共産主義者同盟(火花)

政府について(3)

齋藤隆雄
302号(2006年10月)所収


4.公共性と革命

 さて、あれこれの前提論議はこれぐらいにして、本題に入ろう。最初に取り上げるのは官僚制もしくは公共性についてである。この問題は実の所、入り口から難題だらけである。まず、国民がすべて公務員になるなどといった暴論がある一方で国家がなくなるという。謎だらけに見える。
 これは公的領域についての規定がものの見事に差し替えられて、現実の社会がどういう姿をしているのかが見えなくなってきた証左である。こういう風になった一番の理由は「公的」という呼び名を私的に使うようになったことにある。「公共工事」という名称について考えてみよう。ここで使われている「公共」とは、政府が発注した工事のことであり、国民が共用する施設なり設備なりであるということになる。しかし、政府はこれらの工事を例えば国道何号線の舗装工事として行うとしても、実の所産業道路としての役割を勘案しており、運輸産業と建設産業の利害を反映している訳であって、そこでは限りなく私的利害が貫徹されている。
 これには、反論も当然予想される。直接的には運輸・建設産業に利するとしても、結果として国民全体にその利便性が行き渡る、と。こういう言い方は自由主義的社会理論に多く見られるが、それは社会的な機能が今日高度な分業社会であることから、どのような私的な行為であっても、「公的」なベールを被せることができるということをちゃっかりと利用している論議である。(極端な話、ある個人に高額の消費援助金を渡しても、彼が消費活動をすれば、諸産業が潤うという理屈と同じである)このようなやり口は、権力者がこれまで幾度となく繰り返してきた詐術である。歴史を遡ればかつて中世の封建領主たちが、あるいは維新の志士たちが、自らの権威を示すために「公的」な印をかざしてきたことを思い出して欲しい。
 資本制的生産様式が支配的な社会ではそれぞれの私的な企業や団体が行う行為の集合だけでは、利害の共用部分を誰が担うのかが決まらない。それは例えば先に挙げた道路や港湾設備などがそうであり、そのまま放置すると、競争によって私的な道路や私的な港湾設備が林立する結果となる。それは個々の行為者にとっては利益となっても、社会全体の利益とはならないということは明らかだ。そこで私的行為者同士の合意によって共用部分を作ることが彼らにとっても合理的なものとなる訳である。
 これ以上は言わなくても良いだろうが、「政府」というものはブルジョア達の共同利害を調整し、計画し、実現させる機関だということになる。ただ、その時に彼らの露骨な個別利害を、その地域に住む人間全員の利害として仮象しなければ、統治そのものが成立しないが故に、「公的」という古い概念を持ち込んだということなのである。ここまでがこれまでの革命派の社会観だったと確認する。
 そして、労働者階級が一つもしくは複数の政党によってその政治的表現と行動を統一し、ブルジョア独裁を打倒したとして、革命後は既存の統治機構をそのまま「使うことはできない」とされるのは、既存の統治機構はブルジョア達の私的機関であるということに尽きる訳である。確かにブルジョア政権時代の法と規則と組織の下では革命を続行することはできないのは確かであろう。それは革命の精神によって劇的に変革されなければならない。
 しかしながら、ここで問題が浮かび上がるだろう。一つは、ブルジョア独裁からプロレタリア独裁へという権力の移行は、ある種の「私的」な権力の移行であって、そこに正統性や権威はあったとしても、依然として「私的」な権力という性格を保ったままである、ということである(「私的」という概念については次回詳しく論じることとなるだろう)。更に二つには、組織のあり方ではなくて、組織そのものは存続するというこれまでの歴史的経験である。官僚組織も役人も役割や性格は変わったとしても存続するというのは正当なのか、という疑問が残る。

 ここで改めて、官僚機構というものの歴史的階級的な役割と性格を解明する必要が生まれる。
 最初に官僚組織が生まれた所は周知のように欧州ではなく、アジアであったとされる。欧州では絶対主義時代(重商主義時代)に軍事組織と共に生まれたが、どちらにせよ支配者の私的権力の拡大に応じて「公」権力も拡大していったと言える。そして、このことに関連して考えなければならないのは、官僚組織や統治機構が資本制生産様式が君臨する社会になってこのかた、基本的に変化していないのかという疑問である。18世紀の英国社会と1848年の欧州、1871年のパリ、1917年のペトログラードと1919年のベルリン、1946年の日本と1949年の北京、まだまだ数え上げればきりがないが、我々の前には様々な統治機構を持った社会が存在する。これらの時代と地域の様々な特徴とそこに付随する「官僚」と呼ばれる組織は、一つの歴史的に貫通した存在なのだろうか。
 歴史学者ではない私にはこれに答える資格はないが、少なくとも現代社会に於ける官僚組織がどのような役割を果たしているかだけは答える必要があるだろう。
 官僚組織が最初にした仕事が何であったかは諸説あるが、すくなくとも徴税の事務と軍事の組織化が主要な仕事だったはずである。軍事組織はかつては傭兵という形態をとったところが多かった(つまり、官僚がその地域の住民に担われるとは限らないということ)し、住民を武装することを発見したのはナポレオンだと言われているから、徴税の方が早かったかも知れない。どちらにせよ、国君が自らの領地の私的財だけでは賄えずに、広く税を集めて自らの権力を固めたというのが初期の官僚の発祥だとすれば、現在の官僚制はその姿を大きく変えているように見える。
 おそらく、遅くとも第二次世界大戦以降には先進国の政府の官僚組織はブルジョア達の産業組織が求める私的「公共領域」ばかりではなく、労働者階級の生存を最低限保証するための「公共領域」が発生したはずである。これは、別名国家独占資本主義と言われたり、福祉社会国家と言われたりしたが、この広い範囲の公共領域と呼ばれている部分は、市民社会の経済理論で言えばケインズ主義であり、相対的過剰人口の資本主義的管理機構とでも言える部分である。
 おそらく今日、社会民主主義理論の一つになっているのが、この福祉制度と呼ばれる政府機能である。これらの機能は官僚組織が膨大な「国民」情報を管理する必要があり、自由主義派から言わせれば「社会主義」だと批判されるのである。だが、現在が新自由主義時代だと言っても、これらの機能は削減されるということは絶対にない。なぜなら、資本主義にとって「国民」は常に労働者をプールしておくための貯水湖でなければならないし、それは充分に管理され社会的秩序を保たなければならないからである。彼らにとっては、それはブルジョア社会における必要費用なのである。(福祉社会と社会主義社会とを、意図的か否かを問わず、混同する論議が蔓延していることを念頭に置きつつ、ややくどく説明させていただいた。)
 また一方で、無税国家論を提唱する一部のマネタリストは、ではどのような位置にいるだろうか。彼らの出自は現在の独占ブルジョアに対して挑戦しようとする新興ブルジョアだと言って良いだろう。独占大ブルジョアが政府機能と産業組織の公共部分を独占していることを快く思っていないし、機会があればそれを掘り崩し、取って代わりたいと願っているはずである。しかし、彼らとて私的利害を掲げていては単なる市場戦争にしか見えないが故に、また市場そのものの狭さをも打破したいがために、政府部門への分け前を求めて、あたかも全住民の利害を反映しているかの如くに衣を着て、ビジネスチャンスを狙っているのである。曰く、水道も警察も民間でできるよ、と。福祉も介護も民間にお任せ。果ては、軍事も傭兵にお任せ。それも現政府より効率よくできる、と。
 少なくとも経済社会的な領域に於いて「公的」あるいは「公共」と呼ばれる領域はすべて「私的」な利害に「みなさんのため」というイデオロギーを覆ったものだということは間違いない。政府はそれを実行するための機関である。元々、近代的な意味での「公共」という領域が発生してきた歴史的経緯から言うと、君主の私的利害を制限するためにブルジョアたちが自らの利害を「政治的」に表現した所から始まる。それは資本主義経済が人間社会に浸透すればする程、あらゆる私的生活領域に「公共」というイデオロギーを被せることとなる。そして今や家庭生活の隅々に於いても政府機能が介在し、資本と政府が一体となった社会体制が完成するのである。それはまさに資本が必要とするからであり、彼らの私的利害がそれを求めているからである。

 では、「公共」という領域は元来存在しないのだろうか。資本主義世界が帝国主義時代になってますます社会主義に近づいているという、例の命題は間違いなのだろうか。
 そう、それはそうではあって、そうではない。つまり「公」という人類にとってまだ未完の協同性は常に求められてはいるが、しかし未だ全面的に開花したことはない。だが、それはただ単なる空想の産物でもない。一介の幻であれば、人々はこれほどまでに自らの私的利害に「公」という冠詞を付けたがる訳がない。それは歴史的にも現実的現在的にも存在しているが、常に時間的空間的に局在しているのみである。(このことの詳しい論議は本論のテーマであるので、最後に論議する予定である)
 では、「公」と名の付く「官僚制」や「官僚組織」は真の協同性とは無縁のものなのだろうか。然り、我々の前に見えている官僚組織はその存在全体が協同性とは無縁のものである。そして、これらはますます人々の望む公共性とは離れていく必然性がある。先にも言ったように、官僚組織がこの半世紀に肥大化の一途を突き進んでいったのは、人々の協同性が増大したからではなく、資本制生産様式の変遷そのものが要求してきたからである。大量生産方式による膨大な大衆消費財の商品化は消費市場の隅々にまで購買力を求め、絶えず消費しつづけることが求められる社会構造へと変化した。それはあらゆる人間の生活場面と世代ステージにおいて、人間を含めた一切を在庫調整し、資本を展開するという時代である。これらの膨大な商品の生産、流通、消費の管理そのものが、第三次産業の拡大と官僚組織の肥大化を招いているのである。このことを抜きに現代の官僚制を語ることはできない。
 資本が求める統治機構そのものが、政治経済文化の一切合切の領域を包み込む時、我々はこれを再び使いこなすなどということは考えられない。
 しかし、誤解のないように念を押しておくが、これらは一部の自由主義者の言うような無税国家論とも、あるいは一切を民間に移管するといったようなこととはまったく異なるのである。残念ながらこのような但し書きを入れなくてはならないのは、これまでのプロレタリア独裁理論が使い物にならなくなってきた証でもある。次回は、このやや混線した関係を整理していきたい。




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