資本主義世界と革命
齋藤 隆雄
290号(2005年10月)所収
(1) 戦後資本主義世界の歴史的転換
戦後資本主義の蓄積構造が転換したのは、1971年の金ドル交換停止とその後の変動相場制への移行である。このことは既に幾つかの所で述べてきたが、ここで再度確認しておきたい。この転換については最近多くの職業学者が認める所となってきたが、その転換点における概略は次の三点にある。
第一は、米国資本主義の成熟。60年代を通じて進行した企業の利益率の低下と国際収支の悪化は、米国を盟主とした世界体制の動揺を引き起こしたこと。(71年貿易収支赤字転落)
欧州、日本の戦後復興とベトナム戦争での戦費調達といった要因も見逃せないが、60年代を通じて米帝ブルジョアジーとりわけ基幹産業独占企業連合は国内産業の行き詰まりから本格的な海外展開を視野に入れていた。62年の米銀のロンドン進出とその後の多国籍企業の投資活動はその現れであり、ユーロドル市場の形成に大きな役割を果たした。68年国内的にドルと金を切り離し、フランスのドル金交換要求に対する解答が、まさにニクソンショックだったわけである。(66年議会調査報告、バットマンレポート。71年国際貿易投資委員会、ウィリアムズレポート。)
第二は、第一の現象によって国家の主要な政策であったケインズ政策の行き詰まりを招くこととなり、ドルを中心とした国際決済制度たるブレトンウッズ体制が危機を向かえた。
戦後復興過程に於けるケインズ的財政政策が、インフレ経済を招き、ドルの世界的な流通と共に従来の一国的な経済政策はその有効性を失ってきた。とりわけ、固定相場制下での貿易不均衡は旧来の金本位制での自動調整機能が働き、政府の財政金融政策を縛りはじめることで、米帝の政策裁量の範囲が狭められ、彼ら自身がブレトンウッズ体制を桎梏と感じ始めていた。
そして、第三にこれらの歴史的動き総体が第二次世界大戦以降の世界経済と政治に大きな変革圧力をかけ、ロシア革命以降の「過渡期世界」と呼ばれた構造そのものを転換させた。
第一次大戦以降、ロシア革命と世界大恐慌が生み出した国家独占資本主義体制の一国的限界がここに露出し始めたと言っていいだろう。それは、帝国主義ブルジョアジーと民族ブルジョアジー、一国プロ独という「過渡期世界」の二つの階級闘争(民主主義革命と社会主義革命)という二重構造が崩れ始めたと捉えることもできる。
とりわけ、これらの変化の中で大きな役割を果たしたのは国際通貨体制の変革である。資本主義の根幹たる通貨制度が完全に貨幣商品金から分離され、基準点なき変動為替制度へと移行したことで、世界資本主義が一つの市場となる条件が整ったのである。(ドル基軸通貨体制)
60年代末の世界的な階級闘争の激化は、ベトナム反戦、ドル危機に現れた米帝を中心とした戦後資本主義世界体制の危機と第三世界を中心とした社会主義革命を指向した闘いが、資本主義的構造と世界的な被抑圧民衆の闘いとして拮抗しつつ、古い資本主義的外皮を脱ぎ捨て結実したと言える。
それはまれにみる集中的な闘いであったが、「過渡期世界」の限界としての国民国家的枠組みを突破できる条件が存在しなかったことによって、むしろ我々に世界革命理論の質が問われることとなった。
他方で、資本主義世界は国民国家的枠組みの象徴であった一国経済主義として財政政策を変動相場制と世界貿易、多国籍企業群展開によって私的資本主義世界として変革されたのである。
(2) 変動相場制下の世界資本主義
現在の世界資本主義の蓄積構造は、変動相場制の下で編成された新しい姿の資本主義であると言える。それは、貨幣金と切り離された管理通貨である国民通貨が拡大する世界貿易と通商のために交換される時、基準を持たなくなったということであり、通貨が他の金融商品と同様に市場で交換される商品として扱われる。これは国際的に見て通貨が貨幣ではなくなって、支払い手段としても、決済手段としても、蓄蔵手段としても貨幣性を失ったということでもある。(通貨の利子生み資本化)
1940年代から70年代の初頭まで30年足らずの時期を米帝国主義の黄金時代と、かつて規定していたが、今ではそれは修正されなければならない。本来、戦後のIMF-GATT体制はその成立経過から考えて、英帝国主義から米帝国主義への移行期と捉えるべきであろう。
1938年の米国に於ける「戦後復興計画」に示されたように、彼らの自由貿易主義とは英帝植民地圏への特恵条約を打破することから始まっており、植民地を持たざる帝国としての米国の得意な歴史的役割であったと言える。
また、50年代から60年代にかけて繰り返し起こるポンド危機に対する米国の対応もそれを示していると考えられよう。
そして今日、為替取引は最終決済をどこまでも未来に繰り延べて、債務の交換という機能しか果たさなくなった。このことを端緒として次々と生起した資本主義経済の蓄積構造の変革を「カジノ資本主義」と言う人もおれば、グローバリゼーションと呼ぶ人もいる。しかしどう呼ぼうとも、このことによって引き起こされた様々な蓄積構造の変転が今日の我々の社会そのものを深く規定し、これまでにない新たな困苦を強いていることは誰の目にも明らかである。
変動相場制下の世界資本主義を金融的側面から眺めてみると、周知の如く、拡大する世界貿易による富の移動が為替リスクに晒されているということである。資源の収奪と過剰生産物の供給とが巨大企業の利益の源泉である限り、これらは死活の問題である。だからこそ、一層の世界的な規模での金融的一体性が深まり、リスク管理と資本移動の驚異的発展を見ることになる。
(3) 通貨危機と変動相場制
新たな危機の現れとして最も顕著なものが金融危機である。80年代初頭の中南米を襲った債務危機や80年代のバブル経済とその崩壊、90年代の東アジアを襲った通貨危機など、周期的に起こる危機の構造は、かつての恐慌になぞらえる者もいる。しかし根本的に恐慌と異なるのは、過剰生産による流動性の不足が国際収支不均衡を通じて暴力的に再編されるという機能を失ったことである。恐慌が常に資本主義の景気循環として起こりうるとしても、その意味が根底から変化し始めたのである。(流動短期資本移動の不安定性)
一国の恐慌が世界的規模で広がった28年世界恐慌が古い恐慌の最後の姿であったと考えられる。
その根拠の最大のものは、変動為替市場を成立させている短期資本の驚異的な拡大があげられる。それは単に先進国間ばかりではなく、途上国と言われる諸国もこの恩恵を被っている。90年代に入って、IMF8条国が100ヶ国以上になったことからも推察できるし、既に周知の如く、実需による為替取引は国際的な資本取引の数%でしかないことからも理解できる。
IMF8条規定は資本取り引きの制限ができない。これまでの一国的ケインズ主義ではこの規定は資本主義が充分に発展しない限り途上国にとっては不利であると考えられていた。しかし、80年代以降の東アジア経済の発展に見られるように外資による投資活動が一国経済を牽引するという新たな帝国主義的蓄積過程を前提とした途上国の雪崩れ打つ規制緩和の波は、今日の世界資本主義を象徴していると言っていいだろう。とりわけ、これまで不足気味であった途上国の外貨準備が短期資金による借り入れによって一時的に補完できることが、今日のIMF世銀による支配体制を可能にしてきた、と同時に金融危機による簒奪構造も常態化してきたと言っていいだろう。
また、これらの過剰な流動性が投機的売買市場を通じて循環し、数十兆円という資本が瞬時に世界を駆け巡るということは、一国国民経済の内部での通貨供給そのものを管理することが通貨当局の最も重要な任務とならざる得ない(一日の取引高1兆ドル)。このことは、通貨と金融制度を根本から変革する。誤解のないように言っておくが、変動為替制度は完全なる自由市場ではない。むしろ絶えざる管理と規制を必要とするきわめて不安定なシステムであり、管理変動相場というのが現実である。
では、何故このような不安定なシステムを自由市場と呼び、賛美するのかと言えば、これこそ今日の収奪構造の根幹だからである。
つまり国民通貨そのものが金融商品ということは窮極の商品形態と言えるのではないか。銀行が創造する架空資本形態の通貨がそれ自体として機能資本に転化することもなく市場での乱高下を目当てに鞘取りすることによって、世界中の国民通貨を基軸通貨ドルを中心に結びつける構造は、一方で先進資本主義国の膨大な過剰資本を循環させ、他方で多国籍な通貨の出合いを容易にし、世界中の資本を結合させているのである。
(4) 米国経済収支と世界経済
これら構造は周知の如く米国経済の巨大な経常収支の赤字を形式上決済させている構造でもある。巨額な債務を抱える世界最大の赤字国家が資本主義世界の中心に位置できるのはただ軍事だけによるのではない。このことを需要と供給という側面から転倒して分析すると小野氏のような理論となる。
「量的生産性が同じでも、為替レートが自由に調整されれば、国際競争力は一変する。生産性こそ経済力という通念は、為替レートが固定的な世界でしか通用しない。」
「巨大な生産力を実現し為替調整が自由なこれからの世界では、経済力とは供給力より需要力である。」(小野善康「グローバル化と資本」『日本経済新聞』6/16)
最大の消費国家である米国こそ最大の経済力を持つ国だと言いたいのである。
世界中から資本を借り集め、金融資本を支える先端技術への投資と膨大な消費を支える構造は最終決済なき変動為替制度がなければ不可能である。そしてそれを支える最大の貢献者は言わずと知れた日本資本主義であり、日本政府である。小野氏の言うように日本も消費国家になれというのは、世界資本主義の構造を理解していない証左である。90年代以降の日本のデフレと低金利は、米国の好景気と相対的高金利の裏面なのである。
更に言うなら、日本の短期金利が限りなくゼロに近づくのは資本が生み出す剰余価値がゼロである、ということにならない。むしろ日本の巨大企業は空前の高利益を謳歌している。また、銀行の貸出残高はこの十年低下し続けている。そして決定的にデフレである。これらの複数の現象は、これまでの経済理論では説明できない。
一国の国民経済がそれ自体で完結した資本の運動をする時代は既に過去のものである。故に新古典派もケインズ派も、既存の理論が用いる方法論は多かれ少なかれ役立たずになっているのである。(ケインズの貨幣選好理論は相対的に優れてはいるが)
どのような意味でも、一国主義は既に過去のものであり、歴史的なものになってしまったことを確認しなければならない。相変わらず、一国ケインズ主義派としての小野氏のような人々がとんでもない処方箋を描くことでますます労働者階級の困苦が増すことを肝に銘じておく必要がある。
しかしここでも誤解のないように注記しておくが、我々はグローバリズムを支持するのではない。グローバリゼーションを正しく見極め、現状の世界資本主義の構造変革を誤りなく分析し、様々な衣装を着た転倒理論を暴露することが今最も必要な仕事である、と言いたいのである。
(5) 管理通貨制度と国際金融システム
今日、預金通貨を含めてハイパワードマネーという広義の通貨概念が一般的である。貨幣金と切り離された伸縮自在の通貨が、資本主義特有の景気変動を調整しており、いわゆる恐慌が戦後資本主義経済に見られないのはこのことによると言える。
このような管理通貨を巡る70年代以降の構造変化をここで展開するのは相応しくないので、これまでの分析内容に関連するものに留めておくが、少なくとも80年代以降の国際金融市場における目まぐるしい変遷は、金融資本主義を成立させていた諸構造を根底から変革してきたと言える。
変動為替制度によって世界的な通貨管理は自由市場に委ねられているように見えるが、先に述べたようにそれはきわめて不安定なシステムであり、普段の管理と調整が求められる。そして、それは世界的な管理通貨制度を資本主義自身が求める時代はなったということを意味する。欧州連合の成立とユーロの成立がそれを示している。ユーロは確かに第二次世界大戦以後の欧州の様々な統合の試みの成果ではあるが、同時に変動為替制度なくしてはあり得なかったと言える。統合に先立つECUの実験は市場経済を通じて積み上げられてきた。欧州中央銀行の成立は、国家間の調整のみでは成立しなかった。中央銀行が市場経済から生まれたという歴史的法則は今回も貫徹されたと言える。銀行間の債権債務の決済機能が現実的に進行しているからこそユーロが成立したのである。
レギュラシオン派が世界通貨を提唱しているのも、今日の資本主義の新たな段階を前提にしている。元切り上げによって、東アジア諸国が元との通貨同盟を模索し始めたのも歴史的な変動を示唆しているのではないだろうか。
世界中央銀行の目的意識的な動きがこれから確実に進行するだろう。これらは資本主義の発展とまったく矛盾しないということをしっかりと確認しよう
(補足)
米国の巨大な経常収支赤字を日本と中国が支えているという構図が何故成立しているのか。
米国の産業構造は先進国としては年々いびつになってきている。先端技術産業であるコンピューター・航空機・医療・金融などは高い生産性を維持しているが、鉄鋼や機械、そして最近は自動車までが衰退しつつある。(忘れてはならないのは、石油関連産業と穀物ビジネスは米国の独占)にもかかわらず、旺盛な消費国家として資本を吸収しつづけていけるのは、第一に高金利(ドル建て債権)、第二に消費規模、第三に基軸通貨ドルである。
しかし、これらはますます米国国民経済を疲弊させていくことは明らかであり、彼らの競争力の低下は企業の多国籍化を今後ますます進展させるであろう。金融グローバリゼーションはそのための米国のための国際戦略であり、日本の「小さな政府政策」はそのための下ごしらえでしかない。
小野氏の言うように日本が消費国家として転換するなら、高金利と多国籍化以外に道はなく、巨額の赤字国債を東アジア諸国に押しつけなければ成立しないだろう。
(6) 地域通貨の二つの側面
世界的な低金利が不可思議な現象だと言われ続け、金利を生まない資本という構想を意図した地域通貨システムがここ数年先進国内部で発展してきた。これには二つの側面があると思われる。
一つは、資本主義の構造変革に関わって、成熟した先進国内部で二重構造が顕著になってきたことによる。貯蓄率の低下と貧富の拡大、労働者階級の二分化がこれらの地域通貨の試みを支えている。
もう一つは、金融制度の変革を推進した決済制度のデジタル化と通信技術の発展が最終消費場面での企業通貨活用が広がったことが挙げられる。電子マネーやマイレージなど通貨もどきが確実に広がった。これは労働者階級の債務労働者化と平行して発展してきたことも見ておく必要がある。
そして、そのことと関連して当初期待された地域通貨への期待は二つの側面への評価に即して分かれてきたと思われる。そのことを端的に表しているのが、地域通貨に詳しい西部氏の最近の論説である。
彼は利子生み資本と産業資本とが別個のシステムで動いているのではないか、と言い始めている。
「単に無利子ないし負の利子の貨幣を導入するということだけでは、産業利潤そのものをなくすことはできない。実際、スタンプ付貨幣は産業資本家によっても利用されうるし、その場合には正の産業利潤が存在しうる。したがって、産業資本による技術革新が利潤追求を目的とするという基本的な性格が変化することはない。産業利潤をなくし資本を健全に廃棄するためには、地域通貨の導入はこの意味で必ずしも十分ではない。」(アソシエ21ニューズレター2005/5)
彼の言う「資本を健全に廃棄する」ということがどういうことなのか明らかではないが、産業利潤への批判が社会変革運動の一つの大きな流れになってきていることも事実である。NPOや生活協同組合がシェアを広げていることがそれを示している。これは先ほど言った第一の側面を背景に拡大してきたと思われるが、問題は第二の側面、すなわち先進国内部の成熟した利子生活者国家としての資本循環システムに依存した運動に乗り移る危険性を孕んでいるということである。西部氏の言う「健全性」の中味が問われる所以である。
(7) 収奪構造と社会運動
ブルジョア経済学者は、今日の変革された世界的資本循環の根拠を過剰蓄積に求めているようだ。とりわけ、NICSやBRICSと呼ばれている諸国の貯蓄率の高さと低賃金が先進国の過剰消費を支えている。同時に多国籍企業の生産拠点の移動によって相対的に安価な商品生産と、帝国主義諸国への蓄積された過剰資本の流入による過剰消費として決済するという循環が、世界経済を成立させていると見るのが一般的である。(先の小野氏の論説はこれを根底に置いている)
先進国内部の労働者階級の社会運動が、NPOや地域通貨といった従来とは形態を異にするものが現れてきたのは、先進国内部の資本蓄積が明らかに成熟し、企業の高収益は上場企業をはじめ多国籍化した資本であることから、国内政治社会文化が経済的地位の同一という階級構造(豊かな社会)ではなくなってきており、疑似中産階級的な利害や金利生活者階級の成長(年金生活者もここに含まれる)といった雑多な階級イデオロギーが混在する社会となってきたことによるだろう。
このことは、17年以降70年代に至る帝国主義諸国の大量生産大量消費という産業構造と蓄積体制そのものを蝕み、解体しつつあるという証左であろう。またそれは世界的な二重構造化と従来の意味での市民社会的運動の終焉と捉える必要があり、途上国に於ける民族概念の溶解と資本の新たな姿をも生み出している。
近年の地域通貨の試みや、企業サイドでの模擬貨幣的な決済システム(電子マネー、インターネットバンク)など、またイスラム経済での無利子銀行への注目といった経済の根幹に関わる貨幣の意味を問う動きは、基準点を持たない現在の通貨制度の下で、通貨そのものが利子生み資本となったことによるだろう。浮遊する通貨から離れ、確実な基準点を求めて生活者的社会運動を求める動きが今後ますます発展することは確実である。これらは従来の階級理論では包括できないものであり、我々が確立すべき変革の視点が求められる由縁である。
(8) 新しい社会運動
「新しい社会運動」と言う時、我々はこれまで、旧来の社会運動の使い古された分析道具や歴史観を捨てることを提案してきた。しかし、一方でこれだけでは「新しい」という言葉の半分しか言い表していないことを知っている。つまり、もう一方の「新しい社会運動の構想」が求められている。それは、時代の分析道具も歴史観も実現すべき社会の構想も含めた全体像が求められている。
これらの全体像は70年代以降、世界中で模索が始まってきていたが、今日それらが一つの形となって現れてきていると考える。確かに、それらがまだ哲学的な分野であったり、経済学的な分析であったり、社会学的なもの生態学的なものなどに止まっていることは否めない。私はこれらの中で独自の資本主義批判と「物象化論」から貨幣廃絶への道筋を模索することで、実現すべき社会の指標を提起することが可能であると考える。時代が既に共産主義段階に突入したという視点は重要である。故に、人々が工場へ行かなくて済むような運動を提起し、かつ作り上げるべきだとする視点は一面有効である。
ただ、これまでの類似の運動は資本主義世界と(政治的・経済的に)隔絶されたところで建設しようとしたことで敗北してきた。(運動体の国家化−ここでも一国主義の限界を見るべき)そこで、新しい社会運動は社会・世界に開かれたものとなるべきだし、また、個別政治への対応ではない生活者的(経済的)な組織が求められている。
とりわけ、今日の国際金融システムの下でのグローバリゼーション経済は、層の構造を持っており、国際金融市場・多国籍委企業と国民経済、地域経済、といった層構造が世界的な利害の共有化を求めている時代である。NGO、NPO等といった社会運動への関心はその視点から意義があると言える。
現在新左翼諸党派の運動が未だに旧態依然とした理論のまま、一部の下層労働者に依拠した運動か、あるいは社民党の一部に関わる市民運動といったものであって、今日の下部構造の変容を反映したものとはなっていない。
(9) 新しい時代と我々の運動
労働者階級が再生産されないという危機にブルジョアは大騒ぎしている。しかし、政策的には何も注目すべきものが出てこないし、抜本的な理念も生まれていない。経団連が外国人労働者の導入を提唱しているが、技術労働者に限定しているようだ。
ところで、この少子化問題は現在の資本主義的蓄積構造からの必然的な結果とみるのが正しい見方だろう。つまり、少子化は止まらないし、生産人口の減少も止まらないということである。マスコミが何年か先には日本の人口がゼロになると冗談ともつかない与太話をしていたが、これはブルジョアジーの危機意識の現れともとれる。しかし現実にはそうはならないというのも、資本主義的蓄積構造からして説明がつく話である。
問題はまず、何故人間が再生産されないかということだが、これは、先進資本主義の賃労働と資本の関係と蓄積構造から、まず基本的には人間の再生産構造としての家族形態が解体し、個々人が経済主体として独立化して、教育機能も介護機能も産業化されつつあることで、個々人の家族形成根拠が失われている。子どもを生み育てる意味が薄れ、ほとんどペット化しているか、財産継承の意味しか持っていない。
ここから、まず結果するのは、有産階級が自らの財産継承者を必要とすることから結婚・家族・財産という階級維持のために小数精鋭の再生産構造が生まれる。これは近年、都市部で私立学校への流入が増加していることに示されているし、米国ではセキュリティ付の街を分譲している現状から、既に進行している現象である。
次に、労働者階級下層で現在進行しているのは、政府の諸政策を目当てに多産傾向が生まれていることである。住宅、育児、教育の諸手当を生活の糧にしている下層プロレタリアは確実に増えていくだろう。
問題は、これまで最も厚い層であった労働者階級の本体は、現在次第に分解傾向にあるものの、共稼ぎによる生活レベルの現状は極端に落ち込んでいない。ただ、若年層は失業率が高く、これまでの生活を維持しようとするなら、子どもを生み育てる経済的動機はまったくないと言っていい。従来なら、経済状況の悪化は老後の生活不安や大家族制による経済効果を狙った多産があり得たが、今日の資本主義的蓄積構造ではこれは歴史的退歩であり、大量消費構造を崩壊させかねない選択である。
現在の労働者階級のライフステージで考えた経済的利害は、人口減少による年金制度の崩壊や、医療制度の選別化が焦点である。富裕層からの税収による財政建て直しがおそらく現実的目標であるはずだ。だとすると、人口減少はまず止まらないことになる。どこまで減少するかは予測しても意味がないが、おそらく大量消費社会を維持する限り、つまり現在の資本主義的蓄積構造を維持する限りは、蓄積された金融資産の債権債務関係が清算される時点での均衡条件まで経済規模が縮小するであろう。ただ、耐久消費財の生産は現在の生産拠点の分散化が進めば現状デフレ傾向が維持されれば、極端な貧困化現象は起こらないかも知れない。むしろ、財政の破綻を防止するために急速な増税が行われることから、利権を巡る政治的事件が頻発することは確実である。拡大しきった社会資本のメンテナンスが滞ることから、都市の荒廃は避けられないだろう。
労働者階級本体の減少と富裕層の固定化によって、階級闘争がこれまでの形態とは異なったものになる可能性は高い。先にも述べた、様々な利害を代表する分散化されたイデオロギーが次々と立ち現れることが考えられる。
(10) 統治を巡る問題
現在、労働者階級本体が持っている巨大な年金ファンドや貯蓄は今後徐々に消耗していくが、国際金融市場での運用益への関心が高まり、帝国主義的利害を求める動きが強まるだろう。これは国際的な階級連帯の障害となる。また、それはさまざまな亜流ブルジョア思想が生まれる根拠ともなる、この利子生み資本への関心は年金生活者の増大と共に階級対立の様相を複雑にしていく。
現在進行している「行政改革」の大きな柱がこのような日本の資本主義的蓄積構造の歪みに対する国家の側からする処方箋ということになっている。これは今後の国民国家体制の先行きを考える場合見逃せない論点である。つまり、小さな国家というシナリオは、重荷となってきた年金・医療等の所得移転政策からの脱却であり、国家と共同体的幻想との分離を意味するからである。従来の福祉政策はお上による施し政策という戦前的天皇理念と一定の整合性を保ってきたが(戦後的天皇制理念)、これとは明らかに切り離された国家理念を今後必要となるはずである。
今日、55体制の崩壊だとか、グローバリズム経済の驚異だとかいった言説が後景に退き、一見混沌とした状況が生み出されているのは、いわば新たな国家理念の登場前夜であるからと見た方がすっきりとするのではないか。つまり、少子化と人口減少、国家形態の転換は今後の日本の社会を分析する上でおそらく最重要な論点となるはずである。
そのように考えるなら、おそらく今後四、五世代の間(およそ百年)様々な試行錯誤があると想定するべきだろう。その意味では、これまで我々が提唱していた民主主義の問題が、つまり政治の仕方そのものが、最大の課題とならなければならない。そして、当面このことの討議を中心にあらゆる関連する事象を網羅的に論議していくことを提案する。結論を急ぐべきではないが、討議を切らしてはならないし、分野を限定してはならない。すべてのものが相互に連関していることは明らかである。論議の優先順位を今の段階で想定すべきではないと思う。行政組織の問題と家族の問題とは同時に討議すべきだし、戦争の問題と資源開発の問題とは既に同次元の問題となっている。
【補足】
(1) 多国籍企業群と世界経済
全世界の多国籍企業は95年の古い資料で申し訳ないが、中核企業総数4万社とその下にある関連企業25万社と言われている。そして、その内とりわけ中心的で巨大な多国籍企業は数百社であり、上位500社の世界貿易に占める割合は約70%である。
これらの企業群の世界経済に占める位置は巨大であり決定的である。彼らの提供する商品と情報と文化は我々の生活の上にあまりにも重くのしかかっている。これらの企業群が発するイデオロギーと闘うことなしには、どのような革命理論もその有効性を持ち得ない。
(2) 多国籍企業の歴史と戦後資本主義
多国籍企業と呼ばれるようになったのは、1960年代であるが、その源を辿れば、1930年代の米国資本の世界戦略からである。世界恐慌以降の世界経済の収縮に対して、帝国主義戦争とその戦後の復興過程を前提にした資本展開を既にこの段階で企図していた(1938年策定)。その後、マーシャルプラン等を通じて世界的な資本投下を可能にする自由貿易体制を作り上げたのが、資本サイドからみたIMFGATT体制である。
そして、50年代の英国特恵貿易制度への解体攻撃、60年代の欧州への企業進出、70年代の世界的資本循環としてのドル基軸体制と80年代の金融資本自由化による世界的な収奪構造の完成。そして今日、通貨の多極化に向けて新たな模索が始まっていると見える。
(3) 世界経済と国民経済の二層化
世界的な多国籍企業の生産と貿易の独占、各金融センターを通じた資本間の調整と再編の構造、アウトサイダーを排除しつつ、取り込む構造はこの市場を通じて、株式化、債権化、金融資産化を通じて、普段に企業買収・統合・異業種展開として現れている。これらの企業群は各国上場企業を株式市場を通じて評価しつつ連携し、国民経済内部の関連子会社、関連会社、取り引き企業としてつながっている。
しかし、他方で非上場中小企業群は膨大な国民経済内部の最終消費需要部門を支える労働者階級の再生産構造の為の不安定な生産労働市場を構成し、世界的な資本市場とは一定切り離されたシステムとして維持され、国民国家を形成している。
(4) 陳腐化する政治
国民国家として成立させる為の国内政治イデオロギーは今や、貨幣経済を支えているグローバル経済とは別個に切り離された所で成立している。故に如何なる政策も国内政治としては完結しない構造であるにもかかわらず、国民国家政治の言語で語られている。
これこそ、現在の政治の陳腐さの根拠である。イラク戦争を巡る諸論争も東アジアを巡る政治外交問題も二重構造になっていると見るべきであろう。