イラク情勢について(5)
渋谷 一三
279号(2004年11月)所収
<はじめに>
香田証生さんが殺された。人質に取られている間、報道機関は新潟地震の被災者の救出という場面を利用して、延々と救出の模様を実況中継し、人質事件は定時ニュースの2番目以降に触れられるだけの扱いだった。
そのせいもあってか、人質事件に呼応する形での自衛隊撤退要求は筆者の知る限り報道されることはなかった。小泉政権の報道管制は奏効した。
1.報道管制と闘おう
米国における報道管制は湾岸戦争・イラク侵略戦争を通じて強化され、ほぼ完成された。湾岸戦争における油まみれの海鳥の映像や偽りの虐待証言、今時の女性軍曹の救出劇はいずれもやらせであることが判明している。また、反戦派を攻撃するテレビ局の躍進を「勝ち取り」、報道管制はほぼ完成したとみてよい。
これに比べて小泉政権の報道管制は、それが報道管制と感じられないほどに稚拙なものだが、はっきりと報道管制に成功している。香田さんの人質事件をめぐって深く考え意見を表明し合うということが、報道機関上からは消え去ったのである。
原初的報道管制だからこそ、警戒心を集中し、あらゆる場でこれと闘うことが求められている。
2.「自己責任論」が浸透したのではない。
香田さんのようなまじめな青年がイラクに入ったのは、報道機関が自前の報道を全くすることができず、米軍・米政府の大本営発表を時折垂れ流すだけであるという事態に起因する。まじめに考えようとすると、自前で情報をとるしかない。彼はこの事態に直面し、敢然とたった一人で情報収集を始めてしまったのである。誰も彼の勇気を批判することは出来ない。香田さんもまた非業の死を遂げさせられてしまったのである。
マスコミは自らの醜悪な米軍情報垂れ流しを反省する能力すら喪失し、香田さんの情勢判断が甘く軽率な行動であったかのように印象付ける報道を垂れ流している。唯一報道したのが、「誰某が危険だからやめておくようにと忠告したのに…」という内容である。忠告した人を冒涜した上に香田さんを冒涜する報道の仕方である。
「一人の軽率な青年が国家に迷惑をかけている。」という印象を持つように報道されたが、この「自己責任論」はそれほど浸透しなかったようだ。というのも、「テロに屈しない」という虚勢とは裏腹に、政府が身代金を支払うことと引き換えに釈放を交渉するのでなければ、何も国家に迷惑をかけられないからである。自己責任論の裏には身代金を支払うことで自衛隊を撤退させないという体面を取り繕う行為がセットされているのである。テロに屈しないといいつつ、その「テロ」組織に資金援助をしているのだから、米帝に公式には通用する話ではない。米帝に黙認してもらうという自公政権への迷惑、そして黙認していることを全世界に暗黙に公表せざるをえない米帝への迷惑、これが、迷惑論の実態である。
ところが、小泉政権は100万ドルを提示したとするザルカウィグループの声明を官房長官に躍起になって否定させた以上、表向きには身代金交渉はなかったのだから、迷惑のかけようもないことになる。ここに「自己責任論」の破産が宣告されたわけである。
こうした事情から、自己責任論の展開はなされなかったし、大衆の心を惑わすこともできなかった。
だが、世論は盛り上がらなかった。なぜか?
3.ザルカウィグループの犯罪
『イラク情勢について(4)』で危惧したことが、今度は最悪の結果となった。
自衛隊を攻撃できない自らの軍事力の問題を棚上げにして、無辜の青年を殺害したことにより、問題は階級問題ではなくなり、民族問題にさせられてしまった。日本人である限り、イラクの民衆の側に立っていようがいまいが殺されるという図式が成立してしまった以上、イラクの抵抗組織がテロ組織であるという宣伝が勢いをもってしまった。
したがって、この事件に「便乗」して自衛隊の撤退を主張するといった盛り上がりが欠けることとなった。このことはむしろ歓迎に値するぐらいのことで、大したことではない。マスコミの空騒ぎが盛り上がりを演出するだけのものは、盛り上がりとは言えない。
重要なのはザルカウィの犯罪によって階級問題が民族問題であるかのように装わされ、世界中の心ある運動に多大な困難をもたらしたことである。
ザルカウィの犯罪を断固として糾弾する。