大衆闘争の発展と統一を考えるために(覚書)
流 広志
295号(2006年3月)所収
「「純粋の」社会革命を期待する人は、けっして革命にめぐりあえないだろう。そういう人は、真の革命を理解しない口さきだけの革命家だ。
一九〇五年のロシア革命は、ブルジョア民主主義革命であった。それは、不満をもつすべての階級、グループ、住民分子の一連の戦闘からなりたっていた。彼らのうちには、きわめて蒙昧な偏見をもち、きわめて不明瞭な空想的な闘争目的をもつ大衆があり、日本から金をもらったグループがあり、山師、冒険家がいた。しかし、客観的には、大衆の運動が、ツァーリズムを破砕し、民主主義のための道をきよめたのであって、だからこそ、意識ある労働者はこの運動を指導したのである。
ヨーロッパの社会主義革命は、抑圧され不満をもつありとあらゆる人々の大衆闘争の爆発以外のものではありえない。小ブルジョアジーとおくれた労働者の一部は、不可避的にこの革命に参加するであろうし(こういう参加がなければ、大衆闘争は不可能であり、どんな革命も不可能である)、同じように不可避的に彼らの偏見、彼らの反動的な空想、彼らの欠点と誤謬を運動にもちこむであろう。しかしながら、客観的には、彼らは資本を攻撃することになろう。そして、革命の意識的な前衛、先進的プロレタリアートは、色とりどりの、不調和な、種々雑多の、そして表面は分散した大衆闘争の、この客観的な真実を表現することによって、この闘争を統一し、方向づけ、権力を獲得し、銀行を奪取し、すべてのものににくまれている(その理由はいろいろであるが!)トラストを収奪し、またそのほかの独裁的方策を実現することができるだろうが、こういう方策が総合されて、ブルジョアジーを転覆させ、社会主義の勝利(その勝利も、なかなか一朝一夕にして小ブルジョア的なかすから「純化」されるものではない)をもたらすのである」(レーニン『自決にかんする討論の決算』国民文庫=118 173〜4頁)。
大衆闘争の統一を求める声の増大に応えるために
イラク侵略戦争反対運動は、90年代後期の数十人とか数百人とかいう単位の反戦運動の水準を脱して、数千数万単位の結集を実現している。「9条の会」などの反憲法改悪運動にも多くの人々が参加し、地方で運動組織が次々と生まれ、草の根的な広がりが生まれている。9条改定反対にしぼったこの反憲法改悪運動は、リベラル派を含む広範な大衆闘争になっている。これらをはじめとして、日本における大衆闘争が、90年代後期の低迷期をようやく脱しつつあることは明らかである。
その中で、憲法改悪反対運動では、「共産党と社民党は直ちに党首会談を開き共闘を確認すべきだ」(3月3日五十嵐仁氏HP)というような大衆闘争の統一を求める声の増大が社共共闘につながった。この社共共闘は、それに消極的な共産党幹部が、現場の一般党員の強い要望に押されて実現したといわれている。大衆運動の統一を求める現場の声が高まる中で、日本共産党中央は、「テロ」を支持するか否かという基準を立てて、中核派と革マル派の運動からの排除を訴え、綱領での共産党批判と部落解放同盟支持を理由に、新社会党からの共闘申し入れを拒否した。それらについての議論が起きているが、その中でも、大衆闘争の統一が多くの活動家の共通の願いになっていることが明らかになっている。
多くの人々が大衆闘争の統一を願っているが、大衆闘争は分散したままである。口では統一戦線を唱える諸派には、それが不可能な原因を自分たち以外にあると主張しているところが多い。その中で、レーニン主義者を自称しているところがそういうのは、レーニンが、反動的な運動や組織内でもねばり強く活動するように繰り返し強調したことからすれば、わかりにくい。ボリシェビキは、テロリズムに拝跪したメンシェビキやナロードニキ系のエス・エルとも共闘したし、自由主義者とも一時的限定的な共闘もした。ボリシェビキは、テロリズムへの拝跪に反対したが、テロ支持者との共闘を実行した。
また、プロレタリア党の中身の違いは、労働者階級の中に、正規職と非正規職、上層・中層・下層・失業者、民間と公務員などの違いによる価値観や文化の違いがあり、どの部分の利害や価値観を強く反映するかによるところもある。すなわち、労働者階級の内部に多様性と分散があるのであり、それが労働者の運動や政治内容の色合いの違いを生み出すのである。とりわけ、先進資本主義国では、それが顕著である。したがって、前衛には、こういう分散と多様性を統一する階級形成の任務を強い意識性をもって推進することが求められている。ところが、前衛の中には、こういう任務をねばり強く推進するより、自派のちっぽけななわばりを守ることに力を注ぎ、運動の囲い込みに熱心なセクト主義者がいる。例えば、さまざまな口実をもうけて、自派勢力圏の維持拡大に務めている日本共産党は、大衆闘争の統一を求める大衆の意識に遅れを取っているのに、恥じることもない。それから、純粋な革命や誤りのない革命、暴力がない革命などというたんなる空想上の革命を追い求めて大衆闘争の統一に消極的な者もある。
また、目の前の勝敗にこだわり、闘いそのものを放棄することで、大衆闘争の統一に消極的なことを示す者もいる。「連合」は、勝てそうにもないからと闘いを放棄した。それに対して、沖縄の反戦反基地闘争、韓国の民主労総、国際反戦運動、国際反グローバル運動、靱公園・大阪城公園での野宿者強制排除反対運動などは、そうしなかった。パリ・コミューン敗北後にマルクスは、「もし確かな勝算がある場合にだけ戦いに応じるものとしたら、世界史をつくることは、たしかに、はなはだ気楽な仕事だったであろう」(『マルクスからクーゲルマンへの手紙』1871年4月17日 国民文庫=31 168頁)と書いたが、それは、闘わないで屈服した「場合に起きる労働者の士気の退廃は、なにがしかの「指導者」の死滅よりも、ずっと大きな不幸」(同上169頁)だからである。運動の士気が退廃すれば、統一が進まないことは自明である。闘わない労組に対する労働者大衆の不満や不信は、例えば、トヨタにおける全労連加盟の新労組の結成や予想外にユニオンの鴨氏を会長に推す票が多かったことに見られるような「連合」内の路線対立の兆しという形で現れている。それは、統一ではなく分裂をもたらすのである。
結果がどうであれ闘った場合は、「最近、パトロールなどまわっていると、仲間たちから、靱・大阪城公園強制排除のことで「よく頑張ったな」とか「ごくろうさん」という声をかけられる。実際に排除された仲間も、今後の生活再建に向けて大変勇気づけられている。また住民票裁判に関心をもつ仲間も、声をかけてくれる。仲間の関心が高まることで、今後どのようなことを勝ち取りたいのかを明確にしなくてはと、あらためて思う」(『釜パト通信』第316号2006年2月24日)というように、士気は退廃せずに、高まっている。
そのことは、目の前の勝ち負けにこだわって国鉄闘争団の闘争に敵対し、4党合意の政治解決の取引にかけて失敗した国労本部がそのために闘士たちを処分などするなどの退廃に陥ったのに対して、鉄建公団訴訟の2005年9月17日の東京地裁判決で、解雇無効を認めない不当判決ではあったが、国鉄の採用差別の不当労働行為の認定という部分的な勝利を勝ち取った国鉄共闘会議・国鉄闘争団の士気が高いことにも現れている。「2・16国鉄闘争勝利総決起集会」は、国労本部系の闘争団が参加して、全闘争団1,047名の結集と2,500人参加で成功した。国鉄共闘会議は、士気高く、「国鉄闘争に勝利する4・4日比谷野音集会」を呼びかけている。
プロレタリアートは、階級闘争における終局的勝利にこだわるが、革命の一般的過程の偶然事としての目の前の勝ち負けにはあまりこだわらない。偶然事が相殺されるこの過程を通じて、労働者大衆が、階級として自覚し、階級として行動するようになることが重要なのである。靱公園・大阪城公園の野宿者強制排除に対する闘いは、上記の『釜パト通信』が書いているように、野宿者・日雇い労働者同士の階級的結びつき・連帯を強めたのであり、この運動は、客観的に前衛としての役割を務めたのである。それは、国鉄闘争でも同じである。
統一を求める大衆の要求が大きくなっているのに、その実現のために努力しない前衛はその名に値しないし、あれこれとセクト主義的な口実をもうけて、運動の中に壁をつくり、大衆闘争を分断し、囲い込みを行っている前衛は、口先だけの革命家にすぎない。
それとは対照的に、国際反グローバル運動は、先の香港反WTO闘争に、アジア諸国をはじめ、世界から多くの人々が結集したように、国際的に統一した大衆闘争を実現している。国際ルールを自分たちに有利なように作ろうとして資本が国境を超えて団結しているのに対して、プロレタリア大衆も国境を超えて団結して闘っているのである。今日の共産主義者の同盟が、かかる国際的な闘争の発展と統一の推進翼となる必要があることは明らかである。そうした活動に従事している大衆闘争の活動家と共同で、こうした事業をすすめる必要がある。分散した多様な大衆闘争の統一のためには、共同行動と同時に議論をする必要があるが、その場合に、スローガンをめぐる論議が一つの主要な活動になることは、経験上でも明らかである。スローガンは、運動の目標や政治内容や思想をたんてきに表現したものであるからである。
肯定的スローガンと否定的スローガン
「闘争の「激化」ということは、主観主義者の空文句である。主観主義者は、マルクス主義者が、いっさいのスローガンを正当化するためには、経済的現実をも、政治的環境をも、またこのスローガンの政治的意義をも、正確に分析することを要求するということをわすれている」(レーニン『マルクス主義の漫画および「帝国主義的経済主義」について』国民文庫=118 107頁)。
「帝国主義にたいするプロレタリアートの反抗意識を激化するだけの役にたち、それと同時に、社会民主党がみずから権力をにぎったばあいに、これに該当する問題をいかにかいけつするか、ということにたいして積極的な回答をあたえることのできない「否定的な」スローガン、そういうスローガンは社会民主党には一つもないし、またありえない。一定の肯定的な解決策とむすびつかない「否定的」スローガンは、意識を「激化」させないでにぶらすものである。なぜなら、このようなスローガンは、一つの空語であり、叫びというだけのものであり、無内容の大言壮語であるからである」(同116頁)。
右派の多くは、否定的スローガンばかりを掲げている。かれらには新しい主張はほとんどなく、ただ過去に政府や右派や保守派が主張してきたことを、ただその表現の仕方を変えて、それを否定的スローガンにして叫んでいるのである。それを例えば漫画で表現したからといって、新しい内容が加わるわけではない。そういう類の否定的スローガンは、空語、叫び、無内容な大言壮語にすぎない。こうした連中には、言い方やスタイルや漫画的表現を模倣して、たいしたことを言っているつもりになっている者が多い。別にどうということもないことを誇張して表現することで、何か重大なことでもあるかのように見せかけているのである。しかし、それは、「それぞれのスローガンは、特定の政治情勢の特質の総和から引きだされなければならない」(『スローガンについて』国民文庫=129 62頁)のであり、部分的なことを誇張して否定的スローガンして掲げることは、無内容の大言壮語をまきちらすだけにすぎないのである。
否定的スローガンだけを掲げることが空語を掲げることにすぎない以上、それが大衆闘争の統一に役立たないことも、明らかである。ところが、否定的スローガンを掲げて、統一を目指している大衆闘争がある。そういう主観的願望を実現しようとするなら、それと肯定的スローガンを結びつけることが必要である。例えば、「世界社会フォーラム」は、参加者に押しつけてはいないが、「連帯経済」「参加型自治」などの肯定的スローガンと反グローバリズム・反戦などの否定的スローガンを結びつけている。1871年のパリ・コミューンは、ブランキ派とプルードン派が多数を占め、マルクス派は極少数で実際上の影響力はあまりなかったが、コミューンの肯定的スローガン・具体的解決策は、国際労働者協会のものと似ていたので、パリ・コミューンがベルサイユ政府とビスマルクのドイツによって残虐に鎮圧された後に、ヨーロッパ諸政府が、国際労働者協会が秘密の陰謀を企てたとして弾圧を加えたということもある。いずれも、社会建設の肯定的スローガンと否定的スローガンを結びつけて掲げているのであり、そうしてこそ、労働者大衆の闘いは「激しく」なり、統一が前進するのである。パリ・コミューンは、種々雑多なグループに分かれた労働者大衆が、社会建設の具体的方策の肯定的スローガンの下で統一して行動した闘いだったのである。
われわれは、1980年代以来、スローガン問題をこのようなこととして追求してきたが、それは左翼政治圏よりも、90年代に急拡大した社会運動圏で発展した。社会運動の掲げるスローガンには、一定の肯定的解決策と結びついた肯定的なスローガンが多いのである。ただ、その中には、政治的現実や政治的環境や政治的意義を正確に分析したものと言えず、議論が必要なスローガンが多いが、肯定的スローガンを提出して、運動を進めていこうという姿勢は評価できる。ただ、それは、政治と切り離されがちであったことで、やや空想的なスローガンになりがちであり、リアリティに欠けがちであった。したがって、社会運動と政治運動の再結合が必要であるが、それには、肯定的スローガンと否定的スローガンを検討し、両者の有機的な結びつきをつくる作業が必要である。例えば、反戦のスローガンをめぐって、戦争のない世界や社会・国家をどう作るか、そのためには何が必要か、等々を討議し、その結論を肯定的スローガンにまとめあげ、それと否定的スローガンを結びつけるということである。
90年代に、肯定的スローガンを掲げる社会運動が急発展したのだが、われわれは、こうした労働者大衆と共に社会建設の仕事を進めることで、プロ独の仕事を遂行する能力を身に付け、蓄積し、自分たちがそうした訓練を積むと共に労働者大衆を訓練して共にその能力を身に付けるように務めたし、大衆闘争の中で、そういう活動を意識的に追求してきた。「裏政治」「官僚主義」などの低水準のコミュニケーションのあり方を克服し、会議、集会、コミュニケーション等々の水準を引き上げるよう務めてきた。組織論においては、分派容認を組織テーゼに明記してスターリニズム組織論を根本的に否定し、議論しながら統一を実現してきた(むろんそれは分派を奨励することではない)。
プロ独の計画を実現するためには、社会建設の共同作業を成功させることが必要だし、その能力を高めることが革命後にすぐに求められるし、それ以前にその訓練と準備をどれだけ蓄積させられるかによって、その水準が違ってくる。もちろん、革命は、そういう準備が完全に整うまで待ってくれないし、準備が十分できていないといって、革命を避けるようなことはできない。革命的情勢がない時にすべきことは、大衆闘争を統一し革命情勢を主体的につくることと同時にプロ独を具体的に準備し、意識的に統治能力などのそのために必要な諸能力を身に付け蓄積することである。
プロレタリアートが大衆闘争の統一の推進翼になるために
大衆闘争の統一のためには、「色とりどりの、不調和な、種々雑多の、そして表面は分散した大衆闘争の、この客観的な真実を表現する」ことが必要である。すなわち、矛盾や問題の諸側面をできるだけ正確に分析し、「客観的な真実を表現する」ことである。そういうことができる人が大衆闘争の中に増えれば増えるほど、運動の統一が進んでいくのは明らかである。それができる人なら、運動内部で統一を阻害しているような問題や対立や矛盾を客観的かつ正確に分析して解決することができるだろうからである。そういう人は、例えば、運動内部で女性差別が構造的に存在していれば、その客観的な真実を表現して、それが女性の活躍を阻むことによって運動の発展を阻害していることを見抜いて、それを取り除くように務め、女性差別によって男女が分裂させられている差別社会ではなく、男女平等の新しい社会をつくる男女の共同事業を発展させるように務めるだろう。それは、多くの女性の参加を促進して、大衆闘争の統一と発展を促進することになるだろう。もちろん、それは、個性にまかされることではなく、運動が集団的に蓄積すべき共同性・社会性の質である。
そのためには、経験や理論的訓練を積んだり、上のような人を育てたり、共に作業したり、議論・教育・研究したりして、「客観的な真実を表現」する能力を身に付け、それを口でも文書でも広めることが必要である。『火花』はそういう役割の一部を果たすだろう。
ブルジョアジーは、階級・階層分裂を押し進め、客観的にプロレタリアート被抑圧大衆を資本対賃労働の「決戦」に追いやりつつある。かれらは、上層プロレタリアートに賃上げを認め、特権的労働者にして、味方につけ、労働者の間に分裂を持ち込み、分断しようと務めている。それに対抗するためには、小泉政権が、郵政労働者を特権的守旧派とレッテルを貼って、民間労働者・非正規労働者・パート・アルバイト・フリーター・臨時などの「下流」労働者や小ブルジョアジーとの利害をことさらに対立させたようなことを許さず、これらの労働者や小ブルジョアジーなどの利害を取り上げて、共にそれらを実現するように活動することが必要である。分断したままでは、共倒れしやすいのである。現に、郵政労働者はすでに過酷な勤務状況に追いやられ、小泉自民党を大勝させた都市部の「下流」層や小ブルジョアジーは、さらなる負担増を課せられ、収奪されることになった。逆に、統一すれば、政府・支配階級が追いつめられるのである。もちろん、統一の中身の問題もある。
日米安保再編協議では、米帝の独裁によって、沖縄の意見を一切聞かず、普天間基地のキャンプシュワブ沿岸移設が決められた。それに対して、3月5日、宜野湾市での「普天間基地の頭越し・沿岸案に反対する県民総決起大会」が3万5千人の参加で成功裏に勝ち取られたように、住民は、怒りをもってそれを拒否している。安倍官房長官が政府案の変更を拒否したように、日米政府が一体になって、沖縄の反戦反基地運動に対抗していることは、運動の統一の必要性を強めている。
大衆闘争が統一を必要としている時に、革命情勢を主体的に招き寄せねばならないプロレタリアートに、革命の真実を語らないで、暴力のない革命や闘争のない革命や情熱のない大衆闘争や平和一般や抽象的民主主義などの空文句を唱えているわけにはいかない。革命は、冒頭の引用でレーニンの書いているようなものであり、膨大な人々が闘争に立ち上がることである。何十万人が行動しているアメリカの反戦運動はすでにそれに近い領域に達している。ただ、それは、革命へと転化するような総合的な大衆闘争にまでは発展していないし、戦争を終わらすために革命が必要なことを自覚していない平和主義者が多い反戦運動である。しかし、反戦運動の象徴になったシーハンさんが「3・8国際婦人の日」のデモで、女性解放と反戦を結びつけたように、反戦運動があらゆる不満分子の戦闘の総合を促進する場になる可能性はある。3・20イラク開戦日世界同時行動は、労働者大衆の国際反戦同盟の統一が大きく強いほど、ブルジョアジーの国際戦争同盟をうち破る可能性が強まるのだから、世界の戦争に反対する人々や反差別運動に取り組んでいる人々などとの国際的に統一した行動として発展させることが必要である。
大衆闘争においてこのような役割を果たす人は統一の推進者である。プロレタリアートは、そういう推進翼になる必要があるし、その自覚をもって意識的に行動しなければならない。大衆闘争の中で、そうした役割を果たすためには、「色とりどりの、不調和な、種々雑多の、そして表面は分散した大衆闘争の、この客観的な真実を表現すること」が必要である。スローガン問題においても、会議その他の活動やコミュニケーション・文化においても、それを貫くことである。今日の社会運動の中に、共産主義イデオロギーと文化の自然発生性が広がっている。それは分散し多様な大衆闘争として存在している。それを統一し、総合し、階級闘争として発展させる必要がある。それは、統一を強制したり、分裂一般を否定することではないのはいうまでもない。
格差社会=階級社会を活力ある社会と公言している小泉などの自由主義ブルジョアジーは、階級闘争こそが資本制社会発展の原動力であるという真実を語っている。つまりブルジョアジーの力が大きく、プロレタリアートの力が小さいほど、資本制社会は活力があるということだ。プロレタリアートの基本的な力は団結からくるのだから、中身のある統一が発展すればするほど、プロレタリア社会の活力が強まる。また、プロレタリアートは人間解放の前衛でなければならないのであるから、自己解放のためにも、大衆闘争の統一の推進翼になる必要がある。大衆闘争内の矛盾の解決のヘゲモニーをも担わねばならないのである。