唯物論戦線の構築のためのノート(4)
流 広志
315号(2007年11月)所収
廣松渉氏の共同主観論的規範論・倫理学について@
廣松渉氏は、『世界の共同主観的構造』で、デュルケムの社会学を再構成することで、蘇らせるという課題を提起している。ただ、その前に、氏は、既存の認識論・哲学・倫理学に対する不満と批判が述べられている。そこで、氏は、その限界を突破するために、共同主観論を展開する。氏は、認識論を中心としていて、マッハの感覚論やゲシュタルト心理学などを援用している。氏は、マッハの限界を指摘もしている。
ただ、廣松氏は、レーニンの『唯物論と経験批判論』の言うところの「単純模写説」に強い批判意識をもっているようである。「単純模写説」と言われるものについては、ことはそう単純ではないということだけをここでは指摘しておく。
氏の共同主観論という認識論の体系においては、認識の変化や相対性といった変化であるとか、実践と認識の動的な関係性であるとか、要するに、変化や飛躍といった動的に動く現実の在り様に対して、構造や共同主観による決定や物象化的錯視の強さとか、変化よりも、普遍化な安定性や保守性や固定性といったものが、強いように感じられる。もちろん、氏としては、デュルケムの社会学の動力学ということを強調しているし、歴史の発展の動因としての階級闘争ということを踏まえているのであって、静的な歴史観・社会観をとっているわけではない。
氏の意志の論理学・社会倫理説を確かめるためには、その前提となっている認識論を見ておかなければ、その意味が理解できないので、氏の共同主観論から確かめていきたい。ただ、廣松氏の提起を本稿のテーマに沿って、見るためであって、それに必要と思われる限りで見ていくだけであることをあらかじめお断りしておく。なお、氏の使う用語は難しいのであるが、それは、氏が、既存の概念や学知を批判し、自らの新たな学知を立てようとすることから来ているものである。日常用語にない言葉が多く出てくるので哲学的訓練を受けていない人には読みにくいということはあるが、新知をたてる際にはある程度やむを得ないことでもあるので、ある程度は勝手に直したりしてもいる。その点ご容赦いただきたい。
廣松氏の全著作を見たわけではないが、『世界の共同主観的存在構造』が、氏の主著であって、その後の氏の論考の基底となっていると見てよいと思う。熊野純彦氏が『情況』2002年7月号の「経験をひらく思考 『世界の共同主観的存在構造』を読む」で、同書は、「廣松の「哲学的見解を開陳したものとしては論域が最も広く」またその内容がその他の廣松の諸著にたいして「基底的」なものである。その意味では、廣松渉の「実質上の主著」であるとすらいってもよいかもしれない」(107頁))と述べているが、最晩年の『存在と意味』をざっと読んだ限りでではあるが、基本的な部分は、『世界の共同主観的存在構造』と変わっていないと思われるので、熊野氏の指摘に同意できる。
まず、序章冒頭において、廣松氏は、当時の哲学や諸科学の停滞を指摘し、その閉塞情況が、近代的世界観の根本図式とりわけ近代的認識論の「主観―客観図式」から来ているという。氏は、近代的認識論の「主観―客観図式」の超克が必要だと言うのである。この近代的認識論の「主観―客観図式」の前提として、氏は、(1)主観の「各私性」。「主観は、いわゆる近代的“自我の自覚”と相即的に、究竟的には意識作用として、つねに各個人の人格的ペルゼンリッヒな意識、各自的な私の意識だと了解される」こと、(2)認識の「三項性」。「意識作用―意識内容―意識作用」、(3)与件の「内在性」。「三項図式においては、いわゆる近代的な“物心の分離”と相即的に、認識主観に直接的に現前する与件は、「意識に内在」する知覚心像、観念、表象、等々、つまり「意識内容」にかぎるとされ、客体自体は意識内容を介してたかだか間接的にしか知ることができないものと了解される」こと( 勁草書房7〜8頁以下同書からの引用は頁数のみ)の三点をあげる。
その上で、氏は、それが、近代的認識論の三つの躓きによるという。すなわち、
(1)「未開人の精神構造や精神病者の意識構造の研究の進展によって、かれらの意識構造が正常な“文明人”とは「異型的」であるということが解明され、「“知性的能力”はおろか“感性的能力”にいたるまで、歴史的・社会的に共同主観化されていることが明らかにされたため、意識の人格性ペルゼンリッヒカイト、各自性というかの大命題そのものが・・・もはや維持できなくなったからである」(同)。
(2)「ゲシュタルト心理学は、一定の局所的刺激に対して常に一定の感覚が対応する(刺激が同一であれば、それに対応する感覚も同一である)という「恒常仮説」をくつがえし、あまつさえ、知覚が本源的にゲシュタルト的に分節化していることを明らかにした」から。
(3)「フランス社会学派、なかんずくその「集団表象」の理説がもたらした発想と知見。集団表象の理説は、人びとの意識が集団化され共同主観化されているということを指摘するにとどまらず・・・さらに一歩を進めて、人々のもつ“意識内容”“表象”がいうなれば物象化することを究明し、社会的事実fait social を、この意味での物chose として処理する。道徳的事象や「言語活動」を考えてみれば瞭然たる通り、「集団表象」は決して諸個人がもつ表象の代数和ではなく、特殊的総合synthese sui generis であり、新しい存在性格を獲得する。なるほど、もし人間(意識)が誰一人存在しなければこのchoseも存在しないというかぎりでは、それはたしかに“主観的なもの”であるが、しかし、それは個々の意識主体と客体との直接的な関係によって生ずるごとき「意識内容」ではない。この物象化された意識、集団表象は、精神と物質という近世的な二元分類に収まりにくいという点は措くとしても、意識の直接的な与件でありながら「意識内容」ではないことにおいて、かの「意識の命題」を躓かせる一契機たらずにはおかなかった」(14頁)から。
この躓きを解決するため、廣松氏は、近代的発想法の地平そのものの自己批判し、その基礎的構造を破砕し、新たな世界観の権利づけを図らんとする。
そのための与件として、氏は、(1)人間の意識が本源的に社会化され共同主観化されているという与件」、(2)「意識がゲシュタルト的に体制化されているという与件」、(3)集団表象の物象化という与件」(17〜8頁)の三つをあげる。
その上で、氏は、反省以前的な意識に現れるままの世界としての「フェノメナルな世界」とそれを形成している諸分枝を「フェノメノン」と呼ぶ。フェノメノンは、「即自的に「或るもの」として、「単なる与件als solches以上の或るもの」として、現われる」(24頁)という。意識は、所与をなまのまま受けとるのではなく、所与をそれ以上の或るものとして意識するというのである。音声記号は、単なる音ではなく、それが表わす或るものとして意識されるのである。それを廣松氏は、フェノメノンの対象的二要因のレアール=イデアールな二肢的な構造成体と呼ぶ。主体も同様に二重化されている。こうして、廣松氏の認識論の「現象的世界の四肢的構造連関」が示される。
氏は、フェノメノンが、私の人称的意識に属する主観的なことがらではなく、フェノメナルな世界が、前人称的・非人称的であるという。ところが人々は通常、対象の意識と意識の意識(自己意識)を臆断的に区別して意識の本源的人称性なる想念に固執してきたというのである。それに対して、共同主観論が立てられるわけであるが、それは、「フェノメナルな世界は“所与がそれ以上の或るものとして「誰」かとしての或る者に対してある”Gegebenes als stwas mehr einem als jemandemとでもいうべき四肢的な構造連関において存立している」(45頁)ことから解明されるべきものだというのである。
次に、氏は、言語=記号の領域に進む。それは、情報によって伝達される世界は、知覚的世界同様に、われわれの意識・心理・生理的な機構に直接的影響を及ぼし、反応を引き起こすからである。従来、物在的宇宙こそ世界の第一次的な環境であり、情報的世界は、準環境として、あるいはその一部とされてきたが、実際には、「われわれに如実に拓けている世界、すなわち、われわれの心理・生理的な営みに直接的に規定的影響を及ぼしているところの、そしてわれわれがそれに対して対象的・実践的に関わっているところの現与の世界は、実は、殆んどもっぱら情報化された世界である」(49頁)という。
さらに、氏は、情報的世界の基本である記号=言語について、「言語が歴史的に成立して以来、「思考」はもちろんのこと、フェノメナルに与えられる知覚的世界そのものが、そもそも共同主観的な言語的交通を離れては存在しない」(54頁)と述べる。しかも、「知覚そのものが記号(象徴)的な在り方をしており、言語的記号はそれを典型的に具現したものにほかならないのであるが、フェノメナルな世界は言語的交通の媒介による意味づけられた分節に俟ってのみ、はじめて現与のものになっている」(55頁)ので、言語の存在構造を解明することが、フェノメナルな世界を理解する鍵になることになる。
廣松氏は、言語機能が、(1)対象的事態を叙示する機能、(2)対象的事態に関する発話者の措定意識や感情状態を表示する機能、(3)聴取者に一定の精神的感応や身体的反応を喚起する機能の三つに大別され、(1)の機能は、さらに、陳述されるべき関心の対象を指示する機能とその対象をしかじかの或るものとしてals etwas Bestimmes述定する機能に分かれる(58頁)。したがって、言語機能は4つになる。
言語は、一方に具体的人称的な主体から自立化された言語主体一般との相関関係にある記号と意味の体系が物像化された言語ラングとして表象されるという。他方で、言語主体は、自己分裂的自己統一を発話者と不断に形成していくことを通して、言語的活動に媒介された対象把捉と「表現」の仕方を共同主観化していき、共同主観的に、自らも「言語主体一般」として、自己形成を遂げる(83頁)。
廣松氏の共同主観論の共時論的展開を、ごくおおざっぱに見てきたのだが、本稿のテーマと関連するのは、この後である。
まず、廣松氏は、「本章では、われわれが内存在するところの世界を、単なる認識という関心ではなく、生の全体的関心の対象として正視しつつ、世界を人間的実践という共同主体的(intersubjektiv=間主体的)な営為によって被媒介的に措定されるものとして捉え返すこと、これが課題となる所以であるが、「歴史的」という限定は、世界が―狭義の「歴史」のみならず「自然」を含めて―原的に間主体的実践による被媒介性において存立するという了解―を表示するものにほかならない」(90頁)と述べる。
氏は、まず、生活的関心に対する道具的有意義性を指摘する。フェノメナルなものは、単なる「もの」以上の道具的有意義性をもつものとして現れる。それは、他の人間とその行動でも同じである。人間の行為の場合には、「規制的有意義性」と呼ぶが、それは「人間の行動様式そのものの物像化」と関係しているという。
次に、氏は、制度や習慣は、「集団的・規範的拘束性において存立するところの、本源的に共同主体的(=間主体的)な現象である」(98頁)であることを指摘した上で、歴史的文化的形象(道徳・法律・芸術・宗教・学問等々)を検討する。そこで、氏は、文化的有意義性を「価値的有意義性」と呼ぶ。
氏は、文化的価値の価値と反価値との相補性を指摘する。「価値は、日常意識においては、或るときには性質として、或るときには実体として、ともあれ主観からは独立な客観的な或るものとして表象されている」(101頁)のだが、それは、直覚的認識の対象であるが、経験的直感の対象ではない。それは、マルクスが、商品価値は、超感性的なものだと指摘したのと同じものであるという。
続けて、氏は、日常生活において、われわれが、道具的・規制的・価値有意義性を帯びた環境世界に内存在しつつ、社会習慣的・制度的に様式化された仕方で行動していることを指摘する。われわれは、俳優が役柄と場面にふさわしい仕方で演じているように演技しているという。そして、「人間活動の汎通的な形式的・構造的規定として、role-takingという概念を採用し、これを援用しながら」歴史的主体の在り方にアプローチすることにしよう」(105頁)という。
われわれは、fur uns 人の行動は常にある役柄扮技として、単なる身体的動作以上の或るもの etwas Mehr, etwas Anderes として二肢性において現存在するという。そして、われわれは、人生劇場において、演技者として演技しているのだが、「人間の活動は、こうして、一般に、彼が一定の役柄を演ずるその都度すでに、舞台・背景・道具、ならびに、役柄・筋書・振付という既在性によって拘束される」(107頁)という。人には、「舞台外の生活」はありえず、「自己としての自己」と「俳優としての自己」のレアールな区別はなりたたない。デカルト的なコギトですら、コギタースム(我々が考える)であって、本源的な共同主観性においてある。人間には実体的な本質はなく、「社会的諸関係の総体」(マルクス)なのである。そこで、氏は、person(人格)が、舞台上の仮装(仮面etc)を意味するペルソナが語源であり、personate(演技する)と同根であることを指摘する。演技は、相手との関係においてある共同主体的協働の一射影である。この演技において役者は、誰であってもよく、任意の数値で置き換えられる。役柄・配備・演技・構成態は、y=f(x) といった函数的性格をもつというのである。
それに対して、制度は、「特定の諸個人によって現に演ぜられているということにおいてではなく、可能的な生身の人間、誰かしらしかるべき諸個人によってレアールに演ぜられうるというイデアリテートにおいてある」(112頁)。
氏は、制度・習慣などの「規制的有意義性」が「われわれの身体的行動を規制するだけではなく、“内的な行動”すなわち、思考や価値評価をも規制し、この内的拘束性において、イデオロギー的ひいては権力的支配の槓杆をなす」(114頁)という。つまり、それは、単なる知識ではなく、当為意識をわがものとして受肉し、現実的な拘束性を発動するものである。
つぎに、廣松氏は、倫理・道徳の次元に議論を進める。
氏は、道徳的規制という時、親兄弟や隣人が、人を叱責したり、道徳的非難を加えるのかは、根源的に制裁サンクションのrole-takingをおこなわざるをえない心理的圧力に押されているのではないかとして、ジンメルが、『社会的分化論』でも取り上げている事例を指摘しつつ、「未開人においては、タブーを犯す者が出ると、集団の全員が心理的恐怖におちいるといわれるが、同様な機制メカニズムが作用しているのではないか」(115頁)と述べる。そして、氏は、唐突なようではあるがと断りつつ、「生霊憑き」を道徳的制裁として機能していると述べる。氏は、その催眠現象に着目する。「端的にいって、規制的有意義性、規範的拘束性という案件には、究極的には条件反射に基づくものであるにもせよ、深層催眠、自己催眠の次元に即して捉え返さるべきものであろう」(118頁)という。つまり、「各種のサンクション、叱責、嘲笑、非難、祟り、懲罰、等々は、条件づけ、催眠の機能を果たすだけでなく、条件反射理論でいう意味での「強化」(条件づけの手段としても機能している。或る意味では、この強化こそが賞罰サンクションの基本的な機能であるかもしれない」(同)というのである。
それに対して、規範的価値意識のない場合は、懲罰は、たんなるむきだしのゲヴァルト(物理的暴力)にすぎない。それは、当の権力支配が甚だ脆弱であることを意味する。道徳その他の掟が形骸化している場合もそうである。
そして、氏は、共同主観的な催眠が根強い網を張っているが、その催眠が表層的意識の尖端に現れるのが、神話(民主主義、ナショナリズム、企業意識等々)に他ならないという。そして、「この汎通的な被拘束性、相互規制的な間主体的協働のこの屈折を介して、我々としての我 Ich als Wir としての我々Wir als Ichが形成される。すなわち、人間は、単なる認識主観の次元においてのみならず、実践的構えGesinnung において既に共同主体(観)的な主体として自己形成をとげ、この次元においてもintersubjektiv=gemeinsubkektivな個体として二肢的構造成体として現存在するに至っている」(119頁)というのである。
氏は、用材的有意義性の「共同主観的一致」は、動力学的な緊張をはらみつつかろうじて存在するものであって、それは観念的扮技と現実的な扮技での心態の違いによるものとしている。役柄と特定人格との結合は分業などによって固定化されるが、例えば、身分の違う者でも観念的扮技によって、他の身分の道具や風習や芸術などの文化形象を観念的には捉えることができるが、それにとどまるのである。それは同一の階級の中でも起きるし、新規の体験が共同主観化されていくので、動力学的な変化の過程が存在するというのである。
次に、氏は、物象化論をとりあげる。物象化には、(1)人間そのものの物化、(2)人間の行動の物化、(3)人間の力能の物化、がある。これら以外に、後期マルクスの物象化論があるが、それは範疇が異なるという。
「マルクスのいう物象化は、人間と人間との間主体的な関係が物の性質であるかのように倒錯視されたり(例えば、貨幣のもつ購買力という“性質”)、人間と人間との間主体的な関係が物と物との関係であるかのように倒錯視される現象(例えば、商品の価値関係や、多少趣を異にするが、「需要」と「供給」との関係で価格が決まるというような表象)の謂いである。それはもちろん、対象から引離された人間と人間とだけの関係ではなく、況んや、静的・反省的な関係ではなく、対象的活動にたいして動力学的な関わり合いであり、機能的相互連関である。すなわち、それはわれわれが謂う意味での広義の間主体的協働関係の謂いであって、これが或る屈折を経て、物の性質や物と物との関係であるかのように仮現する事態を指す」(125〜6頁)。
廣松氏は、歴史という次元で、超個人的な「大きな主体」という物象化的錯視をしりぞけつつ道具として使っているこの形象は、任意の間主体的協働形象で置換されうるという。
ここまでの氏の議論では、まるで人間は既成性の網の目に捉えられ尽くしていて、神学的決定論や経済的決定論の類の宿命的決定論におちっているように見えるが、それは、物象化的錯視によって生じているのであって、「既成性からして人間の対象的活動によって創造されたものにほかならない」(129頁)ので、氏の議論は、けっして宿命的決定論ではないという。氏は、role-takingな構造は人間実践を拘束するものではあるが、実践は、対象、道具、演技様式、人間そのものを変容せしめるものであるという。それは、人間の間主体的協働としての対象的活動によるものであり、弁証法的な相互作用Wechselwirkungによるものであるというのである。
このrole-takingの基幹は、物的生活の生産であり、歴史的現実において、物的生活の場面でのrole-takingの構造、すなわちマルクスの規定した意味での「下部構造」の機軸性だと氏はいう。 しかし、氏は、「人間の主体性」や「自由」が没却されてしまうのではないかという疑問を想定して、それについては、さしあたり『マルクス主義の地平』第三部、「歴史法則と諸個人の自由」を参照することを求めている。これについては、後に取り上げることとする。(つづく)