労働者大衆の自然発生的共産主義イデオロギーと
文化に応える運動を発展させよう
流 広志
294号(2006年2月)所収
末期症状の小泉政権と新自由主義を拒否する人々の拡大
時代が変わる時に、その渦中にある者がそれを正確にはつかむことはむずかしい。それを可能にするには多くの政治経験や理論的な訓練のつみかさねが必要である。2005年夏から最近の急変する政治の動きは、そのことを明らかにした。
政治経験に乏しく訓練を積んでいないマスコミの記者たちは、郵政民営化の本質もわからず、ホリエモン主義に迎合してだまされ、小泉自民党にもいいように利用されて、ホリエモン逮捕によって、恥をかいた。すると今度は、かれらは、手のひらを返したようにホリエモン批判を大合唱し、恥の上塗りをして、さらなる醜態をさらしている。
小泉自民党は、9・11総選挙後のピークからの転落の途上にある。ライブドア事件、BSE問題、耐震偽装事件、防衛施設庁談合事件などがそれを促進している。最後の問題では、今や高級官僚は、公務員などという立派なものではなく、徒党にすぎないことが暴露された。すでに、昨年の小泉自民党大勝に貢献した都市部有権者と女性が離れはじめている。格差社会を容認しない人が67%、所得再分配機能強化67%(1月6日『毎日新聞』)、拝金主義否定9割(1月31日『読売新聞』)などの各種世論調査の底にあるのは、社会主義を求める人々の自然発生的な意識の芽生えである。
ライブドア事件後、「攻撃は最大の防御だ」(武部自民党幹事長)、「規制緩和や構造改革路線自身は間違っていないし、事件とは関係ない」など、ごまかしと欺瞞を続ける者がつぎつぎと現れている。多くの人々は、格差社会・拝金主義をきっぱりと否定しているから、武部・小泉・竹中の改革継続の叫びは、もはやかれらの心に届かない。「ヒルズ族」なる腐りきった連中がもてはやされているのを見て、そんな生活には縁遠い多くの人々が、小泉政治に疑問や不信や不満や怒りが蓄積させたのは当然である。
歴史上、人々に耐乏を長期にわたって強いて続いた政権はない。今やイギリス人の多くの嫌われ者となったサッチャーの後、保守党は、ブレア労働党の「第三の道」にとってかわられ、長期低迷におちいり、ついに「思いやりの保守」を標榜し始めた。アメリカではレーガン後のブッシュ共和党政権は、クリントン民主党に大差で破れた。90年代の新自由主義政策によって経済破綻に追い込まれた中南米では、左派政権が続々と誕生している。フランスでは、再選支持率1%のシラク保守政権に対して、先の地方選挙では社会党が圧勝し、ミッテラン・ブームが起きている。ドイツでは、左翼党の躍進におそれをなして、社民―保守の大連立が組まれた。韓国では、北欧型福祉国家を目指す民主労働党が国会で9議席を獲得し、さらに運動圏内で、社会主義やマルクス主義についての研究が盛んになっている。
小泉首相が、2月1日の参議院予算委員会で「格差は悪いことではない」と発言したことにたいして、森田実氏は、4日の「政治日誌」(同氏HP)で、「暴言」「内閣総辞職に値するほどの大失言」「政治は全国民のためのものであり、一部の強者のみを利するものであってはならない。これは政治の基本である。小泉発言はこの基本を踏みにじった」と鋭い批判をあびせている。すでに、『朝日』『毎日』は、小泉政権の終わりの始まり、潮目の変化を既定事実としている。『日経』は「共同体的な甘えを捨てた新日本型経営」(2月3日社説)、『読売』は「格差の否定かある程度の格差を容認するが固定化しないかの選択が迫られている」(1月31日社説)、『産経』まで「格差拡大につながらない政策の実現こそが求められている」(1月25日社説)とそれまでの主張を軌道修正している。これまで小泉政権を支えてきた応援団がつぎつぎと手のひらを返しつつある。もともと地方は反小泉が多い。残るは、海外の盟友=ブッシュである。
逆風にさらされるブッシュ政権とパレスチナ政策の破綻
そのブッシュは、2月1日の一般教書演説で、圧政との闘い、テロとの闘いと同時に内政面の課題をも強調した。それは中間選挙を意識したものである。しかしある世論調査では、民主党支持57%、共和党31%で、ブッシュ与党は苦しい。ブッシュ政権は、もともと2000年の大統領選挙で、有力候補の民主党ゴアに対抗するために、「思いやりの保守主義」というポピュリズム的スローガンを掲げて、僅差で勝利して誕生した。それが、2001年9月11日の事件によって、一気に戦時体制に突入し、ついにはイラク侵略戦争にのめり込み、多額の戦費を費やし、2200人以上の戦死者を出し、治安優先の人権の抑制・制限強化、アラブ・イスラム系住民への差別・治安管理強化、が続き、戦争で利益を得た少数のブルジョアジーをのぞく多くのアメリカ人は、ブッシュ共和党政権の「思いやり」を得られないまま、我慢を強いられてきたのである。
1月28日の『朝日新聞』によると、アメリカでは、ここ数年で、富裕層と貧困層の格差がさらに拡大し、ニューヨーク州で所得上位20%と下位の20%の間に8.1倍 の差があり、一番差の小さいワイオミング州で5.2倍になっている。80年代からの初頭の数字を比較すると、80年代の同じ単位で、格差は6.4倍から2000年には7.3倍に拡大している(政策研究機関「予算と優先政策に関する研究センター」調べ)。ここからは、政権公約の「思いやり」の実行を求める声がアメリカ人の中から高まってくる可能性が高い。
「日米一体」を強調する『産経新聞』は、2日の社説で、ブッシュ政権が逆風にさらされていることを認めながら、愚直に理念を語る大統領の姿勢を評価するという苦しい言い方をよぎなくされている。しかし、もはやその理念も、空文句にすぎないことが、パレスチナ総選挙でのハマスの躍進で明らかになった。それは、アメリカやEUが、ファタハを新欧米路線にするために、援助の名で買収し腐敗させるという恥ずべき所業を続けてきたことに対するパレスチナ人の正義の回答である。中東で、エジプトをはじめとする新欧米政権を国際援助の美名の下で、腐敗させてきた米帝の汚いやり口に対して、貧困の中に無策のまま放置されてきた貧困層や失業者や労働者がそれをいつまでも許してはおかないことを行動で示したのである。
労働者大衆の奴隷化を狙う右派・保守派とそれに手を貸す日和見主義者の偽善
右派や保守派は、労働者大衆をなんとか支配階級とその国家の奴隷にしようとして、欺瞞を広めている。過去の支配階級の利益のための侵略戦争への動員を、あたかも愛国心による自発的行為であったかのように描き、それが徴兵制という国家による強制動員であったことを忘れさせようとしている。それは、現代における労働者大衆の奴隷状態を美化し、受け入れさせるための欺瞞である。「人は奴隷にうまれたからといって、なんの罪もない。しかし、自由になろうとする努力をしないばかりでなく、自分の奴隷的身分を正当化し美化する奴隷(たとえば、ポーランドやウクライナなどの首をしめることを大ロシア人の「祖国擁護」と呼ぶような)、このような奴隷は、当然の憤りと軽蔑と嫌悪の念をよびおこさせる、下司であり下郎である」(レーニン 『大ロシア人の民族的誇りについて』国民文庫=118 10頁)という言葉が重味を持つようになった。
「下流」の経験の少ない若者の間に奴隷根性がいくらか浸透し、左翼系知識人の中から、敗北主義と日和見主義に転落する者があらわれて、闘う者に従順な奴隷となるように日和見主義や改良主義の説教をたれる伝道師が現れているからである。ある者たちは、シオニストがまきちらした反ナチスの宣伝に引っかかって、知らず知らずのうちに、米帝とサブ帝国主義イスラエルの立場に立って、全体主義神話を広めることに加担している。全体主義神話は、自由主義者が、民主主義者を装うためにつくりあげた偽善的イデオロギーである。また、労働者階級被差別大衆の奴隷状態をうち破るための力を発展させなければならないときに、穏健主義を広め、過去の革命を愚弄し、労働者階級の戦意を喪失させ、希望をうち砕いて、ブルジョアジーを喜ばせて、労働者大衆の奴隷化に力を貸す者もいる。西欧の穏健な社民党は、労働者階級を奴隷状態から解放しなかった。それどころか、ドイツのシュレーダー社民党政権の下で、労働者は大量失業の憂き目にあい、今や失業者は500万人にも達している(総人口8250万人)。また、かれらは、口先で平和を唱えながら、幾多の戦争に参戦してきた。
それとは正反対に、うつぼ公園などの野宿者と支援者たちは、1月30日に、バラが生み出す貨幣を目当ての大阪市当局の目の前に生きている人間を人間扱いしない公園野宿者強制排除の暴力的攻撃に対して、奴隷状態を拒否する尊厳をかけたプロレタリア的な解放闘争をやりきった。それは勝ち負けにこだわるブルジョア的俗物たちの自堕落な生き方とは対極の、人としての誇りと尊厳ある生き方を示した。それは全国に報道され伝わった。この3日前に、大阪地裁は、ホームレスの公園のテントを住所と認め、住民登録を認める判決を下し、これを批判する2月5日の『読売新聞』さえ、市のホームレス対策に問題があると指摘した。大阪市は追いつめられた。
労働者階級が、競争を超えて、連帯し、共に賃金奴隷解放闘争に立ち上がり、これを廃止するならば、人間的な生き方が可能となる。ブルジョアジーの太平洋セメントの諸井でさえ、成果主義の働き方を非人間的で、別の働き方の方が人間的だと言っている。ブルジョアジーでさえ、自らの中から自然発生してくる人間的なものを意識的に抑圧しなければ貫けないほど、成果主義・能力主義・競争主義は、非人間的なのである。それなのに、奴隷状態に甘んじろ、闘うなと日和見主義の説教をたれる者は、ロシアで自由主義者ブルジョアジーに味方して帝国主義戦争に人々をかり出して前線で殺し続けたメンシェビキやエスエル同様の支配階級の味方である。
今、われわれは、『なにをなすべきか?』
『なにをなすべきか?』でレーニンが、遅れた大衆に、インテリが外から社会主義意識を持ち込むべきだと主張したと曲解する者がいる。それは当時のロシアの歴史的条件を捨象する誤りである。この本でかれが問題にしたのは、共産主義が幼年期の段階にあったロシアでは、自然発生的に経済闘争に立ち上がってきている労働者の共産主義的政治意識を育てないと、組合主義的な狭い意識の内に労働者の意識が閉じこめられ、そういう労働運動は、ブルジョア・イデオロギーの影響下に入らざるをえないし、イギリスの自由党を支持する自由主義的労働運動のようになるということである。そうなれば、自由主義政治意識が労働運動に持ち込まれ浸透するのであり、共産主義運動が幼年期の段階にあったロシアでは、共産主義的政治意識は、入り口で止められてしまう。日本でも、旧同盟系の労組では、反共パンフレットを組合員に配布したりして、共産主義意識の浸透を妨害してきた。だから、レーニンは、自由主義ではない専制政治と闘う政治闘争が必要だと考え、その知識と意識を全労働者階級の間に広めるために、全国政治新聞を発行し届け連絡をとり、コミュニケーションを組織し、新聞を組織者とする中央集権的組織建設と学術雑誌・政治新聞・大衆的パンフレットの三種の出版物の発行を提案したのである。
日本の90年代後期のように、大衆の間からの社会主義イデオロギーと文化の自然発生が弱まっていた時期においては、『なにをなすべきか?』の結論でかれが第一期と呼んでいる時期(社会民主党の理論と綱領の確立期)、あるいは1905年の第一次ロシア革命の挫折後の時期(メンシェビキが優勢なソビエト内で少数派としてねばり強く闘っていた時期)、あるいは、統一戦線のための闘いの時期(労働者大衆の多数派形成)のような戦術が必要であった。
われわれは、新しい時代状況に対応するため、1994年の第三回大会において、戦術・組織総括「われわれの新しい活動方向」を確認した。社会運動への人々の参加を促進することが必要であった。90年代には、ソ連の崩壊を徹底的に利用した資本側の攻勢が強まり、リストラ、非正規雇用の拡大、社会保障の削減、増税、社会負担増、等々、そして戦争と、支配階級は被支配階級の闘いがないことをいいことに、攻勢を強め、左翼政治運動圏が縮小・停滞した。それにたいして、社会運動圏は拡大した。われわれは、90年代に左翼の一部が、根本的な総括と称して、原則を捨てて、転向していったのとは違って、原則を守りつつ、新しい情勢にすみやかに適応しようとしたのである。われわれの戦術は正しかった。
20世紀に入り、宣伝力が小さく限られていたにも関わらず、イラク侵略戦争反対運動には、何万何十万という人々が立ち上がった。階級・階層という概念は、格差社会化の進行によって、人々の生活条件と結びついた生きた概念であることが再確認された。マルクス主義の諸概念は、資本制社会の敵対性の拡大によって、生命力を強められた。そして、社会主義イデオロギーと文化が、労働者大衆から自然発生的に拡がってきた。これらのことは、時代が変わりつつあることを示している。ホリエモンに対して、人々が直感的に抱く嫌悪感の底には、反資本主義意識や金によって動かされないものへの希求があることは明白である。それに対して、政府やマスコミや支配階級とその代弁者たちは、人々を堕落させ、奴隷根性を植え付けようとしたが失敗している。
ホリエモン現象は、この社会では、一握りの金持ちだけが勝ち誇るだけで、人々の多数を幸福にできないことを明らかにした。その事実をはっきりと認識し、奴隷根性を植え付けようとする支配階級の御用イデオローグの欺瞞を暴くこと、そしてそれができる人を育てることが必要である。『火花』はそのための武器であると同時に直接には目には見えない幾多の糸で、共産制社会を求める人々との結びつきをつくることを追求してきた。
ただし、月に30部しか地方機関誌が発行されていなかった『なにをなすべきか?』に書かれた時代のロシアの情況と違って、インターネットなどを通じて、日本全国、そして世界の運動体が自ら情報発信して、世界中どこでも、そういう情報に接することができる状況でもあり、機関誌の発行それ自体に過大な意味付与はしていない。さらに、機関誌が組織者としての機能を持つばかりではなく、運動の中で組織することも必要であり、われわれの第三回大会は、「大衆の中へ」を掲げた。『なにをなすべきか?』の時代のロシアの条件下では、機関誌の配布や記事の収拾などの受任者網が、全国と中央を結びつけるほとんど唯一のものであった。こういう歴史的条件を無視して、超歴史的なレーニン主義なるものをでっちあげることは、誤りである。
レーニンは、1902年2月に「われわれはいま、労働者は社会民主主義的意識をもっているはずもなかった、と言った。この意識は、外部からもちこむほかはなかったのである」(『なにをなすべきか?』国民文庫50頁)と書いたが、1913年の10月から12月にかけて書かれた『民族問題にかんする批判的覚書』では、「おのおのの民族文化のうちには、たとえ未発達のものであるとはいえ、民主主義的ならびに社会主義的文化の諸要素がある。なぜなら、おのおのの民族のうちには、勤労被搾取大衆が存在し、彼らの生活条件が不可避的に民主主義的ならびに社会主義的イデオロギーをうみだすからである」(国民文庫=117 65頁)と書いている。一見矛盾しているようだが、これは、ロシアの具体的な歴史的条件の違いを反映しているのである。ブルジョア・イデオロギーは歴史が古く仕上げられ普及手段を多く使って広めたために、自然性という社会的性格をもつようになった。封建制下では、ブルジョア・イデオロギーと文化は、「自然」ではなく「異端」であった。ブルジョア革命後の長い歴史の中で、自然化したのである。しかし、社会主義イデオロギーの歴史も長くなり、今では自然性という性格をあるていど持っている。そのために、労働者の自然発生的運動は、基本的には優勢なブルジョア・イデオロギーの線で進むが、あるていどは社会主義イデオロギーの線で進むようになった。
今日、優勢なブルジョア・イデオロギーと文化に包囲されてはいるが、労働者大衆の中から、民主主義的ならびに社会主義的イデオロギーと文化がふたたび力を発展させている。『なにをなすべきか?』の時代のロシアのような幼年期の共産主義の段階とは違って、すでに何世紀もの歴史をもつ共産主義イデオロギーと文化がある現在では、自然発生してくるそれらを全面的に仕上げ発展させ普及することは、同時に、直接に共産主義を求める大衆運動と組織を発展させることを必要とする。今日の民主主義運動は、そのことに無自覚で、無意識にこういう質を抑圧しては、高度に発展することができない。それに対して、国際反戦運動や国際反グローバル運動や一部の社会運動の中には、「もう一つの社会」「もう一つの世界」という資本制社会にとってかわる新しい社会・新しい世界の質を、現在の運動の質として発展させ、民主主義=国家の死滅、共産主義を準備しつつあるものがある。それは、プロ独の計画を準備することでもある。なぜなら、共産主義イデオロギーと文化が自然発生する今日の条件においては、プロ独が現在の質として存在することが要求されているからである。民主主義と共産主義の間に高い階段を人為的にもうける不破共産党の二段階革命論は、破産しているのである。それなのに、不破日本共産党は、24回党大会で長い資本主義の民主化の段階をもうけ、労働者大衆の共産主義イデオロギーと文化の自然発生性に背を向け、抑圧し、共産主義の遠い未来への追放を路線化した。共産主義を空文句にし、言葉だけの共産主義者になったことをあからさまに示したのである。
第三回大会の戦術・組織総括「われわれの新しい活動報告」は、「新しい情勢の中で、ブルジョアジーは共産主義・プロ独を完全に埋葬しようとしている。それに対して、共産主義・プロ独の語それ自体や革命党の権威を振りかざしても人々を動かすことなどできはしない。そもそも、今日、革命の意味や革命党の存在根拠そのものが問われている」と書いたことに表現されている。ブルジョアジーに対して、共産主義・プロ独というたんなる言葉を対置することでは人々の支持は得られないということである。問題は、その実体であり、思想であり、それをこそ運動化し組織化して対置することであった。実体としての、空文句ではない、内実をもった共産主義・プロ独を再生しなければならないということであった。しかし、「ブルジョアジーは共産主義・プロ独を完全に埋葬しようとし」たが、できず、逆に、今、自然発生的に共産主義イデオロギーと文化が拡がりつつある。これを発展させると共に、この新しい情勢に対応する「革命の意味や革命党の存在根拠」についての議論を早急に進めなければならない。
自由主義者の中でも徹底的な価値相対主義者が生み出すニヒリズムが思想的荒廃情況を生み、右派や保守派や自由主義者の多くが、神話批判と称しながら、別の神話(ナショナリズム、奴隷主義、新自由主義、市場原理主義、等々)を広めている。それらをうち破るためのプロレタリアートの武器を磨く必要があり、それには共産主義思想の権威の発展を必要とすることは明らかである。労働者大衆から自然発生する漠然として不定形な共産主義イデオロギーと文化の萌芽に明確な形を与えることは、労働者大衆の自覚を促し、力を与え、それを運動化し、組織することへの参加を促進することになることは明らかである。われわれは、共産主義を空文句におとしこめる行為と闘うと共に、共産主義の実体、直接に共産主義を要求する運動を発展させる。それは運動が、労働者大衆の共産主義イデオロギーと文化の自然発生性に応え、その夢と希望となることをも意味する。それは、今日の共産主義が、思想の権威と同時に倫理と文化の権威をも持たなければならないことを意味する。