大衆闘争を総合する共産主義のヘゲモニーを発展させよう
流 広志
296号(2006年4月)所収
一
3月31日の東京での教育基本法改悪反対集会4000人、4月4日国鉄闘争勝利全国集会4600人など、数千単位の大衆運動が続いている。むろん、それは、アメリカの移民法改悪反対運動のロサンゼルス50万人、ニューヨーク1万人、デンバー20万人など、4月10日ワシントン10万人など、全米で350万人が行動した。3月28日のフランスの新雇用法反対運動のストライキ参加者300万人、集会デモ100万人、4月4日の第二波スト310万人(労組発表)。イギリスの公務員スト150万人、などの諸外国の大衆闘争の規模には遠く及ばない。しかし、それでも、90年代に比べれば、日本における大衆闘争が拡大していることは確かである。それにつれて、公安警察による弾圧事件も増えている。立川自衛退官者ビラ入れ弾圧をはじめ、「連帯」労組武委員長・戸田市議の約3ヶ月に及ぶ長期拘留、鹿砦社社長松岡氏の不当逮捕・長期拘留、大阪経大、早稲田大、法政大、等の学生運動弾圧、共産党員のビラ入れ活動に対する弾圧、ワールド・ピース・ナウのデモに対する弾圧、等々である。
冷戦終了後、一時公安無用論なども喧伝されたが、今や、公安警察は、ブッシュ政権の対テロ戦争路線も追い風となって、復活している。そのやり方も、反体制的な運動参加者には、人権などないといわんばかりの、露骨なでっち上げ、挑発、組織破壊、デマ宣伝など、悪質なものである。しかし、このような悪質で不当な公安による弾圧が、思想信条の自由、言論表現の自由を脅かしていることに、広範な意識ある人々が危機感を強め、抗議の輪が広がっている。
これらのことは、大衆闘争の巨大な発展の萌芽が育ちはじめ、政府に対する抗議の気持ちが大衆の間に拡大していることを示すものだ。
二
小泉政権の構造改革路線は、46兆円あまりの公的資金の銀行への投入(このうち20兆円は返ってこない)、日銀の量的緩和政策、等々によって、金融資本を救うことから始まった。金融資本は、今では、株式の含み益などで、大量の余剰資金を抱えるまでになり、不動産投資やファンドへの投資などを活発化している。その一方で、中小企業は、2005年の企業数が、前年比3.8%減少し、従業者数も3.3%減少し、 売上高も1.7%減少しており、数と規模が小さくなっている(2006年3月29日付「平成17年中小企業実態基本調査概要(要旨)」経済産業省中小企業庁)。
トヨタをはじめ大企業が過去最大の利益を上げていることは周知の通りで、小泉構造改革が、大資本の利益のためのものであることは明らかである。規制緩和による新産業の発展は、破綻した旧産業の失業者をカバーする新規雇用を生み出すはずだったが、実際には、大企業が価格競争などで有利な立場を利用して、新規の競争相手の成長を妨害し、これらを潰して、吸収・併合するなどしているのである。
小泉政権は、このように、ほとんど詐欺的な手口で、大資本の利益の増大と大衆収奪を強化してきたのである。「持てる者」の税を軽減して税収を減らしながら、大衆には保険税を含む増税を続けてきた。累進税率や法人税をわずかに上げるだけでも、相当の税収増が見込めるし、特別会計を縮小・廃止して一般財源化して無駄遣いを徹底的にチェックし、天下りや談合をなくせば、何十兆円もが浮くことは明らかである。それができないのは、小泉政権が、口先では、改革と言いながら、実は、官邸官僚のいいなりで、一部の官僚とつるんでいるからだ。なんと、予算執行を監視し無駄遣いをチェックする会計検査院までが、天下りしているのである。予算や国政の執行をチェックするための人民から選ばれる独立した監督機関が必要である。本来なら、それは国会が行うべきだと考えられるが、与党は官僚と癒着しているし、野党にはその力が不足している。それにそもそも三権分立というブルジョア民主主義は、見せかけだけの形式的な民主主義にすぎない。
三
4月3日付『毎日新聞』「縦並び社会第3部格差の源流に迫る(2)竹中人脈と強者の論理」によると、1998年8月に慶応大教授の竹中平蔵は、小渕恵三首相の諮問機関「経済戦略会議」に入り、翌年の答申は「健全で創造的な競争社会」を目標に掲げた。2000年8月には森喜朗首相が密かに作ったブレーン集団に、安倍晋三官房副長官(当時)、宮内義彦オリックス会長らと共に入る。「竹中氏の当時の側近は「政権に近いと、自分の考えが政策に反映する面白さを経験したようだ」と振り返」ったという。竹中は、選挙で選ばれていないブレーンという形で、政権に近づき、競争主義政治を実現させていったのである。これが形式民主主義の実態である。政権に近いことが、政治権力を動かす力の源泉であり、憲法が最高権力と規定している国会は、無力なお飾りにすぎないのである。
民主主義の形骸化に務めているのは、政府与党ばかりではない。例えば、『産経』『読売』の全国紙は、先の岩国市での米軍移転の是非を問う住民投票に対して、安保問題は住民投票になじまないと書いて、民主主義を限定し、住民の権利を低めようとした。これらのブッシュ政権の中東民主化を支持した大新聞は、住民が生活に深く関わる問題について、住民が意思表示することすら、否定しようとしたのである。イラクに民主主義が必要だというなら、自国の足下にはもっと高度で進んだ民主主義が必要である。民主主義が高度でない国が、他国の民主化を指導できるわけがない。それには、日本の場合、それが実現すれば、かなり高度な民主主義社会となる日本国憲法があるのだから、これを現実化する必要がある。
米軍再編の焦点となっている沖縄の普天間基地移転問題では、名護市の米軍キャンプ・シュワブ沿岸部に滑走路をつくるという政府案に対して、宜野座村民総決起集会が1000人を集めて開かれ、米軍機の飛行ルート下になるこの沿岸移設案の撤回を求めている。「村面積の半分を米軍基地が占め、多くの基地関連収入などで政府の基地政策に協力的とされた宜野座村。しかし、大会には親子連れや高齢者、小学生らまで幅広い年齢層約千人が結集し、沿岸部移設案に強く反対した」(4月5日『沖縄タイムス』)のであり、これまで協力的だった人々まで、政府案に反対している。これは、普天間基地所属の米軍ヘリ墜落事故の衝撃がいかに大きかったかを示すものだろう。しかし、名護市長は、滑走路をV字形に二本作るという政府の修正案に合意した。それに対して、稲嶺沖縄県知事は、反対を表明している。沖縄をアメリカの世界支配のための戦争政治の最前線として強化することを許すわけにはいかない。
四
このように、政府に対する大衆の抗議の声が様々な領域でひろがり始めている。ところが、それを議会の最大野党である民主党はあまり取り上げもしないし、ヘゲモニーを発揮しもしない。この党が議会への幻想が強く、議会外のこうした大衆闘争を軽視しているからである。衆議院が巨大与党に3分の2も議席を占められていて、とうてい議会では勝負にならないにもかかわらず、議会外で闘争する気がないのは、形式民主主義を神聖視しているからである。
それに対して、大衆は、議会内の無力な野党を信用しないで、街頭で声をあげ始めている。それが、岩国、座間、沖縄、教育、国鉄闘争、反戦、憲法改悪反対、等々の集会デモへの何千何万という結集を生みだしているのである。これらの自然発生的な抗議のあらわれにたいしてヘゲモニーを発揮するのが、先進的なプロレタリアートのつとめである。近代の政治的対抗軸は、ブルジョアジーとプロレタリアートという階級的対抗軸を基本的に反映する他はないからである。大衆の不満をとりあげず、ましてやそれを大衆闘争として組織せず、ヘゲモニーを発揮しない党は、大衆の代表ではない。増税、負担増、格差拡大・固定化、等々とこの間、人々が不満をつのらせることがいくらでもあるというのに、それに形を与え、その解決策を練り上げ、それを提示することで、大衆闘争を指導しないでは、大衆が望む対抗軸などとはとうていいえない。
大衆の望む対抗軸をつくるためには、個々バラバラに闘われている分散した大衆闘争の統一が必要であり、総合することが必要なことは、誰でもわかる。現状に不満を持つ大衆闘争が分散し、バラバラで、お互いにいがみあってさえいることは、支配階級にとって有利な状態であることは明らかである。大衆闘争の力が拡散している間は、支配は安泰である。大きな抵抗にあうこともないので、政府は、つぎつぎと大衆収奪や権利剥奪・制限の諸方策を制定しているのである。
それにたいする大衆の不満がたまっている。その一つとして共産主義運動にたいして不満や批判が寄せられているのは、政府や支配階級や右派保守派の悪意ある攻撃とは違って、共産主義への期待の現れである。それだけ、共産主義の文献や党派の主張や動向に人々が目を向けているのである。そのことは、法政大学での中核派全学連系学生への不当弾圧に対する抗議の声が、中核派を批判する人々を含めて広がったことでも明らかだ。そこには、心ある活動家や人々が理想の共産主義運動を求めていることが現れている。かれらの共産主義者への要求は、それほど高いものではない。だいたい、共通するのは、言論の自由や党内民主主義の抑圧の廃止、大衆闘争の統一と総合の前進につくすことなどである。共産主義運動は、それに応えなければならないし、それはやる気があれば比較的容易にできることである。
われわれ共産主義者同盟火花は、1994年の第三回大会で採択した『戦術・組織総括』で、「共同作業をめぐる計画を身軽に行動に移し、また、ともに動けるような人々を拡大することだ。ここにおける指導は、内発性を重視する。系列−義務、形だけの組織的なしばりを無くしていく。活動の性格と形態、組織的結合のあり方は多様なものとなろう。その中で、活動の質的な統一をはかっていくことが重要である。同時に、これらを有機的に結びつけるために、党組織の建設、「団結の構造」の建設にこれまで以上の意識性をもってあたらなければならない」と述べた。現在のわれわれは、様々な場において活動を行っており、外見的には分散していているが、自由に議論しつつ、総合している。それが現在のわれわれの統一のあり様である。
五
世界社会フォーラムをはじめとして、自由に議論し、自由に共闘を組むというやり方で、大きな国際共闘を実現する運動体が発展している。アメリカにおける何十万人規模の大反戦運動では、規模が大きすぎて、「一枚岩」で統制することは不可能だ。それらの大衆闘争は、レーニンが言う「抑圧され不満をもつありとあらゆる人々の大衆闘争の爆発」(『自決にかんする討論の決算』)としての革命の域に近づいているのである。
日本においても、政府に対する自然発生的な不満と抗議の声が広まりつつある。在日米軍再編政策についての、座間や岩国や鹿児島県鹿屋や沖縄名護市や宜野座村などの村ぐるみ市ぐるみの抗議や反対の声の高まり、「日の丸・君が代」を強制する教育政策に対する抗議の高まり、特定永住者など一部をのぞく外国人から指紋をとる差別的な入管法改悪策動に対する抗議、会話さえ取り締まろうという共謀罪に反対する声の高まり、小泉政権の構造改革路線がもたらした増税・公的負担増、格差拡大・固定化などに対する不満の拡大、等々。
自覚したプロレタリアートは、それを組織し、巨大な大衆闘争に総合する闘いの先頭に立たなければならない。1990年代、街頭闘争は、教育的な意味を強め、大衆闘争の場としては衰退していた。しかし、21世紀に入り、街頭闘争は、大衆闘争の場として発展しつつある。議会の場、ブルジョア民主主義のみかけだけの民主主義劇場は、不満を持つ大衆から見放されつつあり、こうした人々は、街頭に登場して、直接、自らの不満を訴え始めているのだ。
都市部でも農村部でも貧困化が強まっており、その数は増え続けており、人々の現状への不満が広がっている。それにたいしてブルジョア経済学派は、竹中や小泉のようにこの現実を無視するか、あるいは機会平等論によって誤魔化している。例えば、4月11日の『日経新聞』社説は、高成長による所得再分配をしろというこれまでどおりのことをさも新しい方策であるかのように主張している。この記事には夢のある未来社会像がない。ただ、グローバル化時代の競争に勝つためには、がむしゃらに働き続けることしかないというのである。人々はなんのために生き、社会がなんのために存在するのかもわからないまま、ただただ働けというのだ。機会均等とは、そういう非人間的な競争に参加する機会を与えるということにすぎない。つまりは、小泉と同じでオルタナティブなどないのだ。
共産主義は、そんな夢も希望もない資本制社会に対するオルターナティブを与え、不満を強めている大衆の夢と希望に応え、それを現実に転化することに務める。ブルジョア経済学は、競争を煽るがいい。それに不満を強める大衆は、共産主義の側に自然に引き寄せられるだろう。
われわれは、その受け皿となり、大衆闘争を総合し、共産主義社会を実現するためのプロ独を勝ち取り、夢も希望もない資本制社会を一掃する。ブルジョア的計画経済ではなく、資本制経済の無駄をなくす計画経済を実現し、過剰生産力をなくし、生産協同組合や自主管理企業を支援して、生産関係を変え、農業をはじめとする消費手段生産部門を強化し、都市を分散し、競争によって偏った人間形成をバランスの取れたものに直し、資本の制限から解放された豊かな生産から生まれる豊かなファンドによって、無償の教育・医療・社会福祉を実現し、資本主義的な富の象徴となっている貨幣を、計算貨幣に機能縮小し、社会計画に基づく生産体制によって、環境問題やゴミ処理を生産規制によって入り口から解決し、資本化を基準とする技術開発ではなく、人間と社会の利益となる技術を発展させ、等々の具体的諸方策を実現する。世界市場を廃し、国際競争をなくすことで、資本主義的グローバル化を一掃する。世界の資源を世界的な富の不均衡をなくすために計画的に分配する。階級を廃絶することで、真の平等を達成する。等々。資本主義に対する根本的オルターナティブの共産制社会を対置して、現状に不満を持つ大衆の闘争を発展させ、総合して、革命闘争に発展させる自覚的プロレタリアートを育てる。
六
4月12日『東京新聞』特報「仏デモが政府動かすワケ」「街頭訴え共鳴社会」と題する記事は、フランスでの若者雇用策「初回雇用契約」(CPE)を撤回させた労働者の大規模デモやストライキなどの行動について書いている。「うらやましいのひと言。大衆運動がここまで盛り上がるなんて、今の日本ではとても考えられない」と「フランスで燎原(りょうげん)の火のように燃え広がった労働運動に、東京管理職ユニオンの設楽清嗣書記長はため息をもらした」。「手をつないで横一列で行進する「フランス式デモ」という言葉があるほど、フランスはデモの国だ。知られるのは一九六八年、百万人のゼネストで労働者の権利や大学生の大学での自治権確立などを求めた「五月革命」。時のドゴール政権を追い詰めた。八六年には大学改革に反対する学生たちがデモ、政府は改革案を撤回した。九五年のジュペ首相による公務員の社会保障改革もゼネストで頓挫している」。それに対して、あるベテラン労働運動活動家は、「フランス人は、議会で負けても街頭の運動で逆転できると考える。日本人にはその発想がないし、若者は自分が政治の主体だと思っていない」という。設楽氏は、「今の青年たちには生身の人間の行動が世の中を変えていくという感覚がない。砂のようにバラバラだ。コンピューターとにらめっこして物事が片づくはずはないのに、そんな簡単なことに気が付いていない」と漏らす。
現状はそうかもしれないが、むかしから、学生や労働者や地域住民の直接行動はあった。90年代以降に、労組のストライキも少なくなり、学生運動も極端に小さくなったのである。労働運動と学生運動や青年運動の間にも結びつきがあまりない。今、権利を主張することは行きすぎだという声が政府や保守派から繰り返され、学生の自治や権利や自由を制限する動きが強められている。『産経新聞』『読売新聞』は、民主主義の動きを批判する主張を繰り返しており、公共性や秩序を強調し、自由と権利を制限しようと務めている。そのくせ、イラク戦争のアメリカの中東民主化を支持して、二枚舌で、人々をだましている。これでは、今の学生や青年たちが、「自分が政治の主体だと思っていない」し、「生身の人間の行動が世の中を変えていくという感覚がない。砂のようにバラバラ」になるのも無理からぬことだ。これは若者のせいではない。答えは、上の記事の報道機関への就職を志望する22歳の女子学生の言葉に示されている。「新聞、テレビ七社を受けて全滅。就職活動では男女差別などの理不尽さも感じた。でも社会の仕組みを自分で変えようなんて発想もない。デモなんて見たこともないし、高校のころに、小林よしのりの政治漫画を読んで、ひとりで盛り上がったのが唯一の政治体験ですから」というように、若者に政治体験が不足し、団結・共同の経験が少ないためである。まずは、こうした経験を積むためには、これらの動きを自覚した労働者大衆は精力的に暴露して、闘い、それがやりやすい条件を作り出すことが必要である。
他方で、環境・福祉・ボランティアなどの社会活動を経験する人は広がっており、NPOの数も90年代以降急速に増えた。そういう社会運動的な自立支援などの発想と街頭デモなどの政治的発想とが乖離しているのである。同じ男女差別に対する取り組みでも、社会運動的な発想では、女性のエンパワーメントに力点を置き、権力との対決よりも、行政をパートナーと位置づける場合が多い。しかし、男の権力を倒して男女平等の権力に変えなければ、格差がなかなか狭まらないことは明らかである。これらの間に有機的な関係をうち立て、そのような場を多数つくらなければならないのである。それらを結びあわせる活動は、まだ一部の意識ある活動家が始めたばかりである。しかし、それは例えば、沖縄の普天間基地辺野古沖移転に対して、ジュゴンの保護と環境保護活動と反戦反基地闘争を結びつけた闘いが、これを阻止したように、大きな成果をあげている。それは、実現を目指す肯定的解決策と否定的スローガンを結びつける形で実践されたものである。フランスにおける若者の新雇用対策に反対する否定的闘い、反政府闘争は、その基本に、資本の解雇の自由に対して、労働の権利という肯定的解決策を対置している。それは、アメリカにおける移民労働者のデモが、「われわれを犯罪者扱いするな。われわれは労働者であり、労働の権利がある」と主張しているのと同じである。移民労働者たちは、潜在的に、資本的解決策に労働的解決策を対置しているのである。
われわれは、事態を若者や他人のせいにするのではなく、このような事態に対応できるように変わることが必要だ。上の記事は、明らかに、現状への不満が拡大していることを示しているのだから、政治経験の場をつくりだし、街頭デモであれ、社会運動であれ、問題の肯定的解決策の議論を生みだし、コミュニケーションし、組織し、共産制社会実現の運動と結びつけなければならない。運動の経験を通じてプロ独の統治の訓練を積んでいかなければならない。新自由主義はすでに理論的には社会主義計画経済論に破れており、政治的に利用されているだけで、どこにもそれがストレートに実行されているところはない。環境問題をはじめ、ちゃんとした計画経済によって解決すべき分野があることは明らかである。政府赤字問題もそうである。解決策があるのに、政治的プロパガンダによって、それをうち消そうとするのは、階級利害によるもので、それにだまされてはならないし、それを暴露していかなければならない。『火花』をその武器としていく必要がある。そして、大衆闘争を上からも下からも総合すること。等々。