年頭にあたって
流 広志
293号(2006年1月)所収
1.
1月5日『産経新聞』社説は、年頭改憲での小泉首相の「中国・韓国が、一個人としての私的な靖国参拝を批判するのは、精神の自由に対する干渉で理解できない」という発言を、内政不干渉主義を根拠に支持した。われわれは、民族国家止揚を目指す立場からこれを否定する。靖国神社は、侵略戦争を賛美したり過去の奴隷状態を美化したりする偽りの「祖国愛」で「民族的誇り」を傷つけているし、小泉首相は、イラクへの自衛隊派遣などで米帝の戦争に協力していながら、靖国参拝で恒久平和を祈願するという偽善で、その傷をさらに深めている。本物の「民族的誇り」は、勤労被搾取大衆が自由で平等な民族文化を生みだしたことにある。2005年12月29日の「森田実政治日誌」が紹介した『アリランの歌 ある朝鮮人革命家の生涯』(岩波文庫)の「私たち貧乏朝鮮人学生は時々グループを組んで人々の家をまわり、古い本や雑誌、古着などをあつめた。日本の主婦や娘たちはみんな優しくて朝鮮人学生に心をよせ、時には新しいものをくれた。私たちも施しを受けず、もらったものには必ず少々のお返しをした」「私は日本にいる日本人が朝鮮にいる日本人とたいそう違っているのに驚いた。・・・・帝国主義の番頭や手代として植民地の人間を抑えるために雇われているのだから、母国にいるのとは態度がまるきり変わる。私は東京で知り合ったたくさんの日本人が好きだ」(同HP)という言葉は、それを証している。ここに現れている民主主義的な民族文化こそ本当の「民族的誇り」である。
年頭会見で小泉首相は、構造改革の推進の成果を強調し、さらなる改革の推進を進めると述べた。昨年は、JR西日本福知山線脱線事故、耐震強度偽装事件、人口減少、格差社会の深化、等々と小泉構造改革の負の結果が次々と明らかになった。それに、詐欺事件の蔓延や汚職・横領などの多発など、モラル崩壊を示す事件も多発した。
それに対して、1月5日の『読売新聞』社説は、社会・共同体を破壊する小泉政治と対立する価値観を打ち出した。芸=教養なくモラル崩壊を起こしている経営者を、「想定外」だと批判し、渡邊恒雄同紙主筆が首相の靖国神社参拝に反対し、6日の『読売新聞』社説は、「社会や共同体の重要性に立脚し、社会への責任や健全な倫理・規範の意識を育(はぐく)むことは、新憲法に必須の観点だ」と主張した。ところが、同紙は、この間、機会平等は善平等で、結果平等は悪平等だという趣旨のことを書き、格差社会を是認している。フランスの移民系などの下層反乱が、都市郊外の移民や下層の「ゲットー」ともいうべき地域社会で起きたように、格差社会では、倫理・規範も分裂し、階級階層間の対立が激化する。そんな分裂した社会・共同体がいいと言っているように取れる。言っていることが矛盾している。
1月6日『毎日新聞』の世論調査では、小さい政府支持47%、所得再分配機能強化67%という矛盾した結果が出た。60歳以上では小さい政府支持53%に対して大きい政府支持29%と差が大きいが、30代ではともに43%、20代では小さい政府支持42%、大きい政府支持46%で、若い層ほど大きい政府支持が多い。格差社会を容認しない意見が67%で人々の多数を占めている。60歳以上で、小さい政府支持が多いのは、年金財政破綻への危機感が特に強いからかもしれない。若い層で、『読売新聞』社説が悪平等と呼んでいる結果平等の支持がけっこう多いのである。したがって、『読売新聞』は、二分されている平等観や政府論の一方の立場に立っているにすぎないし、所得再分配機能強化という結果平等を求める多数意見に反対する少数派の立場に立っているのである。また、人々の多数は、織田信長型ではなく、誠実な坂本龍馬型や協調的な徳川家康型のリーダーを求めている。
『毎日新聞』社説は、小泉構造改革を、税配分の財政構造を変えないもので見かけだけのものにすぎないと批判し、NPOの活用や地域コミュニティーへの市民参加による新たな公共性を創造するというイギリスのブレア政権や民主党の「第三の道」路線を提唱している。その具体例として、7日の同紙社説は、教育への市民参加として登録ボランティアによる授業補助をあげているが、「ボランティアに参加できるのは余裕のある「勝ち組」の人たちが多いだろう」と述べ、「勝ち組」が高満足を得るという「勝ち組」寄りの方策を提案している。こんな偏った公共性は公共性とは言えない。
『毎日新聞』の世論調査の結果からは、大きい政府か小さい政府かが、人々をだいたい二分する選択肢になっていることがわかる。議会政治的には、新自由主義対社民主義という対抗軸である。新自由主義に傾斜した前原民主党は、小泉自民党との違いが見えにくくなって、埋没するだけである。
2.
1月7日『日経新聞』社説は、人口減少と高齢化、所得格差の拡大が進行するなかでは、所得税増税は源泉徴収のサラリーマンと自営業者との不公平感を強めるし、法人税増税は企業の国際競争力を低下させるなどの理由から、大幅増税は不可能なので、ナショナルミニマム(国民生活の最低限の基準)の見直しが必要だと主張している。これはおそらく低めるという負の方向での見直しを求める意見である。しかし、これを高めることは社会目標である。先の総選挙で社民党が掲げたように、累進性を再強化して、高額所得層の税率を増やせば、それは、企業の国際競争力を低めることなく税収増を見込める。すでに、累進性の低さは先進国でトップである。また、現行法人税率で、トヨタは過去最高益を出し、アメリカ市場などでのシェアを伸ばしているが、法人税が何パーセントなら国際競争力が保てるのかなどの具体的な分析がなくては、国際競争力と法人税率の適正なバランスを判断できない。内部留保を増やしている企業の法人税を引き上げるべきだ。
この社説は、全体の解明を放棄して、「競争がまだ制限されている業界に新規参入を促すような政策をとれば、競争を通じて価格が下がりサービスも向上して市場規模が拡大するはずだ、そして雇用や設備投資も増え、地域の経済が活性化する」という市場原理主義の呪文を唱える。正確には、「競争は、価格・規模・サービスを上下させる」である。JR西日本福知山線脱線事故やJR東日本羽越線特急脱線事故の背景にあった民営化後の合理化による安全サービスの低下などについて真剣に検討すれば、こんな風に競争促進を単純に肯定できないはずだ。羽越線特急脱線事故では、最寄り駅の駅長の目視によって判断していたのを、駅長の合理化を進め、風速計による風速監視体制に移したことが、事故の背景にあったと指摘されている。耐震強度偽装事件はいわずもがなである。効率化や利便性の向上や価格低下と安全等との間に適正なバランスをとる総合的な判断が必要なのであり、この社説のように、一部を特別扱いして結論を導き出すことはできない。コスト競争が加熱して、安全が脅かされるのは、この間の諸事故・諸事件で繰り返されていることである。また、一般会計の何倍もの規模がある特別会計の膨大な無駄を洗い出し、無駄を省けば相当の節約が可能なことに言及しないのもおかしい。上記の世論調査から、人々の多くが格差社会を拒否する「健全な」倫理観や非ブルジョア的な民族文化を持っていることがわかる。それに対して、1月5日『読売新聞』社説は、優秀なリーダーにして人間性豊かな日本人を育てるには、競争が有効だと言っている。しかしそれは、他人に思いやりをもつ人間性を育てるには不向きである。他人に思いやりを持つ人間性豊かな人は、他人を負かして自分が勝者となりたいとは思わないだろうし、競争の勝者となって富を独占することを潔しとしないに違いないからである。この社説は、競争主義と人間主義(人格主義)の折衷にすぎない。
5日の『産経新聞』社説は、外交については、軍事力学主義的かつ政治力学主義的で、利害計算優先で、沖縄への思いやりがなく、米軍基地負担、日米安保の重圧を集中されている沖縄に協力するように説得せよと政府に求めている。なんて暖かい沖縄への「同胞愛」だろう! 沖縄の人々は、本土−ヤマトンチューのエゴに対して、ウチナンチュー同士と本土の支援・連帯者との「同胞愛」を強めて、普天間基地の辺野古への移転と闘っている。
3.
世界を見れば、中南米では続々と左派政権が誕生し、ドイツでの左派連合の躍進があり、イギリスでの左派議員の増加、二十数年ぶりのニューヨーク地下鉄バスなどのストライキ、反戦世論の増加、韓国APEC香港WTOに対する労農大衆の闘いの高揚、等々と、左派ないし労農大衆の闘いが高揚している。韓国反APEC香港反WTO闘争を中心的に担った民主労総は、アジアにおけるサムスンなどの韓国系多国籍企業の不当労働行為に対する国際的闘いを組織することを明らかにしている。日本でも、フィリピン・トヨタにおける労働争議の国際支援の取り組みがなされ、韓国での日系企業の不当労働行為に対する支援も取り組まれている。アメリカの労働運動やNPOでも、「ウォルマート・ウォッチ」など米系多国籍企業の海外での不当行為に対する闘いが取り組まれている。なお、トヨタはインドで不当労働行為による不当解雇に対する労働者のストライキに見舞われている。
グローバル化を進める米帝の国際政策と結びついているコロンビアの親米右派ウリベ政権が水面下で支援する準軍組織が、労組員や農民を暗殺している。NAFTAに加盟しているメキシコ政府は、サパティスタが対話を求めたのにたいして、先住民組織を軍事攻撃することで応えている。ドミニカ共和国では、アメリカの多国籍砂糖王の奴隷農場で、低賃金・栄養不足や過重労働で労働者やその家族がまともな治療も受けられずに殺されている。
しかし他方で、中南米では、米帝の経済制裁下でキューバは、協同組合化を進めつつ農業を再生して8%の高成長を達成し、国際援助のない中でアルゼンチンは経済建て直しに成功し、ベネズエラのチャベス政権はアルゼンチンへの投資拡大を決定するなど中南米での国際連帯の諸方策を実行し、アメリカ主導の米州自由貿易地域(FTAA)に対抗してチリなど12カ国が、EU型地域統合を目指す地域主導の「南米国家共同体」構想を進めるなど、米帝のグローバル化に対抗する力が大きくなっている。また、サパティスタ(EZLN)は、2005年6月の「第6ラカンドン密林宣言」を具体化する三つのコミュニケを11月に発表し、FZLN(サパティスタ民族解放戦線)を解散し、市民の平和的な反資本主義左翼政治組織を新たに創設することを宣言し、反新自由主義の動きを拡大しようとしている(メキシコ先住民運動連帯関西グループHP)。今年7月のメキシコ大統領選挙では、左翼系の民主革命党(PRD)のロペス・オブラドル・メキシコ市長が有力視されているが、彼の公約には、先住民の権利の承認、北米自由貿易協定(NAFTA)の一部項目の見直し、エネルギー部門の国営維持などの反グローバル的な政策が含まれている。サパティスタはこうした「登録政党」とは関係しないようであるが。反グローバル化の世界的な闘いの中に、かつて、故田原芳氏が、「プロレタリアートの世界独裁のための闘争―綱領的見地から見た「民族問題」について―」(『関西ブント田原芳論文集。プロレタリア独裁への道I』〔田原芳論文集復刻刊行委員会〕)で提起した民族国家の廃絶の可能性が刻印されている。それを、ソ連共産党はスターリンの一国社会主義論で完全に放棄し、中共は内政不干渉主義論で放棄して、修正主義に転落した。民族国家は世界単一共和制に止揚されるべき過渡にすぎない。
4.
日本においては、格差拡大・二極化の進む中で、夢や希望を失って無力感を感じる若者が増えている。マスコミや支配階級が金をかけた大宣伝などで優勝劣敗の新自由主義的価値観を広めたため、競争を煽られ、人間関係をライバル化し、抽象的個人として孤立させられ、無力感におそわれているのである。正義・公正・平等などの社会的価値や文化への欲求が抑圧されているのだ。しかしながら、野宿者連帯などの下層解放運動には多くの活動家や意識ある人々が加わっているし、障害者自立支援法反対運動もねばり強く闘われているし、在日朝鮮人の文化運動は各地で長く取り組まれているし、アイヌ新法後のアイヌの復興運動も持続されているし、米軍再編・基地負担強化に反対する辺野古をはじめとする沖縄の反基地運動は高揚している等、支配勢力による包囲網や宣伝を跳ね返す闘いが広がっている。
これらの運動には正義・公正・平等の夢と希望がある。そこには、勤労被搾取大衆の「民族文化」や「同胞愛」がある。それに対して、右派には夢も希望もない。かれらにあるのは、観念主義や情緒主義やエセ・リアリズムなどである。右派は他国や他民族の悪口ばかりを言い、ネガティブであり、過去にとらわれて憂いやメランコリーに陥り、展望を示せない。かれらは、未来を切り開こうとしている者の足を引っ張り、後ろへ引き戻すことに暗い情熱を傾けている。かれらは、民族間の対立や憎悪を煽り、離間させようとし、民族間の些細な対立を拡大しようと試みる。
かれらは、共産主義者を民族の敵であるかのように描くが、プロレタリアートの国際文化は、民族文化の中の勤労被搾取大衆の生活条件が生み出す民主主義的・社会主義的イデオロギーに基づくものである。民族文化一般は、支配階級の支配的文化であり、少数者のブルジョア文化にすぎない。支配階級と被支配階級では民族文化の中身が違うのである。支配的民族文化だけを民族文化と定義するなら、勤労被搾取大衆は民族ではないし、その文化は民族文化ではない。「同胞」内の格差を許容するような民族文化は支配階級=ブルジョア民族文化にすぎず、勤労被搾取大衆の「祖国愛」ではない。「同胞」内の差別や不平等をなくす民主主義の実現のために闘わないでは「民族的誇り」は本物にならないし、「他民族を抑圧する民族は自由ではない」ので、自民族の特権を擁護するブルジョア民族文化は、民族的平等と同胞愛の勤労被搾取大衆の民主主義的で社会主義的な民族文化と相容れない。「民族的誇りのみちあふれた大ロシアの労働者は、その隣人との関係を、偉大な民族をはずかしめるような、農奴制的な特権のうえにではなく平等の人間的原則のうえにうちたてるところの、自由で独立な、自主的で、民主主義的で、共和制的な、誇らしい大ロシアを、ぜがひでものぞむものである」(レーニン『大ロシア人の民族的誇りについて』国民文庫=118 10頁)。
勤労被搾取大衆の非特権的民主的な民族文化は、諸民族の自由で対等な融合・接近を前進させる。右派のように、民族間に上下優劣の序列をつけ、他民族を差別する民族主義は、ブルジョア民族主義であり、勤労被搾取大衆の奴隷状態を正当化し美化するものである。それから解放される「プロレタリアートの革命のためには、労働者をもっとも完全な民族的平等と同胞愛の精神で、長期にわたって教育することが必要」(同上12頁)なのである。「「ハンマダン」は在日朝鮮人にとっては奪われた民族と人間性を取り戻す場所として、日本人にとっては、日本社会の抑圧から自らを解放する場所として機能しています。その上ではじめて、朝鮮人と日本人は「共に生きる」ことができるのではないでしょうか」(京都ハンマダンHP)。ここに表現されているのは、まさにそのことである。
5.
韓国反APEC香港反WTO闘争は、国際的な労働運動や農民運動の結びつきの発展を示した。そこで、日本人を含む多数の労農大衆が香港当局によって逮捕されたが、その支援運動も国際的に闘われている。国際反戦運動や国際反グローバル運動が示しているのは、国際的な労農大衆の連帯、「民主主義と国際労働運動の文化」の発展である。共産主義は、勤労被搾取大衆の生活条件が生み出す民主主義・社会主義イデオロギーを発展させ、磨き上げ、運動とすることであり、勤労被搾取大衆の夢や希望の意識化である。ブルジョアジーやその意を受けたマスコミや自民党や民主党が小さい政府論を宣伝し浸透させようとしても、格差社会を前にした人々とりわけ若者の多くが大きい政府を求めているのは、勤労被搾取大衆の生活条件が、民主主義・社会主義イデオロギーを自然発生的に生みだし、本能的にブルジョア・イデオロギー・文化を拒否している証拠である。また、改良主義者の「連合」が指名した「連合評価委員会」ですら、言葉の上で共産主義的労働観を押し出している。 勤労被搾取大衆とそこに根ざしている大衆的諸運動には、共産制社会への希求がある。それらと結びつき、発展させることが必要である。
「日本の共産主義者は誠実で強く、犠牲を恐れず、彼らの大義に情熱的に献身する。これまで会った人が私はみんな好きだ。日本の共産主義者は・・・・差別することがなく、実に国際的な気質を持っている」(『アリランの歌』森田実氏のHP)。こういう左翼の誇るべき伝統の良き部分を現代に復権しなければならない。多くの人々が格差社会を否定していることを見れば、それが可能なことは明らかである。