共産主義者同盟(火花)

極端な個人主義利己主義カルト解体のために

流 広志
291号(2005年11月)所収


極端な個人主義利己主義カルトとフェミニズム、労働

 今日の資本制社会においては、極端な個人主義利己主義カルトは、普通に観察されるありふれた現象である。
 この言葉は、ロシア革命で、女性福祉大臣になったアレクサンダー・コロンタイが使ったものである。彼女は、1913年に「女性の日」の記念セレモニーを率先して開催し、レーニンの「四月テーゼ」を支持した唯一のボリシェビキの中央委員であり、レーニンの対独単独講和(ブレスト・リトフスク講和)に反対して、ブハーリンらの労働者反対派に加わった。その後、外交官を務め、1952年に亡くなった。
 スターリニストの中には、彼女を、小ブル主義者として、批判するものがあるが、彼女の文章を見る限り、そういうことはない。むしろ、例えば、「女性の日」という1913年の文章では、男であろうと女であろうと資本家には変わりはなく、どちらとも闘うという意味のことを書いており、階級闘争という観点を貫いている。スターリニストの方が、市民運動だの国民運動だのと言うばかりで、階級闘争という言葉すら言わず、それを事実上放棄している。
 彼女は、ブルジョア的男女同権論者(当時はこういうのがフェミニズムと呼ばれていたようである)に対して、未来をつくる母としての、また女性としての具体的な性格に応じた特別の待遇を要求することを対置している。もちろん、これらの性格は、可変的なものであり、社会的歴史的に形成されてきたものである。彼女は、男性による女性の抑圧・差別と同時に女性による女性の搾取・抑圧とも闘うことを強調している。なお、コロンタイについては、戸籍制度(戸主制)撤廃運動を推進している佐藤文明氏が、ブログで公開している『エンゲルス=モルガン説の周辺』という文章で、高く評価している。この文章は、エンゲルスに対して厳しすぎると思うが、全体としては学ぶ点が多いものである。氏と違って、私は、エンゲルスの革命性を断固として擁護する立場である。私は、スターリニストにとって否定の対象らしいコロンタイの再評価、復権は、今日のフェミニズムの発展のために大いに資するところがあると考える。
 女性解放運動と階級闘争を結びつける点で、コロンタイは、同志関係を鍵だと主張しているが、それは、クララ・ツェトキンとの対談において、レーニンが強調したことでもある。彼女の考えでは、資本制社会での男女関係の基礎には、極端な個人主義利己主義カルトが存在してるが、それは闘いによって克服される同志関係を必要とするし、未来をつくるという意味でも、同志関係が必要である。レーニンは、上述の対談で、ロシア共産党内における男女の間の同志関係が、一部を除く男性側の無理解や無関心、怠慢によって、うまくいかず、遅れていることを指摘し、それを変革しなければならないと言っている。コロンタイの言っていることは、今日でも通用するものである。
 コロンタイが批判したブルジョア的男女同権論の一種である自由主義フェミニズムが日本でも台頭してきている。早稲田大で開かれた自民党と民主党の女性議員による討論会の中で、外資系証券会社員だった自民党佐藤ゆかり議員は、女性を特別に優遇する施策は必要ない、自助努力だと言った。それは、能力を基本基準として、男女差を二次的に扱う自由主義的フェミニズムの考えである。それに対して、コロンタイは、能力などという抽象を基準とするのではなく、男女の差異を認めるが、差別を容認しないのであり、男女の差異に対応した具体的な施策の必要を主張した。また、自由主義フェミニズムには、コロンタイの女性解放論と違って、社会的観点・社会という次元が欠けている。新自由主義のこの根本的欠陥によって、サッチャー政権下のイギリスやレーガン政権下のアメリカでは、極端な個人主義利己主義カルトが蔓延し、社会崩壊が起きた。
 そういう自由主義グローバリズムに対して、「連合」が今大会で打ち出した「労働を中心とする福祉型社会」というスローガンは、資本に対する労働の対置という点では、ブルジョア自由主義に対する根本的違いを言葉上は打ち出したものではある。それは、「労働の共和国」「労働の社会共和国」という19世紀フランスの階級闘争で、プロレタリアートが掲げたスローガンと言葉上は似ている。資本対労働という階級闘争の姿を言葉の上では表現している。しかし、今のところ「連合」の実態は、そのスローガンにふさわしいものではない。

腐朽するアメリカのカルト、移民差別、貧困、児童労働、侵略等

 11月11日のワシントン発のロイターの記事は、米ペンシルベニア州の町ドーバーで、8日、教育委員会選挙で、ダーウィンの「進化論」を否定する「インテリジェント・デザイン(ID)と呼ばれる「創造論」を支持する8人が落選したことに対して、キリスト教保守派の指導者パット・ロバートソン師は、10日、町が「神」を拒絶したと批判し、「神が怒りを下すだろう」などと発言したと伝えた。彼は、自身が持つテレビ番組「クリスチャン放送網」(CBN)で、「もし、あなた方の住む地域で災害が起こったとしても、神を頼りにするな。あなた方の町が、神を拒否したのだから」「困ったことが起こるときに神の助けがないことを、不思議に思ってはいけない。困ったことが起こるとは言っていないが、しかし、もし起こったとしても、神を自分たちの町から追いだしたことを思い出すべきだ。もし、問題が発生しても、神に助けを求めるな。神はもうすでに、そこにはいないのだから」と脅した。彼は、今年の夏に、反米姿勢を深めるベネズエラのチャベス大統領を、「北米全体に共産主義とイスラム教過激思想を浸透させようとしている」と非難し、「暗殺すべきだ」と述べ、批判を浴びて発言を訂正した。また、1998年には、「フロリダ州オーランド市が同性愛者団体の活動を許可したことを批判し、同市にハリケーンや地震、テロ攻撃などの災害が発生すると警告し」た。
 キリスト教の指導者が、神罰が下ると人々を脅したり、人を暗殺すべきだという発言をしているのを見ると、イラク戦争に反対した際の平和主義・非暴力主義の日本の多くのキリスト教派のイメージとの違いに驚く。人を殺せと公言するような者がキリスト教の指導者として師と仰がれていることは、異常にしか見えない。反共主義も、原始キリスト教時代の使徒たちの共産主義的共同生活の有り様が「使徒伝」に描かれていることを見れば、キリスト教から必然的に発生するとは考えられない。
 資本制社会の極端な 個人主義利己主義カルトがもっとも蔓延しているアメリカでは、今、その一部がキリスト教原理主義という宗教カルトの姿をとっているのである。それは、私有財産・家族・宗教・秩序というブルジョア的価値観をキリスト教の教義の衣装で覆ったものである。かれらは、私有財産・私的生産を、極端な個人主義利己主義カルトの基礎とし、家族は私有財産を保存するための人工的組織として家父長制の統制・管理に服すものとし、宗教は内面の支配を担当し、私有財産制と私的生産を守るための秩序が強化されねばならないと考えているのである。 ロバートソンのようなキリスト教保守派の坊主は、そのためには、科学を抹殺し、人々を脅迫し、殺害してもいいとまでいうのだ。こういうものが支配すれば、世界は暗黒である。
 ダーウィンの「進化論」が、優勢思想などに利用され、人々に惨禍をもたらした歴史を知っているが、それは、利用した者に問題があるのであり、「進化論」は、基本的な点では正しいものである。
 宗教右派は、私有財産と私的生産の宗教的反映に他ならず、それは極端な個人主義利己主義カルトと結びついている。後者は、個人を孤立した小宇宙、暗黒の内面に閉じこめ、前者は、その危機を空想の共同体によって慰めを与えて救おうとする。しかし、宗教はその危機を解決するのではなく、一時的に慰めるにすぎない。危機は、相変わらず、解決しないままである。
 宗教右派に支持されたブッシュの支持は30%台に落下した。ブッシュ共和党の実力者が次々と汚職・腐敗の追及を受け、副大統領補佐官の機密漏洩容疑での逮捕、大統領補佐官の機密漏洩疑惑、等々、政権の腐敗が、次々と明るみに出されている。言葉は立派だが、行動はそれを見事に裏切っている。
 アメリカの民間企業やNPOの中には、ハリケーン「カトリーナ」被害の復興事業にも群がって、利益をあげているものもいる。対応のまずさが批判され更迭されたFEMAのブラウン元局長は、この災害に際して、テレビうつりを気にし、服装について、官僚に電子メールで問い合わせるなどしていたことが暴露された。あるメディアは、まるで暴君ネロのようだと評した。
 イラクでは、シーア派とクルド人の推す連邦制を入れたイラク憲法が、スンニ派地域の強い反対があったが、可決された。とはいえ、それは、すぐに見直し協議するというスンニ派への妥協の上でのことであり、復興プロセスを円滑に進めることを優先した形式的なものであった。イラクでは、相変わらず、米軍などに対する襲撃事件はあとをたたない。ブッシュの正義と悪との闘いだの民主主義の騎士だのというばかげた抽象は、多くの犠牲者を生んでおり、米兵の死者は2000人を超えた。その犠牲の陰で、利益で動くブルジョアジーは、ハリバートンを筆頭にイラクでの儲け口をしっかりと確保し、政府やイラクの基金から、経費水増しなどの非合法的手段をも使って、最大限の利益を引き出した。イラク侵略戦争は、惨めな失敗に終わろうとしている。いかに『産経新聞』などの米帝の御用新聞が、ブッシュの言葉をオウム返しにして、民主化は進んだなどとごまかして強調しても、そうでないことは事実によって、日々暴露されている。イラクで支配しようとしているのは、南部の地主とシーア派高級坊主たちなどの反動勢力である。
 アメリカ国内では、イラクで息子が戦死したシーハンさんを象徴とする反戦運動が、多くのアメリカ人の共感と行動を生みだしている。先のワシントン反戦行動には、正確に数えることができないほど多数の人々が参加した。多くのアメリカは、目覚めつつある。
 ブッシュ政権下で、貧困は増大し、貧富の差は拡大し、多くの人々が、その日暮らしで、未来への不安を抱えながら生きている。議会制民主主義は、金がかかるために、貧困者はあらかじめ排除されている。議会に自分たちの代表者を送り込むことができない貧しい人々は、時に、絶望的な行動に駆り立てられる。
 代議制民主主義からも排除されながら、資本によってもっとも強く搾取される貧しい人々は、過剰人口として賃金抑制のための調整役を背負わさると同時に産業や社会のもっとも危険で過酷で汚い低賃金の仕事をあてがわれる。近年の比較的に高い経済成長下で、貧困率が増大したのは、この構造が再生産されるからだ。
 ブルジョアジーは、プロレタリアートの搾取によって貯えた金、プロレタリアートの血と汗の結晶の金を、下層にまわすことを惜しむ。例えば、カリフォルニア州などの農場主は、移民労働者を低賃金で使い、その子供たちが農繁期には農業労働にかり出され、全米で約80万人がその間学校に通えず、多くが高校中退を余儀なくされているが、児童労働を人権違反として禁止するILOの条約に署名しているのに、アメリカ政府は、児童労働にかり出されている移民の子供たちの教育支援をしているNPOへの公的補助をうち切ろうとしている。教育の機会を失った移民の子供たちは、低賃金労働者として、貧困を再生産する構造に押し込まれる。アメリカ政府の人権問題での二重基準が現れているのである。また、アメリカに本拠を置く多国籍企業が、厳しい国内基準を逃れて、海外で、人権違反を犯している例は、腐るほどある。
 ブッシュ下のアメリカで、不法移民は、それを必要とする企業や農場主の需要に応じて、次々と国境を破っている。存在してはならないはずの不法移民が、アメリカ経済の大きな部分を支えている。それにもかかわらず、かれらは、公式には存在しない。この不可視の「第三世界」「植民地」問題は、時折、隠れた内乱から公然たる暴力によって、表層に出現する。米小売り最大手のウォルマートがそうであったように、ブルジョアジーは、表向きは「不法移民は許されない」と言表するが、その裏でかれらを雇う。国内で雇わなくとも、多国籍企業は、外国で低賃金・低労働条件で雇う。
 アメリカでは、ブルジョアジーが、腐敗を深めている中で、失うものを持たないプロレタリアートが増大している。また、極端な個人主義利己主義カルトが、社会関係と人間関係の危機を深めている。そうでなかったら、他国には人権違反を厳しく主張しながら、国内の児童労働という人権違反を放置し続けるという自己欺瞞を平然とやれるわものではない。

フランスの移民暴動は資本主義が民族差別をなくせないことを示した

 自由・平等・博愛のフランス革命を成し遂げた国、フランスでは、新自由主義政策によって、高失業の下に放置され、差別され、同化を強制されている移民の若者たちが、暴動に追い込まれた。それに対して、サルコジ内相は、かれらを「社会のくず」「ごろつき」とよんだ。この言表を、移民社会は長く忘れないだろう。
 そもそもフランスにおける移民は、フランス社会が、戦後復興する過程で公共事業を必要としていた成長期に、フランス人が就きたがらないが、社会に必要な仕事のために、低賃金労働者として、移入されたものだ。それはフランス経済にとって必要な存在であった。ところが、オイルショックを契機に低成長時代に入るや、今度は、お荷物・邪魔者扱いされるようになった。移民労働の低賃金労働がなかったら、フランスの商品は国際価格競争で不利になったろうに。
 移民労働者たちは、フランスのために大きな貢献をしながら、感謝されるどころか、厄介者扱いされる。この間、フランスの移民政策は、抑圧的差別的同化主義的になってきており、それに対する不満を力ずくで押さえつけようとしてきた。そのような政府の側の挑発によって、蓄積された不満や怒りが爆発したのである。
 それに対して、ついには、シラク政府は、非常事態を宣言し、夜間外出禁止令の発動を許可し、鎮圧に乗り出し、1500人以上を拘束した。この暴動に対して、フランスのある者は、まるで戦争だと語った。そのとおり、これは、政府−支配階級によって、仕掛けられた内戦である。その直接の対象は、移民系の若者たちであるが、その隠れた攻撃対象は、プロレタリアートである。国家非常事態法の発動は、国家=支配階級が被支配階級に仕掛ける内戦のための体制であり、それはこの間、フランスで活発化してきた労働運動や若者の闘争、移民の運動などの鎮圧を狙う脅迫である。同時に、ドピルパン首相は、雇用対策などの改良策を提示して懐柔をはかろうとしているが、それで、事態が根本的に解決することはありえない。フランスはもっとも移民政策が進んだ国と言われていたが、その同化主義は破綻し、その幻想は破れた。

この内乱は同化主義の破綻や国籍幻想を暴露した

 自由・平等・博愛の祖国フランスと、フランス革命を理想としてイギリスから独立したアメリカは、共に、移民労働者・失業者をはじめとするプロレタリアートとの公然・非公然の内戦、時に表に噴き出してくる隠れた内乱に、直面しているのである。表面的な平和に惑わされて、隠れた内乱の軌跡を見失い、突然現れる暴力的衝突に対して、暴力一般に反対する抽象的平和主義に犯されないように気をつけなければならない。レーニンは、階級闘争の暴力的形態と平和的形態が頻繁に交代するのに惑わされて、立ち後れることなく、あらゆる事態に備えるよう繰り返し注意した。
 フランスの暴動に参加している移民の若者の多くは、フランス国籍を持っており、児童労働にかり出されているアメリカの移民の子供たちは、アメリカ国籍を持っている。国籍は、差別をなくせない。ブルジョア国家=民主主義ではなく、NPOや社会運動・左翼政党などの一部の意識ある人々が差別をなくすために働いている。
 サルコジ内相は、ハンガリーからの移民二世であるが、かれはフランス上流階級のメンバーとして行動している。移民の中には階級階層がある。坂中元東京入管局長のように、国籍さえ取ればいいことがあるようなバラ色の幻想をまき散らすことは、移民問題や在日民族の問題をなんら根本的解決にならないことは、現実・生活が日々明らかにしている。とんでもない空想で人々をだまし続ければ、信用を失うのは確実である。
 移民や在日民族の多数は、労働者であり、国籍取得推進の先頭に立っているのは、一握りの成功者、金持ち、ブルジョアジーである。両者の間に利害の対立、隠れた内乱の跡があることは、その現実を具体的に知るものなら、誰にでもわかる事実である。在日民族の中にはいくつもの立場がある。共産主義者は、一般民主主義的要求を支持するが、その中のプロレタリア的立場を発展させるような仕方で支持する。ブルジョアジーがヘゲモニーを握る日本国籍取得促進ではなく、国籍に関係のない民族間の完全な同権の要求を支持する。
 フランスの暴動やアメリカの実態は、資本主義が、民族抑圧・民族差別をなくせず、ただ一時的な改良や懐柔が可能なだけであることを明らかにした。資本主義的帝国主義は、民族抑圧・差別の国際的ヒエラルキーを形成しているが、移民問題は、それを国内的に反映したものである。したがって、この問題を根本的に解決するためには、資本主義的帝国主義そのものの廃絶が必要である。
 プロレタリアートの解放闘争は、世界のあらゆる被抑圧者、被抑圧民族、女性、移民労働者、失業者、下層、被差別者などの解放運動と結合することで発展する。プロレタリアートの党は、資本主義的個人主義利己主義カルトをうち破り、共産主義的共同体・共有制を実現し、労働の社会、労働の社会共和制、個人の尊厳、自由、平等、友愛を実現できる高度な社会の創造に人々を向かわせる。

共産主義のカルト解体の諸任務

 上述のことから明らかなように、極端な個人主義利己主義カルトが蔓延している現在、共産主義者の仕事として、脱カルト化と同志関係の高度化と発展を追求することは重要である。新興宗教、ファシズム、疑似神話、偏狭なナショナリズムは、個人主義利己主義カルトに対して、別のカルトを対置するものであり、それらは、脱カルトではない。それらは、空想上の共同体であり、疑似共同体であり、現実の身体なき共同体にすぎないし、共同体の実質である共有制がなく、共同労働がなく、共同決定、共同協議がない共産制なき偽の共同体である。こういう共同体もどきを批判し、共産主義的共同体ときっぱりと区別する必要がある。共産主義運動は、資本制社会を根本から変えようとしているが、それには、かかるカルトの解体ということが含まれる。
 それは、知識人主義カルトを含む。例えば、プロレタリアートの利害を代表しようとする者を、自称前衛にすぎないなどと揶揄し冷笑する象牙の塔の暖かい研究室の椅子に座る知識階級の一部に存在する知識人主義カルトである。とりわけ、ニーチェ主義者は、超人なる高尚な理想人を崇める知識人の宗教であり、ブルジョア階級と闘わずに、抽象的な夢の様々な実験に興じて遊ぶことを、階級対階級の政治的社会的闘いに対置する。だが、生活は、こうした夢想家を暴露し、ありえない超人ではなく、現実の中で未来の創造のためにまじめに闘う同志を尊重する必要を明らかにする。
 また、それには日本共産党の宗派主義カルトも含まれる。そのブルジョア民主主義の礼賛、「国際社会」信仰、抽象的平和主義、独善、共産主義を看板にしマルクス主義を自称しながら、革命を徹底的に回避し、棚上げし、マルクス主義を、平和主義・改良主義に改造し、骨抜きにし、不破主義に変え、それに絶対服従させる「上意下達」のスターリン主義型の党組織の温存、等々。この間、日共は、反戦運動や憲法「改悪」反対運動で、運動の統一に対する分裂主義者として行動する中で、宗派主義カルトぶりを発揮した。
 もともと宗派は、宗教に対する用語であるが、日本共産党は、政治組織としての党派の原理ではなく、宗派の原理で動いている。党の原理は、基本的に政治的であって、党内闘争(議論)を前提にしているのである。だから決定は、通常、最後は多数決原理にしたがうのであり、レーニンは、極めて重要な問題で、少数派になる時もあった(1917年の『四月テーゼ』の場合)が、彼は、多数に従った(その後、現場の党員によって支持され、『四月テーゼ』支持は多数派になった)。それはマルクスの態度から学んだことである。ただし、多数決が意志決定の唯一の手段というわけではないし、多数決原理の崇拝に陥ってはならないが。1918年のブレフト・リトフスク講和(対独単独講和)についての中央委員会の投票は、賛成7,反対4、棄権4であった。トロツキーの主張でドイツ革命の早期の成功を期待して、交渉を引き延ばした上で、この採決にいたったのである。この後、反対したブハーリンは、抗議のために中央委員を辞任したが、スターリンの「血の粛清」にあうまで、党や政府の要職を務めている。レーニンは、棄権したトロツキーを、後に、後継者にしようとした。逆に、賛成したスターリンを、後に、書記長職から解任しようとした。
 レーニンは、マルクス・エンゲルスからまっすぐに学んだのであり、カウツキーやスターリンは、自分たちのちっぽけなエゴに合わせて、ねじ曲げたのである。日共は、マルクス・エンゲルス・レーニンの高さに上ろうと努力するのではなく、逆に、かれらを自分たちのちっぽけなエゴの水準に合わせたのである。そして、日共は、宗派主義に陥り、マルクス・エンゲルス・レーニンが、階級闘争や国際主義を強調したのに、市民主義や抽象的平和主義を説教して回り、議会主義の幻想をふりまき、愛国主義を煽り、宗派的基準を押しつけて、党のカルト化を進めた。先の大会の不破路線が、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作の内容とかけ離れていることは、実際にそれらを読んだものなら、気がつかないわけがない。
 日共を追い出された者たちの中には、マルクス・エンゲルス・レーニンのマイナスばかりを異常なまでに強調する者がいる。その中には、公平さを欠き、根拠が薄く、明らかな誇張・誤謬・歪曲を含むものもある。しかし、ロシア革命が、世界のプロレタリアートや被抑圧民族・女性などの解放運動を鼓舞した事実を消すことはできないし、その理念は、貧困・二極化が拡大し、環境問題が深刻化している現在の世界を救うために、今こそ求められている。
 こういう人々の中には、日共から継承すべきではないものを継承して、そこから、マルクス主義批判を行っている者もいる。それは前進ではない。そうではなく、不破の独善的なマルクス主義解釈から、マルクス主義を解放することが必要である。日共を支配しているのは不破主義であって、それをマルクス主義の独善的解釈やマルクス主義の上っ面の言葉を使って正当化しているだけなので、マルクス主義批判は不破主義には打撃にならないし、それを克服することも超えることもできない。スターリニズムを口では否定する者の一部に、そのやり方や態度にスターリニストと共通するものを感じることがあるのは、そのせいもある。

 極端な個人主義利己主義カルトの蔓延は、今日の多発する犯罪の土台にあるものである。それは、私有制と私的生産を基礎に、社会や他者との結びつきを偶然のものとし、他者を道具と見なす身勝手なエゴを肥大させている資本制社会の当然の結果である。資本制社会では、このような極端な孤独から脱出する道として、空想の肥大や宗教、家族、会社などの疑似共同体があるが、そこにも容赦なく極端な個人主義利己主義カルトが浸透する。家族は家庭内でそれぞればらばらの無関心な生活を営み、新興宗教は信者を食い物にし、会社は利潤のために昨日までの同僚であり疑似家族=社員をリストラし、非正規労働者に置き換える。稼ぎが価値判断の基準とされ、その仕事の具体的内容や社会性などの価値は低められ、法律は形式的な縛にしかすぎなくなり、その精神はどうでもよくなる。それは資本制社会の土台を日々掘り崩している。
 共産主義者の党とプロレタリアートは、人々を消耗させている不毛な個人主義利己主義カルトを解体し、資本制社会を根本的に転覆し、未来を創造するプロレタリアートの闘士を育てることに力を注ぐ必要がある。




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