共産主義者同盟(火花)

小泉政権5年の総括とヘゲモニー

流 広志
301号(2006年9月)所収


1.

 五百旗頭真防衛大学校長は、小泉メルマガ9月7日号の「小泉政権5年をこう見る」という文章の中で、「靖国参拝一つで、どれほどアジア外交を麻痺させ、日本が営々として築いてきた建設的な対外関係を悪化させたことか」「積み立てられた信用という対外資産は、小泉首相が靖国参拝にこだわったことによって、大きく損なわれた」と、小泉首相の靖国参拝を批判した。この文章は、小泉批判が、メルマガに載ることは異例だということで、注目された。しかし、全体は、「小泉純一郎は類例のない政治家」というタイトル通り、小泉賛美の文章である。氏は、小泉首相を、派閥政治と既得権政治を打破しながら、支持率が落ちなかった奇跡の人と呼んでいる。氏は、小泉政治改革の要素は、(1)新自由主義的な民営化と小さな政府化の推進、(2)国際的役割の拡充であり、リスクをとって自己主張し行動する外交展開、(3)これらを可能にする官邸の機能強化、の三点にあるという。しかし、氏は、これらは、サッチャー、レーガン、中曽根に始まり、小沢一郎、橋本龍太郎によって模索されたもので、小泉の独創ではないという。
 氏は、「小泉の独創性は、国民の前で改革をドラマ化して演じて見せ、国民を巻き込み、国民を感動させる民主主義の劇場政治である」という。なるほど、小泉政治は、舞台上で演じられたにすぎない見かけだけの「改革」でしかなかった。観客は、そのドラマに共感したのである。その手法は、それしかないというものではなく、同じ「官から民へ」でも、中曽根政権とはやり方が違う。
 また、氏は、「内政にも外交にも、小泉政治には勇気と感動のドラマがある。不世出のリーダーといってよい。アジア外交の失点は小さくないが、それは小泉首相が再浮上の機会を後継者たちに残したものと考えて対処せねばなるまい」というが、政治をドラマ化したことは、人々の政治意識を低下させたので、退行的である。
 東アジア外交では、小泉政権発足からしばらくは、鹿児島での日韓首脳会談のような日韓・日中の良好な首脳外交があった。この時には、盧武鉉大統領は、国内の慎重派を抑えて、政治的リスクを取って、良好な日韓関係を築こうと努力した。しかし、小泉首相は、靖国神社参拝を繰り返した。2005年6月を最後に、日韓首脳会談は途絶えた。中国との関係では、日中関係を重視していた胡錦濤首相が身動きがとれなくなった。その後、政経分離論という台湾のような対中政策論が喧伝された。そこには、尖閣諸島、日中中間線付近での海底油田開発、竹島・独島問題、サッカーのアジア大会でのサポーターから始まった反日運動、等々を契機に、日本の世論が、反韓・反中に傾いていくということがあった。官邸と取り巻きと世論の支持以外に基盤のない小泉首相は、世論の動向に水を差すことができず、自然発生的にわき上がったナショナリズムを抑制できなかったし、しなかった。それは、官邸が世論調査をしながら、小泉政権へのアドバイスを行っていたことに明らかなポピュリズムのためである。歴代総理は、世論に対して、行き過ぎを諫めたり、冷静を呼びかけたりしたものだが、小泉総理には、それができない。自民党をはじめ、周りはすべて「抵抗勢力」に囲まれており、それに、世論の支持を背景に闘いを挑む姿を見せ続けなければならなかったからである。加藤紘一議員の山形の自宅が、氏の首相の8月15日の靖国参拝を批判したことに反発した64歳の右翼構成員によって放火された時、ただちにこれを非難しなかったのは、靖国参拝が、「国民」の多数によって支持されていると考えていたからだろう。聞かれなかったから言わなかったでは、すまされない。
 小泉首相は、「説得せず、調整せず、妥協せずの三無ファシズム」(御厨貴東大教授)で、非民主的・非共同体的なやり方を貫いた。議会は、議論によって生きるものなのに、詭弁や虚言がはびこった。政策は、党も国会の外で、政府閣僚・官僚・御用学者・財界人によって決められ、官邸がコントロールするようになった。官邸は大統領府のごときものになった。執行権力は、議会からの独立を強め、大ブルジョアジーの露骨な統治道具と化した。
 2001年4月26日に総理に就任して以来、小泉は、自民党員の希望の星であった。「自民党をぶっ壊す」と叫ぶ人物を、自民党員が熱烈に支持するというのは奇妙なことだが、これまで、低支持率や金権スキャンダルなどをかかえて、苦しい選挙を繰り返し闘わされてきた現場の党員たちにしてみれば、人気が高く、清潔でスキャンダルの匂いのない小泉は、待ち望んでいた救世主であったのである。しかし、小泉は、偽の救世主にすぎなかった。去年の9・11総選挙での圧勝も、それほど得票差があったわけではなく、小選挙区制の特性によるところが大きかった。ただ人気取りのパフォーマンスを繰り返すことで、ここまできたにすぎない。政策は、ほぼ丸投げであり、それを人気の力で、押し通しただけだった。小泉人気の正体は、自民党員が小泉支持でまとまっていることにある。

2.

 小泉の政治思想は、それを現実化できる条件がなかったので、社会を混乱させただけの現実離れした理想論にすぎなかった。「ぶっ壊した」というのは錯覚にすぎない。イギリスでもアメリカでもないここには、個人主義など育っていないし、それは文化的に決定的な力を持てなかった。その現実を捨象して、個人主義を理想化したところで、夢物語にしかならない。条件が違い、土壌が違うところで、育ちようのない種を蒔いても、芽を出し、育つわけがない。小泉の改革スローガンは、やればできるような錯覚をばらまいたが、条件がなければ、できないものはできないのである。例えば、個人主義を前提にした成果主義が無惨な失敗に終わったことが、政府系の調査でも明らかになっている。社会的な条件が支える個人主義は、人の社会的あり方の一つであって、たんに個人として孤立することではない。企業が、成果主義を導入し、個人間競争を煽った結果、労働者たちは、自立した個人になったのではなく、たんに他者との間の壁を固くし、その内側に閉じこめられ、孤立し、孤独になっただけなのである。労働の力は、個人に内在する孤立した力ではなく、社会的に結合されて発揮される社会的な力なのである。
 それを意識として持つならば、市民化(個人化)を抽象的な目標として掲げ、自立した個人間の水平的連帯関係を民主主義として理想化するやり方では、先進資本主義社会では、もはや文明・文化の水準を引き上げるヘゲモニーたりえないことがわかる。新たな文明・文化を創造する新たなヘゲモニーは、共同体的諸関係の社会的意識形態が生き続けているところでは、呼び名はどうでもいいが、コミューンなどの開かれた共同体の創造を含まなければならない。アメリカ大陸では、インディオ的共同体の再生・創造、あるいは、マルクスが主張した初期ピューリタン移民の共同体の今日的再生である。例えば、アメリカの反戦運動の強さの基礎には、草の根のコミュニティ・レベルでの運動がある。共同体が排他的だというのは、特定の歴史的な共同体のあり方を一面的に捉えただけのものであり、例えば、ピューリタン移民の共同体が、インディオ共同体との平和的友好関係を築いていたように、共同体は原理的に排他的なわけではない。国家共同体は、階級分裂の産物であり、支配階級が被支配階級を抑圧するための手段であって、支配階級共同体であり、歴史的具体的内容においては、他の共同体、例えば、階級階層がなかった原始共同体とは別物なのである。共同体一般の原理的考察や個別現象の羅列では、具体的な共同体の特殊性格を把握することはできないのである。一般的に言えば、運動体や政党、NPOや労組や生協、会社、サークル、宗教団体、自治会や町内会、等々も共同体である。要するに、ある程度、複数の人間の恒常的な結合のあるものは、すべて共同体の性格を持っている。組織でも団体でも、呼び名はどうでもいい。グラムシがいう集団的意志の体現物という意味での党や団体や組織は、つねに存在してきたのである。

3.

資本の共同体・資本の共和国に対して、国境を持たない労働の共同体・労働の共和国の建設によってこそ、文明的・文化的に決定的な断絶が実現される。だから、われわれは、例えば、国際的に開かれたプロレタリアートの国際共同体の建設を新たなインターの建設というスローガンとして提出してきたし、新たな社会=共同体の建設のために必要な新しい社会的結合の実現を基準にした運動の建設や運動の変革、国際的・社会的な関係体としての運動や組織や団体や共同体などの結合水準を社会的基準にすることを訴えてきたのである。それは、一部左翼に見られる左翼反対派的な特定の政策を阻止できたか否かとかそれに必死になって闘ったか否かという主観的な基準が、大衆闘争の基準とされ、社会革命の基準と切り離されているからである。これは、それらが必要ではないという意味ではなく、政策阻止運動の延長上に社会革命を展望することで社会革命を主観化して実質的に棚上げにしたり、逆に最大限綱領主義的に民主主義運動を切り捨てる待機主義に陥るのではなく、資本主義文明・文化の水準を超える新たな文明・文化の水準をつくることを目標にして、社会革命と大衆的諸運動を有機的に結合することが必要だという意味である。われわれは、このような観点から、国際反戦運動やNPOや国際反グローバル運動のあり方などに注目してきたのである。現在、国際反戦運動の緊急課題として、イスラエルによるパレスチナ人虐殺・懲罰戦争を止めることがある。パレスチナでは、ハマス政権誕生以来続けられている欧米日などの援助停止によって経済危機が起き、さらに、イスラエルが関税を引き渡さず、また、外出禁止令を敷いているので、人々は仕事ができなくなり、労働者は失業状態にある。かろうじて、国際機関の援助で、食いつないでいる状態だ。イスラエルやそれを支持する米帝などによって、病弊させられているパレスチナ人民を早急に救うことが必要である。そのために、国際反戦運動などのように、イスラエルやアメリカに対する国際的圧力を強める必要がある。また、今度のレバノン戦争で、敗北に近い形での停戦を余儀なくされたイスラエルと米帝は、ヒズボラの背後にあるイランを叩かないと、自分たちが危険になると危機感を強めて、イランへの圧力を強めている。このような戦争挑発との闘いが、国際反戦運動の重要な課題になりつつある。高度な資本主義国が、懲罰と称してこのような野蛮な行為を行っていることは、資本主義が文明高度化のヘゲモニーを失っていることを示しているのである。

4.

 バブル崩壊から90年代の長期不況、そして、橋本内閣に始まった構造改革路線下での格差拡大・固定化の進行は、巨大化した生産力の引き起こした問題で、バブル崩壊恐慌からの回復には、その規模に見合った大きな対応が必要になっていることを明らかにした。このような巨大な生産力のある経済での恐慌からの回復には、これまでのような規模での公共投資では、効果が小さくて間に合わない。かといって、ケインズ主義経済学者が強く求めたように、さらなる国債発行の追加による財政赤字の増大には、リスクが伴う。それをめぐって、ブルジョア諸分派の間で分派闘争が激化した。財政再建優先派が勝ち、小泉構造改革が始まった。それが、格差拡大・固定社会を生み出したが、それは、利潤極大化を目指した企業が、費用とくに労働費用を引き下げていったからである。だから、デフレになったのだ。労働賃金は、労働者の消費原本であって、貯蓄を引いた分は、消費財の需要である。それは、消費財の生産に対する需要をなすのだから、これが低下すれば、その分、消費財の生産が低下する。それは縮小均衡し、労働力への需要を低下させ、失業を発生させ、税収は低下した。銀行などの金融資本は、資金の回収を急ぎ、融資を慎重にするようになる。そこで、金融再生政策がとられ、銀行救済に税金が大量に投入された。しかし、その金や低金利の金で、銀行は、海外の投資ファンドなどに投資して、巨額の利益を上げた。銀行は、中小企業などには相変わらず厳しい態度をとり続けており、そのために、とくに地方の中心商店街は衰退したままである。
 巨大な生産力を再生産するためには、巨大な資本が必要なので、この間、小ブルジョアジーの収奪などを通じて、資本の集積・集中を強め、企業合併・資本提携などで、巨大な独占資本が次々と誕生した。小泉改革の目玉の一つであった郵政改革は、当初の、官業による民業の圧迫を排除するという表向きの理由はいつの間にか消え、巨大な国際物流独占資本への転化が図られている。そしてそのような独占資本として必要な資本蓄積を、郵政労働者の合理化・労働強化などの搾取強化によって、行っているのである。
 この間、資本は、労働力の再生産も困難になるくらいに、資本蓄積のための搾取を強めている。30代の正社員は、長時間残業などによって疲弊し、家族生活を失い、パート・アルバイト・フリーターなどの非正規雇用者などは、低収入のために、家族をもてる物的条件がない。したがって、出生率は低下し、人口が減少し始めている。縮小均衡から拡大均衡へという安倍などが掲げる成長戦略は、追加労働力を必要とし、人口増を必要とするが、それはなかなか思い通りにいくものではない。資本主義経済は、半失業者・失業者のプールを作って、調整しているが、それでも、無政府的生産の下では、好況期には、過剰信用・過剰生産が発生するから、労働力不足に直面することになる。欧米は、移民労働力を受け入れることで対処してきた。それが、低成長時代になって、深刻な社会問題になったことが、フランスの移民暴動などで明らかになった。アメリカにおいても、中南米などからの不法移民が一千万人という規模になり、追放か受け入れかをめぐる対立が激化している。

5.

 小泉改革は、混乱に終わった。「自民党をぶっ壊す」という自民党共同体変革や国家共同体の変革をスローガンとして掲げた小泉は、新しいものを創造するどころか、安倍へのバトンタッチを公言したことに明らかなように、復古の道を掃き清めただけなのである。後を任された安倍は、改憲を5年をめどと表明し、実質的には、改憲を棚上げした。自分の政権の内には実現できないと認めたのである。ただ、そのための地ならしとして、教育基本法改悪や国民投票法案などの成立をはかるつもりなのだろう。
しかし、その前には、改憲阻止の草の根運動や米軍再編と闘う岩国・沖縄・神奈川などの反戦反基地運動や国家による教育介入に反対する運動や格差拡大・固定化に抗する下層の運動やアメリカの対テロ戦争を名目とした世界支配の野望と闘う国際反戦運動と反グローバル運動などが、立ちふさがっている。とりわけ、国際反戦運動と国際反グローバル運動は、新しい社会・新しい世界に向けてのヘゲモニーを目指している点で注目される。このような、ヘゲモニーを基準にした新しい大衆運動は、自己評価をヘゲモニーの水準の前進・後退をもとに判断するだろう。すなわち、集団的意志の水準の向上・下降、知的―道徳的改革の前進・後退、文明・文化の水準の向上・下降、社会関係の向上・下降、等々を基準にするだろう。このような大衆運動の集団的意志が、党をつくることになる。したがって、われわれは、このような集団的意志の内容を正確に把握するように努め、分析・評価し、討論・検討し、ヘゲモニーを組織し、広めて、プロレタリア大衆の世界観を更新し、意識を形成していかねばならないのである。それは、意識を獲得し、拡大し、世界観を自己変革し、広め、深めていく、能動的なプロレタリア大衆の集団的意志の形成過程であり、それに党の水準が左右されるからである。
 小泉改革は、人々の世界観の改革への欲求を呼び覚ましたが、その欲求は実現されずに終わった。その欲求の出口は、個人主義・自由主義の小泉改革ではなく、共同・共生・平等などの「もう一つの世界」の方にある。「計画経済」は、「もう一つの世界」に行くための手段である。無駄をなくさなければならないし、巨大化した生産力を統制しなければならない。それは集団で行わなければ無理である。党や国家から独立した人民代表の監督機関が、それらを監督する。等々。これらの仕事は、人々の文化水準に左右される。すなわち、ブルジョア民主主義を超える人々の高度な結合関係を必要とするのである。等々。




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