世界社会フォーラムとフェミニズムについて
流 広志
281号(2005年1月)所収
世界社会フォーラムについて
1月30日に予定されている暫定国民議会選挙のゆくえが当面の関心事となっているが、治安が安定せず、選挙の成功はあやしくなりつつある。今後もイラク中東問題は、世界的大問題であり続ける。むろん、その他にも世界各地で様々なことが起き、それぞれに解決を求めて、様々な運動が生起している。
その中で、昨年1月にインドのムンバイ(インドの金融中心地)で開催された世界社会フォーラム(以下WSF)は、10万人を結集したことで、メディアの注目を浴びた。例えば、英紙『ガーディアン』には、1月21日に、ジェレミー・レナードによる特別レポートが載っている。その中で、アムステルダムの労組の法律顧問のルチアーノ・ピザイスが、これをすばらしい経験だと手放しで賞賛したのに対して、フランスのストラスブルクからきた活動家のトロイ・デイビッドは、「不平ばかりを並べて、解決策を示さなかった」と批判したと伝えている。2001年のブラジルのポルト・アレグロでの第一回目から、参加人数を増やしてきたWSFが、その中に多様な勢力や傾向を抱え込んでおり、いろいろな議論が起きていることは他の報告でわかるし、多元主義を掲げ、中央集権を否定し、決定で拘束しないことをうたっているので、こうした意見の違いがあるのは当然である。
また、例えば、ATTAC Japanのホームページに、WSFのホームページからの2003年3月26日付のエリック・トゥサンのインタビューの翻訳があり、その中で、彼は、WSFの中で伝統的労働組合の力が増大したため、NPOなどの社会運動などとの間に生じたと述べている。労働組合運動というとすぐに伝統的などというステレオタイプな形容が頭に浮かんでしまうということには気をつけたいが、それは現存する労働組合運動が、ある種の保守性や権威主義を持っていることを否認するものでもなければ、変革すべき様々な問題を抱えていることを無視するものではまったくない。逆である。労働組合運動は、資本制生産社会を根本的に変革するためには、自らを革命し、社会を革命する主体として発展・成長しなければならないのであり、人類全体を解放に導くヘゲモーンへの成長を意識し・自覚して実践しなければならない。そのために、労働者階級を鼓舞し、訓練を行い、この傾向の発展を促すことは、自覚したプロレタリアート・共産主義者の課題である。
2001年4月9日にサンパウロで採択され同年6月10日に改訂された憲章によれば、WSFは、基本的には公開討議の場であり、思想運動と自己規定している(ヤパーナ社会フォーラムのホームページ)。提案をまとめることも目的とされているが、それを全体で決定することはない。
当初からWSFに関わっているノーム・チョムスキーは、グローバリゼーションに対して民衆勢力が横に連帯し新たに発展している国際主義ということを強調している。他方、憲章およびエリック・トュサンのインタビュー、ネグリ・ハートは、知的・倫理的ヘゲモニー、陣地戦などのグラムシ的な考えを背景にしているように見える。また、WSFの報告集『もう一つの世界は可能だ』の監訳者である加藤哲朗氏は、東欧「改革」に刺激を受け、「フォーラム」型運動を主張し、WSFをそうした観点から評価している。しかし90年代に日本でも「フォーラム90」という「フォーラム型」運動を志向するものがあったのだが、それは数年でなくなり、筆者の知る限りではまともな総括もなされていない。運営上の問題もあったと聞くが、それが刺激を受けたと思われる東欧「改革」の総括視点の差異が大きかったということもあるように思われる。東欧「改革」については、拙稿「東欧「改革」のつきつけたもの」(『火花』1992年2月〜2000年2月)で歴史的分析を試みた。
東欧「改革」は、残虐性は少ないが、暴力的で、WSFが目指しているものとは違う。例えば、東欧「改革」の東への拡大などと一部マスコミで持ち上げらているウクライナの事態は、今のところ、実力行使を背景にした政権交代劇であり、暴力機構であるブルジョア議会制度内での権力交代劇にすぎない。東欧「改革」をもし革命と呼べるとすれば、従来の権力機構を破壊し、ブルジョア的権力機構をうち立て、政治社会革命を遂行したからである。ところが、ウクライナの「オレンジ革命」は、そうしたものではない。ウクライナではすでにそうした機構改革はすでにある程度進んでおり、革命と呼べるほどの権力・社会の変革は、今のところない。現時点で判断すれば、これは、前号拙稿で引用したレーニンのブルジョア議会政治とブルジョア民主主義の下では、論争の解決が大衆の力によっておこなわれるという「内的弁証法」を証する事態である。ユーシェンコ派は、首都の広場ではコンサートなどを開いて大勢の人々を平和的に集めておく一方で、政府機関を包囲し、いつでも突入・占拠可能な状態を作り、政府に実力で圧力をかけながら再選挙に持ち込んだのである。この事態に対して、アメリカや西欧は、ユーシェンコ派を支持し、大衆暴力を承認した。しかし、実態は、だんだんわかってきたように、東への拡大を目指すEUと東部の重工業地帯の利害を代表する政権に不満をつのらせていた西部農業地帯の利害を代表するユーシェンコ派との利害が一致した結果であった。当初、日本の新聞は、おおむね、ユーシェンコ派の運動を親ロシア的な東部の政権の権威主義的政治や腐敗に対する民主革命と評価した。その判断基準は、公正な選挙を求める平和的な運動であり、民主主義を目指しているといったものである。これは、抽象的で、こうした具体的な運動の評価には使えない貧相なものであり、思考停止といってよいものだ。
WSFには具体的な代替案がないという批判があることにふれたが、そうでもない。ただ、具体的なものの一般化には慎重である。例えば、最初の世界社会フォーラムの開催地となったブラジルのポルトアレグロ市では、労働者党(PT)系市長の下で、参加型予算という試みが進められた(ヤパーナ社会フォーラムのホームページ『資本主義の後にくるもの 世界社会フォーラムを支えたポルトアレグレ市の実験』 現在は労働者党系市長ではない)。それは、市の予算編成に、地区会議→地域フォーラム→予算評議会の三段階を経て住民意志が反映される仕組みで、評議会―民主的協議が重要な位置を占めるものだという。それはより一般的に、「連帯経済」―「参加型経済」と呼ばれている。それは、生産手段の共有と個人としての労働者―消費者の評議会の自由な討議を通じて運営されるものだという。さらに偏った分業をなくす試みもあるという。こうした試みは、資本主義後を明瞭に意識したものであり、アソシエーション型の経済建設の試みである。同じホームページ内にあるインタビューでチョムスキーは、「もしかしたら、私たちが求めているものは地域ごとの協同組合や共同体なのかもしれません。それが交流を深め連合してゆき、まったく新しい社会を築くのです」と述べ、明らかにアソシエーションを志向している。
WSFの問題と考えることの一つは、飛躍の必要を認め、その準備をするかどうかである。それは、「大事件をつくりだす勢力を結集する能力」(『カール・マルクス』国民文庫107頁)を育て、歴史的条件によっては、「たとえ絶望的な目的のためにでも大衆が必死の闘争をおこなうことが、この大衆がその後の訓練と、次の闘争への彼らの準備とのために必要であるような瞬間が、歴史上あることを評価」(同142頁)し、「未来を創造する」(同)という観点から大衆の運動を評価するかどうかである。この点で、ポルトアレグロ市の参加型予算の試みは、「未来を創造する」「大事件をつくりだす勢力を結集」するものとしては、端緒的な取り組みであるように見える。評議会は、こうした能力を育てる場として発展させられるべきであるが、意識形成に重きが置かれているようであり、行動機関としての働きが弱いように見える。コミューン・ソヴィエトは、討議の場であると同時に決定し行動する場であり、権力機構である。チョムスキーは、それを否定はしていないが、慎重な態度をとり、最小限の権威を承認するが、伝統的労働組合の権威主義を批判している。また、加藤哲朗氏は、『もう一つの社会は可能だ』所収のネグリ・ハートの文章の翻訳に際して、「マルチチュード」(グラムシに由来するものらしい)という概念が代表(representation)を含んでいるのかどうか、見方が分かれたことを指摘している。こうした混乱は、外来思想を輸入する際に繰り返されてきたものに似ているが、運動と絡む場合には、政治的な意味を帯びることがある。例えば、現在、フェミニストと保守派の間で、ジェンダー・フリーという外来の概念をめぐる闘いが起きている。また、加藤哲朗氏は、「フォーラム型革命」をローザ・ルクセンブルクの評議会革命と結びつけ、「フォーラム」という概念のもともとの意味を超えた拡張を行っている。等々。
フェミニズムをめぐって
WSFは、フェミニズムを重要な要素として含むことを憲章で宣言している。フェミニズムはどうなっているのかを簡単に確かめておきたい。
日本におけるジェンダーフリーをめぐる保守派によるフェミニズム攻撃は、近代国民国家主義・核家族主義・計算合理的個人主義の近代の三位一体の保守という基本的立場からなされているものが多い。保守派は、むかしから憲法・教育基本法改「悪」策動で家族や公(国家・公益)を強調し、個人主義は行き過ぎているとして、それだけは抑制を主張する。ただ、フェミニスト側には、それに対して個人主義を対置するという三位一体の枠を超えない近代主義的フェミニズムがあり、根本的にこれと闘争できない立場が存在する。この近代ブルジョア的三位一体を解体し、これに新たな社会諸関係をとって代えることが必要である。また、ゲイ・レズビアンをめぐる議論があり、文化的フェミニズムによる女性の固有性をめぐる議論がある。
ゲイ・レズビアンの権利問題で、最近、同性婚を公認するかどうかが、アメリカで大問題となった。それは、既存の結婚制度が、異性同士を対象とし、なんらかの事情で子供ができない場合はそれを例外とし、子供の存在を基本的前提としていることと衝突したのである。しかし養子・人工授精などの手段で子供を持つこともありうるから、同性カップルが子供を絶対に持たないというわけではない。それに、契約を神聖視するブルジョア的商道徳に対応した結婚制度(財産関係など)の神聖化ということもある。財産の相続・管理は、ブルジョアジーと小ブルジョアジーの主要な関心事だからである。
この点で、キリスト教保守派は、『聖書』から、結婚の神聖さを正当化するために都合のいいところだけを強調している。例えば、「パウロの手紙」の離婚の禁止や妻は夫に従順に従うべきだとイエスが述べたと伝えているような部分である。しかし『聖書』は同時に、イエスは、家族の中に闘争をもたらし、家族よりも信仰を優先するように語ったと伝えている。つまり、神事が最優先であり、それ以外のことはどうでもよいというのである(「カエサルのものはカエサルに返せ」等々)。したがって、俗事の規範を『聖書』をもとに神聖化・正当化することはできないはずだが、実際には、キリスト教諸宗派は、『聖書』にそれぞれ独自の解釈を加えて俗事に関わってきたし、アメリカのキリスト教保守派は、俗事への介入を深め、政治にまで介入している。むろん、それは、宗教的外皮をまとった俗的な利害の反映であり、とりわけ、家族労働に多く依存する小生産者・小商売人・自営農などの利害を幻想的に反映したものであり、そうした幻想を取り込むことで、支配を確実にしたい大ブルジョアジーとの政治的同盟の幻想形態である。前者にとって、家族は生活を維持・継続していくための重要な経済的利害である。ところがそれは、競争や大企業による圧迫や景気変動などによって、不安定なので、幻想において、不安を取り除き、確かなものを求めるのである。そこにキリスト教保守派がつけ込んだのだ。宗教はたいてい支配側に奉仕するものであるが、ピューリタン革命などのように、階級闘争が宗教戦争の衣装で闘われることがある。アメリカの南部キリスト教が、『聖書』の独自の解釈によって黒人奴隷解放のイデオロギーにした例もある。また、中南米において、カトリックの中から、「解放の神学」が生まれ、被抑圧者の解放闘争に貢献したということもある。日本でも、戦国時代の加賀一揆のように、農民反乱が一向一揆という宗教的衣装で闘われたことがある。等々。むろん、唯物論的共産主義運動は、現実的利害の対立を率直に表明し、真実を暴露し、説明し、分析・判断して、解放運動を押し進める。
両者の対立を解くためには、これら層の不安定さを取り除くことが必要である。この不安定さからくる不安や動揺の原因を説明し、それがプロレタリアートとの同盟や自らを協同組合的な共同労働の制度と結合することによって取り除かれることを示すことである。こうした層を真に脅かしているのは資本制社会であって、同性愛者でもフェミニズムでもないことを理解させなければならない。現に、同性愛者はこうした層の利益を侵害していない。キリスト教保守派は、この価値観の対立の基礎にある経済的利害の対立を正しく反映するのを妨げ、別の幻想的な対立にすりかえているのである。
フェミニズムの中から、女性の固有性を強調し、生物的女性性に基づくとする母性などの女性らしさを強調する潮流が現れた。それをパット・ブレワーは、右翼フェミニズムの台頭と表している(「THE LIGHT-WING FEMINISM」『LINKS』7号1996年)。日本でそれに近いのは林道義というユング学者である。彼は、働き手=父―父性、専業主婦=母―母性と子供からなる核家族形態の一つを、生物的性差と文化的性差を結びつけた上で、社会・国家・文化の基本形とし、それを破壊するとしてフェミニズムを攻撃している。それは、歴史的に、近代において本格的に発展した核家族の一形態にすぎない。しかも先進資本主義諸国では共稼ぎカップルの核家族形態が増えている(ある統計では、女性の専業主婦は減少を続け、長期雇用の比率は変わらず、パートなどの短期雇用が増えているという結果が出ている。2004年の男性労働力3934万人,女性労働力2732万人)。前者がよくて後者がよくない理由は、前者が社会文化国家の基本形だからといったようなものである。氏はユング的な元型の信仰を基礎にそういっているようだが、その信者でないものには、わけがわからない。ユングについては『火花』231号(2000年11月)から241号(2001年9月)にかけての連載『現代唯物論発展のために』(1〜7)で検討した。近代以前の圧倒的な数をしめる農民の場合、家族労働が普通で、共稼ぎどころか、子供も働き手だった。性同一性障害やバイセクシャルに明らかなのは、生物的性差と矛盾するジェンダーの力がきわめて強いということである。一般に資本主義社会では社会的文化的力が強い。少なくとも核家族の二つの形態が、生成・発展・消滅の歴史的運動をしている。それは、労働における女性差別と差別的制度を廃止し、家産所有・管理と家事において、分業を廃止し、平等な共同所有と共同責任制を実現することによって、男女関係、家族関係を、豊かな人間的関係に発展させる条件生成の一過程である(離婚・再婚率が高いアメリカでは、夫婦財産契約制度によって、家産の責任範囲が明確化されている等々)。その実現は、現行の制度(民法など)と現存の社会諸関係の基礎の上では困難である。それを目指す人々は様々な妥協を余儀なくされている。この矛盾の解決形態を解放する運動の発展が必要なのである。
こうした保守派の攻撃は昔からあるが、今、フェミニズム側がやや守勢にたたされているように見えるのが気にかかる。例えば、なるほど、一方では、「男女共同参画社会基本法」制定以来の、地方自治体における「男女共同参画社会条例」制定の動きや啓蒙施設の建設や教育における普及などが進められているのは確かだが、それが社会的な変革を引き起こすようにはほど遠い段階で、はやくも保守派による反撃によって一部で後退を余儀なくされている。また、法制審議会が1996年2月に選択的夫婦別姓制の導入を答申しているが進まず、また戸籍制度の抜本変革も進んでいない。このような制度変革は、改良であるが、改良を積極的に利用し、「大衆の力による大事件」による「未来の創造」の準備と結びつけうる。プロレタリアート側の敗北に終わったとはいえ、60年代末の「大事件」が、70年代の日本版「ニューディール」・福祉国家化・改良を支配階級に押し付ける力となったように。
フェミニズムをめぐっては、意識変化が進んでいるのに対して制度や実態の変革が遅れているように見える。「勝ち組」か「負け組」かというような競争主義的なタームが使われているが、例えば、ある世論調査では、子供を作らないという男女や独身を決意している人がかなりの数にのぼるという結果が出ている。あるいは、ニートは、就職しないと同時にその結果として結婚子育てもしないだろう。結婚制度はある程度神聖さや幻想を失っているのである。現在の家族制度を支える年金制度をはじめとする社会制度も危機に陥っている。「勝ち組」と「負け組」の差が拡大すれば、やがて、同一の土俵にたっているという意識が薄れ、意識はその分裂した現実を映すようになる。フェミニズムが階級闘争と結びつかざるをえない条件が深まっているのである。
ラディカル・フェミニストのマッキャノンやドウォーキンは、ポルノグラフィーの積極的規制などを求めている。彼女たちによれば、平等な人格を歪め、女性を差別し、男性の女性に対する暴力性を育てるのは、男性支配(ジェンダー支配)の差別的ヒエラルキーであり、それを育て植え付けるポルノグラフィーに代表される媒体の働きである。それらを積極的に政府などが取り除くことが必要だという。しかし、二つに分裂しつつある男女関係は、同時に、今日の資本主義が、賃金格差・職種の差別・パート化・非正規雇用化などの差別的ヒエラルキーを作り上げてきたことと関連している。したがって、その解決は、階級闘争と結びつかなければ、決定的な変革に到達できない。ラディカル・フェミニズムは、抽象的個人の権利を基準にした平等に止まり、階級の廃絶による平等という未来の創造に進まず、この二種の社会的関係に同一の態度をとるので現実と合わなくなる。ラディカル・フェニズムは、ジェンダーと暴力の関係を暴き出し、セクシャル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)、戦時性暴力、などの性暴力犯罪に対する法制度整備と公権力の積極的介入を主張する。それが、自由意志の形態の下における従属化(エンゲルス)やキリスト教世界における「愛」イデオロギーによる性暴力の隠蔽の暴露につながるなど、フェミニズムを広範に拡張した意義は大きい。ただ、日本のラディカル・フェミニストと言われる江原由美子氏などは、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』の立場に近い感じで、また違うようだが。唯物論的弁証法的共産主義フェミニズムは、ラディカル・フェミニズムの積極的側面を包摂するのであり、それを抽象的に全否定するという誤りに陥ってはならない。
この領域について関連して分析・検討しなければならないことがたくさんある。民族・人種問題との関係では、複雑な問題が存在し、多文化主義の議論の中で問題になった。多文化主義については、杉本修平論文『マルチカルチュラリズム(多文化主義)のゆくえ―オーストラリアの人種・エスニック問題をめぐって』(『火花』203・5・7号、1998年)が、その限界を含めて検討している。また、例えば、『情況』1992年10・11月合併号の上野千鶴子氏・花崎皐平氏、江原由美子氏・廣松渉氏の両対談がふれている。部落問題・障害者問題とジェンダーの関係については、80年代に運動内で議論されていた。在日朝鮮人とジェンダーの問題については、例えば、在日韓国民主女性会が従軍慰安婦問題への取り組みを通じて、民族問題・民主主義と女性解放を結びつけている。新左翼とジェンダーの問題では、路線闘争に絡む「内ゲバ」としての女性差別問題がある。これは、旭凡太郎氏がブント総括で「ブントには適切に分派闘争を組織できない限界があった」と指摘している問題と関係する。戦争とジェンダーをめぐっては、戦時体制、戦時性暴力、軍隊自体などの問題がある。また、先住民族女性のかかえる問題については、反差別国際連帯運動ホームページの藤岡美恵子氏の第二回アジア先住民族女性会議の報告「グローバル化と軍事化の中で アジア先住民族女性の抵抗」に、西洋化による家族問題の私事化によって、共同体が男性の暴力を抑止できなくなるなど近代化が事態を悪化させている例の報告がある。等々。
「われわれの学説は、教条ではなく、行動の指針である」(マルクス)
弁証法的唯物論者は、物事の多様な諸側面をできるだけ正確に掴んでいかなければならないが、すべてを分析・検討し、記述しつくすことはありえないので、この作業に終わりはない。ただ、現在のいくつかの諸側面について、諸関連の一部を切り取って、部分的に記述できるにすぎない。こうした作業は、様々な人々の平行する作業の集積という形で進められ、その成果を利用し合うことによって、前進する。だから、あらゆる人々が、自らの体験や考え等々について書き、話し、討論し、表現することが重要である。WSFやフェミニズムについての資料は、知識人や学者のものが多く、具体的な情報が少ないように感じる。知識人・学者のものは当然必要だが、それはだいたい思考の訓練に役立てるためである。それは、具体的なことを検討し判断することと結びつけられなければ抽象に止まる。
しかし、この簡単な検討からでも、それらの根底に階級闘争があるということはわかる。WSFもフェミニズムも、現存社会の根本的変革を志向しているし、そこには社会・文化変革の諸実践がある。現存の資本制社会の社会関係に対して、未来の創造という立場からの対案があり、それに向かう大衆の意識の変化がある。しかし、それを実現する大衆的な力が不足している。したがって、直面する重要なテーマの一つは組織問題である。WSFは、この領域で、多元主義、非中央集権、全体決定の否定などを掲げている。それは、大衆的運動の組織論としては学ばねばらならないものである。しかし、階級闘争の終局目標は、資本主義を根絶することであり、ブルジョアジーの必死の抵抗があることは明白だから、それに適切に対応できる組織が必要である。それは固定した形態を持たず、具体的な歴史的条件に適応するために、多元主義的である場合もあれば、非中央集権的である場合もあれば、全体決定をしないこともありうるが、階級闘争に勝利するまでは基本的には中央集権的である。重大な問題で討議の上の全体決定に従うのは、実践組織だからだ。プロレタリア党は、階級闘争で労働者の自然発生的団結の成長から発展する傾向のさらなる飛躍的発展である。具体的な党派が階級闘争の内容を正しく反映できないでつぶれることは多々あるが、人々は重大な闘争の際には党を作って闘った。偶然性と必然性が弁証法的に結びついているのである。アメリカで、南北戦争という大闘争に際して、奴隷解放・自由労働イデオロギー・保護貿易主義を掲げる共和党が誕生したように。アメリカの二大政党は、名前は変わらないが、その中身や支持層は時代によって大きく変化した。南北戦争時には、労働者は共和党を支持し、北軍に志願して戦った。このように党は現実を反映するので、現在の階級闘争の構造に適応することがプロレタリアートの党にとって必要であり、この構造解明が重要である。そうしないと自然発生性に流されやすくなる。われわれは、不十分ながらもそれを目指した作業を継続してきたが、こうした作業を共にすることを広く呼びかけたい。