共産主義者同盟(火花)

小さな政府論を巡って(2)

齋藤隆雄
296号(2006年4月)所収


2.財政赤字の行方と小さな政府

 日本における財政赤字は、累積残高が国地方合わせて一千兆円に迫っている。元々この財政赤字が顕在化した機縁は90年代の長期不況下での財政支出と租税収入のアンバランスからである。OECDの推計によれば日本の構造的赤字は93年から始まっており、その構造は今も変わっていない。
 取りあえず全体像を把握するために、数字を拾ってみよう。国のGDPは500兆円ほどだが、その中の国の予算裁量である一般会計予算は82兆円で比率は16%ほどである。これだけ見ると大したことがなさそうだが、特別会計がある。これは財投などいわゆるケインズ政策の目玉で、31項目あって412兆円にのぼる。重複分もあるので、それらを除き、地方分も含めると凡そ300兆円というのがその総額である。
 別の統計を見てみる。国、地方、年金、医療給付の合計が04 年度で、GDP比37%という数字がある。OECDの統計だが、これも普段あまり目にしない数字だ。しかし、この数字は欧州主要国より少ないのである。単純計算してみると年間でおよそ190 兆円ほどであろうか。
 さて、これらの数字から何が見えてくるだろうか。国全体の一年間の付加価値の内、少なく見積もっても三分の一以上が国の提供するものだ、ということになる。そしてそれらの多くが国家債権で賄われているということになる。
 問題になるのは提供する側の問題だけではない。国家が提供するサービスも投資も移転収支だから、ファンドが問題となる。一般会計は税収という移転で均衡しなければならないが、むしろ今問題になっているのは言わずと知れた国家債務である。昨年の衆議院選挙で争点となった郵貯はそのファンドの代表格である。340兆円の資産の内、210兆円が国債である。凡そ六割が国債購入に当てられている。「これが焦げ付いたら大変だ」という話は巷に溢れているが、それは国家が倒産したらという前提(つまり清算すればという意味)があるので、もう少し中身を検証する必要がある。
 国債の保有者はこの他、簡易保険120兆円、年金基金が130兆円、民間の金融機関が192兆円となっている。確認しておかなければならないのは、海外保有分であるが、19兆円ほどでしかないことだ。これをもって国家破産はあり得ないという説もあることは周知であろう。
 さて、これらの数字を確認した後で、我々は何を問題にしたらいいのだろうか。小さな政府を目指すとする小泉がこれらの数字をどうしていこうとしているのか、まず気になる所である。ここ数ヶ月の間に財政赤字の改善を図るという名目でいくつかの計画が出されているが、細かい点はさておいて、要するに歳出の削減と歳入の拡大をするということでしかない。そして歳出の削減は一般会計の削減という目くらましと歳入の拡大は増税ということである。先にも確認して置いたが一般会計は問題のほとんど範囲外であるということは明らかである。問題の焦点である特別会計は詳細が明らかでなく、いわば政府予算の伏魔殿といったところである。そして、郵貯を代表とするファンドを民営化するということは、ますます情報が闇に隠れることになる。
 郵貯を民営化すると、株式の発行となるが、これらは当然二重の架空資本と成らざるを得ない。そして、現在も民間金融機関が国債を大量に消化し、保有している現状からして、問題なく移行できると考えられる。郵貯が海外業務をしない限り、BIS規制もクリアできる可能性が高い。
 郵貯の民営化や道路公団の民営化などが特別会計の構造を変えているかというと、実はそうではない。大量の赤字を解消するというこれからの課題からは焦点が外れていると言える。なぜなら、政府のファンドである郵貯を民営化しても、ファンドであることには変わりはなく、むしろ民間金融機関と同様の資産運用による架空資本の膨張と時価会計処理によるファンド内容の不透明化によって政府による時間稼ぎという側面しか見えてこない。また、道路公団などは周知の如く相変わらずの公共投資構造が温存されている。
 ということになると、焦点は明らかに歳入の拡大という問題にならざるを得ないのである。赤字国債の根本原因が肥大化した公共投資であったにもかかわらず、その構造そのものを政府の外に見かけ上切り離し、増税による赤字解消という路線を取らざるを得ないのである。国民生産の三割ほどの領域を占める政府の役割をそう容易く縮小できるはずもなく、一挙に縮小しようものなら、政府そのものが崩壊することは目に見えている。アルゼンチンの例を挙げるまでもなく、公共投資と運営がなくなれば、実質的に市民の公共空間ができるし、それはこれまでの政府の役割の化けの皮が剥がれるだけである。当然、そんなことを政府は考えるはずもなく、かれらの小さな政府路線というものは、「小さな」という所にあるのではなく、「政府」すなわち日本帝国主義を支える資本主義の構造転換に相応しい制度構造の転換という所にあるのである。
 第一節で述べたように、「ちいさな政府」などというのは、今日の資本主義経済の構造からは不可能である。国民国家経済から世界的な金融資本を通じた収奪構造への変換は、金融市場が持つ脆弱性から「政府(ブルジョアジーの総意志)」規制が欠かせないことは明らかである。そのためにも政府の機能が肥大化することは資本主義社会が求めていると言える。しかし、そのことは見かけ上、過去のケインズ政策路線の清算すなわち20世紀的計画経済というグランドデザインから脱皮するという格好の素材を与えてくれているという歴史的な倒立像を見せるのである。それこそが、このスローガンを最もらしく見せている根拠であると言える。政府機能の肥大化を見えなくさせる迷彩構造をこそ暴露する必要がある。

3.グローバル時代の政府論

 試算によると消費税を35 %に上げれば、現状の歳出構造のままで赤字は解消できるという。ただそれでは政府が保たないから、「小さな政府」という看板を上げざるを得ない。この小さな政府というスローガンの本当の意味は、政府に対する批判への盾である。もともとケインズ政策の行き詰まりから、従来の制度構造では資本主義の脆弱性が露呈するという危機意識がブルジョアにはあったし、財政構造の危機的状況は新たな世界的金融市場への適応を困難にし、膨大な日本の金融資産を眠らせることになる。
 小泉はこの秋で交代するという日程を掲げているが、「小さな政府」というスローガンは引き継がれる。増税路線も来年度以降の次期政権の仕事になる。元々増税は、スローガンに反する。しかし、それなくして財政の建て直しは不可能である。昨年秋に小泉が大胆な博打に出たのは、このことが関連している。金融構造の変革が一段落し、規制の再編に一定の展望をもったことで、後の増税は民主党に任せても構わないと考えていた節がある。彼の強みはその辺りの政治的感覚であろう。
 ただ、政権が引き続き続投となったことで、彼の構想は増税を出来るだけ遅らせることに転換し始めた。増税は政権の命取りになりかねないからである。来年度の新たな世界金融市場のルール改編と現在進行している企業会計ルールの統合を睨みながらの政策となるだろう。減税政策の見直しや年金制度の再編、政府系金融機関の再編、国家財産の売却など細かいことに手を入れ始めたのはその現れであると思われる。
 だが、問題はここからである。小さな政府が迷彩構造を持っているというのは、実は「官から民へ」という払い下げ政策の先にある国家構造そのものにある。自由主義時代の夜警国家から肥大化した帝国主義国家への移行期に見られた官民癒着構造(国家資本主義)の転換と言いつつも、実の所、国家そのものは政策体系を転換しただけで癒着構造は相互浸食の統合と言ってもいいような、新たなものになってきているのである。
 従来の帝国主義時代に於ける、あるいは福祉国家時代における国家政策は産業政策そのものの方向性を、例えば傾斜生産方式や社会資本建設、医療制度や福祉政策などに見られるように一定の枠組みを想定した事前計画的な政策であった。この政策の特徴は政府そのものが経済社会構造をデザインするシンクタンクとならざるを得ず、官僚組織の肥大化を招くこととなった。しかし、資本主義的成熟によってこれらの構造は桎梏となってきたことは、誰が見ても明らかである。
 小さな政府路線の迷彩構造は、従来の事前設計構造を「事後的規制」へと転換することで、国家の役割をより見えにくくするというねらいがある。つまり、小さな政府ではなく見えない政府という路線である。これは、おそらく帝国主義時代に既に始まった国家と社会との境界線の曖昧化をますます進行させることになる。つまり、相互の独立性を保ったままの「癒着」ではなく、独立性そのものがなくなる「浸食」である。このことは「資本」そのものの構造も大きく変化することを意味している。
 例えば、金融再編の過程で国債の消化を従来はシンジケートを組織していたが、これを解体して、証券業と銀行業の垣根を取り払い、ファンド機能を国際化した。これは一見、政府の管理規制を緩和したかのように見えるが、シンジケートという中間構造物がなくなった分、直接的に金融機関への監査と管理が強化された。だからこそ、一時的国営化と外国資本への売却という荒技も可能になった訳である。これらの政策は、誰が主体なのかというと政府であり、同時に銀行家たちである。銀行家たちが企業から政府の諸機関へ自由に行き来するという構造は、米国連邦政府の機構と相似形である。
 だからこのことは、政府がなくなる訳でもなく、国家がなくなる訳でもない。むしろ、経済社会構造が丸ごと政府化するという表現の方が近いかもしれない。我々が直面している時代は、だから下部構造が国家という上部構造を戴いているという図式を実態的にイメージすることから解放されなければならない。政府とグローバル企業との合同委員会が内閣を組織していると考えなければならない。そういう構造として国家が再編されていると見るべきであろう。
 (補足)
 カール・シュミット『政治的なものの概念』より
 「…民主的に組織された共同社会において必然的に生じるように、すべてこれまでは国家的な問題が、社会的なものになり、逆に、すべてこれまでは単に社会的な問題が、国家的なものになる」
 斉藤日出治『国境を越える市民社会』より
 「国家と市民社会との融合による社会の組織化は、市場のグローバル化によって国民国家の制御能力が衰退するとともにゆきづまる」

4.二重構造と市民社会

 小泉政権がこれらのことを意識的にしているとは言い難いが、彼らが対立していると称している守旧勢力は、未だに計画経済に拘泥している人々のことであり、彼らとの確執は地方自治改革に現れている。この勢力はおそらく地方自治政府へと移行することになる。俗に国家と市場経済の隙間と言われる「市民社会」領域にこそこれらの人々は生き残る道を見つけるだろう。徴税権を巡って駆け引きが盛んであるが、中央政府の代表しているグローバル企業と地方の地場産業企業との闘争の行方は行き着く先を自覚していないだけにこれからも紆余曲折するだろう。
 日本の経済構造が従来から二重構造になっているというのは、言い古された言説であるが、これまでの政府の公式路線はこの二重構造の解消ということであった。高度経済成長の建前は、「みんなで所得向上」であった。未だにこの言い古された建前を臆面もなく公言する多国籍企業経営者(奥田)もいるが、これはグローバル企業ファミリーという世界の欺瞞性をよく表している。
 実際の所はこの二重構造に対して、「小さな政府」は格差是正どころか、市場経済という闘技場に放り出すことを指し示している。露骨なスローガンではないにしろ、これはそのことを指し示している。このことは多くの論者が指摘しているのでこれ以上述べないが、最近の格差実態に少し触れておこう。
 以下の表は企業統計からの数字である。ここから、零細企業の実態が浮き彫りになってくる。80%以上の労働分配率と半分以下の所得という下層市場にある労働者群は、そこにいる経営者と共に、異なる領域で生産し生活していると思わせるものがある。1人当たりの営業利益が47倍の企業との競争など競争とは言えないことは誰が見ても明らかである。
 この世界が分配率だけを見ると、NPOではないかと思うのは私だけであろうか。少なくとも、一千万人の労働者とその家族はグローバル経済とは無縁な世界で生きているように見える。ただ、それは生産という側面からである。人々は消費という場面からグローバル企業の一消費者としての役割を悲しいかな与えられ、経済構造に繋がれている。

企業規模(資本金)従業員数構成比一人当
人件費
営業利益一人当
設備投資
労働分配率
大企業
(10億以上)
  732万375万310万56.4%
中小
(1千〜1億)
2371万52%368万45万40万77.6%
零細
(1千以下)
957万21%283万8万28万81.6%

 この世界には、「セイフティーネット」と呼ばれる計画経済政策が必要である。これは地方政府の役割となる。景気変動の安全弁としての役割と同時に直接的な所得移転(生活保護等)による消費行動への循環こそ彼らの役割となる。「年収300万」と呼ばれ、流動化する下層労働者階級はその政治的表現の機会さえ与えられていない。
 これら二つの世界が、国民国家として日々政治的に統合されるためには、膨大に生産される生産物・情報の消費行動を通じて以外にはない。政府の掲げる政治上の言説が最もらしく見えるのはこのことを通じてである。小さな政府という舌触りの良い言説の裏に、社会生活の隅々に至るまで政府の機能が浸透しているという現実を、我々は明確に意識しておく必要がある。

 小さな政府という欺瞞的スローガンから見えてくる次なる課題は、ただその現実との乖離を批判するだけでは有効ではないという直感から出てくる。政治的機能が社会に浸透すればするほど、政治的正統性の欺瞞が浮き彫りになってくるからである。民主主義という欺瞞が今日ほどあからさまになってきた時代はないだろう。9.11以降、アメリカ帝国主義の戦争政策がそのことをより鮮明に人々に印象付けた。では、我々に何が必要なのか。政治的民主主義以外に人々を統合する何ものかが存在するのだろうか。民主主義が国家と人民との神聖なる契約であるとする時代はもう過ぎ去った。
 我々もまた古い衣装を脱ぎ捨てる覚悟が必要となるだろう。ますます政府が見えにくくなっていく時代に、政府機能を溶解させ、死滅させるためには、人々を結びつけるための新たな道具が必要となってきている。




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