己心をかきたてた経済主義の民同が労働運動で多数派になったということがある。同じく、六全協で経済主義路線を採用した日本共産党も一定の勢力を確保した。学生運動では、全学連は、学生自治会サービス機関論を打ち出し、学生のニーズにこたえる物取り路線を採用した。それによって、労働者階級の解放が進まなかったことは言うまでもない。問題は、人間的弱点たる相互不信や利己心等々の精神的・心理的要因の変革を、経済変革・政治変革と不可分に結びつけて闘うことである。それによって、功利主義的心理学・人間学からの解放が進むのである。それは、人間一般の心理にあるのではなく、近代ブルジョア的な歴史的心理からの解放ということである。そしてそれは、経済変革と政治変革とむすびつけた闘争によって進むのである。そのことは、日本のブルジョア政治が、高度経済成長路線の下で、経済は一流、政治は三流などといって余裕を見せていた時には、あたかも政治と経済は分離可能であるかのように振舞えていたが、経済が苦境に陥るや今度は政治に助けを求めたことからも、明らかである。
例えば、新自由主義者ミルトン・フリードマンは、「経済学と政治学とのあいだには密接な関連があるということ、政治組織と経済組織にはある種の組み合わせのみが可能であるということ、そしてとりわけ、社会主義社会は個人の自由を確保するという意味で同時に民主的ではありえない」(『資本主義と選択』マグロウヒル社8頁)と述べている。経済と政治の間に密接な関連があるというのは正しい。だが、個人の自由という物象化された理念が出てくるのは、彼の頭の抽象性・空想性を表している。そのことは、「資本主義という制度の本質は、強制のない協力関係であり、自発的な交換であり、自由な企業である」(『政府からの自由』中央公論社98頁)というところからも明らかである。大企業から中小下請けという企業間の縦のヒエラルヒーが存在し、仕事を得るためには上からの強制に従わざるを得ない下請け企業の姿は彼の頭の中の立派な資本主義像に反映していない。さらには、彼の道徳論は、「人間関係で最も基本的な道徳は、一人一人の尊厳を認め、個性を尊重することです。人間は、誰かの自分勝手な目的や価値観に合わせて操作してよいものではなく、それぞれが権利と独自の価値観を持つ独立の存在です。説得することはできますが、絶対に無理強いしたり、威嚇したり、ましてや洗脳したりしてはいけません。それが社会関係における基本的な道徳だと思うのです」(同97頁)というものだが、そんな道徳が支配している職場を経験した人はほとんどいないだろう。それは抽象的なユートピアにすぎない。
経済主義的労働運動には、経済主義的政治が対応している。経済主義的労働運動は、労働者を効用主義思想に縛りつけ、俗物化を押し付けようとしている。しかし、それは一面的であって、労働者は、自然発生的にも経済主義的労働組合が押し付ける俗物的レベルを超えでようとするし、実際にそうしている。
日本共産党の経済主義的な六全協路線に対して反発を強めていったのは、全学連である。そして、政治闘争の復権を目指して全学連主流派となった共産主義者同盟(ブント)は、60年安保闘争を政治決戦として闘うことになる。それに対して、日本共産党系学生運動は、この大激動に遅れを取るのである。また、国際共産主義運動において、トロツキー派の第4インター潮流の影響も入って来ていて、反スターリン主義の探求派が生まれ、それから革共同ができていた。そして、そこには主体性論が入っていたのである。それに対して、ブントは、レーニン主義の復権を掲げて、政治闘争に全力を傾けることになる。しかし、59年から続く党内論争の中で次第に求心力を失い、60年安保闘争の時点では、すでに指導部の内部解体がかなり進んでいたというが、その後、三分解(革通派・プロ通派・戦旗派)し、戦旗派とプロ通派の一部は、革共同に加入した。レーニン主義の復権を掲げながらも、レーニンの上で引用した部分のような党組織思想を捨て去って、党物神崇拝の道に行ってしまったのである。60年安保闘争において、主流派として闘う位置にいたブントが方針を出せなくなっていたわけだが、それを党内討論の組織化を通じて解決することができなかったのである。そして、一部の人々が信仰する宗教を変えるようにして、黒田主義への全面的屈服・坊主ざんげを行って、ブントから抜けて、第一次ブントは解体していったのである。再建されたブント6会大会を主導したマル戦派は、革通派の流れを汲む。6回大会は、「生活と権利の実力防衛」を掲げた。それは、利己心に拝跪したものではなく、経済闘争と政治闘争の結合という観点から掲げられたものである。
梅本氏は、利己心と私有制を結びつけていている。それはそうなのだが、利己心の否定は同時に利他心というもう一方の極と弁証法的に結びついているのであって、片方だけをなくすことはできないのである。それは、両極の廃棄、つまりは止揚されねばならないのである。それは、利己でも利他でもない「何か」である。それは抽象的には新しい社会関係そのものに他ならない。その存在が垣間見えたのが、阪神大震災時のボランティアたちの姿であった。とはいえ、それは、自動的に日常化するものではなく、討論によって、あるいはコミュニケーションの意識的組織化、点検・総括の中で、新たな命を吹き込まれなければ、持続・維持することはできないものである。
第二次ブントは、7回大会において、議論抜きに、マル戦派が離脱し、関西ブントを中心とする統一委員会が主導権を握るが、やはり、党内論争を組織することができず、赤軍派・情況派・叛旗派・戦旗派と分裂を繰り返していって、分解してしまう。とはいえ、ブントは当時のベトナム反戦、学生運動等々の世界的高揚の中で、闘いの先頭に立ったのであり、階級闘争のために一定の先進的な役割を果たしたのである。
脱線したが、黒田主義は、主体性論争の中から、さまざまなものを摂取しつつ、黒田の自己意識として形成されたものである。黒田主義の基本は、原始的蓄積批判であり、ほぼそこに収斂する。すなわち、「要するに、資本蓄積過程において資本の定有としての生産手段としての生産手段が労働者に対して敵対的に迫ってくるという直接的現実性、あるいは、それによって自己の生活諸手段からも完全に疎外されている賃労働者の現実の姿、しかも資本がそのための生活諸手段からも完全に疎外されている賃労働者の現実の姿、資本からの現実的威力を発揮するたびごとにますます尖鋭化されるところの賃労働者自己喪失、―この事実からして彼ら「資本の臣下たち」は、彼らが一切の労働諸条件を、あらゆる生活=および生産手段を喪失しているのは、ほかならぬ彼らの主人公たる資本家によってそれが収奪されたからだ、と感性的に自覚するのである。/賃労働者の物質的自覚において定立されるのは、それゆえに、資本制蓄積過程の根源的で本質的な事態としての「根源的蓄積過程」でなければならない。現実の生産過程における剰余労働の搾取の根源的な原因としての直接的生産者からの生産諸手段の暴力的収奪の過程でなければならない。「無慈悲きわまる蛮行をもって、かつ、もっとも賤しむべき・最も不浄な・もっとも陋劣にして腹黒き・激情のもとで遂行され」た「資本の史的創世記」=生産諸手段の資本への根源的な変化でなければならない。賃労働者の自己分割の物質的直観(資本制的生産判断)は、現実の生産過程における賃労働者の生産諸手段に対する疎外関係の、すなわち生産諸手段を資本の定有として自己に否定的に定立せしめている(だからその労働は資本家によって強制された労働である)ことの、感情的確認であったが、いまや、かかる分離の根拠=原因としての「労働者を彼の労働諸条件から分離する過程」を、だから資本制生産関係の成立を、生産者と生産手段との歴史的分離過程以外の何ものでもない。それが『根源的』なるものとして現象するのは、けだし、それが資本のおよび資本に照応する生産様式の・前史を形成するからである」(K・1の七五三頁)とは、まさしく労働者の歴史的自覚においてはじめて把握されうるのである」(黒田寛一『プロレタリア的人間の倫理』こぶし書房108〜9頁)という具合である。
そこから、彼は、「直接的生産者たちの賃金奴隷化の直接的原因である資本制蓄積過程の本質的な事態としての「根源的蓄積過程」への歴史的反省、さらに根源的な「種族生活」の疎外された独自な形態である資本制社会の歴史的必然性における機会的把握、だから「歴史への信頼」、したがって共産主義的意識の獲得、自己の普遍的目的=歴史的任務の自覚へと、プロレタリアの感性的直観はその即自性を脱してますます高揚され、主体的自覚へ転化してゆく。と同時にそれに呼応してますます革命化した断乎たるプロレタリア的決定と自信のもとに不屈の英雄的な闘争を遂行するにいたる。「日々その充実した無から絶対無へ」つきおとされている賃金労働者たちは、いまや「現在は無だが必ず一切になってみせる」(マルクス)と確信する。こうしてブルジョアジーに対する道徳的感性は理性的なものとなる。その個人的諸利害はますます階級的全体性―組織化され、階級的全体性がプロレタリアの個人性(プロレタリア的主体性)に、この疎外された人間性に意識せしめられることによって普遍的人間性へ浸透され、ここにあらわれる社会的全体性と個人性との統一にある道徳的本体(共産主義的人間)が、自由なる人格が、可能的に生み出されてゆくのである。すなわち階級闘争は人間変革の場であり、過程なのである」(162〜3頁)として、賃金奴隷制批判を「根源的蓄積過程」批判へと切り縮めている。そして、「かれの意識が階級的利害につらぬかれる度合に応じて、政治的表現としての組織はもっとも充実した人間関係の場所となり、真にかれが自己自身たりうる場所となる。そしてこのような個人の自覚的な創意が高度に発揮されるとき、組織は真に大衆の心臓となる」(梅本克巳・「組織と人間」『理論』・第7号の一六頁)という梅本克巳の組織論を引用した上で、「個人の利己的傾向(一)は組織と意識における自覚的な革命的精神・階級的連帯性へ高められ、個人性そのものが変革されてゆく。革命的自己と利己的自己との二重性が組織的実践を通じて止揚されて克服されてゆくのである」(166頁)という組織論を提示する。そこで、梅本氏は、階級的利害意識の程度が、その政治的表現としての組織の内容と人間関係と自覚的な創意の場を規定すると述べているわけだが、氏は、マルクスが唯物論哲学を頭脳とし、プロレタリアートを心臓とする階級闘争のことを述べたことを党イコール労働者組織と解しているようである。しかし、労働者は職場においても地域や社会においても、資本の支配の下にあって、その圧倒的な価値観・文化などの影響下にある。それと闘うのはもちろんプロレタリアートの階級闘争であるが、党という組織内で意識さえ高くあれば、それで人間関係が充実したり、自己自身たりえるというものではない。むしろ、マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』で規定したように、共産主義者の組織は、既存の労働者の闘争組織より少しだけ遠くを見通しているだけの階級闘争の推進翼である。レーニンの党組織論は、当時最高度の組織性を身につけ実践していた大工場の組織性をモデルにし、高度化したものであった。そこで、大規模工場的な分業と協業の体制がとられたのである。それにロシア的特殊性を取り入れた形で、ボリシェビキは組織されていたのである。それに対して、当時のイタリアでは、工場協議制度などの労使の協議の場があるなど、職場規律にしても、兵営的規律のみという状態ではなかった。したがって、そこではその特殊性具体性に対応した組織性と組織形態が必要であった。そしてそのことをレーニンも認めていたのである。レーニンは、第三インターのイタリア支部の代表を、トリノで工場評議会運動を組織したグラムシらのイタリア社会党『オルディネ・ヌオーヴォ』派に認めたのである。
梅本氏は、党=組織=プロレタリアートと考えているようで、そこからは、黒田の言うような、共同体=党ということが結果しても不思議ではない。それに対して、マルクス・エンゲルス・レーニンの党組織論は、党はプロレタリアートが階級闘争で使う道具であるというもので、一言で言えば、党=機能論というのが適当なものである。それはかつて関西ブントが主張した党論である。それがまさにレーニン主義党組織論の継承であることは、レーニンの晩年の短い手紙やメモや指示の類を読んでみればよくわかる。それらには、必要な仕事についてやその仕事に適した党員の選抜のための党員の性格から癖から得意不得意などの具体的な細かい分析や評価や注意などについて書いた実務的なものが多い。この頃のレーニンはまるで工場長だ。仕事を成し遂げるために、適材適所で仕事をする人を選び、配置することに心をくだいているのである。最晩年のスターリンを書記長から解任し、トロツキーを後継者とすることを指示した「遺書」にもそうした観点が貫かれている。官僚を指導するのではなく、官僚に操られ、その利害を党内に持ち込んでくるスターリンに対して、熱中しすぎるほど実務にのめり込んで仕事をし官僚以上に官僚仕事をこなすトロツキーを比較して、官僚による党の簒奪を防ぐにはトロツキーが適当だと判断したのである。そしてこの晩年の闘いで重要なことは、党改革と同時に労働者大衆が国家を監視・統制するための労農監督部の設置を指示したことである。党が実務的能力において官僚を凌駕して指導するとともに下から労働者大衆の代表によっても監督することで、特殊な専門階層として国家を取り仕切っている官僚機構を解体に導こうとしたのである。官僚がレーニンの死をきっかけに、スターリン派を使ってただちに両者の骨抜きをはかったことは言うまでもない。
ここまでで、黒田主義が、マルクス・エンゲルス・レーニンの党組織論とはまったく異なるものであることは、明らかだろう。
もう一つの革共同系主体性論派である革共同中核派は分裂した。その対立点の一つに、党組織論がある。中核中央派は、プロレタリアートの特殊的解放が人間一般の解放になると梅本氏と同様の主張をしている。そして、労働者党員を主体にした地区党建設を階級形成=階級的労働運動の推進することを主張している(『前進』2329号)。その上で、中央は一細胞であって、他の細胞と同格・同等であることが基本であるとしている。だが同時に、分派主義と陰謀主義を同じように扱っていて、分派の存在と党内討論の存在を一つの基礎とするレーニンの党組織観を否定している。また、同格・対等である党中央と各細胞との関係がどのようなものなのかという点が明らかではなく、混乱している。党は階級そのものだというのも、マルクス・エンゲルス・レーニンにはないかれら独自の思想である。党は階級の一部であるのは確かだが、階級そのものというのは間違いだ。かれらの5月テーゼ(1991年)―6回大会路線(2001年)から、かれらは、労働者党員が党に責任を持つことはイコール階級そのものを形成するもので、それが地区党だといい、その中央たる中央委員会およびその諸機関の一つで階級的労働運動の指導部である中央労働者組織委員会は、常任主導から、労働者党員主導で進めなければならないという。現場の労働運動には現場の特殊性や具体的条件があるから、レーニンは、労働組合運動がどうしてもそうした現場利害から視野が狭くなりがちであることを考慮して、現場から学びつつも(レーニン自身、嫌がられるほどしつこく現場労働者からいろいろなことを聞いた)、現場利害にひきずられ、自然発生性に拝跪しないようにした(例えば、自民党は、よく、特定の業界や企業の利益の代弁者になるし、労働組合を基盤にした社民政党も組合利害の代弁者になりがちである)。
それから、かれらは、「体制内労働運動と決別し、階級的労働運動の課題と教訓を部落解放運動の中にも豊富化していく闘いが開始されました。地区党建設における労動者の闘いによって、プロレタリア自己解放の主導性・牽引(けんいん)性・刻印性・強制性が進んでいくのです。労働運動・市民運動・住民運動・解放運動の連合ではなく、労働者の闘いを基軸にすべての課題を統一していく観点が、地区党建設をとおして単一党建設として具体的に現れていきました」と連合党を否定して単一党を対置している。しかし、これは党組織論の一般原則というわけではない。具体的な条件次第で、連合党が適当な場合がある。レーニン自身が、二つの中央をつくろうとしていると後のメンシェビキになる連中から批判されたことがある。中央細胞とは、中央としての諸機能によって他の細胞と区別されるものだから、レーニンは、『イスクラ』を中央機関紙として機能するように位置付けたのである。それが、中央委員会と『イスクラ』編集局との二つの中央を作ったとして非難されたのである。亡命を余儀なくされたレーニンは、ボリシェビキの在外代表を務めながら、『イスクラ』を通じて、中央としての機能を発揮し責任を果たしたのである。
また、マルクスが書いているように、階級闘争における労働者の闘いは、敗北の連続を余儀なくされ、その度ごとに団結が失われるが、プロレタリアートは、繰り返し立ちあがって、高度な団結をものにしていくのであり、分散を余儀なくされる場合もある。さらに、今日においては帝国主義的超過利潤によって帝国主義的労働貴族がブルジョアジーによって買収・育成されるなど、労働者は分断されている。それらの階級闘争の具体的な条件に対応した党が必要なのである。
『前進』は、その差別・分断支配を打ち破って、階級的に統一するのが地区党であり、それは常任中心ではなく、労働者党員によって運営されねばならないという(「労働組合を土台にして全労働者・住民の運動と組織を一つの階級的団結にまとめていくこと」とも述べている)。
それに対して、『革共同通信』(創刊準備号1月1日付)は、このような、かれら言うところの安田派の党=労働組合一体論とも言うべきものを、第二インターへの転落と批判している。いわゆる安田派言うところの関西の塩川派は、同紙の山田発言では、「私は3全総・4全総のころ、党に結集したわけですが、これをうけつぐ3回大会、二重対峙・カクマル戦、フェイズI・フェイズIIを闘い、5月テーゼ、19全総、6回大会と、紆余曲折しながらも築き上げて革共同の革命路線が正しいと思います」と言われているように、革共同中核派の原点に返るという主張をしており、7月テーゼをそういう点から党を変質させるものだと批判している。これは、第一次ブントで、島書記長が「ブントは終わった」と述べたことなど、ブントの総括の仕方の徹底性とは対照的である(おそらく、第1次ブントも、第2次ブントの明大闘争のヘゲモニーも、自ら解体する必要はなかった等々)。
ともあれ、両派とも、革共同中核派は正しかったが相手が変質してそれを放棄したのだと非難しあっていることは同じである。しかし、この間の事態は、革共同は終わったとして、根本的に総括した上での、共産主義運動としての再出発を必要としていると私は考える。革共同主義の原点である探求派まで総括しなければならないのである。両派ともそれはまったくなく、どちらが正しい後継者かという点をめぐる正統性を争っているだけである。ブントは組織的には解体したが、つまらない組織を残して、中途半端に生き恥をさらして生き延びることはなかった。敗北を勝利と偽り誤魔化すこともなく、敗北を敗北として認め、敗北の中から不死鳥的に蘇ろうともがいてきた。共産主義者たらんと思うなら、革共同中核派は自己解体して、共産主義運動として、きちんと蘇るという階級闘争の原則に従うべきだ。そうして生まれ変わった党は、高度な団結体として、新たな生命を得ることができるかもしれない。今のところ、両派とも、党内論争や分派に積極的な位置を与えることなく、党のための闘いなる革共同特有の誤謬を抱いたまま、偽の「党の革命」を呼号している。革マル派は、黒田死後、ますます黒田主義への先祖がえりを強め、写経するように、黒田教祖の経典を書き写すように求める記事を掲載した。革命のため、共産主義のため、プロレタリアートのために党があるのではなく、黒田教祖と黒田教のために党があるという転倒に陥っているのだ。
ブントは失敗し敗北したが、階級闘争の先進的な推進役としての役割を一定果たした。それだけに多くの教訓を残せたと言える。だからこそ、敗北と分散から、勝利と団結へ、再生と再結集へと向かう中で、新たな質・内容と高度な団結を実現し得る可能性が高いのである。大きくは、ブント以外にそれが可能な共産主義運動の「主体」は、日本に存在しなかった。われわれは唯物論者として、無から始めるのではなく、ブントは、日本共産党から生まれ、日本共産党がコミンテルン日本支部として生まれ、コミンテルンは、第二インターから生まれ、第二インターの指導者たちは、第一インターを創設したマルクス・エンゲルスの指導を受けていた、第一インターは、義人同盟とマルクス・エンゲルスらから生まれ、マルクス・エンゲルスは、ヘーゲル左派から出発した、ヘーゲルは、フランス革命から大きな影響を受け、フランス革命には、百科全書派の啓蒙主義者やフランス唯物論派の思想が影響を与え、フランス革命はイギリスの功利主義者・哲学的急進派に影響を与え、イギリス唯物論の形成を促した、‥‥というように、歴史的な関連性をもって、出発するほかはないのである。
ここまで、主体性論的な党組織論を梅本氏の論から見てきたが、それは、スターリン主義的な機械主義的な唯物論思想に対して、主体性を能動性・意識性・感性・理性において強調し対置したもので、国際共産主義運動の圧倒的なスターリニズム支配からの解放という点で大きな意義があった。それは、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想とは異なる独特な思想として形成されたものであり、そこに、西田幾多郎の絶対無の思想などをも取り入れつつ、さらには、ヒューマニズムと共産主義の結合をも試みるものとしてあり、それは戦後革命への反動期を迎える中で、反ファシズム統一戦線形成という政治目的を基礎づける企てであった。しかし、その党組織論は、意識・観念をもって、人間関係の内容をはかるものであり、基本的には観念論である。それに対して、マルクス・エンゲルス・レーニンの党組織論は、党=階級の道具論であり、それは関西ブントが基本的に継承したものであった。そして、今復権すべきは、そうした党組織論であると私は考える。プロレタリアートが、党を使って、階級闘争を闘うということである。したがって、レーニンがいうように、超歴史的な党組織というものはありえない。道具は使いやすいように改良しつづけなければならない。道具を磨くことと同時にそれを労働者が使いこなす力・能力をもたなければならない。そういう腕を磨かねばならないのである。
いずれにしても、意思の問題を考えていくと、個人の意思の問題にとどまることはできず、集団意思・社会意思・党組織意思というものを考えねばならないが、主体性論はその一つの回答である。それは同時に、ヒューマニズムの一つの結果という面も持つ(「そもそも階級的労働運動とは、労働者階級の特殊的解放をとおして階級支配をなくして共産主義社会を実現すること、この中にすべての人間の人間的解放を実現するということです」『前進』前掲号)。帝国主義的ヒューマニズムが侵略と虐殺に行き着いた顕著な例が、アメリカ帝国主義のイラク侵略戦争である。人権主義を標榜しつつ、かかる虐殺に寛大な態度を取りつつ、自称共産主義国家の非道な行為という過去の話を蒸し返してばかりいる批判家がいるのは問題である。もちろん、スターリニズムソ連が行った人民抑圧は批判すべきだが、同時に、人権の名において行われる残虐行為や蛮行も許容することはできない。NGO・NPOであれなんであれである。スターリニズム憎しのあまり、差別的表現を平気で使う者もいるが、それでは今日のブルジョア的人権思想のレベル以下になってしまう。それでは、先進的意識・意思を持つ党組織・個人としての先進性は持てない。ヒューマニストの中に、そうした反省のないまま、反共主義を吹聴している者がいるが、そういう人たちは、「人のふり見て我がふり直せ」である。人権についても、具体的歴史的にその内容をよくよく吟味しなければならないのである。
ここでは、主体性論が、フォイエルバッハ・テーゼの第一テーゼ「いままでのすべての唯物論(フォイエルバハのもふくめて)のおもな欠陥は、対象、現実的感性はただ客体または直観の形式のもとにのみとらえられて、感性的な人間的活動・実践としてとらえられず、主体的にとらえられていないことである。したがって、活動的な側面は、唯物論とは反対に抽象的に観念論―これはもちろん現実的な、感性的な活動をそのものとしてはしらない―によって展開された。フォイエルバハは感性的な―思惟客体から現実的に区別された客体を欲する。しかしかれは人間的活動そのものを対象的活動としてはとらえない。だからかれはキリスト教の本質のなかで理論的な態度だけを真に人間的なものとみなし、これにたいして実践はただそのきたならしいユダヤ的な現象的な形態においてのみとらえられ、固定される。したがってかれは『革命的な』『実践的・批判的な』活動の意義をつかまない」を復権したことを高く評価したい。
ただし、梅本氏は、フォイエルバッハの人間主義を高く評価しているのであるが。また、戦前の唯物論研究会で加藤正の批判者であった船山信一は、戦後にはフォイエルバッハ主義者になった。彼らは、後期のマルクスが、初期の意識や人間主義や情熱や感性といったものをあまり言わなくなって、下部構造の科学的解明として経済学の研究に打ち込んだことに不満があったのだろうか? また、主体性論あるいは疎外論と宇野経済学との結びつきということもある。梅本克巳と宇野氏の対談本もある。黒田主義の場合は、ヘーゲルぽい認識論があるが、それは原始的蓄積批判を基本にするものであり、資本主義批判として問題がある。それに対して、廣松氏は物象化論を基本にした廣松認識論を打ちたてようとした。氏の資本主義批判としては、分業批判ということがある。機能的連関を社会構造の基礎に論じたことは、機能連関としての党組織論というところまで徹底されればよかったが、氏の党組織論は、共同体論に近い。もちろん、党は、人間集団である以上、共同体的な面を持つことは言うまでもない。しかし、それは、党のすべてではない。(つづく)