共産主義者同盟(火花)

JR福知山線脱線事故―生命を脅かす資本主義

流 広志
285号(2005年5月)所収


資本主義は様々な惨禍・災厄を人々に与えている。日本資本主義の安全の危機は、すでに、ブリジストン栃木工場の火災事故、関西電力美浜原発事故、北海道の石油タンク火災事故など、また大事故になりかけた航空ミスなどに現れていた。そして、JR西日本の福知山脱線事故という大惨事が起きた。それは、JR西日本の資本の価値増殖のための営利活動を最優先することによって、安全が軽視されたことを表している。これは、資本主義の性格が色濃く刻印された事故である。原因追及と再発防止のためには、この事故をめぐる諸関連をできるだけ多様な側面を分析・評価して、全体構造をできるだけ明らかにすることが必要である。不十分ながらその作業を試みたい。

JR福知山線脱線事故とJR西日本

 4月25日、JR西日本の福知山線脱線事故は、107名の死者と540名の負傷者を出す大惨事となった。犠牲者やその家族友人の悔しさはいかばかりであろう。事故原因の徹底究明と安全対策の確立は急務である。
 事故に関する最大の責任はJR西日本にあり、それを運転士個人に帰すことはできない。人為的ミスを防ぎ、その危険を減ずる措置を講ずることが可能であったからである。それが、技術的に可能であったことは専門家が指摘しているし、国土交通省が、運転再開の条件として、新型の自動列車停止装置(ATS)の設置を求めたように、この装置がついていれば、カーブでの速度超過はありえないので、このような事故は起きなかった。1964年に私鉄にはATS設置が義務づけられたが、分割・民営化に合わせて、義務が廃止された。JR西日本では、福知山線のこの区間では、6月に新型ATSが設置されるところだったが、間に合わなかった。
 JR西日本は、私鉄との競争のために、ダイヤ優先・時間短縮優先で、回復運転を前提としたダイヤ編成・時間設定を行っていた。そのため、運転士の「回復運転」の技能に頼ることとなり、それは熟練を要することであるにもかかわらず、分割・民営化後の採用抑制によって中堅クラスの30代の運転士が極端に少なく、その分、若年者を促成で養成し、現場に配置せざるをえなくなるという構造的問題があった。
 運転ミスを犯した運転士に対する「日勤教育」の実態は、明らかになってきたように、運転規則の暗記や草むしりなどの懲罰的なもので、運転技能の向上とは関係ないものである。例えば、現役運転士が、事故車両のブレーキの利きが甘いということを指摘しているが、そのような車両の具体的特性に合わせた運転技術の習得・伝達がなされていれば、オーバーランは防げたかもしれない。運転士の教育は、そうしたことを含めた技能向上をはかる場であるべきだろう。「日勤教育」は、それと違って、懲罰による労働者の恐怖支配の手段であった。昨年には国土交通省が、「日勤教育」から懲罰的な行為を取り除くよう指導していたのに、JR西日本は従っていなかった。(5月17日「JR西日本福知山線事故に関する声明」鉄建公団訴訟原告団・国鉄闘争に勝利する共闘会議)。こんなものはただちに廃止すべきである。
 他方では、国鉄分割・民営化の結果、民間企業として、鉄道事業としての公共性を忘れ、全体のバランスを崩したことも背景にある。いくら、時間の正確さが、客からの要望であるとはいえ、安全とのバランスの判断を忘れるようでは公共性を欠く。また、わずか数分の遅れにも我慢できず、駅員や会社にいちいちクレームをつけるような人々の余裕のなさや尊大さは社会的問題である。
 事故原因について、車両自体に問題はなかったのかなど解明すべき点が多々残されているし、運転士登用のあり方などの人事、外注化・下請け化などの問題その他の背景や構造的要因の解明と改善など今後の課題も多々残されている。
 国鉄分割・民営化を強力に推進した出井JR西日本相談役は退陣を表明し、南谷会長、垣内社長が辞任を示唆した。垣内社長は、参考人として国会で、営利優先主義・「日勤教育」・安全軽視は事故の直接的原因ではないと述べた。氏は、他社に比べて遜色ない安全対策を取っていたと言っている。それでも事故が起きたということは、他社でも同様の事故が起きうるということになる。しかし、JR西日本という企業そのものに事故への責任があるからこそ、辞任するのであり、氏は混乱している。それらは、間接的であっても、重要な原因であり、それを認め語ることができたはずである。根本的な点検と改善が必要なことは、JR西日本自体が認めている。基本理念の見直しも言っており、それは安全第一が基本でなければならないことは当然である。

労組のセクト根性と労資協調の問題

 JR西日本の利益最優先の安全対策軽視を改善できなかった労組の責任という問題もある。最大の連合系JR西労組は、その機関紙で、会社側との交渉報告を書いているが、安全対策や恐怖支配的労務管理の象徴である「日勤教育」の改善などについて一言も言及しておらず、経営側となんら安全や労働者教育について書いていない。また、それには労組の社会的責任なるスローガンが掲げられているが、その意味するところはイラクでの鉄道事業復興への貢献であり、安全や労働者の人間的待遇などは含まれていないようである。それは、JR総連との対抗からするJR東日本との企業間競争に対応した労組間の主導権争いの産物である。それに国労西日本が、JR連合との提携を強め、数十名の国鉄解雇者の雇用を条件に、歩み寄っていたという事情も絡んでいる。JR西労組は、国労西日本をこの条件闘争に引き込んで合併して、一企業一組合を目指すことに夢中だったのである。かれらの組合機関誌を見れば、この間のJR西労組の活動の力点が、企業間競争と絡んだ労組間の主導権争いに偏っていたことは、一目瞭然である。JR西労組は、その機関誌では、過密ダイヤや時間短縮、非人間的な運転士教育のあり方、「稼ぐこと」を第一目標にした営利優先の体制が強化される中での、現場での無理やプレッシャーの増大などの危険因子をあまり問題にしていないのである。JR連合とJR総連は、安全についての取り組みをなおざりにしていたことは明らかで、その点が改められなければ、労組としての社会的信用を失うことになる。
 この間、関西電力美浜原発配管事故、三菱自動車欠陥隠し、ブリジストン工場の火災事故、など死者を出す大事故から、日本航空のミスなど、安全を脅かす事態が相次いでいる。これらの安全をめぐる事象は、資本主義社会が、腐朽を深め、人々の生命と生活をも脅かす原因となっていることを表している。安全は、資本主義社会では簡単に空文句と化す。事故後にJR運転士などの現場労働者の安全が脅かされていたという証言がつぎつぎと出てくることでも明らかなように、そのことを、現場の労働者は肌で感じているはずで、労働者を組織する労組がそうした声を汲み上げるべきことは明らかだ。労組の社会的責任が重要だというなら、安全は社会的責任であり、安全のための闘いに取り組むべきである。そして、そうした努力をしているJR労働者に他の労働者は支持・連帯するだろうし、そうすべきである。
 JR総連は、「国鉄改革の原点に立ち、JR各社における安全第一の企業風土を創り上げるために、JR西労をはじめとする仲間たちとともに全力で努力していくものです」(JR総連4月26日見解)と国鉄分割・民営化、「労使共同宣言」の労資協調の原点に立つことをあらかじめ宣言して、原因追及が国鉄分割・民営化そのものに及ぶことを防ごうとしている。JR連合は、「JR発足以降、私たちは労働組合としてこの使命を全うするべく、真摯に労使協議を重ね、現在の体制を築き上げてきました。その意味で、今回の事故を未然に防ぐことのできなかったことについて、JRの責任労働組合として責任を痛感しております」とJRを代表する労組であることをわざわざ責任労働組合なる言葉を使って強調している。事故は、「真摯な労使協議」によって築き上げられたという現在の体制が安全を向上できなかったことを明らかにした。それなのに、責任労働組合などと自称するのは、セクト根性の表れであり、反省が不十分な証拠である。
 これらの労資協調路線の労組は、なにを優先すべきかという判断に誤りがあったのであり、その点の反省と是正がなされねばならない。事故は、国鉄分割・民営化自体をも問い直すところまでの原因追及を必要としているのに、その道をあらかじめふさいでしまっては、命や安全と言うのは言葉だけの上だけで、組織の生き残りをはかり、主導権争いを優先しているとしか見えない。労組の運動の基本は、労働者の経済運動であり、それには資本によって殺されないという生存権の要求が含まれている。ところが、JR西日本資本によって、運転士が殺されてしまった。それは、「国鉄改革の原点」や「真摯な労使協議」の破綻を意味しているのに、そこに戻っては元の木阿弥である。これらを清算して再出発することが必要なのだ。その点では、国労西日本が、JR西労組の労資協調路線にすり寄る形で国鉄闘争の解決を図ろうとして、今何よりも求められているJR西日本経営陣の安全対策を追及する迫力を欠いているので、本気で安全体制確立を第一にするというなら、その路線を清算すべきである。

民営化推進論者のミスリードの一例

 民営化を礼賛し続けてきた『毎日新聞』解説室の玉置和宏氏の5月15日のコラム「揺らいだ“民営化の成功”」は、今、意図的に一部で流されているステレオタイプを反復してミスリードをはかっている。それは、「民営化されて18年のJR西日本の大事故は国営から民営になったことが主因と考えるのは筋違いだ。むしろ逆で旧国鉄の官僚主義が残り真の民間企業になっていなかったからだろう」というものである。他のマスコミに登場した専門家の中にも、初期の段階で、同趣旨の意見を述べている者がいた。
 そもそも企業の所有形態と官僚主義は別問題である。民営企業でも官僚主義があり、それは独占の弊害として問題にされてきた。官僚主義の弊害を除去する手段としては、会社の分割や透明化・情報公開などが喧伝されてきた。事故原因が、国鉄時代と共通する官僚主義の問題だというなら、所有形態の問題よりも、さらなる再分割化を対策として主張すべきだろう。ところが、氏は、それはJR西日本が真の民間企業になっていなかったからだという。三菱自動車などの民間企業も欠陥隠し事故を引き起こしているのを氏が知らないはずはないから、「真の民間企業」というのは「理念型」にすぎないことは明らかだ。それとも氏は、こうした民間企業が起こした事故よりも、国鉄時代の事故との方が共通性があると考えているのだろうか?それならそれを具体的に証明すべきだが、そうしていない。
 そして、氏は、「JRの成功はサッチャーさんを悔しがらせたほど日本の民営化史上に輝く栄光だった。それが尼崎の事故で揺らいだのが何より悔しい」と、この大惨事で多くの人命が失われ傷ついたのに、民営化の輝く栄光が揺らいだのが悔しいなどとふざけたことをいう。民営化が傷つくことよりも人命が失われたことの方がはるかに悔しいことではないか!氏の感覚や価値観はどうかしている。おそらく氏は、事故の背景に国鉄分割・民営化にあるという主張に過敏に反応したのである。文章には、事故が、民営化路線の否定につながることへの警戒心が強く現れている。そのために、それは、犠牲者への思いを欠き、犠牲者の側ではなく、加害者側の「民営会社」JR西日本の側に立つものとなってしまっている。この文章は、まったく不公平であり、書き方でミスリードを誘っている文章である。

国鉄分割・民営化と事故の関連・国鉄闘争と安全

 それに対して、同じ『毎日新聞』でも、自称保守主義者の三連星氏の5月17日のコラム「経済観測」は、「極限すれば、民営化こそ惨事の元凶だったのではないか」と玉置氏とは正反対の見解を述べている。まず、冒頭で「JR福知山線の事故に関する記事の中でカチンとくるのが「旧国鉄の整風」を引きずっているのではないかというくだりだ」と書いている。その理由は、「発想が陳腐で無責任である」というものだ。同感である。国鉄分割・民営化の美点ばかりを強調してきた民営化推進論者は、そうした「国鉄の整風」の残存があるというなら、それをこれまであまり追及してこなかった自らの責任を棚上げにして、すでにない国鉄に「責任をおしつけるのは乱暴」である。そして、国鉄の悪とされた「鬼の動労」に象徴される国鉄労組の戦闘性の解体は、今の「JR労組の迫力のなさ!」を生んでいるし、「国鉄一家」意識があった頃は、事故を知りながらのJR西日本社員のボウリング大会、ゴルフコンペ、送別会パーティーなどは「ありえなかった」。そして、氏は「国鉄の醇風美俗」がなつかしいという。また、国鉄時代、誇り高き国鉄労働者は、運転士を始め、子供たちのあこがれの対象であった。
 そもそも、国鉄の赤字は、財投の出口として、政治的な無謀な公共投資の拡大を続けたことによって生まれたのであり、政治・政府に責任があった。それを労働者のせいにするすり替えが行われたのであり、国鉄分割・民営化によって、過去の政治・政府・官僚の責任が及ばないようにしようとしたわけである。政府は、バブル期に土地や資産を売却すれば、借金をきれいさっぱりなくせたのに、地価高騰を招くなどという理由から不売却を決め、今度はバブル崩壊後安くなった都市部の一等地を企業に安売りし、膨らんだ旧国鉄債務を関係ないたばこ税増税でまかなうという不合理な負担増を人々に強いた。借金完済という解決可能なことを解決せず、熟練・技能・経験が豊富な労働者を解雇して、安全を脅かすことをやったのだ。このような国鉄分割・民営化の不条理を解消することは、安全向上に資する。その意味でも、解雇撤回を求める1047名の国鉄闘争団の現場復帰は、前進的である。

最後に

 JR西日本が徹底的な事故原因の解明と再発防止、安全対策の強化、犠牲者への謝罪と誠実な対応・補償することが必要なことは明らかである。同時に、国鉄分割・民営化の際の労働者に対するネガティブ・キャンペーンやその後の労働者の選別解雇の際の非人道的な扱い、「稼ぐを第一」に安全対策の軽視や労働技能の安定的継承体制の崩壊などこの事故につながったと見られる原因が蓄積されてきたこと、とりわけ、国鉄分割・民営化の際に解雇された労働者に対する非人間的な扱いが、「日勤教育」の中に受け継がれていたことを考えても、国鉄分割・民営化にまで原因追及を進めなければならないことは明らかである。それをまっすぐに追求するためには、玉置氏のようなミスリードを誘うものに惑わされてはならない。
 JR西日本だけではなく、利潤を追求することに集中して、安全をなおざりにするのは、資本主義企業に共通する傾向である。人々の幸福は多様であるが、それが資本のためという目的に従属させられ、一面化し、それを経由して間接的にしか実現できないという資本制社会の基本構造が、安全軽視を生みだしているのである。この問題を通しても、資本制社会の根本矛盾の解決が必要になっていることが現れている。この事故で、労働者大衆が、犠牲者・被害者の側に立ち、事故の原因をつくったJR西日本と資本制社会の矛盾の解決の主体として行動することが重要である。安全軽視で危険なのは、JR西日本だけではない。資本主義が安全を脅かしているのである。




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