共産主義者同盟(火花)

田原芳論文集完結によせて

流 広志
304号(2006年12月)所収


 われわれ火花派は、一時期、田原理論に基づき、綱領から党を目指すなど、二次ブント、そして田原理論からも多くのものを学び、摂取したが、この度、関西ブントの主要メンバーであり、第二次ブントで、綱領委員会をリードした田原芳氏の遺稿集が、『関西ブント 田原芳論文集|プロレタリア独裁への道(II) 日本の孤立観と生産力思想』の刊行で、完結した。岩田氏はじめ刊行に尽力された方々の熱意によって、このようなブントの貴重な遺産が再び日の目を見たことの意義は大きい。
 先に発行された(I)は、主に、共産同第7回大会から12・18ブント9回大会の過程での綱領問題や赤軍派問題などの党内分派闘争などについての論考で、政治的な文章が主なのだが、(II)の方は、1961年11月の同志社大学社会科学研究会の機関誌『炎』掲載の「帝国主義と自由世界」から、68年6月15日の「社会主義と我々の態度」までの約7年間の理論文書、政治文書、歴史関連文書など多様で幅広い領域の諸文章が収められている。田原氏の幅広い視野と教養と優れた洞察力を示す文章ばかりである。田原芳論文集を読んでみて、感想や考えたことのいくつかを述べたい。

田原氏の生産力思想批判

 (II)のサブ・タイトルにある「日本の孤立観と生産力思想」は、収録論文のタイトルであるが、この論文は、とくに、歴史的で、思想的で、政治的な文章である。つまり、日本の主要思想としての「生産力思想」が、明治維新の過程で成長し、ナショナリズムに結実しつつ、それが日本共産党にまで受け継がれていったことを明らかにして、それに対して、「共産主義者同盟は、国際主義を、世界革命をこれに対置した」(134頁)のである。田原氏の基本的な思想闘争の機軸にあるのが、生産力思想批判であって、それが、1971年の「サイバネテックスかプロレタリアートの独裁か―唯物史観をめぐる闘争―」では、能力主義批判として継承される。
 1960年代は、ソ連スターリニストの「社会主義ナショナリズム」に近い社会党など、トロツキー派の一部や日本共産党の民族民主革命論(米帝従属からの民族完全独立論)や自民党佐藤路線などの福祉国家論(国民経済成長主義)の三つのナショナリズムがあって、これらと同時に対決する必要があった。そして、田原氏は、これらのナショナリズムに共通する基底として、明治以来の近代主義・生産力思想を批判したのである。このような生産力主義批判を基本的な党派闘争の基準としたことは、プロレタリア独裁論において、世界連邦制か世界独裁かという日向派と連合ブントの党内闘争を惹起することになる。
 田原氏は、「日本の「孤立観」と「生産力思想」(その1)」で、60年安保闘争での共産同の敗北の総括として、生産力思想への敗北、「日本共産党の対米従属に対しては日本資本主義の発展成長を対置する事によって生産力思想とは直接対決しなかったのである。そして我々の思想はこの段階で、きみように生産力思想とのからみあいを持っていた」((II)78頁)と述べている。この「生産力思想」とは、「戦前の天皇制国体の中には、個人の生存又は発展は、家族の生存発展であり、家族の発展は村は町の発展であり(ママ)、村の発展は国の発展である。そしてこの存在と発展は、人間そのものとして又そうした人間の精神的、物質的なものに演繹される」(同79頁)というものである。完全な個人の確立のない明治日本の国体は、非―近代的国家であったという。しかしそれは、日本共産党・講座派が言うように前―近代的国家であったということではなく、完全なブルジョア革命だったということである。それは、明治日本が、「国策の中心は、この世界にいかに日本が対応するのかという問題を中心とした」(同80頁)ことに大きく規定されたということである。
 これは、65年「日韓条約」反対闘争の過程で、60年安保闘争が戦後民主主義の延長上ではなく、「日本のナショナリズムとの関係で、又、日本と米との関係ではなく、再び日本と東南アジアとの関係としてある以上、戦前の大東亜戦争、さらにさかのぼって、日清、日露へ、明治維新の問題までさかのぼった日本と東南アジアとの関係を媒介とした、日本のナショナリズムの問題として論争される事となった」(同94頁)こと、佐藤内閣の登場によって、それまでの戦後民主主義的な共同幻想に変わる新たな共同幻想が生まれてきたことに対する歴史的評価とそれへの対応を具体的に明らかにすることから導き出されたのである。

ブルジョア民族主義批判と共産主義論

 65年6月9日、独立社学同と関西ブントは、共産同統一委員会を結成し、翌年9月25日、マル戦派と合同で、ブント再建6回大会を開催する。そして、田原氏は、7回大会に向けた議論を提起していく。
 田原氏は、同盟6回大会が日本革命を世界革命の一環に位置づけることを目指したが、永続革命という「一国社会主義」「一国革命」を克服できず、国際共産主義運動が内包する左派民族主義、サンディカリズムを一掃する世界観を確立できなかったとして、3ブロック階級闘争の結合、世界同時革命、世界単一共和制―世界プロレタリアート独裁―世界社会主義建設の路線の確立に向けた7回大会を求めた。7回大会では、マル戦派が退場し、旧統一委員会派の主導権が確立した。
 この世界同時革命は、レーニンが「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」と述べた20世紀初期とは違って、戦後において、米ソ両大国が核武装し、帝国主義戦争・体制間戦争が、限定戦争が核戦争に波及するものであるがゆえに、帝国主義戦争の始まる前に、帝国主義を打倒し、成功させなければならないというものであった。「世界観、革命戦略を、直接的に大衆のあいだにひろめ、強めることが出来る、革命、社会主義、共産主義の建設は、広く日常不断に大衆のものとならねばならぬ」「こうすることなくして、戦争の前の革命を夢想することは出来ない。われわれは、自然発生的な大衆の高揚とそのエネルギーに依拠するのではなく、革命や共産主義が、直接大衆のものとなる条件をもっているし、大衆は又、そのことを要求している」((II)131頁)わけである。
 革命・共産主義を直接大衆のものにできるし、大衆がそれを要求しているということは、われわれ火花派が、直接に共産主義を掲げた大衆的諸運動を訴えることで、まっすぐに継承してきたものであった。このような第二次ブント共産主義論と革命運動論の関係についての議論は、現代にもっと復権させなければならないものの一つである。この領域について、われわれは80年代に、「共産主義的土曜労働」「社会建設のための一日」というスローガンの下で、語ってきた。これは、田原理論が、コミューン4原則に、無償労働の組織化を加えたことを継承したものである。もっとも、この辺については、斎藤同志の連載が触れているところなので、そちらを参照していただきたい。もう一つ、田原理論から、われわれが継承しているものとしては、商品・貨幣と民主主義を関連させるということがある。これは、現綱領のソ連・東欧体制崩壊の総括視点として継承されている。その他、田原理論から学んだところはいろいろあるが、長くなるので、ここでは割愛する。
 7回大会、8回大会、9回大会と、共産同は、分裂を重ね、マル戦派、叛旗派・情況派、赤軍派、戦旗派が、独立していった。さらに、9回大会、蜂起戦争派の12・18ブント後にも、さらに分裂が続く。
 こうした困難な情況の中で、田原氏は、ブルジョア民族主義対プロレタリア国際主義の二つの世界観の闘争をふたたび強調する。そしてそれが、生産力思想との対決であることを「サイバネティクスかプロレタリアートの独裁か」(1972年)の能力主義批判で再度強調している。また、それは、8大会2中委における共産主義の第一段階でのプロ独の否定が、技術主義的な「全人民国家論」などのソ連修正主義との国際党派闘争を曖昧にするものだという判断の基本にあるものである。また、田原氏は、「同盟社学同総会で、「世界同時革命」に対して「世界・一国同時革命」を勝利させた日向、岡野グループは、八回大会では、「社会主義社会の独自の法則」をささやき、二CCでは、世界プロ独に対する民族プロ独を、統一共和制に対して連邦主義を、単一政府に対してコミューン主義を対置し、首尾一貫した反革命の体系をつくりあげていた。古いBUNDののき先をかりて、それを右翼的に体系化したのである」((II)428頁)と、それを、党内論争の課題の基礎に置いているのである。

権力奪取を実現する党と社会主義を組織する党

 それにたいして、共産同全国委員会は、『共産主義運動年誌』第三号2002年 寄稿「ブントを継承して日本の共産主義運動を再建しよう」(102頁)で、ブント総括として、「12・18路線下の党建設においては、革命と権力奪取それ自身が党の当面する直接の問題にされた。革命戦争の遂行がその実践路線であり、これに対応して「非合法軍事組織としての党建設」(共産主義一五号)という組織建設路線が主張された。その歴史的な意義についてわれわれは否定するものではない。しかし、七〇年代の初頭の時代においてもすでにこうした路線は時代状況に合致したものではなく、その国際主義におけるコスモポリタニズム的限界(国際主義の重要性を強調しながら自国帝国主義との闘争の意義を後景化してしまう限界)を含めて、観念性・一面性をまぬがれないものであった。その結果、一二・一八路線下の党建設は、党を現実の階級の前衛として建設していくという第一次ブント以来追求されてきた道を遮断し、党組織が現実の階級闘争から無縁な存在になっていくという事態を加速させていった」と書いている。ここでは、田原氏が強調した権力奪取と社会主義建設の党の後者が抜けている。全国委は、ブントの共産主義論を継承しているとは言うものの、田原氏が提起した共産主義建設についての問題領域は、あまり重視していないように見える。もっとも、二次ブントから共産主義論を継承しているとも述べているので、そこに入っているということなのかもしれない。
 われわれの場合は、上述のように、共産主義と大衆運動・大衆の関係であるとか、共産主義を組織するとはどういうことかという問題を強く追求してきた。そこで、「革命的スローガン」の問題や共同体=共産主義の建設の問題であるとか社会建設のために働くNGOの領域への注目であるとか、実際に社会建設を進めているサパティスタの運動などに着目しているのである。「過渡期世界」における共産主義社会建設の困難性に、世界の多くの革命的諸運動が直面しているし、権力奪取を成し遂げた革命運動が、そこで、後退や退却や紆余曲折を余儀なくされてきたからである。それは、商品・貨幣による社会性の水準を超える結合関係の構築という課題に直面しているということである。それは、田原氏の言う如く、プロ独政府の問題なのである(この点については、とくに、「プロレタリア独裁への道 現代革命の諸問題第2章商品化現象と二つの思想」(I)222頁以下参照)。そこで、レーニンが晩年に構想したような政府活動の人民大衆による監督を組織することが重要な意味を持っていることがわかる。それは、資本主義国家のブルジョア議会が持っている行政の監督や監視という役割が形骸化しているのに対して、かかる議会機能を大衆自身が奪取し、ブルジョア議会を止揚するテコとなる方策の一つであろう。
 われわれは、社会建設の領域を重視していることから、プロ独を放棄しているように見えるかもしれないが、そうではない。逆である。われわれは、プロ独=政府問題を追求することから、社会建設の領域を問うているわけである。それは、「まさしくわれわれが、実践の過程で、又国際共産主義運動の総括と批判の過程でつきあたった動揺、悩み、壁は、プロ独が決して国家のレベルに制限されて理解してはならないのではないかということ、それゆえに、4原則(コミューン4原則―引用者)は不十分ではないかということであった。何故なら「労働の分離に応じた分配」「計画経済を基本とする生産と消費」「政治、経済の統一としてのプロ独の死滅」国家の死滅が自動的に、自然成長的に共産主義へ至るという考えは、パリ・コミューンの自然成長性ロシア革命の自然成長性に依存したものであり、あいまいであると考えたからである」((II)244頁)という田原氏の問題意識を継承したからである。プロ独の中身は何かをめぐって、火花諸論考の多くが書かれている。
 共産同全国委は、前出の文章で、二次ブントから継承すべきものとして、(1)プロレタリア階級に依拠して革命の準備を進めるプロレタリア革命路線、(2)自国帝国主義打倒―日本帝国主義の暴力的打倒を目指す路線、(3)世界革命の展望を切り開くプロレタリア国際主義の路線、(4)プロレタリア独裁の樹立を不可欠とする世界社会主義革命・共産主義革命の路線、をあげている。同時に、克服されるべき歴史的弱点として、(1)党の階級的基盤が脆弱であったこと、(2)党の任務としての階級形成が不十分であったこと、また、「戦略・戦術主義」の誤りに陥ったこと、(3)党組織を継続的につくりあげていくねばり強さが欠けていたこと、そして、「党活動の経験の評価・検証を通じて党建設の前進をはかっていくという面も弱かった」ことをあげている。このことは、当時、8回大会から9回大会にかけての軍事を組織する党路線の「権力奪取を実現する非合法党」建設という点を機軸にした路線総括の視点を表しているといえよう。
 他方で、社会主義を組織する党という面を田原氏が提起しており、この点での論争も、日向氏とのコミューン4原則をめぐる論争や労働証書制・無償労働の組織化などをめぐる論争や仏氏とのプロ独論争などとして行われた。
 旭凡太郎氏は、『共産主義運動年誌』の諸論考において、その後のブントの分裂・分解の一因を第二次ブントの連合党的性格を踏まえた党組織路線がなく、一枚岩党を暗に理想化して追求していたことに求めている。レーニン時代のボリシェビキ党においても、分派は常に存在し続けていたし、それがレーニンの党組織論の前提であり、現実であった。1921年には、党内分派闘争が激化し、ついには一時的例外措置としての分派禁止が大会決定される。しかし、その後、レーニンは、いわゆる晩年の闘争と呼ばれる党内闘争を行うように、自らが一分派になることをためらわなかった。党内分派の存在は、レーニンの全活動の一般的な条件であった。したがって、レーニンは、スターリン派とトロツキー派の双方が党内に残ることを前提に、スターリンを書記長から解任するように指示した手紙の中でも、スターリンの党からの追放までは指示しなかったのである。その点について、先の共産同全国委の文章は、自らが、党内フラクション二派の連合であることを明らかにしつつ、分派の存在を当然のことと認めている。
 その後、周知のように、共産同全国委と戦旗派の組織統合によって、共産同統一委員会が結成された。党内論争を組織することが、党建設において重要なブント総括の視点(旭凡太郎氏の『共産主義運動年誌』での諸論考でも同様である)であることが広く認知されつつある証左である。
 われわれが、権力奪取から、共産主義を建設することという幅で議論しているのは、田原氏の党路線の枠内を動いていると言えなくもない。われわれが、90年代以降、資本制社会での無償労働(ボランティア)の大きな発展から学び批判的に摂取しようとしてきたのは、それを社会主義建設に向けた無償労働の組織化の経験の一部としようとしたからであった。それは、われわれにとっては、社会主義を組織するプロ独の準備の追求であったのである。過渡期世界の段階では、権力奪取が先かプロ独の組織が先かではなく、これらは並行する。例えば、アメリカの反戦運動は、コミュニティー建設を経験しつつ、ブッシュ政権打倒・米帝打倒の権力闘争を進めている。「もう一つの世界は可能だ」という世界社会フォーラムの運動もそうである。「革命や共産主義が、直接大衆のものとなる条件をもっているし、大衆は又、そのことを要求している」ことは、これらの諸運動によって表現されているのである。日本でも、運動の転換が進んで、こういうものになっていくだろうし、共産主義運動はそれを促進しなければならないと考える。なお、プロ独による無償労働を組織化することは、商品・貨幣による人々の結合関係を超える新たな結合関係の創出という社会主義の組織化・新たな社会建設・共同体建設ということの基礎を建設するということであって、資本主義の不払労働の組織化とはまったく違うことを誤解のないよう強調しておく。等々。

 最後に、田原氏は、当初から、生産力思想批判を思想的機軸にし、最後まで、それを貫いたことは、現代に継承すべき基本思想であることを強調しておきたい。国家・国民経済を一つの生産力として扱うことは、ブルジョアジーにとって、自明のことになっており、GDP・GNPなどの指標は、その表現であるが、それは、プロレタリア大衆の生活実感とはかけ離れたブルジョア的な指標にすぎないし、ブルジョア思想の表現にすぎないことが格差社会化・労働分配率の労働側の低下などで、今、明らかになりつつある。そういう時代だからこそ、田原氏の生産力思想(能力主義その他)批判が輝きを増しているのである。
 なお、田原氏のすぐれた考察は他にも多々あるので、読者には田原論文集を読まれて直に当たられることをお薦めする。

 『プロレタリア独裁への道〈I〉』関西ブント 田原芳論文集(定価3000円+税)
 『プロレタリア独裁への道〈II〉』関西ブント 田原芳論文集(定価3000円+税)
  田原芳論文集復刻刊行委員会(土方克彦、松岡利康、岩田吾郎)
 〔連絡先〕東京都千代田区富士見町2−2−2 東京三和ビル303スペース303気付
   電話・FAX 03−3264−2735
   『共産主義運動年誌』編集委員会
 〔関西連絡先〕兵庫県西宮市鳴尾町1丁目10−12−201
   電話 0798−49−5302
   FAX 0798−49−5309
   株式会社鹿砦社気付 松岡利康




TOP