「御手洗ビジョン」を粉砕し、プロ独政府・共産主義の実現を!
流 広志
305号(2007年1月)所収
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1月1日、日本経団連は、「希望の国、日本」(「御手洗ビジョン」)と題する冊子を公表した。そこには、奥田前会長に代わったキャノンの御手洗新会長の路線が描かれている。タイトルは、安倍政権のスローガンの「美しい国、日本」に合わせているのは明らかである。まず、「御手洗ビジョン」を要約してみる。
「はじめに」は、バブル崩壊後の経済低迷を抜け出し、2004年から連続成長していることを、改革の成果であると強調している。そして、経済低迷から脱出しつつある現状に対して、二つの道があるという。一方は、「弊害重視派」で、先行を思い悩み、弊害がもっとも少ない道を進むことを主張する人々で、かれらは、所得格差、都市と地方との不均衡などの是正を強調して、改革を中断して、税や社会保障を通じた所得再分配の拡充や公共事業を拡張することを求めているという。
他方の「成長重視派」は、ベストのシナリオにチャレンジするという。かれらは、弊害の原因が、グローバル化と少子高齢化にあると見て、改革を徹底して、成長の果実をもってこれらの弊害を克服しようとするという。日本経団連は、基本的に「成長重視派」の立場に立つことを宣言する。その理由は、今後、グローバル化と少子高齢化がますます進むことが確実で、それに対応するには、経済成長を実現しなければならないからだというのである。
まず、「御手洗ビジョン」が言うグローバル化とは、「ヒト、モノ、カネ、情報、技術の国境を越えた流れが一挙に拡大」することだという。その結果、世界経済が、国際分業・協業体制を変化させながら急拡大した。とくに、BRICs諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国)の発展が目覚ましい。そして、先進資本主義諸国とこれらの新興途上国との競争が激化している。各国は、コンペディティブ・エッジ(比較優位)を求めて、税制、法制などのインフラを整備し、優秀な人材、技術、情報を取り込むための激しい競争を行っている。それから、「御手洗ビジョン」は、反グローバリズム運動を、保護主義・民族主義と批判して、世界経済が相互依存関係を深めている以上、グローバル化は不可避であるという。とくに、日本のように資源や販路を海外に頼っている通商国家では、保護主義は生活を脅かすという。したがって、日本は、「第三の開国」を断行して、国際ルールづくりに参加すべきだという。
次に、少子高齢化対策である。まず、人口減少と高齢化の進展という現実が示される。生産年齢人口、労働力人口が共に減少しつつある。「弊害重視派」は、人口減少下での成長には懐疑的で、成長率が低下しても、それを上回る人口減少率なら、一人あたりGNPはプラスになると主張する。それに対して、「成長重視派」は、低成長かマイナス成長になれば、期待が減少して、さらなるマイナスのスパイラルに陥れば、一人あたりGNPがマイナスになる可能性がある。財政赤字と社会保障費を考えれば、成長しなければ、国家破産するかもしれないので、「弊害重視派」の政策は不可能だという。
「成長重視派」は、科学技術を基点とする狭義のイノベーションの促進、生産性の向上、内外の需要の創出・拡大、道州制の導入、労働市場改革などで成長を確保すれば、財政赤字・社会保障制度などを持続可能にできるし、なによりも成長の果実で、少子化対策ができるようになり、人口減少に歯止めをかけられるという。
「成長重視派」は、若い世代が希望に満ちて何度もチャレンジする国、働く世代が、仕事にうちこみながら子育てをする国、リタイア世代が平穏な余生を送る国、をつくるとして、その国柄を3点あげている。
「1、精神面を含めより豊かな生活」では、まず、倫理性を欠いた際限なき蓄財を貪欲・拝金主義として批判し、それと反対の清貧を尊敬すべき信念の一つとして言葉の上だけで持ち上げつつ、すぐに、「しかし」と実際には否定して、人々の大多数は、豊かな未来への希望がなければ、勤労意欲がわかないから、成長が必要だという。同時に、生活の豊かさには、物質的なものばかりではなく精神的なものもあるという。その精神的な豊かさとは、個人の価値観の尊重、自主・自立の精神に基づいた選択の自由な行動であり、その条件は、文化、習慣、宗教の多様性に寛容な社会風土に支えられた選択の自由にある。さらに、自己中心的な自由と気楽さのみを求める風潮が、人間関係を希薄化し、人々の孤立化を促しているという。それを解決するには、弱者への思いやりや社会への貢献などの協調的行動を促す開放的・横断的な絆を強化する必要があるという。それから、企業が、CRS(企業の社会的責任)活動を通じて、健全な地域コミュニティー形成に寄与する義務があるという。
「2、開かれた機会、公正な競争に支えられた社会」は競争社会の礼賛である。それは、競争で発揮された努力、汗、創意やリーダーシップなどが成果に結びつけば正当に報われる社会だという。人種、信条、性別、年齢、障害の有無などによって差別されない平等は、絶対的に保障されるが、結果平等は求められないという平等論を語る。結果平等を重視した旧社会主義国家が官僚制国家になって自壊したのを教訓化しなければならないというのである。しかし、旧社会主義国で、多くの人々が国営商店で長い行列に長時間並んで生活必需品・配給品を入手しているのを横目に、特権官僚が専用デパートなどで贅沢な消費を楽しんでいたように、格差・結果不平等が拡大したことは、体制転覆が大衆に支持された一因になったのである。それから、再チャレンジの機会をいっぱい作ってもカバーできない格差には、必要最低限のセーフティーネットを用意すべきだという。そのセーフティーネットも、公的制度だけではなく、ボランティアや地域コミュニティーやNPOなども積極的に参加してつくるべきだし、「お役所仕事」よりも「人間的で暖かいサービス」になるという。それが費用の節減にもなると本音を漏らしている。
「3、世界から尊敬され親しみを持たれる国」では、まず、世界のグローバル化と多極化の動きによって、国際関係が複雑化している中で、日米同盟を機軸にすることを主張している。そして、WTO、ETA・EPAを推進すべきだという。また、環境・貧困・資源問題で、日本が積極的な役割を果たすべきだという。それから、世界の平和と安定のために、日本が安全保障上の積極的役割を担うべきだという。日本は、安保理改革に取り組むと共にPKO活動などの国際平和協力分野で積極的に貢献する必要があり、アジア太平洋地域においては、日米同盟を地域の安保の要として強化し、MD(ミサイル防衛)推進、合同軍事演習の積み重ねなどの安保強化策が必要だと主張する。
次に「第3章「希望の国」実現に向けた優先課題(国を支える基盤の確立)」では優先課題を5つあげる。1、「新しい成長エンジンに点火する」、2、「アジアとともに世界を支える」、3、「政府の役割を再定義する」、4、「道州制、労働市場改革により暮らしを変える」、5、「教育を再生し、社会の絆を固くする」、である。1の基本は、イノベーションである。それは、「科学技術創造立国」、高度人材育成、生産性向上、需要の創造・拡大、金融市場の活性化、環境・エネルギー政策、である。2は、WTO体制の維持・強化、FTA・EPAの締結促進、経済協力の推進である。3は、「小さな政府」論で、行財政改革、社会保障制度改革、税制改革、である。4は、道州制改革、労働市場改革、少子化対策である。5は、教育再生、公徳心の涵養、CSRの展開・企業倫理の徹底、政治への積極的参画、憲法改正である。最後に、「アクションプラン2011」で、諸方策を箇条書きで要約している。
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「御手洗ビジョン」と安倍政権の綱領は基本的に一致している。イノベーションの強調、一方でグローバル化と「改革」の推進、他方で愛国心や公徳心の強調、改憲等々、ほとんど同じである。昨年には、教育再生会議を立ち上げると共に「国と郷土を愛する態度」・「公共心の育成」などを盛り込んだ教育基本法改「正」案が成立し、続いて、労働市場改革策として「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」制度導入を進めた。今月から始まる通常国会での法案提出は見送られたが、これも「御手洗ビジョン」に掲げている意見の政策化である。
教育分野では、「御手洗ビジョン」は、公教育の再生を掲げ、校長の裁量権の強化、学校選択制の拡大、教員免許更新制導入、全国学力調査の実施と結果の公表、能力別クラス編成など能力に応じた公教育の弾力化、日本の伝統・歴史・文化の教育を充実させ、国歌・国旗を尊重する態度を育成、企業・官庁も日常的に国旗を掲げ、国歌を歌うこと、公徳心育成、社会教育の促進、ボランティアのカリキュラム化、社会教育を行うNPOの支援、を掲げているが、これらは、教育再生会議の議論に反映している。
憲法分野で「御手洗ビジョン」は、憲法9条第1項の平和主義の理念を維持しつつ、第2項で、自衛隊の保持を明記し、自衛隊の国際活動、集団的自衛権行使を明記するとしている。また、安保政策を効果的にするために、内閣総理大臣のリーダーシップを強化して、安全保障会議を日本版NSC(国家安全保障会議)に発展させるべきとしている。これらは、自民党が公表した改憲論に入っている。
「御手洗ビジョン」に現れているのは、外資の論理とブルジョア民族主義の混交である。一方では、世界がグローバル化して国境を越えた相互依存関係が深まっていることを肯定しつつ、同時に愛国心を強調しているのは、ブルジョアジーが帝国主義段階を超えられないことを白状しているのである。
グローバル化の先頭に立っている共和党ブッシュの米帝は、イラクで泥沼にはまっている。中間選挙で大敗し、上下両院を民主党に制されたにもかかわらず、超党派グループがまとめた撤退案を無視して、2万人規模の一時的大増派という賭に出たのである。米軍が治安の前面に立てば、イラクの反体制グループの標的となりやすいことは明らかで、米軍犠牲者が増大することはさけられない。米軍幹部からは、米軍本体の9万人の増員を求める声が出ていて、ラムズフェルドが構想したハイテク化・機動力強化による米軍縮小路線が否定されるかもしれない。レーガン時代のスターウォーズ計画同様ラムズフェルドのハイテク戦争計画は、軍需予算確保のための絵にすぎないのである。このような戯画のために、大きな犠牲が出ている。有害な絵なのだ!
こうしたハイテク技術への過信は、「御手洗ビジョン」のイノベーションなるシュンペーター的概念の強調に現れている。もっとも、シュンペーターは、イノベーションの効果は、一時的であって、結局は、それは枯渇してしまい、ついには社会主義にイノベートされると言ったのである。「御手洗ビジョン」が描く年2%程度の成長率は、シュンペーターのイノベーションの概念からは小さすぎるのであり、ダイナミズムが欠けているのである。イノベーションと安定成長などというのは両立しないのである。イノベーションの効果は、もっとダイナミックで、大きく動くものなのである。シュンペーターによれば、そのようなイノベーションができなくなった資本主義は死につつある資本主義であり、「死に体」なのである。「御手洗ビジョン」は、資本主義が、成長しなくては生きられないということと安定を両立させようとして矛盾を激化させるものであり、結局は、資本主義滅亡の道を掃き清めるものである。それを引き延ばすために、労働者大衆に犠牲を転嫁しようというのだ。かかる資本主義に起因する犠牲を労働者大衆が黙って甘受するいわれはない。
これは、レーニンが『帝国主義論』で指摘したように、今や日帝は、帝国主義=「死滅しつつある資本主義」であることを表わしている。世界の成長センターは、新興資本主義国であり、ローザ・ルクセンブルクが高蓄積を引き出しうる非資本主義セクターがまだ多く残存している国々なのである。その新しく発展してきた新興市場に対して、老帝国主義諸国は、資本投資・直接投資を行い、そこから資本所得を引き出すことで蓄積しているのである。日本の国際資本所得が、貿易所得を上回ったのは、そのことを表しているのである。海外からの資本所得は金融資産化して蓄積されるが、それを速やかに資本化するための金融市場を整備・発展させる必要があるので、「御手洗ビジョン」でも金融市場整備を重要課題としてあげているのである。新興資本市場の急発達は、世界の資本間取引を拡大させた。そのことは、資本取引の安全のために、世界市場の安定と平和が日帝にとって重要性を増したことを意味する。したがって、日帝は、国連安保理改革や日米安保の強化、改憲による自衛隊の海外での平和活動への参加を促進しようとしているのである。その期待に応えるべく誕生したのが安倍政権である。
資本所得への依存が強まっていることは、国際階級闘争によってその権益が脅かされる可能性が増大していることを意味している。したがって、日帝は、米帝などが、テロ対策と称して、民族解放闘争や共産主義運動まで先制攻撃で叩きつぶすのを支援することが必要になっている。フィリピンでは、民族解放闘争や労働運動・市民活動家の暗殺や弾圧まで米帝がアロヨ政権を援助して行っているが、それは、フィリピン・トヨタでの労働争議で、間接的にトヨタを支援するものだ。
帝国主義諸国は、国際階級闘争に直面し、それを鎮圧する必要に迫られると同時に比較劣位産業を再編・整理する必要が生じ、資本所得への依存を強める蓄積体制の安定・強化のために、帝国主義本国内の生産力体系の再編、搾取・収奪の強化が必要となり、それに対するプロレタリア大衆の反抗の鎮圧を強化する必要に迫られている。「御手洗ビジョン」が掲げる労働市場改革は、日本版「ホワイトカラー・エグゼンプション(残業代ゼロ制度)」導入に現れているように、労働時間という観念を抹消し、すべてを成果主義すなわち出来高制賃金体系を拡大する狙いがある。それによって、労働管理の手間がなくなり、労働は、労働者の自己管理となる。しかし、出来高賃金は、労働時間賃金の変形にすぎない。それは同時に生活給という観念を抹消するものだ。それを、小泉改革で明らかなように、まず小さな風穴をあけ、それを後で拡大するというやり方で実現しようというのである。例えば、外国人研修制度は、研修が目的に掲げられていたが、実態は、中小企業の不正な低賃金単純労働力確保の手段にすぎなかった。派遣業法改正は、非正規雇用を拡大させ、不安定就労、低賃金の温床になった。
このように、労働に複数の労働市場があって、別々に市場価格が存在するというのは、一物二価、三価で、不条理である。だがそれを日本の財界は、多様性と呼ぶのである。市場主義者にとっては、これも自然な摂理なのだろうが、同一物に複数の市場が存在するというのは、市場の制度性・人為性を表しているものであり、もっと言えば、階級性が現れていることを意味している。市場は公正であるべきだと市場主義者は言い、「御手洗ビジョン」もそう主張しているのだが、現に目の前にある市場は、同一労働複数賃金で、同じ労働力に複数の値段がついていて、公正ではない。公正化のために、労働市場を統一するという考えが出てくるのは当然である。しかし、逆に、「御手洗ビジョン」は、労働市場を多様化すべきだと主張する。そうなれば、格差拡大固定化・階級・階層差別が拡大することは明らかであるが、それが「御手洗ビジョン」の主張の帰結である。「御手洗ビジョン」が主張する介護・福祉・家事の市場化・産業化は、それをいっそう促進するものだ。したがって、「御手洗ビジョン」が実現するに従って階級闘争の激化はさけられない。そこで、分裂する社会を愛国心・公徳心で幻想的に統合することが必要になるのである。もちろんそれは教育制度や社会制度などによる強制をともなうものである。そうでないと実効性が小さくなる。したがって、大多数が通う公立学校での教育改革が必要であり、多くの社会人が働く場である会社や官公庁で国旗・国歌を尊重する態度を涵養する必要があるというのである。
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「御手洗ビジョン」が労働者階級を多様化し、ばらばらに分解し、抵抗力を弱めつつ、愛国心幻想によって精神的に国家=支配階級共同体に統合する狙いを示しているのは明らかである。甘い言葉を並べているのは、もちろん労働者大衆をだますためである。安倍政権は、支持率が大きく低下し、閣僚のスキャンダルが暴露される中で、弱気になって、日本版「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入法案の通常国会提出を断念したが、その原因を財界と塩崎官房長官は、残業代ゼロ制というイメージが先行するのを防げず、あくまでも選択であるということを周知させられなかったためだと弁明した。このように、財界と自民党は、ごまかしが足りなかったと白状して、労働者大衆をばかにし、傲慢で思い上がっているのである。そのことは、「御手洗ビジョン」の「はじめに」で御手洗キャノン会長が、文学的表現で、『旧約聖書』のモーセのように、「御手洗ビジョン」を、人々を「約束の地」に連れて行くための「地図」と書いていることに現れている。偽装請負をやっていた不祥事企業キャノン会長が、自らをモーセに「地図」を啓示したユダヤの神の如き視点でビジョンを書くとは、なんて恥知らずなんだろう! 御手洗会長には、地面に落とされて消されたコラのように神的暴力が下りそうだ。
御手洗会長は、レーガン改革を高く評価するが、資本主義・帝国主義を救うために、何百万人の生活を犠牲にし、路頭に迷わせると同時に金持ち減税で、一握りの億万長者を育て、富をかれらに集中させたレーガンとブッシュの共和党政権の政策を導入することが、同時に強調する日本の歴史・伝統・文化と衝突することを自覚していない。言葉の上だけで持ち上げられて、実際には否定されている清貧思想は、日本の歴史・伝統・文化に根ざしているし、大衆的に人気のある思想の一つである。清貧思想は、貧困を礼賛しているのではなく、信念や自己規律に従った結果として貧困になったとしても、それを立派な生き方として評価するというものだ。自己の価値観や倫理観を曲げてまで、腐った豊かさを求めないということである。それは、次々と自己利益を求めて企業不祥事が発覚しているのと対立する思想である。成長してより豊かになりたいのは大衆ではなく、増殖しなければ生きられない資本の性質を頭に深くインプットされている日本経団連に代表される資本家階級の方である。そのために、労働者大衆には、より我慢と犠牲を強いて、それを国家幻想や公徳心でごまかすことを求め、自らは、減税その他の特典をえて、より自由に資本の増殖、資本利得の取得に励もうというのである。そのためには、大衆増税も戦争できるようにするというのが日帝の狙いなのである。すでにその道を先に進んでいる米帝の後を追おうというのだ。「御手洗ビジョン」は、それを美辞麗句や甘言を並べて、安倍政権に具体化する政策をやるよう促し、かつ人々をだましているのである。
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それに対して、共産主義者は、国際的な階級闘争の拡大・発展をもって応えなければならない。それには、プロ独政府の樹立に向けて、その具体的な内容を明らかにすると共に社会的諸団体の水準を引き上げ、共産主義的なものに高度化していくことが必要である。革命的政府の樹立は、中南米やインドのいくつかの州、東チモール、などで実現しているように、民族解放民主主義革命など多様な形態で実現できることである。問題は、権力奪取を実現した革命を掲げる政府が、革命の内容を資本主義以上のものに引き上げる指導・組織を実現できるかどうかである。あるいは、どうしたらそうできるかということである。そこで多くの革命を掲げる権力が挫折・後退してきた。
マルクスは、フランス三部作で、プロレタリア革命を敗北の連続の末に勝利するものとして描いた。プロレタリア革命が何度も敗北するのは、資本の権力との力関係ではさけられないことだ。しかし、プロレタリアートは、何度も団結し直し、教訓を身につけて、フェニックスのごとく何度もよみがえる。1990年代のプロレタリアートの敗北は、非正規雇用の拡大、賃下げ、リストラの嵐、社会格差の拡大、拝外主義の横行、などの結果をもたらした。しかし今、労働者大衆は、力強くよみがえりつつある。共産主義者の一部は、時代から教訓を引き出して、共産主義(コミューン・イズム)=革命的共同体(マルクス)の建設を、労働者大衆の闘いの発展と結びつけようとしている。
「御手洗ビジョン」は、支配階級共同体=国家共同体だけを共同体と呼んでいる。しかし、階級闘争の中で生み出される闘争組織・団結体は、すべて共同体性を持っている。プロレタリアートの共同体の形成は、自然発生的な場合が多いが、それを意識性をもって高度化することは、共産主義者の階級闘争での重要な任務である。「御手洗ビジョン」を粉砕し、プロ独政府・共産主義社会実現に向けた階級闘争を発展させることである。改憲策動を粉砕し、ブルジョア政治をうち破り、プロレタリア政治・未来のプロレタリアートの倫理・規律を対置して、その下に人々を結集する必要がある。
なお、プロレタリアートの倫理は、エンゲルスが言うように、未来を代表する倫理である。彼は、倫理は、階級的であり、時代や社会状況によって異なり変化するものだと述べている。現在を代表する倫理は、ブルジョア倫理であり、「御手洗ビジョン」が言う公徳心はブルジョア道徳のことである。その他に、大きくは、プロレタリア倫理と小ブル倫理がある。前者は未来を代表する倫理である。後者は、両方の間で動揺する倫理である。現在支配的な倫理・道徳を批判することは、倫理一般を否定することではあるがプロレタリア倫理を否定することではない。未来のプロレタリア倫理がある。それをわれわれは自己規律などと呼んできたのである。