議会制は狭いが、労働者大衆の民主主義は多様である
流 広志
280号(2004年12月)所収
ファルージャの闘いは継続している
イラクの駐留米軍は、アメリカのメディアを引き連れて、総攻撃を行った。この攻撃で、米軍は、わずかの猶予を与えた後、脱出しようとした住民を押し返し、残った者をテロリストへの協力者と見なし、情け容赦なく数千人を虐殺した。今も数十万人が周辺地域やバクダットなどで難民になっている。ファルージャの米軍は赤十字の活動を妨害している。この攻撃はゲルニカと同様の世紀に残る大虐殺だという意見がある。米軍がどんなに事実を隠蔽・歪曲しようとしても、真実は必ず明らかになる。
ファルージャ総攻撃に参加したイラク軍は、クルド人とシーア派住民が主で、米軍は、フセイン時代の弾圧・抑圧への意趣返しをしたいかれらを、スンニ派住民にけしかけたといわれる。酒井啓子氏は、クルド人とスンニ派住民とシーア派住民の間の対立を利用した米軍の占領統治が内戦の危険性を強めていると述べている。スンニ派住民に対するシーア派住民の憎しみをかきたてるために、アメリカの手でシーア派殺害の謀略がなされているという説もあるが、それについては、現時点では何とも言えない。占領統治が、民族・宗教の分断支配策が内戦の種をまいていることは確かである。
米軍がファルージャ総攻撃の口実としたザルカウィは、最初からファルージャにはいなかったようだ。米軍はまたしても情報を操作して謀略を仕組み、そして、民兵と共に住民を大勢巻き添えにした大虐殺を行い、破壊の限りを尽くしたのである。しかし、ファルージャでは、反撃が継続している。ファルージャ攻撃の口実であった1月の選挙の成功に向けた治安の確保については、すでに1万人以上の大増派決定によって、アメリカ自身がその破綻を認めている。キルクーク、サッマーラ、ラマディ、など主に北部での占領軍や警察、イラク軍、石油施設などへの攻撃は相変わらず続いている。米軍は各地でゲリラ戦に悩まされている。治安は悪化している。なお、12月19日の『ガーディアン』紙は、イギリス軍当局が、若者の兵士の募集を妨害していると反戦運動を非難していることを伝えている。反戦闘争が確実に効果を発揮しているのである。
自衛隊派遣延長支持の理由批判−民主化をめぐって
アメリカもアラウィ政権もイラクの治安悪化を公然と認めているにもかかわらず、小泉政権は、9日、自衛隊の一年の派遣延長を閣議決定した。それは、大野防衛庁長官や自民党武部幹事長と公明党冬柴幹事長が、現地滞在数時間という短時間のサマワ訪問で、調査と称する形式的儀式をすませた上でのことだった。延長の理由は、サマワは非戦闘地域であること、現地と暫定政府の要請があること、日米同盟と国際協調のため、である。基本計画に、復興、政治プロセス、治安状況、多国籍軍の変化などの諸事情の変化を見極め、必要に応じ適切な措置を講じるという撤退の判断基準を示す改訂を行っている。マスコミの調査では6割以上の人々が反対しているが、『産経』『読売』はこの決定を支持した。
『読売新聞』社説は、支持の理由の一つに民主化支援を挙げているが、それは、1月30日の暫定国民議会選挙の成功を指している。
一般に、「正常な資本主義社会は、代議制度を確立せずには、住民にある程度の政治的権利をもたせずには、首尾よく発展することができないし、この住民は、比較的高い「文化的」要求をもっていることを特徴としないわけにはいかない。こういうふうなある最小限の文化性の要求は、高度の技術、複雑さ、屈伸性、可動性、世界的競争の急速な発展、等々をともなう資本主義的生産様式そのものの諸条件によって生みだされる」(レーニン『カール・マルクス』大月文庫108〜9頁)。これは、ブルジョア民主主義者が賛美する一側面である。しかし、かれらは、他の側面、同時に見るべき以下のことを無視する。
「議会制度は、もっとも民主主義的なブルジョア共和国でさえ階級抑圧の機関であるという本質をとりのぞくものではなくて、それをむきだしにする。議会制度は、以前に政治的事件に積極的に参加していた人々よりもはるかに広範囲の住民大衆を啓蒙し組織することをたすけるが、このことは、危機と政治革命との除去を準備するものではなくて、この革命のさいに内乱が極度に激化することを準備する。一八七一年春のパリの事件と一九〇五年冬のロシアの事件とは、こうした激化が不可避に到来することを、このうえなく明らかに示した。フランスのブルジョアジーは、プロレタリアの運動を鎮圧するためには、一瞬もためらわずに、全国民の敵、すなわち自分の祖国を破滅させた外国の軍隊と取引した。議会政治とブルジョア民主主義の不可避的な内的弁証法―すなわち論争の解決が以前よりいっそう鋭く大衆の暴力によっておこなわれるようになるという―を理解しないものは、こうした「論争」へ勝利的に参加する準備を労働者大衆にほんとうにととのえさせる、原則的に一貫した宣伝・煽動を、この議会制度を基盤としておこなうことが、けっしてできないであろう」(同上99〜100頁)。
イラクの民主主義を評価するに際しては、地域・組合・団体などの実際に存在する民主主義を検討しなければならない。民主制は、資本主義以前からある。もともとのアメリカの民主制は移民のコミュニティー自治に基づくものであった。また、最近の奴隷制研究では、黒人奴隷のコミュニティー自治と疑似家族的なネットワークに、自由主義的・平等主義的・民主主義的なキリスト教解釈と白人とは別の独自の文化があったことが明らかになっている。無数の議論する会議体としての労働者組織の民主主義もある。民主主義は議会制に限られない。上述の社説のようにイラクの民主主義を議会制度に見ることは、一面的であり、視野が狭い。それは、共産主義者にとっては、革命の温度計である。
戦後革命の労働者民主主義のヘゲモニー
抽象的な金持ちのブルジョア民主主義とは異なる実質的民主主義・労働者民主主義は、例えば、日本でも、いわゆる戦後革命の時期の1945年から1946年の『読売新聞』争議における自主管理運動で追求された。読売争議では、A級戦犯の正力松太郎社長などの幹部の戦争責任追及と経営民主化を求めた労働組合が加わった経営協議会が発足し、労組が経営参加することになったが、権力に弾圧され潰された。この件を含め、戦後革命は、GHQの民主化方針を追い風に行われた面がある。それは方針転換によって逆転するのであるが。GHQの民主化方針の歴史的背景には、1929年大恐慌後の大不況に対して、不介入政策をとり、退役軍人のボーナス要求の大行進を共産主義者の陰謀として軍隊を派遣して追い払うなどの暴力的統治方式をとった共和党フーバー大統領にとってかわった民主党のF・ルーズヴェルト大統領の都市部の労組、下層、南部の農民を支持基盤とした「ニューディール」政策があった。
この時期、熟練労働者の職能別組合であったAFL(アメリカ労働総同盟)内に、統一炭坑労組や合同衣服労組などを中心に1935年に産別組織委員会が組織され、38年10月AFLから独立して、CIO(産別組織会議)が結成された。35年成立のワグナー法(全国労働関係法)で、労働者の組織権・団結権・団体交渉権が保障され、全国労働関係局が監督にあたることになった。
GHQは、当初、かかるニューディール方式を持ち込み、労働組合を育成し、労働運動を民主化の推進力として利用しようとした。そのために、この時期、労働者に比較的有利な制度が作られた。しかし占領政策は、1945年4月11日のF・ルーズヴェルト大統領の死去とトルーマンの大統領就任後、冷戦の開始によって転換する。
アメリカでは、47年6月には、ワグナー法を制限する「タフト―ハートレー法」(オープン・ショップの承認、ストの制限、共産主義者の幹部からの排除など)が制定された。47年3月のトルーマン・ドクトリンは、ギリシャ、トルコの共産主義化を阻止するために4億ドルの援助を行うというもので、それは、ヨーロッパの共産化を防ぐためのマーシャル・プラン(同年6月5日提案)に受け継がれる基本的な外交姿勢をあらわしたものである。非米活動委員会が、マッカーシー議員を先頭に、ハリウッドやリベラル派知識人・文化人や連邦職員・議員などを対象に、「赤狩り」を開始した。48年の大統領選挙で、第三党から立候補して共産党の支持を受けた元副大統領ヘンリー・ウォーレスが敗れたことをきっかけに、労組などからの共産党排除が本格化した。1949年10月1日の国民党との内戦を制した中華人民共和国の建国や1950年6月に勃発した朝鮮戦争が、それに拍車をかけた。日本では、レッド・パージが始まった。戦後革命における労働者民主主義は押しつぶされた。しかし、それは戦後第二の革命的時期であった1960年代末に、別の形と内容でよみがえる。それは、ヘゲモニーとなった以上、何度でもよみがえるのである。
アメリカ労働運動と自由と民主主義の歴史的関係
自由と民主主義を他国に押し付けているアメリカ自身はその点でどうなのか? それを主に労働者にとってどうであったのかという視点から簡単に確かめたい。
アメリカの植民地時代は、主に、中部南部のプランテーションに、貧しい白人の年季契約奉公人と黒人奴隷が労働者を構成した。その後、マニファクチャーの発達と共に、1790年代には職人の労組がつくられ、ストライキが行われるようになった。1828年には、フィラデルフィアの雇われ職人の運動から、世界初の労働者政党といわれる勤労者党が誕生し、全国に組織を拡げた。ロバート・オーウェンのニューハーモニー村の実験もあった。イギリスでの綿工業が発展し、その原料の綿花需要が急拡大したために、南部で、衰えていた黒人奴隷制が復活・拡大され、プランテーションからのイギリスへの綿花輸出が盛んになった。南部は、この輸出貿易によって利益を得ていたので、自由貿易主義に立ったが、北部は産業保護のため、保護貿易主義に立った。アメリカは、南北に分裂し、1861年4月のサムター要塞攻撃から、内戦(南北戦争)が始まった。
南北戦争期の北部の自由労働イデオロギーが、奴隷解放思想を支え、それが共和党を生み出した。マルクスは、1861年から62年にかけて著した「内戦の北アメリカ」などの南北戦争に関する諸文章で、それについて触れている。100万人の死傷者を出した南北戦争終結後、自由労働イデオロギーは、賃労働制解放思想を生みだした。それは財産と品位を備えた中流階級への上昇を目指すものであり、小生産者のイデオロギーであったが、ストライキを通して自由や自主性を表現しようとした。それは、1877年の大鉄道ストライキの軍隊・探偵社の私兵を動員した弾圧によっていったんうち砕かれたが、80年代には、自由労働イデオロギーを掲げるアメリカ初の全国的労働組織の労働騎士団の指導する8時間労働制実現を求める運動が盛り上がった。労働騎士団と同時期にアメリカの労働運動には、ニューヨークのヘンリー・ジョージの運動とドイツ移民の社会主義労働党があった(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』「アメリカ版への序言」1887年 国民文庫I)。自由労働イデオロギーは、ブルジョアジーにとっては、社会ダーウィニズム的な意味で、競争の勝者の成功を賞賛するものであった。
その後、労働騎士団は、1892年に農民同盟などと全国人民党を結成したが、1896年の大統領選挙に敗れた。自由労働イデオロギーはポピュリズムに行き着いた。そのオマハ綱領は、土地の私有制と金融・通貨・交通・運輸の国有制を折衷したものであった。その金融・通貨政策は、国家による通貨管理(国立銀行支持)、国家による金融、銀無制限鋳造要求、の三点である。土地の私有とその他の生産手段の共有制という要求は、リカード主義左派の要求と裏返しである。どちらも、資本と労働の分離以前の生産者の思想であり、この分離の過渡を表すものである。
その後、自由労働イデオロギーは衰退し、賃労働制を是認し、もっぱら労働条件の改善を目指す経済主義的な労働運動である熟練労働者の職能別組合のAFLが成長する。それは、資本主義的大規模工業の成長につれて、熟練労働者の大群が生まれてきたことに対応するものであった。その後、不熟練労働者の大群が生まれてきたことに対応して、1905年に、不熟練労働者の産別組織IWW(世界産業労働者同盟)が結成された。
自由労働イデオロギーは、生産者としての平等思想として、反奴隷制であり、女性にも一時門戸を開いたが、当時のAFLは、女性や新移民を排除した。IWWは新移民の労働者を組織した。この時期のアメリカ労働運動の民主主義の発展は、不熟練労働者の産別組合によって担われたのである。1937年にAFLから分裂した不熟練労働者の産別組織のCIOは、1955年にAFLと合流した。AFL-CIOは、概ね自由主義的なブルジョア政党のしっぽについてきた。レーガン時代にニュー・ディール的なものや公民権運動の成果は激しく攻撃され破壊された。その結果、人種差別も絡んだ階級階層格差が拡大した。それは、クリントン時代のリベラル政治と景気拡大によっても解消されなかった。現在のスーパー業界での労働争議が差別待遇の是正を求めるものであることは、その現実を反映したものである。
AFL-CIOは、民主党の自由主義的改良派の一翼としての選挙運動に組合員の力を浪費している。先の大統領選挙でもかなり力を入れてケリーを支援した。結果を見れば、ケリーを支持したのは、主に、北部などの労働者であり、アフリカ系アメリカ人であり、低所得者であり、平等を求める少数派である。両者の闘争は、ロサンゼルス暴動などの暴力的衝突を引き起こしている。それを解決できるのは共産主義である。なぜなら、「プロレタリアートが社会主義的および共産主義的な要素をとりいれるのに比例して、それに正比例して、革命は流血と、復讐と、憤激とを減じるであろう。共産主義は、その原理によれば、ブルジョアジーとプロレタリアートの不和を超越している。共産主義は、この不和を、もっぱら現在にたいするその歴史的意義という点においてしか承認しないのであって、これを将来にたいして正当であるとはみなしていない。・・・もしも戦闘が勃発するまえに、全プロレタリアートを共産主義者にすることがとにかく可能であるとすれば、その戦闘はきわめて平和的にすぎさるであろう」(『イギリスにおける労働者階級の状態』国民文庫II257頁)からである。
これは暴力革命を否定したものではまったくない。かれは、問題を平和的に解決するには遅すぎた上は、「宮殿には戦争を。茅屋には平和を!」の鬨の声がとどろきわたらざるをえないだろうと富者に警告を発しているのである。また、かれは、1870年のパリ・コミューンの際には、それに呼応する南仏での蜂起を支援している。ここで彼が言うのは、革命の残虐な要素を減じるためには、「少なくとも社会問題にかんする理解がプロレタリアートにいちじるしく普及し(同258頁)、革命的諸事件の歴史的教訓をものにすることが必要であるということであり、どのような革命も暴力的衝突であり、ただその残虐性の程度が条件によって変わるということである。
アメリカ労働運動が繰り返し頭をぶつけている民主主義問題の解決には、階級の廃絶による真の平等の達成が必要である。共和党ブッシュ政権がその組閣において表しているのは、支配階級の一員にのし上がったアフリカ系アメリカ人やラテン・アメリカ系市民などの階級サークル内の平等にすぎない。それに対して、労働者階級の民主主義と平等は、未来を代表するヘゲモニーを伴うものでなければならない。すなわち、労働者階級は、すべての被抑圧者・被差別者へのいっさいの不平等と差別をなくす実質的民主主義運動のヘゲモーンへと成長しなければならないのである。自由労働イデオロギーは、奴隷制解放から、賃労働制廃絶思想へと発展したヘゲモニーであったが、ブルジョアジーは、それをあくまで営業の自由、自由競争、実業の自由、競争の勝者の自由ととらえている。
民主党と共和党の二大政党制の種々の弊害の是正のための運動が度々起きている。とりわけ金権政治の弊害が大きい。アメリカの政治資金規正法は、政治活動委員会を通した政治献金しか認めていないが、それは各種利益集団のロビー活動の場になった。また、小選挙区制によって、現職議員がそれを利用して利権を握り、それを再選のテコとする多選化が進んだ。利益集団と政治家の結びつきの強さは、現在のブッシュ政権に明らかである。イラクで石油関連事業を請け負っているハリバートンとチェイニー副大統領との関係、等々。
それを批判する第三の勢力・第三の党が次々と登場してきた。環境保護派と政治腐敗防止などを訴える「パブリック・シチズン」「コモンコーズ」などの市民運動やNGOなどをつなぎ、「みどりの党」の推薦で2000年大統領選挙に立候補した消費者運動家ラルフ・ネーダーは、今回も大統領選挙に出たが、民主党とのトラブルが話題にされたぐらいで終わった。その原因には、90年代に、公的支援が減らされたNGOが、弱体化したことがあるのかもしれない。このような運動は、草の根運動と言われている。それは直接民主主義的手法である住民発議権による住民投票を重要な手段としている。それは19世紀末のポピュリズム時代の獲得物であった。議員任期制限要求運動では、建国の父ジェファーソンの思想の復権が唱えられた。彼の思想は主に州権論と自由貿易主義である。彼の後継者のジャクソン派は民主党の源流である。アメリカの草の根運動は、自国の歴史的伝統の復権を、現代が直面する諸課題の解決と結びつけているのである。その点では、植民地時代の移民やインディオの共産主義的共同体の新たな復権も草の根運動といえる。それに対して、ANSWER連合は、反差別、社会主義、反帝国主義、国際主義、と労働者運動と結合した反戦運動を何十万何百万という規模で結集させている近代的運動である。両者が、未来を代表する共産主義と結合すれば、それは未来を取り込んだ社会政治革命の中身ある階級闘争の推進力となるだろう。