「世界社会フォーラム」に関する若干の考察
早瀬隆一
295号(2006年3月)所収
I
今日、国境を越える巨大資本の運動は、グローバリゼーションの名のもと世界を覆い、それがもたらす社会的災禍は至るところで深刻化し、社会崩壊ともいえる現実を顕在化させてもいる。しかし他方、これに抗して、世界中で新しい社会・新しい政治を創り出そうとする無数の運動が生起しているのも事実である。そして、これらの運動の少なからぬ部分は、国際的連帯・国際的協働を求め、さまざまな取組を進めている。こうした国際的協働の一つとして世界社会フォーラムがある。今回はこの世界社会フォーラムについて若干の考察を行ってみたい。
II 世界社会フォーラムのラフスケッチ
「世界社会フォーラムは、新自由主義、資本の支配やあらゆる形態の帝国主義に反対し、人類の間のならびに人間と地球の間を豊かに結びつけるグローバル社会を建設するために行動する市民社会のグループや運動体による、思慮深い考察、思想の民主的な討議、さまざまな提案の作成、経験の自由な交換、ならびに効果的な活動を行うためにつながりあうための、開かれた集いの場である。」(世界社会フォーラム原則憲章・第一項)
世界社会フォーラムは、2001年1月にブラジルのポルトアレグレで第一回が開催されている。その端緒は、資本家たちによって開催されている「世界経済フォーラム」(通称「ダボス会議」)への対抗会議的なものであった。この「ダボス会議」はスイスのダボスで毎年1月、多国籍企業をはじめとする世界の有力企業経営者が資金を出し、各国の政治家や著名な学者らを集めて行う、会合である。このダボス会議に対抗して、「世界各地の社会運動が『南』の町に集まり、オルタナティブを議論し、経験交流を行う場」として、ブラジルの諸運動がフランスのATTAC等に開催を働きかけたのが世界社会フォーラムの端緒といわれている。
世界社会フォーラム2001は、117カ国から4700人の代表が参加し、6日間の日程で、16の全体会議と420の自主企画が開催され、約20000人が訪れた。その後、世界社会フォーラムは、二回にわたるポルトアレグレ、2004年インドのムンバイ、2005年のポルトアレグレと毎年開催されてきた。世界社会フォーラムへの参加者は年々増加し、2004年ムンバイ、2005年ポルトアレグレでは10万人を超える活動家が参加したといわれている。
2005年のポルトアレグレでは、数日間の会期中に、公式登録されたものだけで1000を超えるフォーラム・円卓会議・講演・ワークショップ・交流会etcの自主企画が開催され、人々の議論や交流が奔放に展開されている。そして世界社会フォーラムの場における出会いを契機として、無数の論議関係が結ばれ、多くの共同の社会プログラムが生まれ、ネットワークや共同の政治行動が組織されもしている。
世界社会フォーラムの運営を支えているのは、組織委員会−国際評議会であり、運営に関する決議機関とされる国際評議会には100を超える団体が名を連ねているが、実質的な運営主体である組織委員会は、土地なき農民運動、ブラジル非政府組織協会、ATTACブラジル、ブラジル正義と平和委員会、市民のためのビジネス・ブラジル人協会、中央統一労働組合、グローバル・ジャスティス・センター、ブラジル社会経済分析研究所というブラジルの8組織である(2004年ムンバイは事情が異なると思われる)。
世界社会フォーラムの全体像を表現することは極めて困難である。それはいわば絶えず変化するところの混沌である。そこにはあらゆる傾向の運動が参画し、動的に変化している。そこに統一的な主張を見い出そうとするなら徒労に終わるだろう。そこに参加している人々の政治主張のみを取り上げても、資本主義の廃絶を志向する者から資本主義の枠内での改良を求める者まで多様であり、反資本主義を志向する人々においても、その具体的方策や戦術、権力観・運動観・社会観はいろいろである。もとよりそれぞれが置かれている歴史的・社会的・文化的環境もちがう。
よく世界社会フォーラムの標語として引き合いに出される「もうひとつの世界は可能だ」というスローガン自体、この間の閉塞状況に抗し「変革の可能性」を高らかに謳い上げたものではあれ、その内容は現存世界への違和以上のことを語るものではない。誤解しないでもらいたい。筆者はそのことを批判的に語っているわけではない。世界社会フォーラムにおいては、旧来の統一戦線的共同行動とは大きく異なり、統一的標語は象徴的意味合い以上のものではなく、それよりもこの場に参集するそれぞれの運動の独自主張と、したがってまたその出会いと変化こそが重視されているということである。すなわち、世界社会フォーラムという<場>は、これまで我々が目にしてきたものとは大きく性格が異なるのである。<運動の統一>ということへの理解や追求方向が根本的に違うとも言えよう。筆者の関心の所在もそこに在る。
以下、世界社会フォーラムという<場>の性格について考察したい。
III 世界社会フォーラムという<場>の性格
世界社会フォーラムというものの性格を特徴付けているのは、「交流・相互学習のための政治空間」への意識的で徹底した自己限定である。それを鮮明にしているのが、原則憲章・第六項及び第七項である。まずは一読していただこう。
「世界社会フォーラムの諸会合が、世界社会フォーラム全体を代表して審議を行うことはない。したがって、何びとも、フォーラムのいかなる会合を代表する権限を持っておらず、またその参加者すべての要求であるかのように自らの立場を表明する権限をもっていない。フォーラムの参加者は、投票であれ拍手による承認であれ、すべてのあるいは大多数の参加者がかかわることになる行動について、ならびにフォーラム全体として確立した立場であると認識させることを目的とした提起や宣言について、全体としての採決を求めてはならない。したがって、本フォーラムは、会合の参加者によって争われる権力の場ではないし、また、それに参加する諸団体や運動による相互関係や行動についての唯一の方向性が設定されることはない。」(原則憲章・第六項)
「しかしながら、フォーラムの会合に参加する諸団体ないし諸団体のグループが、単独であれほかの参加団体との共同であれ、彼らが決定したい決議や行動についての審議をする権利は保証されなければならない。世界社会フォーラムは、そのような決定の扱いを、指導したり序列化したり検閲や制限を課すことなく、可能な方法で広範に回覧することを引き受ける。 」(原則憲章・第七項)
一読していただければ分かるように、この憲章においては、誰もフォーラムを代表できないし、特定の主張や計画のもとにフォーラム全体の一致を追求することは厳格に否定されている。フォーラムとしての声明・宣言は禁止されている。ちなみに一部において世界社会フォーラムの声明であるかのように思われているものは、世界社会フォーラムとしてのものではなく、そこに集う特定の運動体グループの独自の声明である。世界社会フォーラムの意思を表明した唯一の文書は「原則憲章」のみなのである。
ただし、このことが「分散の固定化」を意味しているものでないことは第七項において明らかであろう。そこでは諸運動体による自由な共同が保証されかつ推奨されているのである。
乱暴に一言で言うならば、ここで否定されているのは、旧来の統一戦線的共同行動観であり、そこにおける運動の統一の理解である。すなわち旧来の統一戦線的共同行動観においては、それぞれが持つ独自の主張・スタイル・運動目標は最大公約数的主張に表面的に解消されるか、あるいは多数決原理に基づく民主主義(形式的民主主義)の場に還元されてしまう。極端な場合には独自の主張は「統一を阻害するもの」として扱われることすらある。こうした運動の表面的な統一の在り方が、実際には不断の四分五裂と不毛なイニシアティブ争いとして結果してきたことも事実である。世界社会フォーラムの場を成立させている判断はこうした統一戦線的共同行動とは全く異なっている。
世界社会フォーラムがこうした判断に立っているのは、自律性と多様性を高めている今日の無数の政治・社会諸運動に規定された、現実的判断という側面を持つかもしれない。しかし同時に、それは諸運動が持つ固有の歴史性・地域性、それぞれが持つ直接の運動目標、運動スタイル、活動領域を尊重しつつ、そうした具体性を捨象することなく、互いに繋がり協働していく方途を、それぞれが他者との出会いの中で見い出していくための、意識的な判断でもある。少なくとも世界社会フォーラムに参画する少なからぬ部分においては、かかる意識的判断が存在する。
事実、人々は世界社会フォーラムにおける出会いを契機として、問題意識の重なり合う部分との論議関係や社会プロジェクトあるいはネットワークや政治行動を創り出しているだけではない。人々は世界社会フォーラムの場を介した他者との出会いの中で、それぞれの運動の差異を知り、そのことを通して自分たちの運動を知り検証する。
自らの運動の固有性を維持しつつ、それを国際的な諸運動の経験や、より広い現実の中で捉え返し、自らの判断力を高め、他者に対して自らを開いていく。そうした経験が生き生きと展開されている。それは資本主義・帝国主義の歴史が押し被せてきた歴史的・現実的分断を少しずつ解きほぐしていく営為でもあり、多数決原理や形式的抽象的統一によらない、より高次の関係性を構築していくための、ゆっくりではあれ確実な歩みなのだと思う。すなわち、表面的で抽象的な統一を拒絶し、諸運動間の「出会いの場」として機能している世界社会フォーラムは<迂回路>を通して、より豊かな運動の統一を目指しているように思われるのである。
我々が求めるものが、今日の資本主義社会に取って代わる社会であり、商品−貨幣の止揚、国家の死滅であるかぎり、商品−貨幣が人々を結びつける力に打ち勝つような関係性の質、民主主義(数値に還元されるところの形式的抽象的民主主義)を超える関係性の質、が運動のまっただなかで準備されねばならない。そしてそれは商品−貨幣や多数決原理に抽象化される関係性ではなく、互いの具体性と差異を抱えた中で繋がりあえる関係性の在り方の模索でもあろう。そして<運動の統一>もまたこの観点から捉え返されねばならない。その意味で、世界社会フォーラムという<場>が持つ意義と、そこで育まれている共同の質は、支持し促進し働きかけると同時に、その具体的実践は我々自身学ばねばならないものとしてあると思う。
世界社会フォーラムの性格を物語るエピソードを一つ紹介しておこう。
世界社会フォーラムは、その当初は、組織委員会や国際評議会の主催企画として特定のテーマで大規模な全体会議や全体フォーラムがいくつも開催されていた。また開会式や閉会式といった全体集会が開催され著名な活動家や学者が演説を行ってもきた。この主催企画のテーマ選定やスピーカー選定が協議時間の国際評議会や組織委員会の大半を占めていたとも言われている。しかし参加する運動体が増えれば増えるほど、その決定に全体の意志を反映することは困難至極なものとなる。かくて組織委員会や国際評議会の決定が全体の意志を反映していない旨の批判−民主的でないという批判が生起することとなる。こうした批判に対して組織委員会や国際評議会の採った態度は実に明瞭であり世界社会フォーラムの性格を端的に表すものでもあった。彼/彼女らは、2005年のポルトアレグレから組織委員会や国際評議会の主催企画を全廃とし、世界社会フォーラムを参加諸団体の自主企画のみによって構成されるものとしたのである。2005年ポルトアレグレの参加者によれば開会式・閉会式といった全体セレモニーもなく、「来賓」の演説も行われなかったという。
IV 「空間か運動か」
こうした世界社会フォーラムの性格に対しては批判があるのも事実である。2004年のインド開催にあたりムンバイレジスタンスが対抗フォーラムを開催したことは日本でも知られているし、世界社会フォーラムに参加する諸団体や個人においても世界社会フォーラムという場のあり方を巡る議論が無数に展開されている。日本語環境においても「世界社会フォーラム 帝国への挑戦」(ジャイ・センほか編・作品社発行)という論文集などでその議論の一端に触れることができる。ただしこれらの議論はけっして敵対的なものではなく、それぞれの革命観・建設すべき社会像・運動観に根ざした建設的なものであり、むしろこうした議論の重なり合いのうちにこそ国際的協働の今日的・将来的あり方−新しい社会を準備・建設する質を育む土壌があるのである。そして、そうした論議を広範かつ国際的に行えることこそ、世界社会フォーラムの醍醐味とも言えよう。
世界社会フォーラムを巡る議論は多岐にわたっており、それらについては例えば前述の「世界社会フォーラム 帝国への挑戦」を読まれることを推奨するが、ここでは世界社会フォーラム自体の「行動組織への転換」を求める声に関して少しだけ触れておく。こうした要求は世界社会フォーラムの内外に広範に存在する。それは「行動」を一般的抽象的に対置する主張や、世界社会フォーラムとしての「共同声明」(例えばイラク戦争への反対声明)を求める具体的な要求まで、様々である。むろんのこと、筆者は「行動」や「共同声明」を軽んじるものではないが、それは世界社会フォーラムの場をも活用しながら独自に組織すればよいことであり、世界社会フォーラム自体にそれを求めることは、世界社会フォーラムという<場>が持つ独自の性格とその意義を解消することにしかならないと考える。この点についてはチコ・ウィタケルが「開かれた空間としての世界社会フォーラム」という文書で簡潔明瞭に語っているので少し引用しておく(彼の「運動」という概念は狭義のものと思われるが)。
「どんな犠牲を払っても『空間』としてのフォーラムの継続性を確実にすることと、現在あるいは将来においてさえ、フォーラムを『運動』へ移行させる誘惑を生み出さないことが肝要である。私たちがフォーラムを空間として維持するなら、フォーラムは運動の形成と発展を妨げたり疎外したりすることはないだろう−逆にフォーラムはこのプロセスを保証し可能にするだろう。しかし、私たちが運動への移行を選択するなら、フォーラムは不可避的に空間であることを止め、空間に固有の可能性は失われるだろう。」(チコ・ウィタケル)
V
世界社会フォーラム2006は、大陸ごとにポリセントリック(多中心的)・フォーラムとして開催されることとなり、既に、1月24〜29日アメリカ・フォーラムがベネズエラのカラカスで、1月19〜23日にはアフリカ・フォーラムがマリのバマコで開催されている。アジア地域に関しては、南アジア・フォーラムが3月26〜28日パキスタン・カラチで、東アジア・フォーラムが10月21〜22日タイ・バンコクで開催予定である。世界社会フォーラム2007はアフリカのケニアで2007年1月に予定されている。
世界社会フォーラムが今後いかなる軌跡を描くかは分からない。そもそも十数万の人々が出会う空間を確保・準備・運営するには途方もない労力を要するし、その共同性を豊かなものとし発展させるための労苦は計り知れないものである。「ブランド」化による弊害や一部における不毛なイニシアティブ争いの生起も不可避的ではあろう。
いずれにせよ、世界社会フォーラムのような空間が獲得されたことは、階級闘争の歴史の中でも特筆すべき事柄である。読者の皆さんが、世界社会フォーラムに注目され、様々な形態における関わりを創り出し、活用され、働きかけ、より豊かな協働を獲得していくことで、世界社会フォーラムの発展に寄与されることを希望したい。
参考文献
「もうひとつの世界は可能だ」(ウィリアム・F.フィッシャー/トーマス・ボニア編 日本経済評論社発刊)掲載諸論文
「世界社会フォーラム 帝国への挑戦」(ジャイ・セン/アニタ・アナンド他編・作品社発刊)掲載諸論文